生活指導

 人の精神を左右するものは環境である……よく言われることだ。


 快適さは人を活発にし、或いは落ち着かせ、いずれにしても前向きにする。逆に苦痛は正常な思考力を奪い、感情を不安定にする。それは事実だし、四年に渡るあの旅の中でも、まさにその通りであることを実感してきた。つまり、体を清潔にし、極端な暑さや寒さを避け、必要十分な食事を摂り、しかも食べ過ぎず飲み過ぎない。睡眠の時間を確保してしっかり休養をとり、かつ適度に体を動かす。そのように注意が行き届いていればこそ、全力を発揮できるのだ。

 実際には、言うほど簡単ではなかった。自己制御の難しさを学ぶ機会としては、この上なかったと思う。実際には、感情も体調も、いつも万全にはできず、俺は何度も失敗した。


 では、ここで問われるべきは、つまり、快適でありさえすれば、人は健全な精神状態を保てるのか、ということだ。

 これは断じて否、そう言わざるを得ない。


 冬も終わりに近いとはいえ、帝都はまだまだ肌寒い。だから屋外を歩いてここまで来た俺にとっては、暖炉の火はありがたいものだ。輻射熱がこの上質な部屋全体を温めてくれる。この手触りの良いソファの表面もフワフワで、指先がじんわりと温まる。それでいて胸がスッとするような香りを感じられるのは、恐らく檜か何かを薪に使っているからだ。樫のような薪向けの木材と違ってすぐ燃え尽きてしまうので、これは割と贅沢な使い方であると言える。

 目の前のテーブルには、これまた温かな紅茶が置かれている。冷えた体には白湯でもありがたいほどなのに、恐らくこの茶葉、最高級品に違いない。


 そして、この決して広いとは言えない待合室にいるのは、俺一人だけ。つまり、外部からのノイズも発生していない。

 にもかかわらず、この落ち着かなさときたら。


 扉がノックされる。

 ああ、さっさと済ませて帰りたい。


「お待たせしました、ファルス様。殿下がお呼びです」


 通された先にあったのは、中庭の日差しの差し込む、それは開放感のある応接室だった。透明なガラスはこの世界ではそれなりの高級品なのだが、それを二重にすることで、冬場でも外気の影響を最小限にしている。

 ねずみ色の絨毯の上に、丸いテーブルが一つ。それを囲むように五つの椅子がある。そのうち四つには、既に先客が腰を据えていた。


「よく来た」


 声を発したのはグラーブだったが、立ち上がったのは、その横にいたベルノストだった。

 残りの二つの席は、もちろん、リシュニアとアナーニアが占めている。


「殿下」


 俺が言い終わる前に、彼は手を振ってそれを遮った。


「いい。ここは私の私室だ。堅苦しい挨拶はいらん。とりあえず、座ってくれ」


 エスタ=フォレスティア王国、その次世代の王族達が一堂に会するこの空間は、その公館の奥まったところにある。

 それにしても、皆、見違えた。グラーブもベルノストも、驚くほど背が伸びて、顔立ちもより男らしくなっている。二人の服装を見ると、実に対照的だった。ベルノストの方が黒を基調とした、いかにも貴族らしい洗練された上着を身に着けているのに対し、グラーブはごくシンプルな、白い上着に灰色のズボンだけという飾り気のないファッションを選んでいた。もっとも、そこは父親譲りなのか、すらりとした手足、均整の取れた体つきもあって、自然と貴公子らしさが滲み出ていた。

 一方、二人の王女は、かつてのそれぞれの特徴をより強調する方向に成長したらしい。リシュニアは、兄と同じく、ともすれば富裕な市民くらいにしか見えない。淡い色の上着とスカートを身に着けているだけだ。その表情はより優しげで親しみやすいものになっていた。というか、少女時代に身に着けた笑顔の仮面が、もはや顔面にへばりついて取れなくなってしまっただけかもしれない。その美貌と相俟って、彼女の長い髪に心を絡めとられた男は数知れないことだろう。逆にアナーニアはというと、全身に炎を纏っているかのようだった。その真っ赤なドレス、その眼差しからも、以前のままの気性らしいと容易に見てとれた。とはいえ、そこはやはりタンディラールの娘なだけあって、容姿にだけは恵まれている。


 俺が言葉に従って着席すると、すかさず使用人がやってきて、全員の前にティーカップを置いた。


「で」

「はい」

「なぜすぐ来なかった」


 いや、今、それを最初に釈明しようとしたのだが。間が悪い感じというか。多分、最初の出会いの険悪さがなかったとしても、俺はグラーブと相性がよくない。


「大変失礼致しました。なにぶんにも不慣れな土地に一人で参りまして、これまた異国の方々の公館に身を置くという状況もございまして、いろいろと余裕がなく、そこまで考えられませんでした」

「我が国の他の貴族の子女は、パドマに到着し次第、翌日には公館に詣でていたのだがな。まぁ、いい」


 なぜ訪ねなかったかといえば、面倒だったからだ。顔を見たいとも思っていないから。俺は明らかにグラーブには好かれていないのだし。

 それでも普通の貴族なら、せめて挨拶くらいはするし、それも優先的に行うだろう。未来の王に嫌われて地位を失うなんて、馬鹿らしいから。でも、俺は違う。別にティンティナブリアの領主など、今日やめても構わない。リンガ商会や俺の郎党になってくれた人達については、なんとか自分で面倒を見る。で、仮にもし彼らを害するとなれば、相手が王でも誰でも抵抗するだけだ。

 こうやってネチネチ言われるから、ここには来たくなかったのだ。


「それより、新生活についての注意をせねばならんからな……お前は貴族の出でもないし、いろいろ常識を知らないだろう。情報を得る伝手もない」


 座り直すと、グラーブは一口、紅茶を飲んだ。


 あれ?

 イヤミは? これで終わり? 今後の指導をしてやるってだけ? いや、それがイヤミでできてるってことはないの?

 そういえば、グラーブの言いざまもおかしい。まず座れ、とか、まぁいい、とか。初対面の時はどうだった? 奴隷のくせに、だったのが、随分な変わりようではないか。確かに今の俺は、父王が認めた正式な貴族ではあるのだが、それにしても、だ。


「まず最初に確認しておきたい。ファルス、お前は学園の制服は用意したか」

「いえ、ですが私服でもいいと聞いていますが」

「形の上ではその通りだ。入学式などの式典の際には、少しドレスコードが厳しくなるが、その場合でも基本的に、自国の民族衣装であれば礼服であるとみなされる。普段の授業は、まったく服装については問題とされない。だが」


 やっぱり何か変だ。これはイヤミではなく、普通のアドバイスに聞こえる。


「私は学園には制服で通うようにしている。お前も入学式と、その後しばらくだけは、制服を着るようにして欲しい」

「承知致しました。念のため、理由が何か、確認させていただいてもよろしいでしょうか」

「帝都の理念だ。あらゆる人は皆平等である……そういう建前だが、だからこそ、身分が高ければ高いほど、それを見せびらかさないのが、好ましい態度と受け止められる傾向がある」


 やっぱりそうか。

 だからグラーブもリシュニアも、地味な格好をしているのだ。逆にグラーブの学友にして供回りを務めるベルノストは、主人の権威を間接的に表現するために、ゴテゴテした服を着なくてはいけない。


「お前の場合は……正式にティンティナブリアの領主になったと手紙で知った。だが、男爵程度なら、そこまで神経質になることもない。最初のうちだけ制服の着用に努めて、あとは必要に応じた服装で過ごしていればいい」

「ご助言、ありがとうございます」

「まだ気が早い」


 まだ生活指導は続くらしい。これはどうも、本当に俺に対する連絡事項があったということなんだろう。

 とすると、少々申し訳ない。グラーブは今、帝都におけるエスタ=フォレスティア王国の外交の中核を引き受けているようなものだ。自国の貴族やその子弟がどう振る舞うかを管理する必要性もあるのかもしれない。


「念のために尋ねるが、帝都に武器を持ち込んだか? 特に、陛下から賜った剣などは」

「はい。六年前の内乱の後で、銀の腕輪と共にいただいた小剣と、この度、叙爵された際に与えられた剣。あとは自分が使うための実用の長剣と、予備の小剣。合計四本ほど持ち込んでいます。ただ、もちろんですが、すべて当局の確認を経て、所持許可は得ていますが」

「なるほど」


 彼は頷いた。


「なら知っていると思うが、市内で携帯していいのは、事前に申請するか、特別な事情がない限り、小剣までだ。制服で通学する間は帯剣せず、私服で行動する際には、なるべく陛下の小剣の方を帯びるようにしてくれ。もちろん、何かの用事があるとか、必要性がある場合は必ずしもそうしなくていい」

「それは……」


 ここで俺は引っ掛かりを覚えた。


「どうした?」

「……仰るように致しますが、理由はなんでしょうか?」

「知れたこと。ファルス、お前はフォレスティア王タンディラールの臣下だ。その身分を明らかにする品を身に帯びるのは当然のことではないか」

「いえ、承知致しました」


 これは、グラーブのオリジナルのアイディアだろうか? 制服の件はまだわかる。だが、剣については、別の思惑があるようにしか思われない。


「まだある。学園には、通常の授業の他、課外活動がある」

「はい」

「お前はお前のやりたいことをやればいい。ただ、在籍先は、私のサロンにせよ。私の卒業後は、アナーニアが引き継ぐ」

「わかりました」


 ここでグラーブは妹の方に向き直った。


「アナーニア、さっきも言ったが、入学後間もなくお前はサロンの副代表になる。卒業するまでしっかり頼むぞ」

「わかってるわよ」


 何をしっかり頼むのか。

 要するにこれは……


 タンディラールの手回しだ。それ以外、考えられない。

 彼は、俺が制御不能な要素を持つ怪物だと理解している。シュプンツェの討伐、人形の迷宮の攻略、そして東部サハリアの戦争を一人でひっくり返し、ポロルカ王国を滅亡の淵に追いやったあのパッシャの陰謀を打ち砕いた……これだけの事実を知った時、どう扱うべきかを考えなかったとしたら、彼は正気ではない。

 特にサハリアの一件は、かなりの衝撃だったに違いない。昔、内乱直後には俺に「お前など恐ろしくもない」と言い放ったものだ。だが、怒りだけでは人を殺せないはずのファルスという異分子が、ここにきて大きな変化を見せた。個人的な復讐のためだけに荒れ狂い、何千という敵を屠ったのだ。

 しかも、その際の活躍もあって、俺はあちこちの王侯貴族が密かにその価値を知る存在となってしまった。うかうかしていると、この駒をティズやドゥサラに奪われかねない。ヤノブル王だって、もしかすると食指を伸ばしてくるかもしれない。

 そして、それは非現実的な想定ではないのだ。なぜなら、現にこの俺自身が貴族の地位に執着していない。ティンティナブリアの領主にしておいて男爵止まりというのは随分とケチ臭い話だが、これが仮に伯爵であったとしても、どうせ俺の気持ちに大きな違いはなかった。一方、仮にタンディラールとの関係が悪化したら、俺は身内を全員連れて、キト辺りに逃げ出してしまうかもしれないのだ。そうなれば、ティズは諸手を挙げて歓迎するだろう。


 できれば、彼はグラーブとアナーニアに、この怪物との好ましい関係性を築いてほしいのだ。それと同時にファルス自身にも、自らタンディラールの下につくことを選んでいるという意思表示をさせたい。そういう指示があったとしか考えられない。


「それから、私達の呼び方だが」

「はい」

「学内では先輩、と呼べ。殿下などとは言わないように。これもさっきと同じ理由だ。ただ、学外では、これまで通りだ」


 まぁ、俺も手にした力で自分の値段を吊り上げようなんて思ってはいない。グラーブに迷惑をかけようとも思ってはいないし、ましてや俺の振る舞いがきっかけで国家間の関係が悪化して、うっかり戦争にでも繋がったら目も当てられない。たとえ彼に嫌われても、平和のためなら媚びるくらいはするつもりだ。

 本音のところ、武勇を誇りたいなんて気持ちは欠片もない。英雄になど、なりたくない。これからは弱虫の臆病者で一向に構わない。


「だいたいそんなような感じだが……お前には必要ない注意だが、もう一点ある」

「なんでしょうか」

「貴族の子弟がな……帝都に来て、自由を手にすると、冒険者になりたがることがある」

「は、はぁ」


 わからなくもない。若者というのは、いつだって力と元気を持て余しているものだから。


「帝都には四大迷宮があるから、そこで腕試ししようというわけだ」

「控えよということですね。承知しました」

「そうではない」


 彼は首を振った。


「普通の学生相手なら、安全に気をつけよ、いっそのこと行くなと言うところだが、お前にそんな指示など必要ないだろう。ただ、割合安全な迷宮とはいえ、やっぱり毎年、それなりに負傷者が出ている。ただ、騎士階級出身の学生などは、浮ついた理由でなく、学費に困って迷宮に行く場合もあるから、絶対に許さないとも言い切れん。まぁ、もし同行者がいる場合には、なるべく怪我をさせないようにしてくれ。責任問題になるのを避けたい」

「わかりました」


 彼は頷いた。


「よし。今日はそれだけだ。帰ってもいい」

「数々のご助言、ありがとうございます」

「気にするな。仮にもお前はこれから私の後輩だ。何かあったら相談するようにしてくれ」

「はい」


 俺は席を立った。


「お兄様」


 ここでやっとリシュニアが声を発した。


「私がお見送りします。まだファルス様は帝都に詳しくはいらっしゃらないでしょうし、案内は必要でしょう」

「あ……む、わかった」


 グラーブは、彼女の提案に複雑な表情を浮かべたが、すぐに了承を与えた。なんだ?

 難色を示そうとして、それを噛み殺したような感じだ。確かに、彼女が俺と親しくなることは、王家にとっては好ましい。だが、やっぱり内心では俺に対して好意的ではない。難しさ、やりにくさも感じているのだろう。


「いえ、そこまでは」

「どうせ私も帰るので、そのついでです」

「帰る?」


 ベルノストが説明した。


「リシュニア様は、この春から公館を出て、一人暮らしをなさる」

「えっ!?」

「といっても、寮で生活するだけのことだが」


 それでやっと理解できた。

 ただ、その背景を想像すると、なんとも気持ち悪いものがある。アナーニアが来たから出ていくんじゃないのか? 連中の人間関係、とても普通の兄弟姉妹ではないから。


 それにしても「一人暮らし」か。

 つまり、リシュニアは例の内乱以後、フラウの代わりの従者を伴っていないことになる。そういえば、アナーニアには従者がいるんだろうか? この場にいないってことは……


「では参りましょう。お兄様、それでは」

「ああ、迷子にならないよう、案内してやってくれ」


 公館を出て、寒風吹きすさぶ路上に出た。

 不思議なものだ。蛋白石の月とはいえ、帝都基準では寒い日なのだが、なぜかこの厳しく冷たい風がすがすがしく感じられる。


 ベージュのコートを羽織り、マフラーを首に巻いた王女様がたった一人、護衛もつけずに俺の前を歩いている。帝都は治安がいいということで有名だが、やっぱりこれは普通ではない。前世基準でも、このレベルのセレブが一人で歩くなんて、滅多になかったのではないか。だからこそ従者の存在が必要とされるはずなのだし。


「こちらにいらして、何日目ですか?」

「今日で四日目です」

「まぁ。じゃあ、まだ何もかもが目新しいでしょうね」

「はい」


 彼女らしく、俺にも気を遣ってこうして会話を切らさないようにしてくれている。


「街の中はもう、ご覧になられました?」

「昨日、試験の帰りに迷子になりまして。ただ、おかげで箱車というのを見ることができました」

「ああ、あれをご覧になられたのですね。昔の人は、本当に面白いものを作っていたんですね」


 迷子、ということにしておかないと、本当に公館詣でを避けていました、という意味になってしまう。彼女が余計なことを言うとは思わないが、気をつけないと。


「どこか行きたいところとか、見ていないところなどはありますか?」

「知り合いがシーチェンシ区にいるという知らせを受けているので、一度訪ねてみるつもりです」

「そこは……」


 温かい料理が冷めてしまったような表情が一瞬浮かぶ。どうもラギ川南岸は、本当に治安のよくない界隈らしい。


「……いえ。そう、そうなんですね」


 だが、どういうわけか、またすぐ微笑が戻ってきた。


「なんだか治安もよくなくて、貧しい人々が暮らしているところらしいんですが、こう言ってはなんですが、僕にはそっちのが合っているみたいで。ほら、この通りにも高級なお店がたくさんあるでしょう? でも、とても怖くて立ち入れなかったんです」

「まぁ」

「だから結局、迷子になった後は、川の西側の……庶民的な商店街があったでしょう? あちらでパンを買い食いしました」

「ふふっ、そうなんですね」


 彼女は視線を前方の店舗に向けながら、俺に言った。


「こちらのお店は、だいたい紹介がないと入れないんです。お気づきかと思いますが」

「やっぱりですか」

「今度、ご案内しますね。一度入ってしまえば、次からは普段使いもできるようになりますし」


 それから間もなく、とある柵のゲートの前で、彼女は足を止めた。


「私の寮はこちらなんです」

「はい」

「ですが、ファルス様が滞在なさっているワノノマの旧公館は、このまままっすぐなんですが、また迷子になりそうなら」

「いえいえいえ」


 俺は慌てて押しとどめた。


「さすがにもう、自分で帰れます。お気遣いありがとうございます」


 だいたい俺の見送りをさせたら、リシュニアが一人でここまで戻ってくることになるだろうし。セレブ中のセレブに、そんな危ないことをさせられるわけがない。いや、実際には相当に治安がいいのだし、まず何かなんて起きないだろうけど。


「そうですか。では、私はここで失礼しますけど、何かお困りのことがあったら、いつでも気軽にお声をかけてくださいね」

「ありがとうございます」

「では、お気をつけて」


 俺は軽く一礼して、その場を去った。

 やれやれ、リシュニアの方がよっぽど父王の意を汲んでいるな、と内心、溜息をつきながら。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る