新居案内

 歯車橋の手前からの地下道を抜けて内港に上がってくる頃には、すっかり夜が明けていた。


「ここで少々お待ちを。アシを捕まえてきますので」


 マツツァはそれだけ言うと、大股に歩き去っていってしまった。

 一人残された俺は、所在なくただ周囲を見回した。


 まず耳を打ったのは控えめな水音だった。緩やかな流れが川沿いの階段を洗いながら去っていく。それと、時折響く足音。数人が慌ただしく走り去っていくと、またすぐ波の音だけが取り残される。

 早朝というのもあって人の密度は決してそこまで高くないのだが、忙しく立ち働く人々もいて、少し離れたところで互いに声を掛け合いながら、重そうな麻袋を担いでいた。そうかと思えば、やることがないのか、ただ指示を待っているのか、波止場のあちこちにしゃがみ込んだまま、じっとしているだけの男達もいる。

 人種は様々だったが、西部シュライ人が多かった。かと思えば、白髪の混じった背の低いハンファン人もいたし、しょぼくれた驢馬みたいな顔をしたフォレス人も見かけたのだが。

 大きな船が、南の方から勢いよく寄せてくる。急ブレーキをかけるようにして船首を右に曲げて、乱暴に横づけにした。すると、そこからバラバラと大勢の男達がまた吐き出されてくる。まだ若いシュライ人の男達が目についた。そこへ天秤棒を担いだハンファン人の年寄りが近付いていく。棒の両端には竹網がぶら下がっていて、そこにパンのようなものが山積みされている。これから一仕事する若者達に売りつけるのだろう。

 かと思えば、また別の船が、今度はもっと控えめな様子でやってきた。なんと、降りてきたのは女達ばかりだ。若いのもいるが、大半は中年に差しかかっている。男達よりは若干身綺麗ながら、やはりあまり裕福そうには見えない。彼女らがやってくると、近くに小さなヨットを停めていた男達が一斉にヘイヘイと声をあげて注意を引こうとした。一部はその声に応じて小舟に乗り込むのだが、ほとんどは無視してまっすぐ波止場を横切り、反対側にある道路に停まっていた馬車に無言で乗り込んでいく。

 そうして人が歩き去っていくと、そこはもう、ラギ川まで遮るもののない石の床の広場が続いているだけで、やけにガランとした印象だった。街の中にいることを忘れそうになるくらいに。ただ、それでも右手に目をやると、黄土色に輝く歯車橋が聳え立っているのだが。

 川の対岸を見ると、やはり小さな帆船や、手漕ぎの平底船のようなものが浮かんでいる。全部が全部、こちらに渡るのでもなく、どんな作業をしているのか、陸地に沿って行ったり来たりしているのもあった。


「お待たせしました。あちらになります」


 戻ってきたマツツァが、離れたところにある小舟を指差した。朝日を背負っているので暗い灰色のシルエットでしかないのだが、顔の輪郭から西部シュライ人の船頭とわかる。俺が振り返ると、彼は手を挙げて応えた。


 その小さなヨットは、水面の上を滑るようにして走った。

 距離次第だが、最低で銅貨一枚から乗れる市民の足だ。市街地の中央を貫くのはラギ川だが、洪水対策などもあって、この川から縦横に水路が引かれている。船の大きさ次第で通れる水路は決まっている。そう考えると小さい船ほど有利なように思われるのだが、案外そうでもない。市街地にはちゃんと橋が架けられているから陸上だけの移動でも目的地には行ける。重量のあるものを運搬するなどの目的もあって船を使うのだから、基本的にはそれなりの大きさのある方が稼げるそうだ。

 ここは二つある内港で、大きなラギ川の本流に直接しているので、たった二人を乗せるようなサイズの船が、なかなか見つからなかった。


 まずは朝日に向かってまっすぐ帆走し、そこで周囲を見てから船頭は、一気に船首を北に向けた。衝突事故なんか起こしたくもないから、混雑しそうなところを避けながらの移動になる。

 折からの西風もあって、ついさっきまで後ろから風を受けていた時には船の揺れもなく、風さえ止まったのかと思っていたのだが、横向きに風を浴びてみると、急に肌寒さを感じさせられた。まだ蛋白石の月になったばかりなのだ。

 それでも、北風でなくてよかった。もしそうだったら、川の入口に差しかかるまでにまず凍えて、その後は帆を折り畳み、櫂でゆっくりと、風上へと漕ぎ進めることになっていたのだから。


「それで、公館はどこにあるんだ」

「一番橋の手前です。一等地ですよ」


 勢いよくラギ川を遡ると、やがて八の字に広がる陸地と建物が視界に入った。そのどれもがやけに堂々としている。

 どの建物も、デザインはともかく、構造は似通っていた。まず、川に面して石の階段が幅広にとられている。恐らく船を停めるためのスペースもあって、そこだけは階段がなく、割と低い位置に大きな窓が設けられている。荷物を搬入するための口だろう。中にはそれが大きな扉になっているところもあった。

 階段を昇った先にあるのは、立派なファサードだ。少なくとも地上三階くらいの高さがあり、背どころか手も届かないほどの大きな扉が据えられている。いずれも微細な装飾が施されていて、見た目に美しい。出入口を風雨から守るためか、石のアーチが連ねられているところも多かった。一方、湿気の多い場所なので、色鮮やかに塗装している建物はあまりない。石材や煉瓦の元々の色合いを活かしたものがほとんどだった。


「一流の商会がこの辺に商館を置いてるんです。ここならほら、内港からそのまま直接、荷揚げできるでしょう?」

「なるほど」

「便利なのもあって、ワノノマも少し前まで、この辺に公館を持ってたんですが、もう少し狭い場所でいいだろうってことで、新しい公館を、北東部の中心街に用意しまして」

「じゃあ、そちらに?」


 マツツァは首を振った。


「いいや、婿殿が使うのは、その広い旧公館の方ですよ。引き取り手を決める前だったんで、それならってことになったんでしょうねぇ」


 ということは、この川沿いの大邸宅の中の一つが、俺の三年間の住居になるのだ。


「あ、あれです!」


 そう言ってから、彼は船頭の肩を叩いて、その建物の方を指差した。

 帝都の住民が一番橋と呼んでいる、ラギ川を横切る大きなアーチの手前。川の東側にその館はあった。


 まず目についたのが濃い緑だった。敷地の南西の角は、その向こうが見渡せないくらい密な木々と草花の植え込みになっていた。そこから正面の堂々たるファサードと階段だ。それは何かに喩えるなら、白みがかった灰色の仮面だった。よく見ると円柱のようなパーツが無数に縦方向に連ねられて、まるでトタン屋根のように規則的に湾曲しながら、一枚の大きな板のような形に纏まっていた。ところどころに隙間や穴があるのだが、これはデザイン性と採光を兼ねた造りなのだろう。この辺の建造物には、石の階段を雨から保護するための屋根まで石造りになっていて、それが川沿いまで迫り出しているようなのもあるのだが、この建物はそうはなっていなかった。ただ、壁に空いた穴から判断すると、必要ならここに庇を嵌めこむくらいはできなくもないのだろう。

 階段が途切れる向こう側には、ファサードのすぐ横に丈の高い四角い塔のようなものが突き立っていた。ざっと見て四階建てで、天辺には四角錐の屋根が乗っかっている。そのすぐ下には荷物の搬入口とみられる大きな扉があり、また普段の活動に使用しているだろう小舟も係留されていた。


「ここで」

「へい、銅貨三枚」


 マツツァが手早く運賃を払い、石段に足をかける。それで俺も後に続いた。

 仮面の口の部分に、より暗い色の重々しい扉が据えられていた。俺達が階段を昇っていくと、それがひとりでに内側に向かって開いた。誰かが出入口を見張っていたらしい。

 山吹色に染まったフォレス風の服を着こなした、白髪に白髭の老人がそこには立っていた。彼は深々と頭を下げ、俺に挨拶した。


「私どものご主人、ようこそおいでくださいました。ここがあなた様の我が家でございます」


 案内役が入れ替わる。老人は先に立ってゆっくり歩いて、ファサードを構築する壁の中の短い通路を進んだ。足下には真っ赤な絨毯、頭上は黒大理石のアーチ。そして向かいは赤みがかった高級感のある木の扉。それが開くと、その向こうは大広間だった。

 完全にフォレス風の邸宅の構造だった。つまり、正面には、それこそ両手を広げた蠍のように、どちらからでも昇れる階段が据えられている。階段の上には扉があるが、恐らくあの向こうは社交用の大部屋だろう。そして、扉の真下には分厚いカーテンがかかっていた。このカーテンの向こう側は普通、屋敷の主の私的な空間か、中庭になっている。


「お越しいただけるのを、心待ちにしておりました」


 そんな左右の階段の間、カーテンの手前に、やっぱり今日も碧い海を思わせる打掛を身に着けたヒジリが立っていた。その左右には、下僕や下女とみられる男女が、分かれて立ち並んでいた。ミスマッチだったのは、ヒジリはもちろんのこと、使用人の男女も全員が、和装のような格好をしていたことだ。


 さて、どう声をかけたものだろう?

 マツツァ達とは、実はティンティナブリアを発つまでは、それほど接触がなかった。ただ、上下関係は明らかだったので、俺は普通に話し、相手は敬語を使うというので問題なかった。けれども、経緯や理屈はどうあれ、ヒジリはワノノマの皇女、俺は貧農上がりのなんちゃって貴族でしかない。

 上から目線で声をかけたらいいのか、それとも親しさを演出すればいいのか。


 だが、俺の気持ちを汲み取ったのか、それとも元々そうするつもりだったのか、ヒジリは俺に対して深々と頭を下げた。それで使用人達も主人に倣って、同じようにした。

 顔をあげると、ヒジリは手早く命じた。


「トエ、この先は私が案内してもよろしいですか」

「ははっ」

「皆も、仕事に戻りなさい」

「仰せのままに」


 ああ、なるほど、と心の中で納得した。

 みんな慌てて出てきたのだろう。もしかすると誰かが神通力で遠くから同行者を監視していたかもしれないので、大まかな予測はできるのかもわからないが、俺がいつ到着するかなんて正確にはわからない。だから、その時に備えて、こうしたお出迎えのシミュレーションもしてきたに違いない。だが、普段はめいめいがいつもの仕事をしているのだ。手が空いているのは、せいぜいのところ、ヒジリ自身だけなのではないか。

 使用人達が立ち去るのを横目で見送ると、ヒジリは俺に向き直って微笑んでみせた。


「では……旦那様、私がご案内します」

「あ、ああ、頼む」


 これでいいのだろう。ただのお芝居だ。この屋敷における実質的な権力者はヒジリだが、形ばかりは俺が偉そうにしていなくてはならない。


 それで彼女は先に立って歩き出し、俺も後に続いてカーテンを潜ったのだが、そこで軽く驚かされてしまった。

 なぜなら、そこにあったのは中庭でもなく、奥の間でもなかったからだ。では何があったかというと、真っ白な石板に刻まれた神話の浮彫だった。モチーフとなっているのは、モゥハだろうか? しかし、それはそれとして、空気の流れからするとここは屋外だし、かといって頭上は二階のパーティー会場の真下だから、やけに薄暗い空間になっている。左も壁で、正面が浮彫だから、通路は右手にしか通じていない。

 なるほど、フォレス風なのは玄関まで、ということか。本来あるはずの中庭は、きっと改造されてしまっているのだろう。


 ヒジリはそのまま右手に向かって歩き出していく。するとまた左手に通路が折れるのだが、その手前が色濃い茂みになっていた。これが来る時に船の上から見た、敷地の南西端の部分と繋がっているのだろう。

 そこで道なりに曲がって前を向くと、左右に明るい色の煉瓦が積み重ねてあり、右側にだけ口があいている。その向こうには三つほどの棟が並んでいるが、恐らく倉庫とか物置だ。

 更に進むと、右手は煉瓦のままだが、左手がまた密な植木によって遮られていた。これはどうやら、中庭がまるごと覆い隠されているらしい。


 そうして突き当たりまで辿り着いてみると、そこには地上三階の上に陸屋根、そこに四角錐の屋根だけが半屋外の形で置かれているビルのような部分に行き当たった。部分、といったのは、それが独立した建物ではなく、左手の部分が母屋と繋がっているらしいと見えるからだ。

 濁ったカーキ色の外壁は、落ち着きがあってなかなか悪くない。正面の扉は艶のある焦げ茶色で、実に上等なのがわかる。玄関の左右には小さな細長いプランターが置かれており、そこに可憐な花々が顔を並べていた。


「こちらが旦那様のお住まいになられる棟になります」

「ああ、案内ありがとう」


 と答えつつ、内心では軽く引いていた。

 どう考えてもここ、敷地の南東端にある。すぐ右手の壁を超えたらお隣さんだ。つまり、俺を屋敷の隅っこに……

 いや、まぁ、真ん中にどんと居座るのも居心地は悪そうではある。ヒジリや使用人の視線を浴びながら、立派な婿殿を演じるなんて息が詰まる。だからこれはこれで、彼女らの気遣いの結果なのかもしれないが、なんともアウェー感溢れる取り扱いではないか。


「お気に召しませんか」


 おっと、表情の変化に敏感すぎないか。ほとんど顔色を変えてなかったつもりなのに。


「いや、そんなことは」

「他意はございません。この館の中で、旦那様にとってどこより過ごしやすい場所がここだと考えてのことでございます」


 それから彼女は鍵束を袖から取り出すと、開けてからそれを俺に手渡した。

 一階は、ほとんどが応接スペースになっていた。そんなに人を連れ込む機会があるのかわからないが、まず、この裏口からすぐのカーテンの向こうには、小さな応接間があった。ねずみ色の上等そうなソファが向かい合わせに置かれていて、部屋の隅には銀の燭台、それに棚の上には一輪だけ活けられた花瓶が置かれていた。そこから北側に回り込むと上階に繋がる階段があるが、それを左手に見ながら回り込むと、今度は市街地側に出られる扉があった。その扉を正面に見て真後ろの壁にもう一つの扉があり、そこを開けると今度は大きな応接間となっていた。さっきの小さな方は、ほとんど二人で語り合うくらいの広さしかなかったが、こちらなら数人がテーブルを囲んでお茶に雑談を楽しめるだろう。

 その二つの部屋の狭間の位置に扉があったが、それはトイレらしい。


「普段は二階でお過ごしいただくことになります」


 階段を昇りきると、左手が廊下になっている。右手方向、北側には一階と同じく連絡通路が繋がっていて、その通路を挟んだ向こう側には、三階に昇るための階段がある。

 二階の部屋は三つ。市街地側から順番に寝室、トイレと浴室、西側の部屋は食堂だ。小さなキッチンもついている。


「あれは」

「はい?」

「蛇口? ここにも水道が?」

「え、はい。帝都の一等地ですし、水道くらいは当然に」


 さすがに温水までは出ないだろうが、これはなんとも贅沢なことだ。ここでも、旅の最中に何度か見かけたような、古代の給水装置なんかが仕事をしていたりするんだろうか。


「三階は書斎と、物置になります」


 構造は二階とほとんど変わらない。ただ、真ん中の浴室がなくて、そこが屋上へと繋がっていた。二階の下り階段の位置には大きなガラス窓が嵌めこまれていて、そこから敷地を見下ろすことができる。


「おや」

「はい、ご覧になられた通りでございます」


 俺に与えられた離れの北西、その三階の窓から見える敷地とは、つまり、この邸宅の中庭部分となる。ここに来るまで浮彫の壁や樹木で覆い隠されていた部分だ。


「昔は普通の商館だったそうで、中庭も貨物を置く場所だったのですが……私どもの公館に作り替えられた際に、あのようにワノノマ風にしてしまいましたもので」


 いかにも和風だった。なんと北側の母屋には、南に面して縁側まで設置されている。外壁はきっちりフォレス風なのに、内側にだけは瓦屋根に奇岩、小さな池まである。

 それで納得した。要するに、俺が寝起きする場所だけはフォレス風のままになっているから。邸宅に大改造を加えるより、ここを使ってもらった方が簡単だと判断したのだろう。


「いかがでしょうか」

「いや、こんな立派なところとは」

「よかったです」


 でも、ヒジリは知らない。

 どうせなら、俺も畳の部屋で寝たいのだ……


「お早いお着きでしたが、朝はまだ」

「え、ああ」

「すぐに運ばせます。ただ、大したものはすぐにはお出しできませんが……お昼には、改めて旦那様を私と召使一同でお迎えして、ささやかながら宴をと」

「ありがとう」

「では、それまでごゆっくりお過ごしください。湯浴みもできるように、早速準備させます」


 案内が済むと、ヒジリは優雅に身を翻して立ち去っていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る