第四十四章 花の季節、始まる

歯車橋

 暗闇の水面に一滴。小さな漣が真円を描いて音もなく広がっていく。


 唐突に目が覚めた。体が傾いでいるのを感じて、すぐ我に返る。それで察した。船が大きく揺れたか、向きを変えるかしたのだ。もともと眠りも浅かったのだろう。また寝直してもいいのだが、それもつまらないと思った。

 この大型の商船の中で、俺の部屋は上等な客室のうちに入る。なにせ個室だ。狭いながらも陸上の部屋そっくりにベッドが置かれ、机や箪笥が据え付けられている。もちろん、船が傾いても倒れ込んできたり、中身をぶちまけたりはしない。側面から引き出しがロックされている。

 そっと足を床に降ろした。古びてテカテカになった木の床は、やけにひんやりとしている。それから暗い中、ブーツを探す。窓は高い位置に小さなのが一つあるだけだ。見上げると、うっすら藍色に染まっている。朝が近いのかもしれない。


 廊下に出て、扉をそっと閉める。他の乗客はまだ眠っているに違いないから。

 船の通路は狭い。特に天井が低い。手が届くようにできていなければ、いざという時、危険だから。この暗さでは、視界も限られる。俺は這うようにして、波の音がする方へと出ていった。


 甲板に立つと、冷たいながらも爽快感のある北風が、横向きに吹き抜けていった。

 二、三日前に船乗り達に聞いた限りでは、今朝にでも帝都に到着できるとのことだったが、東の水平線の彼方には、ほとんど何も見えなかった。ただうっすらと、仄白い薄明の光の帯が遠くに映るばかりだった。


 流されるままに、と言っていいかもしれない。実際、船は風に押し流されて進むものなのだけれども。

 俺はすっかり腑抜けていた。自覚がある。ノーラの方が、よっぽどしっかりしている……


「婿殿」


 腑抜けていても、後ろから静かな足音が近づいてきているのには、気付いていた。


「船旅は飽きられましたか」

「単に目が覚めてしまって、夜明けの風を浴びたくなっただけだ」

「ほほう、では、今のうちにたくさん浴びておかねばですな。帝都は美しい街ですが、海の上ほどすがすがしい風が吹くことはありません」


 昨年の春、ヒジリが立ち去る直前に俺の家来として残していった武人の一人、タガタ・マツツァだ。やや大柄なワノノマ人で、その逞しい胸板もよく日焼けしている。鼻の下にはまるで筆で描いたような力強い髭を蓄えている。

 大方、魔物討伐隊あがりなのだろう。それなりの身分のある武人の家の出であろうことは容易に察せられる。

 それにしても、本当に気配には敏感らしい。俺がこうして外に出ただけで目を覚まして追いかけてくるくらいなのだから。

 敬語を使うし、形式上の身分は下僕だし、笑顔で話しかけてきてはいるが、彼の仕事には俺の監視も含まれている。実際、ここにくるまで、彼の目を盗んで行動する際には、本当に気疲れさせられた。


「そういえばマツツァは、帝都に行ったことがあるのか」

「あるも何も……なければ、ここまでついてきたりはしておりませんよ」

「それは助かるな」

「無事、姫君がお待ちの公館まで案内してみせますとも」


 表向き、彼も、残りの武人達も、俺にへりくだる姿勢を崩さない。必ず彼らは下につき、俺には主人らしい言葉遣いを求めてくる。それについて以前、理由を尋ねた際には「主従のけじめ」を持ち出してきたのだが、そんなのは取って付けた言い訳でしかない。

 人は自分の言葉や行動に束縛される。主人としての振る舞いが日常化すると、知らず知らずのうちにそれが当たり前、そうするべきものとなっていく。彼らは俺の警戒心を緩めたいのだ。所詮は家来だから……と、こちらが気を抜くのを狙っている。

 やれやれだ。そんなやり口はもう、ピュリスの薬屋で履修済みだ。


「ただ、帝都に入るのは、少々面倒臭いのですけれども」

「そういえば、前に言っていたな」

「ええ。こういう商船は、外港にしか入れないのです」


 俺の帝都行きに同行したのは、十人の武人達のうち、三人だけだった。ピュリスに向かったのは五人だったが、うち二人が商会に留まって、ビッタラクの下で働くことになったのだ。ティンティナブリアにも五人が居残って、こちらはノーラやユーシスの命令で動く立場となった。要するに、俺個人だけでなく、周辺の人々まで幅広く見張るつもりらしい。

 これだけ警戒されているとなると……


「む? どうかなさいましたかな?」

「いや、なんでもない」

「気もそぞろでいらっしゃったので」


 ……せっかくノーラが陰ながら動いてくれて、ビッタラクが形にしてくれた「男爵の居館」には、使い道がないかもしれない。


 俺が不自由を受け入れて馬鹿みたいにロージス街道を復旧している間、ノーラは先々を心配してくれていた。年が明ける頃には俺は留学、その下宿先はワノノマが国として保有している邸宅だ。そこで未来の花嫁であるヒジリ姫と一つ屋根の下、一見楽しげな日々を過ごす予定となっている。

 この許嫁、武功に対するオオキミからの褒賞のようなものだし、邸宅も、そこで働く使用人も、そのオマケでしかない。だから表面上は俺が無上の主人だ。が、実際には、屋敷の全員がヒジリに仕える忍者どもだろう。ヒジリ自身からして忍者の元締め、さながら上忍のような人物なのだから。

 ゆえに俺の留学生活とは、忍者屋敷での息苦しい日々でもある。それではいざという時の逃げ場がないと考えた彼女は、こっそりとピュリスに手紙を送り、ビッタラクを通じて秘密裡に帝都の家を借りておいてくれた。入学手続きの書類に紛れ込ませるなどしたらしい。

 そんな隠れ家が一軒あったところで、状況が大きく変わるわけでもないとは思うのだが……しかし、ここは俺の方が発想を変えるべきところだ。手札を増やしてもらったのだから、どう活用するかは都度、俺が自分で知恵を巡らせなくてはなるまい。


「ああ」


 俺は首を振った。


「運び込んだあれが、船の揺れで駄目になっていなければいいんだが」

「はっははは! さすがは婿殿、実に熱心でございますな!」

「笑い事ではないぞ? あれはドゥサラ王からの贈り物のようなものだ。是非とも形にせねばならん」

「いや、ごもっともです」


 誤魔化すために話題を切り替えたのだが、いつも気にしているという意味で嘘ではない。そもそも俺が「あれ」という言葉で言い表し、それでマツツァにも通じたのは、頻繁に口にしていることだからだ。


 要するに、ワングは立派に役目を果たした、ということだ。トゥワタリ王国の山間部にあるコーヒー豆畑を訪ねて回り、その位置や広さをいちいち記録して、ドゥサラ王に報告した。王国の存亡がかかったあの戦いの恩賞として、豆のできる木の土地はすべて与えると言ったので、ワングは俺に利益を独占させるべく、情報の取りまとめに時間をかけた。それだけでなく、いったんすべての土地を確保すると、今度は現地の人からの情報収集にも手間を惜しまなかった。

 俺には前世の知識があったから、いきなり紙フィルターでのドリップを試みてしくじったのだが、この世界の人間であるワングには、先入観がなかった。地元の農民がどんな風にしてコーヒーを飲んでいるかを調べ、そのやり方を学ぶことにのみ注力したのだ。

 結果、彼が選んだのは、元々のやり方、つまりターキッシュコーヒーだった。地元の人は、金網の上で器用に焙煎していたらしいが、彼は料理人のチームを結成してやらせてみて、また自分でもやってみて、そう簡単にはうまくいかないことに気付いた。同じ高さ、同じ火勢を保ったまま、ずっと金網を揺らし続けるのは思いのほか難しく、つらかったとのこと。それに大量の豆を焙煎することができない。

 だが、ある料理人が炭火を使うことを提案して、それに適した道具を作るようになってから、多少は状況が改善したらしい。それで彼は、豆と道具を船便でこちらまで送ってきてくれた。それがちょうど、俺がピュリスに到着する少し前のことだったのだ。


 それにしても炭火とは。嬉しさ半分、悔しさ半分といったところか。本来なら俺が先に思いついて然るべきものだった。薪より火力が安定しやすいから、ガスコンロもないこの世界では、より優れたやり方に違いなかった。

 もっとも、前世では炭火焙煎はそこまで盛んではなかったのだが。単純に炭が割高であること、換気を怠ると危険なこと、強い火力が出る一方でガスコンロよりは調整が難しいことなどがデメリットになったからだ。しかし、豆の内部にまでじっくり熱を通せるほか、一酸化炭素がコーヒー豆の酸化を遅らせるので、冷凍庫もないこの世界では賞味期限を延ばすにも有用だったりする。

 グルービーが目をかけただけはあった。彼は言われたことを言われた通りにするだけの男ではなかったのだ。


 ともあれ、豆の大半と道具一式をセーン料理長の下に残しつつ、俺も必要な道具と豆を荷物に積み込んで、この船に乗ることにしたのだ。時間が作れればだが、帝都でも更にコーヒーの研究を進めていきたい。ワングの試作した器具にも、改良の余地があるはずだ。

 正直、帝都での留学生活そのものには、さほど期待していない。貴族の子息なら遊んでいても卒業できる大学だというのに、今更何を教わるのか。だから今の俺の関心は、専らコーヒー関連技術の研究に振り向けられている。


 東の空の明るさが増した。


「おぉ、はようございますな」

「婿殿より目覚めが遅いとは、従者に相応しくないぞ、タオフィ」


 すぐ後ろの通路から、また一人、俺の同行者になった武人が姿を現した。マツツァが、いかにも海の戦士と言わんばかりの逞しさ、色黒さであるのに対して、タオフィはというと、なんだか見ているだけで拍子抜けしそうな容姿をしていた。色白で、ひょろっとしていて、なんだか瓢箪みたいに見える。顔も下膨れで、そのくせ頭の上で髷を結い上げているので、首から上も瓢箪そっくりだ。

 見た目だけなら、タオフィが純粋なワノノマ人で、マツツァが混血に見えるのだが、実際には逆らしい。タオフィはザンと同じく渡来系の一族らしく、しかもその家名アウアウナは、由来が不明なのだとか。ムワはもちろん、ハンファン人にも西部や南部のシュライ人にも、そんな名前は見当たらない。


「はは……船の上ではどうにも寝付けませんでな。その分、一度寝入ると起きられんのです」


 甲高い声に覇気のなさそうな力の抜けた表情。だが、ヒジリが特に選んで残していった武人なのだ。もちろん、戦えない男などではない。


「おっ」


 前方に目を凝らすと、タオフィは前方を指差した。


「これはこれは……いい時間に目が覚めたもの。ご覧あれ、婿殿」


 早朝の黄金色の光が、すぐ上にある白雲を金色に、またほんのり朱色に染めながら、いよいよ水平線を圧する勢いだった。だが、その光の奔流の中に、黒いシルエットが浮かび上がっている。


「いよいよ到着ですぞ!」

「あれは?」

「帝都の名物、歯車橋でございますな」


 チーレム島を東西に、そして南北に分かつ川。それがラギ川だ。島の北部の山岳地帯を水源地とし、やや蛇行しながら帝都を貫いている。それは運河によって枝分かれしているのだが、この地点で急に東西方向に向きを変える。もちろん、元々そうなっていたのではなく、かつての大工事の結果、そのようになったそうだが、ゆえに島の南部は北側と切り離されてしまっている。

 それを繋ぐための大きな橋が二つ。それを歯車橋と呼んでいるのだ。


 船が河口に近づくにつれ、歯車橋の威容は朝の光を遮って、聳えるようにして迫ってきた。

 遠目にはわからなかったが、至近距離で見上げると、どうも全般として暗い黄土色のブロックでできているらしいとわかる。水面下に何本も足を突っ込んでいて、その間はアーチ構造になっていた。そのすぐ上は通路なのだろうが、海上からではきれいに見渡せない。というのも、橋の上に不揃いな城壁が突き立っているからだ。これは石造なのか、錆に強い金属なのか。石と色合いがそっくりで区別がつかないのだが、まるで前世の大都市を簡易なイラストにしたらこんな感じになりそうな、高さにムラのある壁になっていた。そこにいくつも歯車のようなものがくっついていて、ゆっくりと回っている。

 そして橋の中央上には、これこそ時計台ですと言わんばかりに大きな時計と針が据えられていた。


「これ、は魔法で動いているのか」

「いや、全部機械仕掛けなんだそうで」

「動力はどうやって」

「こういうのはポトのが詳しいんですけどね……なんでも、川の流れ? を使ってるんだとか」


 なるほど、と頷いた。

 なんでもかんでも魔法の技術で作ればいいというものでもない。特に、こういう目につく巨大な設備であれば、尚更だ。というのも、例えば魔力を発する重要な部品をアダマンタイトによって破壊されたりしたら? たとえ小さな破損であっても、全機能が停止させられる恐れがある。

 だから、もっとシンプルな方法で動力を得ることにした。東から西へとゆったり流れるこの川の力を借りる。水は水車を回し、水車が動力を歯車に伝える。その動力を使って、例えば歯車橋が槍ほどの大きさのあるアダマンタイトの矢を雨のように降らせる……これを海上で浴びた敵は、魔法で避けることもできずに船を沈められてしまう。


「あちら、左手に外港があるんですが、そこからもうちょい東、内港に荷物を運ばせるのにも、川の流れの力を借りてるんだそうです」

「直接、外港から運ぶわけにはいかないのか」

「橋の向こう側にも、それなりの大きさの船があるもんで、そいつで都の中の荷運びをしているんですな」


 マツツァが口を挟んだ。


「とりあえず、お前とポトは、婿殿の荷物を運びこめるよう、手配しろ。その間、婿殿をお待たせして付き合わせるわけにもいかんから、先に屋敷の方に案内する」

「へぇ、承知」


 俺に向き直ると、マツツァは笑みを浮かべてみせた。


「せっかく早くに目が覚めたのですし、船が接舷したら、いの一番に降りましょう」

「急ぐんだな」

「のんびりしてると並ばされて待たされますからな。それに今から急げば、朝餉は屋敷でいただけるやもしれません」

「あんまり急では、あちらも迷惑だろうに」


 すると彼は笑い飛ばした。


「なんのなんの! 婿殿はもう屋敷の主なのですからな! わしらは姫には頭が上がりませんが、その姫も婿殿には三つ指ついて出迎えますとも!」


 そう話しているうちにも、船の舳先はゆっくりと北側の波止場へと近づいている。朝の光に照らされて、なんでもない石の床までもが黄金の輝きを纏っていた。


 世界中を経巡った俺が、これまで唯一足をつけることのなかった地。

 ようやくこの島に降り立つことになったのだ。

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