留学へ
小刻みな振動に、金属の擦れる音。それがこの車両からも、後ろの馬車からも、途切れることなく聞こえてくる。
「これじゃあ駄目だな」
「なんのこと?」
イーセイ港を出発して五日目、昼前のこと。間の一日だけ雨が降ったが、あとは好天に恵まれた。もうじき、俺とノーラを乗せたこの馬車は、ティンティナブラム城とその南東の地域を繋ぐ道路との合流地点に到着する。どうやら今日中に帰着できそうだ。
「揺れすぎ。馬車もだけど、道もそこまでいいものとはいえない」
「そうかしら? 馬車の旅でこんなに快適だったことなんて、ある?」
彼女の基準では、そうなのだろう。ノーラと一緒だった馬車の旅といえば、例えばティンプー王国からクース王国までの移動がある。あの時は、よく車輪が泥にめり込んでしまって、その都度、俺達は降りなくてはいけなかった。どうにかぬかるみから抜け出してから、また乗せてもらうという不便さだった。
だが、俺の頭の中には前世日本の道路と自動車がある。アスファルトで舗装された道路の上を、ゴムに覆われた車輪で滑るように走り抜ける。あれが当たり前なのだ。
「遅すぎるんだ。こんな道、一日で走り抜けて欲しい」
「そんなの無理よ。馬を替えながら一気に突っ走るならできるかもしれないけど」
「駄目だ。荷物を運べないと。海の魚を一日で運んでくれないと」
「魚?」
ところがこの馬車ときたらどうだ。車輪も木材、サスペンションもない。それの何が問題かといえば、速度を出そうとすると、揺れが激しくなりすぎて実用に耐えられないところだ。単純に引っ張る馬の数を増やしても、この問題が解消されないと、速度の向上を図るなどできない。
せっかく高速道路が開通するのなら、その可能性をとことんまで活かしてみたい。馬車で五日、つまり、一日の移動距離が四、五十キロ程度なのだが、実はこれらの問題点を解消すれば、馬車でもその三倍から四倍の速度を出せる。それが何を意味するか?
「寿司……」
「ス、シ?」
「醤油さえ作れれば、内陸のティンティナブリアで、寿司を……」
ほとんどやることもなく、ただ馬車に揺られて移動するだけの暇な時間。頭の中を占めていたのは、俺にとって都合のいい妄想だった。
うまいこと保存した海の魚を一日でティンティナブラム城まで運ぶ。現地でヅケにすれば、真夏でもなければ、食べられる状態を保てるんじゃないか。いや、ホアに魔法の道具でも作らせて冷凍して……
「もしかして」
ノーラが険のある顔を俺に向けた。
「海の魚を料理したくて、こんな道を」
「はっ」
我に返った。
「ち、ちちち、違う! 違うよ、それはついでの話で」
「ふぅん」
彼女の口元には、もう皮肉気な笑みが浮かんでいた。
「ま、ファルスらしいわ」
「あ、あー」
馬車が道路の分岐点に差しかかる。
「あ、そうだ、あの場所に関所を作ろうと思ってて」
「うん」
「シュガ村の前にも必要かなって思うんだけど」
「うん」
「えっと、これは真面目な話で」
「そうね。そういう仕事は私がやっておくから、ファルスは、そのスス? スシ? のことに取り組んだらいいわ」
「ノーラ」
俺が頭を抱えると、彼女は口元を抑えて小さく笑った。
帰って早速、この城の謁見の間で、各種報告を受けた。
それにしても、この玉座に座るたびに思う。この部屋は広すぎる。足が悪いために着席を許されたユーシスの他はみんな立っているが、今、この場にいる幹部は三人だけ。ギムが追いついてきても四人だ。あまりにガランとしすぎている。
なお、ホアはというと、今も何かの作業にかかりきりで、誰が声をかけても反応しなかったそうだ。無理に引っ張り出そうとすると金槌が飛んでくるらしく、いつもやむなく放置しているらしい。任せていた件があったのだが、あとで確かめるしかない。
「シュガ村までの街道は整備できた。となると、あとはアルディニア方面と、南東方面だけ、か」
「南東方面の領地に接続するためにも、優先は」
「それでいいし、北方に繋ぐのはミール王と話をつける必要もある。ただ、使者を送るにしても、あの山越えの道はオーガも出る」
「なら私が」
「いや」
ノーラが冬の山越えをしかねないので、釘を刺しておかなくてはいけない。
「優先順位が違う。それより、領内の巡回に力を入れて欲しい。向こう三年間の免税を決定したとはいえ、まだまだ困窮しているところも少なくないはずだ。巡回の頻度を上げて、安心と権威を実感させる方がいい。相談にも乗るように。必要なら無利子での貸し付けや、場合によっては食糧支援もする。もしそれで資金切れを起こすようなら、それは一時的に借金でもして乗り切ってほしい。帝都まで急ぎの手紙を送ってくれれば、僕がなんとかする」
まだピアシング・ハンドでキープしておいた黒竜や赤竜の肉体がある。どうしてもというのなら、あれらを引っ張り出して、当座の資金に換えてもいい。俺が抱え持っていても、誰の役にも立たないのだから。
「北の方は春になってから、二十人ほどの兵を連れて向かえばいい。人数が多ければ、オーガもそうそう襲ってこない。それで街道の再開発の許可をミール王からもらおう。手紙は僕が予め書いておく。そちらは……ギムさんにお願いしようかと思っている」
彼自身はまだ、部隊を率いてこちらに戻ってきている途中だ。馬車よりは若干遅いので、あと二、三日はかかるだろう。
「ユーシス様には、この城で引き続き指揮を執っていただきたく」
「承知した」
「フィラック、だから巡回は当面、引き受けてもらうしかない」
「わかった」
「どちらにせよ、東部の街道の再建には人が足りない。ノーラ、こちらが一段落したら、リンガ商会を通して移民の募集をして欲しい。免税と初期資金の無利子貸与を条件に募ってみてくれ」
しかし、人が足りない。労働力も、リーダーになれる人材も。
今頃、王都の年金貴族達は俺のことを羨んでいることだろう。あんな広い土地の領主にしてもらえるなんて、と。冗談じゃない。オディウスならいざ知らず、真面目に取り組んだら、やることが多すぎて、とても手が回らないじゃないか。
この謁見の間の広さは、それだけ統治にかかる手間が大きいことを示している。ましてや暴政の後始末から始めるのだから、人手はいくらあっても足りない。
……なのに留学はしろとか、いろいろと無茶が過ぎる。
今の展開、ある程度はタンディラールの思惑通りなのだろう。ごく短期間のうちに、俺の武力で治安を回復する。その後はリンガ商会の資金力で立て直しを図る、か。
残念ながら、王都から人材を派遣してもらうわけにもいかないだろう。あちらに余裕があるのなら、とっくにそうなっているはずだ。
しかし、こちらとしても余裕がない。これ以上、リンガ商会から人を引っ張るのは無理だ。むしろリーアとフィラックをあちらに送らないといけないくらいだろうが、こちらはこちらで彼らが戦力になってしまっている。やはり新規に雇い入れる必要がある。
もっとも、タンディラールと俺とでは、想定している時間のスケールが違い過ぎるのかもしれない。彼の中では、俺が留学から帰ってきてから、徐々に復興が進めばいいという考えなのではないか。だが俺はといえば、その三年間を無駄にするつもりがない。その間、俺と行動を共にしてくれた人が、骨折り損のくたびれ儲けでは、申し訳が立たない。
ともあれ、できることはもうやった。あとはうまくまわってくれることを願うしかない。
「僕の出発まであと一週間、それまで忙しくなる。みんな、よろしく頼む」
城に帰って挨拶を済ませた後は、上層階の領主の私室に落ち着いた。
この城の中では比較的、日当たりのいい場所にある。二つの区画の片方には南向きの窓があり、そこに洒落た椅子とテーブルが置かれている。もう一つの区画は寝室で、こちらは無駄に広い。古びたタンスに大きなベッド、いつ作られたかもわからない燭台が置かれている。キングサイズのベッドには天蓋までついていて、白いカーテンがかかっている。
実はこの部屋、最近までこの地を支配していたユーシスも、寝泊りはしていなかった。一つには領主のための部屋だったから。もう一つには足が悪く、上層階まで上がるより、もっと下の階層にある部屋で寝起きした方が楽だったから。
つまり、最後にこのベッドを使っていたのはオディウスだった。ここに戻るといつもそのことを思い出してしまう。そうなると連想されるのが、奴の最後の死にざまと……今もこの城にいるディーが強姦されたのもこの部屋だったという事実だ。うわぁ、寝たくない。いつもそう思う。
それに、他の部屋と同じく、ここもどことなく侘しさを感じてしまう。荒んだ雰囲気というか。あのオディウスだったから、メイド達も仕えて嬉しいということはなかっただろう。最低限の仕事だけはするものの、空間を美しく整えようなんて考えなかったに違いない。彼自身も困窮して、自室を彩る財宝とか骨董品を次々売り払った。
だからか、ここで過ごしていても、俺は貴族に上り詰めたぞ、なんて実感は湧いてこない。むしろ、旅の途中か何かで、どこか荒れ果てた古城に迷い込んだような雰囲気さえある。人手不足のせいもある。城が広大すぎて、俺がピュリスから連れてきた人員では手が回らないのだ。
ドアをノックする音が聞こえた。
「はい」
「おぅ」
入ってきたのはホアだった。
「帰ったんなら帰ったって言えや」
「いや、さっきみんなに挨拶はしたよ。でも、ホアは作業中だったらしいから」
「だぁーっ……ま、いいか。それより」
彼女は親指を立てた。
「ちょいツラ貸せや。できたからよ」
彼女に続いて、下層へと降りていく。案内されたのは、ホアが作業場にしている一角だった。巨大な城なだけあって、元々はあらゆる施設が存在していたらしい。その中に鍛冶場もあった。ただ、しばらく使われていなかったらしく、ホアはまずその場所の復旧から取り組まねばならなかったらしいが。
「お前が帝都行くっつうからよぉ」
「あ、ああ」
「せっかく黒竜の皮? あと、なんかピュリスから緑竜の鱗っつうのも届いたからよ。珍しい素材に触れるのはよかったぜ。っと、まぁ、なんだ。これを見てくれ」
薄暗い部屋の奥には、限りなく黒に近い灰色の鎧が架けられていた。人体を模した木組みがあって、そこに鎧の各種パーツが引っかかっている。
ベースは黒竜の皮だった。近付いて見てみると、頭の部分には、まるでゴムで作った帽子みたいなものが架けられていた。その周囲にベルトのようなものがあり、額の部分には、どうも鉢金のようなものが黒竜の皮の間に挟まっているらしいとわかった。
「なかなかイカしてんだろ」
「あ、ああ。でも、これ」
「言いたいこたぁわかるぜ? これでも頭使ったんだ。お前、まだ十四歳だろ? ってことは、あと三、四年は背が伸びるかもわかんねぇ。けど、さすがにこの素材で使い捨てはもったいねぇからよ。ちぃっとばかし体がデカくなってもいいように、調節できる造りにしてあるってわけだ」
黒竜の皮で少し大きめに体を取り囲み、そのサイズ調整をベルトなどで行う。兜に相当する部分はそれだけだったが、胴体については、その外側から緑竜の鱗で輪郭を作り、その外側にまた黒竜の皮をかぶせた装甲を重ねるように作ってある。
「緑竜の鱗が曲者だったな。うまーく削るのに難儀したぜ。でも、見てみろ、これ。太腿の前の方のこれな、裏側にちゃーんと黒竜の皮を貼っておいてやった。派手に動き回っても、余計な騒音を少しでも小さくするためだ。バタバタ動き回って敵がワンサカ寄ってきたってんじゃ、コトだろ」
「あ、うん」
思った以上に立派なものを作ってくれた。それは嬉しいし、ありがたい。だが……
「胸のところにゃ、まぁありきたりだが、金属の鋲を打っておいた。普通はアダマンタイトでいいだろって話なんだが、お前は魔法を使うだろ? だからまぁ、ちょい強度は落ちるが、ほとんどミスリルだ。けど、輝きは敢えて潰してある。ほとんど灰色だろ、これ」
実用一点張り。その点では実に素晴らしい。
キラキラした部分があっては敵に発見されやすくなるから、ということで、そういう工夫も施してくれたのだろう。
「二週間かかったぜ。それと、お前、魔法の道具はあんな嵩張るもん、持っていかねぇ方がいいだろ。ありゃーかなりモノがいいし、なくしたらまずいしな。ってことで、かなり性能は落ちるけど、お前の魔石、いくつか使っちまったが、簡単なネックレスを作っておいてやったぜ。小せぇからつけっぱなしで誰も目くじら立てねぇだろうけど、これ、詠唱は省略できねぇかんな。つっても、これが一番手間取ったんだけどなぁ?」
鎧、魔道具。
できるなら、旅立つ前にこれくらいの装備が欲しかったところだ。この「旅立つ前」とは今、これからの帝都への旅ではなく、五年前の話なのだが。
「あと、長剣な? こっちは余裕がなくて、一振りしか拵えられなかった。しょうがねぇから、予備の小剣は、まぁ質は落ちるが、元の在庫のを適当に手挟んでいけや」
「これ、ミスリルか? それにしては青い輝きがないんだが」
「バッカお前、これ見よがしに光らせたら、金目のもんだってバレて盗まれかねないだろが。わざと普通の鋼っぽくしてんだよ」
「なるほど」
「あと、帝都は武器を携帯するのに許可がいるからな? 目立つ魔道具なんかもまじぃぞ。大陸と違って、みんな街歩くのに武器なんか持ってかねぇからよ。お前は貴族で留学目的だから、その辺困らねぇだろうけど、面倒なことになる前にちゃんと事前に登録しとけ。迂闊に街中で物騒なモン、ジャラジャラさせんじゃねぇぞ」
だったら、どうしてこんなものを? 言っていることとやっていることがチグハグだ。
「なぁ、ホア」
「あん?」
「凄く嬉しいんだが、これ、何に使うんだ?」
これから俺が行くのは、人形の迷宮でもなければ大森林でもない。帝都パドマだ。世界で最も治安のいい、外国からの侵略を決して受けないといっていい街だ。
この装備を見るに、正面からの白兵戦もこなせそうだし、隠密行動だってやれそうだ。こいつは俺のことをなんだと思っているんだろう? こんな道具、あちらで殺し屋になるのでもなければ、使い道なんかないだろうに。
「何言ってんだお前」
「何って」
「いざって時の備えはあるに越したことねぇだろ」
「ああ、まぁ、そうだけど」
「それに、あっちには四大迷宮があるんだぜ? オレは見たことねぇけど」
そういえば、そんなようなものもあったっけ。不死の探求に関係なさそうだったから、興味がなかったのだが。
「帝都のお坊ちゃんがな、割と遊びに行くこともあるらしいからよ。だったら、お前も道具一式あって損するこたぁねぇだろ」
「そういうことか。ありがとう」
「いやぁ、いいんだぜ? お礼は体で」
「それとこれとは別だけどな」
彼女の乱暴な抱擁をスッとかわすと、俺は質問した。
「そういえば、地下の穴は」
「あー、うん、まぁ、その」
「詳しい調査は後回しにした、か」
「しょーがねぇだろ! 今まで仕事にかかりきりだったんだからよ!」
なんとなく合点がいった。要するに、珍しい素材を与えられて、我慢できずに先にやりたいことをやってしまったのだろう。彼女らしい。
「ま、急ぐことじゃない。そのうちにまた、合間を見てこちらに戻るから」
「おい、オレのこと置き去りにするのかよ」
「帝都に連れて行けって? うーん、ヒジリがなんと言うかな」
「オレが何しにここにいると思ってんだ」
それもそうか、散々俺への好意を利用しておいて、仕事もさせておいてそれはちょっと申し訳……ん?
「違うぞ。元々お前、帝都でいろいろやらかした挙句に勝手に逃げ出して、その罰でここにいるんじゃないか。うっかり騙されるところだった」
「うおっ」
「やっぱり処遇はあっちでヒジリに確認する。それまではここにいてもらおうか」
「チッ」
危ない、危ない。貞操の危機だった。
しかし、こうして望みを拒絶しておいてなんだが、彼女に頼まないといけないことがある。
「それはそれとして、一つ大事な仕事がある」
「あん? やんねぇよ、畜生」
「これは笑いごとじゃ済まない。お前がヘソを曲げたせいで何万人死んでもいいというのか」
「あ? なんだってぇ?」
俺は手で形を作って言った。
「難しいことじゃない。ちょうどこれくらいの……この大きさのものが入る、なるべく頑丈なアダマンタイト製の小箱を作って欲しい。中には布や綿を詰める」
「んなもん、何にすんだよ」
「説明するつもりはない。とても危ないものを隠しておくため、と言っておく。悪気があってこんなことを言っているんじゃない。いいか、知るということは責任が発生するということだ。これをしないと大勢の人に迷惑がかかるが、やったからといってお前に何か悪いことが起きたりすることはない」
俺に言い切られて彼女はしばらくそのまま固まっていたが、すぐ唸りだした。
「んー、時間ねぇな。畜生」
「済まない。他のことは放置でいい。もし、俺の出発に間に合わないのなら、ノーラに渡すのでもいい」
「ああん? なんだよ、あいつは知ってんのか」
「仕方ない。一部始終を見てしまっているからな。とにかく、そういうことだ」
ホアは機嫌悪そうに眉根を寄せて吐き捨てた。
「ハイハイわかりましたよ、やりゃあいいんでしょ、やりゃあ」
「済まないな。変なこと以外でなら、もちろん報いる」
「けっ。きれいごとはいらねぇっての。貸しだ、貸し。覚えとけ。いつか絶対ブチこませてやっからな」
これでとりあえずながら、シュプンツェ封印の目途が立った。あとは城の最下層のどこかに場所を取って埋め込むだけでよくなった。
魔眼で石化したバクシアの種なら、一千年くらいは生き延びてくれるだろう。その間に、また次の対策が取られることを願うとしよう。
それからの数日間は、ひたすら作業に追われた。日中は、今後起き得るケースの想定と、その場合の事前の判断を取り決めた。東部の街道開発は続けるので、その詳細な計画も打ち合わせた。夜は個人的な準備だ。小さな馬車一台分までの荷物に、あちらでの生活に必要なもの一式を詰め込まなくてはいけない。
ホアに貴重なものを置いていけと言われたが、俺もそうするつもりでいる。替えがなければ一番いい、あのナシュガズで手に入れた魔道具を持ち込むつもりだったが、一応の代替品まで用意してくれたのだから、それで賄う。そうなると後は大量の魔術書だが、これも嵩張るので持っていくつもりはない。例によって要所を書き写して、いざという時の見直しに使うことにする。
そんな作業も、出発前日の夕方には終わった。
ふと、我に返って俺は外に出た。自室を出て、どこへ行こうと考えて、思い立ってこの城の最高地点、監視塔に向かった。屋上の城壁の上を渡り歩きながら、そちらに向かう。
山の端にかかる橙色の太陽が胸壁の影を引き延ばしていた。既に青玉の月の下旬に差しかかっている。この時間ともなると、既に空気は冬の冷たさだ。
塔の最上部から見下ろすと、この盆地のほぼ全容が目に入った。その外側もうっすら見える。すぐ真下のカフェオレ色の濁流、盆地の南西にひっそりと佇むティック庄、南側のゴーストタウン……東側は平原だが、西側は暗い色の森に覆われている。
そんな中、力強く引かれた線が、ここ数ヶ月で整備された街道だ。さすがにこの場所からでは、ヌガ村やキガ村といった、遠い村落までは確認できない。フガ村の高台なら、それと知っていればわかる程度か。東の街道に至っては、完全に地平線の彼方に消えてしまっている。
北に目を向けると、五年前に越えたあの山々が雪化粧をしていた。美しくも人を拒むようなその佇まいに見とれてから、俺は自嘲した。よくもあんなところを越えようとしたものだ。街道も駄目になっていて、魔物も出没する中、たった一人であの山を抜けていったなんて、正気とも思えない。
そしてもう一度、境遇を思い返して、また自嘲した。あれだけのことをしておいて、今更、学生生活とは。体は若くても、気持ちはとうに老け込んでしまっている。改めて自分のためにやりたいことなど、もうないのだ。前世から通算で五十年も生きれば、そうなるのが自然かもしれない。
その日もいつもと変わらず、質素な食事を済ませた。恐らく、領主なんかにならず、ピュリスに留まっていた方が、ずっと贅沢な暮らしをしていたのではないかと思う。
夜も更けて、普段通りに俺は自室に引き返し、ベッドの上に横になった。寝室の入口に扉はない。また、その方がいい。小さな窓しかなくて、あまりに薄暗いからだ。外側の区画のほう、窓から差し込む月光が、部屋の入口近くまで伸びてきていた。
なんとなく寝付けず、枕を背凭れにしてぼんやりしていた。すると、旅をしていた頃の習慣もあってか、すぐ物音に気付いた。静かな足音が近づいてきている。誰かが階段を昇っている。
足音が、俺の部屋の扉の前で止まった。
控えめな音をたてて、立派だが古ぼけた扉が、静かに開いた。
誰だ?
その影が、窓から差す月光を遮った。視界が途端に黒く塗りつぶされる。
その人影は、俺のベッドの脇にまで歩み寄った。香水の匂いが鼻先に触れる。
「……ノーラ?」
その瞬間、衣擦れの音がした。
意味を悟って、俺は硬直した。
ベッドが軋んだ。晩秋の冷たい空気が押し潰され、ついで柔らかな感触とほのかな温もりが、押し付けられる重みが感じられた。
頭が真っ白になった。
これが、彼女の選択だった。
長年、追い求めていた相手は、血縁者かもしれない。どちらにせよ、婚約者が割り当てられてしまった。こうなってしまっては正式な結婚などできない。あとは諦めて他の相手を探すか、未婚を貫くか、それとも……
でも、この結論を受け入れてしまったら、彼女の人生はもう取り返しがつかない。それにもし、俺が本当に彼女の弟だったら? もしできてしまったら、子供にもリスクがあるんじゃないのか? 第一、その子供はどんな顔をして生きていけばいい? 父親の名前を伏せて、やっぱり日陰者の人生を送るのか?
そう思い至った時、強い恐れが俺の心を鷲掴みにした。
彼女が誰より愛する俺が、彼女に対する最大の加害者になる。
少しして、彼女は体を離した。
「あっ……」
「ごめんなさい」
そう呟くように言うと、彼女は手早くずり落ちた黒いローブを纏って立ち上がった。それから、足早に立ち去ってしまった。
扉が音を立てて閉じられた後、我に返った。
翌朝、城の南門のすぐ前、跳ね橋の上で、みんなの見送りを受けていた。
俺自身はアーシンヴァルに乗っていく。ただ、荷物を運ぶために小さな馬車が一台、ついてくる。御者を務めるのは、こちらに来るときにヒジリから押し付けられたワノノマの武人だ。その他に四人が俺のお供になった。残り半分は、この領地に留まって城代となったノーラの下で働くことと決まった。
「おー、なかなか似合ってんじゃねぇか」
出発前の俺をじろじろ見まわしながら、ホアが言った。
せっかくだからと、彼女が作ってくれた鎧一式を身に着けてみたのだ。体を慣らす意味もあって、最初からそうするつもりだった。ただ、先日見た時にはなかった装備が追加されている。フード付きの黒いマントだ。その利用価値は、あのキースの白い陣羽織と同じで、体の輪郭を覆い隠すところにある。ただ、素材が黒竜の皮なので、それなりの防刃性能もある代物だ。アダマンタイトの小箱を作れとの要求に渋い顔をされたのは、こいつを仕上げたいがためだったのだろう。
「けど、そのツラがいただけねぇな? てめぇ、ガキかよ? お出かけ前に寝不足なんてよ?」
言葉もない。
あんなことがあったのだ。ノーラに申し訳ないやら、自分がふがいないやら、でもだからって手出しなんかしてしまってよかったのか……今も頭の中がグルグルしている。
「ホア殿。ファルス様は心配事がたくさんおありなのです」
ギムが見当違いの方向でたしなめた。
「陛下の命もあってとはいえ、復興の途中で領地を後にしなければならない。これでは気が気でないでしょう。人の上に立つものは、しばしば安眠さえできぬものなのですから」
「ふーん、そんなもんかね」
一方、当のノーラはというと、わざとらしくなんでもなかったかのような顔をしている。だが、その微笑にも、どことなく寂しさのようなものが見て取れるような気がしてならない。
「心配しなくても、ファルスがいない間は私がしっかりやっておくから」
「俺もいるからな」
頼りになる男、フィラックが残ってくれるのは安心材料だ。長い付き合いがあって信用できて、地道な仕事も嫌な顔をせずしてくれる。いつか、もっと報いなくては。
「ファルス殿」
ユーシスが重々しく言った。
「帝都は私も留学したところです。あそこは華やかな半面、誘惑も多い街です。どうか気を引き締めて行かれますよう」
「ありがとうございます。御忠告を忘れないよう、心掛けて参ります」
俺の頭の中を別とすれば、今朝は少々涼しすぎるものの、旅立ちには好ましく、よく晴れ渡っていた。清らかな淡い色の青空、金色の、山の端にうっすら残る夜明けの名残り、その向こうに薄い雲がたなびくさまは、この上なくすがすがしい。
「では、そろそろ」
俺がそう言うと、同じく見送りに来ていたガリナ達も声をあげた。
「おう! 行ってこい!」
「行ってらっしゃーい!」
俺はアーシンヴァルに飛び乗って、手を振った。それから、帝都を目指す旅路についたのだ。
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