とりあえず踏破

 テントの出口の覆いを払いのけると、さっと朝の涼風が吹き込んできた。北の空には雲一つなく、その下には遠く銀の峰々が肩を広げて聳え立っている。まだ夜が明けて間もなく、東の空から差し込む朝日に、白い肌が朱色に染められていた。あの山々の名前はなんというのだろう? 歴史書を紐解けばわかるかもしれないが、少なくともここ数百年の間、あれらを目にしてその名を口にした人間はいなかった。

 それにしても、随分と涼しくなった。紫水晶の月の下旬に城を出て、俺の率いる一隊は、ひたすら東進した。あれから二ヶ月、もう秋もたけなわだ。


 誰も知らない、名前すらない山々か。大森林の探索を思い出す。実のところ、ルーの種族にとっては既知の世界だったが、それ以外の人間にとっては未踏の大地だった。今にして思えば、足跡のない新雪の上を歩くような感触があった気がする。

 でも、この景色を共有したくても、いつもの仲間は、今、傍にいない。ただ、もしかするともうすぐ追いついてくるかもしれないが。


 手続きの一切は、出発前に済ませておいた。俺がいた頃のリンガ村でもそうだったが、いつも黄玉の月の末に徴税の手続きが始まる。それに先んじて、三年間の免税について伝えるため、領内の各地に使者を送った。あちらでは今、ユーシスが仕事をしてくれている。しばらくは問題ないだろう。

 今、俺のテントの周囲には五百人の犯罪奴隷と、三百人の兵士達のテントが林立している。最初のうちは逃亡者に気を配らなくてはいけなかったが、今はもう、そうする必要はなくなった。一つには俺の力を思い知ったから、もう一つには、一人で逃げたところでむしろ寿命が縮まるだけとわかったから。


 朝食の時間には少し早い。だが、夜明けまで見張りを務めた兵士達には労いが必要だ。たとえ形ばかりのものだとしても。

 取りおかれた樽から、薬缶一杯分の水を汲みだし、即席の釜の上に置いて、手をかざす。数秒もたたず、湯が沸いて白い蒸気が朝の景色を曇らせた。あとは手提げ袋を二つ、十人分の小さな金属製のコップを片方に突っ込んで、宿営地の外周をまわるだけだ。


「お疲れ様」

「おはようございます!」


 俺の挨拶に、兵士は背筋を伸ばした。


「白湯だけど、いる?」

「いただきます」


 俺はコップを取り出し、手ずから一杯分を注いでやる。こういう地道な気遣いの積み重ねが欠かせない。危険な魔境奥深くを探検しているのだから。大森林での、探索隊の破滅的な最期を目にした俺としては、安心と信頼を積み重ねるのに手抜きなど考えられない。大変な時だけ踏みとどまってもらおうなんて、虫が良すぎるのだ。


「何か不安なことはあった?」

「いいえ」


 彼は首を横に振った。


「アレがいるのに、今更怖いものなんてあるんでしょうかね……」


 そうして、彼の横に鎮座する異物に目を向けた。そこには、翼を折り畳んで首を竦めて眠る窟竜がいた。

 街道を東に進み始めてしばらく、あるところで道が途切れて森に覆われていた箇所があった。そこからが魔境の始まりだったのだが、進むうちに割と頻繁に窟竜の縄張りとぶつかった。その都度、魔獣使役の力で服従させ、何匹かは遠征隊の護衛に、途中からは街道そのものの防衛のため、道路の南北方向に配置してきた。


 そしてこれが、たった二ヶ月でここまで進軍できた理由でもある。

 俺はてっきり、魔境に入ったら雑多な魔物の群れが割拠していて、それらをいちいち討伐して回らなければいけないものだとばかり思っていた。ところがどっこい、そういうケースにはほとんどぶち当たることがなく、出てくるのは窟竜ばかり。この密度でこんな怪物がいたのでは、雑多な魔物の群れが棲みつく余地がない。

 だから、東進開始後、一度も大きな戦いを経験せずに済んでいる。


 俺にとっては好都合そのものだったのだが、ここで疑問が沸き起こる。こうした状態に陥ったのは、いつ頃からなのか?

 この道は、統一時代には人が普通に行き来していたところだ。というより、その前からもそうだった。セリパシア帝国が西方大陸のほとんどを支配下に収めて、今でいうチーレム島に向けて進出すべく、そこにまで至る街道を整備したからだ。東の果てに築かれたのが後のイーセイ港で、これはロージスの手によって整備され直された。

 だが、その以前からもこの辺りには人間が住んでいたし、通行も可能だったろう。でなければ、インセリア王国を築いたフォレス人が海を渡って東方大陸まで逃げ延びるなんて、できなかったはずだ。そして、今も昔も、ほとんどの人間にとって窟竜は恐ろしい怪物で、ただ頭数を揃えたくらいでは撃退できる代物ではなかった。

 偽帝アルティの東征の際には、まだこのルートは活用されていた。この道があればこそ、彼の何十万もの軍勢……というより烏合の衆が、チーレム島への渡航を試みることができたのだ。


 要するに……この無数の窟竜は、誰がばら撒いたのだろう?


 ただ、彼らには名前がなかった。年齢もそこまで高くない。多くは二百歳から三百歳くらいだった。となると、ティンティナブリア東部が魔境化した際に配置されたと思しき窟竜の第一世代ではなく、その子世代なのだろう。最初の窟竜達は、もしかしたら何者かに使役されていたのかもしれない。

 すると、アルティのもたらした大乱と、その後の世界各地の魔境化についての関係性を意識しないわけにはいかない。あれから各地で戦争が勃発し、全世界を覆う経済網が失われ、急速に人間社会は衰退した。魔術の知識も廃れ、特に治癒魔術を中心とした触媒の供給も途絶え、貴重なものとなってしまった。そうした歴史的な災厄が、人為的なものだったとすれば?


 心の中に容疑者達の姿が浮かんでくる。だが、連中が俺に手出しをしてくる様子はない。


「過信はしない方がいい。魔獣使役の術は、より優れた誰かによって上書きされることもあるんだから」

「まぁ、そうかもしれませんけどね、そんなのできるバケモンがその辺にホイホイいるもんですか」


 その辺にはいない。でも、それができそうな人物で、俺に対して友好的とは言えない連中が実在するから、安心はできないのだ。


「けど、こんなおっかない探索、いつまでやるんですか。もうすっかり涼しくなったんですが」

「もうじき終わると思う。早ければ今日にでも一段落する」

「本当ですか!」

「落ち着いて。道の状態を確認しながらだから。何事もなければってことだから」


 正直なところ、俺がティンティナブラム城から魔術でひとっ飛びで東に向かえば、そうかからずに東の海岸を拝めただろう。でも、それでは意味がなかった。俺はこの街道を使えるように復旧する目的で行動している。だから地上を歩いて、道路が寸断されている箇所などをいちいち確かめている。その他、大昔の集落跡があれば、それも記録している。

 最初に行き当たった森などは、道路の破損状況がかなりひどかった。周囲の木を伐採しないと、そのうちに根が道路を掘り起こして台無しにしてしまうので、ここではかなりの時間をかけなくてはいけなかった。かと思えば、その向こうはしっかりとした平坦な道が残存していた。昔の宿駅の跡もあったし、それを防護する城壁も残っていた。すべてを完全修復はできないから、ある程度は割り切って先に進んできた。

 但し、街道そのものだけは、どれだけ手間暇がかかっても、必ず修復している。というのも、後方からの物資補給は、この道を頼りにしてやってくるからだ。


 完全に夜が明けて、一時、朝餉の煙が周囲に立ち込めて、それから俺達はまた、馬車を急き立てて日の差す方へと歩き始めた。

 距離的には、かつてのイーセイ港は目と鼻の先だ。早ければ今日中には辿り着ける。道路が無事ならば、だが。


 太陽が真上にかかる頃、隊列の先頭を歩く俺は、遠くに波の打ち寄せる音を聞き取った。思わず駆けだしたくなったが、逸る気持ちを抑えつけて、いつもの仕事を続ける。

 面倒でも地下を透視して、道路の状態を確認しなければならない。地表だけ健全そうに見えても、地下の排水機能が損なわれている場合も考えられるのだから。


 だが、やがて道幅が目に見えて広くなる。と同時に、左右に建物の基礎部分だったであろう石積みの跡が目立つようになってきた。潮騒の音もはっきり聞こえてくる。それと悟ったためか、俺の後ろについてくる兵士達も、犯罪奴隷達も、揃って歓声をあげた。多分、海を見たかったのではなく、これでこの遠征が終わってくれるからだ。

 かつての港のあった場所は、呆れるほど何もなかった。高台の上の円形の広場は、しっかりとした石造りになっていて、草一本生えていない。隙間はセメントでしっかり埋めてあり、地下も排水のための石がきっちり詰められている。ただ、広場のその他の設備は、何一つ残っていなかった。

 贖罪の民の村で聞いた昔話を思い出す。ヘミュービが暴風雨を引き起こして、この辺りにあった宿舎から何から、何もかもを吹き飛ばして押し流してしまったのだろうか。


 広場の突き当たりからは、幅広の階段が海へと続いていた。四角い踊り場があって、そこからは西以外の三方向にまた次の階段が設けられている。そこからは一段低いところに、南北方向の通路があり、その通路からまた階段が下に伸びている。その向こうはもう、かつての埠頭だった。

 街道は周囲より小高いところにあり、その左右、一段低い場所には、恐らく倉庫が設けられていたのだろう。荷揚げをスムーズにするためなのだろうが、階段のないただのスロープが、離れたところに散見される。

 統一時代には、さぞ立派な港だったのだろうが、今では上物が何一つ残っていない。これを使えるようにするのには、どんなに早くても年単位の時間がかかりそうな気がする。


「よし! ここで補給を待つ! それまでの間は宿営して調査だ!」


 それから二日の間、俺と配下の兵士達は周辺の調査に時を費やした。


 まず、道路だ。そもそもロージス街道には、大きめの馬車がすれ違えるほどの幅がある。ただ、イーセイ港付近の、あの道幅が広くなった辺りを丹念に調べたところ、一部が土に埋まっていたのもあってわかりにくかったのだが、要するにあの場所がこの港のターミナルのような場所だったらしいとわかった。

 街道を挟んで南北に長いスロープが設けられていたのは、そういうことだ。どちらが上りでどちらが下りだったのかはわからない。ただ、西方大陸の物品を持ち込み荷下ろしする側と、港から荷揚げされた品を積み込む側は、別々になっていたらしい。してみると、あの円形の広場も、人がくつろぐ場所だったというよりは、馬車が一回転して反対側のターミナルに入るためのものだったという可能性が考えられる。

 ターミナルから広場の間には、家々の址があった。基礎部分の廃墟しか残っていなかったので、当時、どんな家屋があって、どんな目的で用いられていたかはわからない。ただ、古井戸がいくつか見つかったので、この市街地の中で水の供給ができていたらしい。

 上水道はなかったが、別のものならあった。円形の広場にほど近い、とある建物の床に、地下に繋がる階段があったのだ。そこには人が一人、余裕をもって歩けるほどの広さのある通路が残されていた。内部には僅かな傾斜が設けられており、南側に向かって流れ落ちるようになっていた。この地下通路はなんだろうと思って興味を抱いて隅々まで歩き回ってから、それが下水道であることに気付いた。

 新たに上水道を建設してみるのもありかもしれない。というのも、この港湾都市の廃墟の近くに、清らかな泉を見つけたからだ。以前、ゴーファトがアグリオ近郊にあった泉を「我が狩場の眼」と呼んでいたが、遠くに聳える山脈を背景に、青々とした草叢に囲まれた清浄な水辺は、まさにそう喩えるのに相応しかった。おかげで俺達も水の補給に困らずに済んだというものだ。


 大まかな調査が済んで、今後の計画についてあれこれ検討していた頃、街道の西の向こうに砂埃が立つのが見えた。

 思ったより早い到着だ。あの馬車の先頭にはノーラが乗り込んでいるはずだ。俺が最初に立てた計画では、彼女は領内の道路建設にまわることになっていた。だが、ほどなくしてそれが不可能なことが浮き彫りになってしまった。

 俺の率いる遠征隊に食料を補給する。それはつまり、魔境の中を通る街道を突っ切るということだ。そうなると、万一の場合に強大な魔物を相手どることのできる戦力が欠かせない。俺以外でそれができるとなると、腐蝕魔術の力を移植されたノーラ以外にはいなかったのだ。


 前方に俺達の姿を認めると、馬車は速度を落とした。ちょうど俺の目の前で立ち止まると、中から黒いローブを身に着けたノーラが飛び降りた。


「お疲れ様」

「ファルスの方がお疲れ様」


 何かどこかチクリと皮肉るようなニュアンスだ。


「うん?」

「結局、働きづめじゃない。これじゃあ旅をしてた頃のとあんまり変わらないわ」

「変わるよ。これで僕の仕事はほとんど終わりだからね、留学前の分は」


 彼女は肩をすくめて溜息をついた。


 その時、ふと違和感をおぼえた。花の香りがしたような……


「いいのに」

「え?」


 ……いや、これは、香水? ノーラが?


「私達だって、自分で自分のことはなんとかするのに」


 戸惑いで思考が纏まらない。この二ヶ月で、何かあったんだろうか?


 だが、それはそれだ。強引に会話の内容に意識を向ける。

 普通の人であれば、彼女の理屈も通るだろうが、俺に限ってはそうでもない。みんな、異常な運命を背負って生まれてきた俺に引っ掻き回されてしまっているのだから。


「まぁ、でも、ここまでやったから、あとは人任せにできるよ。窟竜を街道の南北に放ってあるから、逆に魔物も侵入しにくい。なんならもう、この状態で陛下に差し出して、全部放り出すっていうわけにはいかないのかな?」

「これを見たら、もっともっと要求されるんじゃないかしら。それより」


 ノーラが振り向くと、もう一人が馬車から降りてきた。俺はその姿を認めると、彼女をおいて歩み寄った。


「ギムさん」


 彼は俺を見ると、目を伏せた。だが、すぐに気持ちを切り替えたのだろう。いきなり本題を切り出した。


「確認させてください」


 初めて出会った時には、もっと恰幅のいい、横にも太い男だった印象がある。それが今ではすっかり痩せ細ってしまった。何度見てもそう思う。もっとも、それで虚弱になったというよりは、絞り込まれたような見た目になったのだが。本人としては、加齢による衰えも自覚しているのかもしれない。先日の会見の時よりは身綺麗になっていた。


「本当に私などを雇ってもよろしいのですか」

「もちろんです。お力を貸していただけるのなら、是非お願いしたい」


 ヌガ村で再会してから二ヶ月半ほど。ようやく決断してくれたらしい。

 それで遠征隊の仕事を手伝うために、ノーラに同行してここまで来てくれたのだ。とはいえ、心が動く要素なら、既にあった。数百年、未踏の大地だったティンティナブリア東部に、これほどまでに深く切り込んだのは、俺が初めてだろうから。

 もちろん、イーセイ港の跡地に到着したからといって、これですべてが片付いたなんてことにはならない。むしろこれから、途中に発見された宿駅の跡地を再開発し、物流の拠点を構築していく地道な作業こそが、復興作業の大半を占めるのだ。


 そうなると、指揮官の数は多いに越したことはない。ただ、せっかく力になってくれるというのに、ギムにはその手のスキルがない。ドメイドの付き人だった彼に、集団を率いる機会はあまりなかったのだろう。

 その辺は、盗賊団の頭になった連中から引き抜いた能力を移植することでなんとかする。ピアシング・ハンドのリスクを考えないでもなかったが、頭目どもの能力をそのままにはしておけず、やむを得ず回収したものだ。

 単なる強化とはいえ、他人の能力を無断で書き換えることに申し訳なさがないでもないが、今までの経験上、本人に実害はないだろうし、心の中で謝るだけに留めることにする。


「とりあえず、本部で話そう」

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