姫君、ご到着

 風のない静かな夜だった。いつもに増して、今夜は星の瞬きが強い気がする。いくつか綿菓子のような雲が浮かんでいて、灰色に見えるその腹をこちらに向けていた。

 ホテルの屋上にある粗末な木の椅子の上に腰かけて、俺は港のある南東方向をじっと眺めていた。もう夜更けだというのに、小さな光の粒が点在しているのが見える。総督府の人達も、たまには働いたらいい。ご苦労様だ。


 離れたところで、金属の蓋が控えめな音をたてた。梯子から覗く黒髪が、周囲の闇に溶ける。だが、俺が彼女を見間違えることはない。


「お疲れ様」

「ファルスこそ」


 黒竜のローブは旅の最中にズタズタにされてしまったが、出発前に着ていた服には替えがあったらしい。黒いローブに、今はかぶってないが黒いトンガリ帽子。元はといえば、育ち切っていない彼女が自分自身を少しでも大きく見せて、交渉相手に侮られないようにするための衣装だったのだが、今となってはそうした機能に必要性はなくなっていた。


「ずっとセーンさんにこき使われてたんでしょ? 料理って肉体労働だもの」

「ははは、久しぶりで鈍ってるって怒鳴られたよ」


 だが、それがいい。久しぶりの我が家で勝手がわからないような、あの不思議な気持ち。でも確かに、あれが俺のやるべき仕事なのだと再確認させられた。厨房で包丁に触れ、鍋に触れ、フライパンに触れるたび、忘れかけていた感覚が蘇ってくる。


「ノーラこそ、総督府の役立たずども相手に、大変そうだったけど」

「あれはヒジリが悪いのよ。せっかくこっちは部屋を開けて待ってたのに」


 昼過ぎに、ヒジリを乗せたワノノマの船が俺達に追いついて、ピュリスの港に入ってきた。仮にもワノノマの王女という身分を考えれば、彼女を宿泊させられる場所は、このファルスホテルの最上級の客室か、さもなければ総督官邸の敷地内にある賓客用の部屋か、どちらかしかない。だが、彼女はいずれの利用も断った。

 代わりに、明日の午前中に行列を引きつれて官邸に向かうという段取りになった。昼前にムヴァク総督と面会し、そのまま昼食会。そして夜は総督官邸に宿泊。明後日には王都に向けて出立するというスケジュールらしい。

 そういった状況なので、俺はまだ、こちらにやってきたヒジリの顔を見ていない。今もあの船の中にいるのか、それともこの闇の中で密かに立ち働いているのか……


「それより」


 ノーラが顔を曇らせる。


「ファルスまで王都に呼ばれるなんて」

「予想はしていたよ。暴れすぎたし、第一、ヒジリはただの特使じゃない。僕と婚約する件を伝えるのも目的だってことらしいし」


 つまり、七日前にピュリスに到着したワノノマの先遣隊は、実に迅速に行動したのだ。ムヴァクに一報を入れるだけでなく、全速力で王都を目指した。普通、馬車で五日かかる距離を七日で往復したのだから、それはもうよっぽど先を急いだに違いない。

 そして、王都から急遽派遣されてきた使者は、総督だけでなく、俺個人への手紙も携えていた。騎士ファルス、ワノノマの特使の入朝に合わせて王都に上るべし。


 嫁が来たのに、肝心の婿がいないのでは話にならない。そもそもこれは、俺の側の言い逃れ……ノーラの言ったことだが、それが発端になっている。

 いくら俺に武功があるにせよ、これは不釣り合いな婚約だ。一国の王女と一介の騎士。普通はまず先に俺を然るべき身分にしてから、王女と娶わせるべきものだ。だが、こちらはワノノマの将軍になることを断っている。その理由が、タンディラール王から騎士の腕輪を授かったことにある以上、どうしても彼にボールが飛んでいく。


 つまり、こういう理屈だ。長年、パッシャと戦い続けてきたワノノマとしては、これを滅ぼすのに活躍したファルスを賞さずにはいられない。だから将軍の地位とセットで姫も与えようとしたのだが、なんとこの騎士、元の主人への忠誠心が大層篤く、二君に仕えるをよしとしない。これでは仕方がない、といって何も与えないのも都合が悪いので姫だけは差し出す、だけどそれでは片手落ちになるので、後始末は主君であるタンディラールにお願いする……という話なのだ。

 そうしてみると、タンディラールも無視を決め込むわけにはいかない。そうか、我が騎士が功名を立てたか、では余も報いるとしよう……そうでもしないと、ワノノマに赤っ恥をかかせることになる。


 だから、俺は今からヒジリのいやらしさが気になってしまうのだ。

 彼女は、用意されたホテルを断って、今夜も船の中に留まることにした。代わりに翌朝、わざわざ市街地の交通の自由を制限させた上で、大袈裟なパレードを見せつける。忙しい商人達にとってはいい迷惑でしかないが、異国の姫の輿入れの行列となれば、それはもう庶民には忘れられない見世物になるだろう。これがもし今夜、中心街のホテルに入ってしまうと、そこからは官邸が遠くないので、大勢の人の目に触れる機会がない。

 要するに、既成事実化するための布石だ。ヒジリの目的は、俺を監視下に置くことにある。もちろん、四六時中密着するのは無理なので、やり方は考えるだろうが、少なくともその口実を作らなくてはいけない。

 今、目を向けているあの港から、俺への意識が、番えた矢の如くに向けられているのを、今もひしひしと感じている。


「これを王様がどう捌くかってところが、まぁ、見どころなんだろうね」

「他人事みたいに」

「諦めてるよ。確かに、好き勝手やりすぎた」


 俺は納得していても、ノーラはそうでもないらしい。月明かりを映すその瞳を、じっと俺に向けてくる。


「逃げてもいいんじゃない?」

「相手が王様だけならね」

「ファルスは、魔王に手を貸すつもりなんかないでしょ? これ以上、誰かを傷つけたりしないのに」

「信じろというのも無理な話だから」


 パッシャなき後、認知されている範囲では、世界の安定にとっての最大の脅威は、恐らく俺だろう。実際、そうであればこそ、使徒達も俺を動かそうと立ち回ったのだろうし。そしてモゥハは俺の世界の欠片の本質を見抜いたに違いない。

 モーン・ナーの呪詛は消えてなどいない。何かあった時、対処できるように……だから彼らは、最も大きな駒を、なるべく俺の近くに配置しておきたい。いつまた暴走するかもわからないのだから。


「やっぱり無理だなぁ、とは思ったけど」

「無理って、何が?」


 俺は肩をすくめた。


「焼き鳥屋。ああ、つまり、鶏肉で作る串焼肉をね、売りたかった」

「串焼肉?」

「うちでね。のんびり串焼肉を売って、穏やかな毎日を過ごせたらいいなって、ちょっと思ってた」


 それを聞くと、ノーラは俯いてしまった。

 仮にタンディラールや龍神の手先から逃げきることができたとしても、そんな平凡な生活は、きっと望むべくもないだろうから。


「悲観しなくてもいい。なるようになる。それに」


 俺は立ち上がった。


「できることをするしかないんだ。だろう?」


 翌朝、早い時間に俺達は官邸に向かった。行列を見物? そんな暇はない。リンガ商会はろくな家僕のいないムヴァクを支えなくてはいけない。俺やセーン料理長は厨房に向かうが、他も子爵の下僕のフリをしてヒジリの接遇にあたる。

 もっとも昨日の時点で仕込みは終わっているので、そこまで作業が多いのでもない。会食に参加する人数も、たったの四人だ。つまりムヴァクとその妻、ヒジリと使節団の副団長。

 裏方二人で料理を作る分には余裕がありすぎる。そう思っていたら、忙しなく廊下を行き来する若い男に声をかけられた。


「ちょっと、あなた、リンガ商会の人?」

「え? あ、はい」

「今、時間ある?」


 俺はセーンの顔を見た。


「行ってこい。昨日のうちに、ほぼ準備が済んでおる。わし一人でどうとでもなる」


 はて、俺に何の用があるのか。男の外見から判断すると、どうも総督府の役人らしいが……

 おとなしくついていくと、昔懐かしの更衣室に連れていかれた。


「着替えて」

「はい?」

「聞いてない? 閣下の家僕が足りなくて困ってる。最初の面会の時に立ってるだけでいいから。終わったら着替えて、またすぐ厨房に戻ってくれていい」

「えっと、その」

「早く!」


 なんと、なし崩しにとはいえ、また接遇担当を割り当てられるとは。

 立場を説明してやめさせてもらおうと一瞬考えたが、どうでもいいかと思い、黙って従うことにした。


 今回、使用されるのは「牡丹」の部屋だ。かつてのピュリス王の謁見の間として用いられた「芍薬」の部屋より格が上とされる場所で、普段は滅多に使われない。勅使を迎えるなど、総督より上の立場の誰かと面会する場合に限って用いられる。

 昨夜のうちに清掃は済んでいた。ピュリス王の時代に建設された部屋は円形であることが多いのだが、牡丹の部屋は新たに作られた施設なので、長方形だ。

 ピュリス周辺の色大理石が枯渇したのか、それともそもそもそんなものは輸入品だったのか。とにかくこの部屋の壁面は白い大理石に覆われている。ただ、それだけではあまりに味気ないので、床に美しい石の細工が施されている。大輪の牡丹が色大理石で描かれているのだ。

 白い壁は、しかし、見ようによっては良質な背景だ。そこに金の額縁が居並び、女神教の神話と伝説、フォレスティア王家の歴史を映し出している。だが、もしピュリス王家に与する立場の人が生き残っていて、この部屋を目にしたなら、きっと冷笑せずにはいられないだろう。この地を征服した王家は、その正統性を強調したいのだ。そのためにも、ピュリス王のための部屋よりもっと立派なものを拵えて、その上に置きたい。それが素材の不足もあって十分にできないから、精一杯の工夫でなんとか室内に色彩感を演出している。

 とはいえ、格式としてはこの部屋が最も上だ。ここにムヴァクは家臣を並べて、ヒジリと副団長に挨拶する。いや、しなければならない。

 なお、勅使を迎えるなど、総督より上の身分の人物の訪問を想定しているため、ここには段差もなければ玉座もない。ただ、南向きの入口と、北側の出口にある衝立があるだけだ。

 東西の壁、絵画のあるところよりずっと高い位置には、風と光を通すための窓がある。天気がいいのもあって、今はそれが開かれている。その下で、俺も目を伏せて立ち並んでいた。


 いきなりこんな外交上の仕事が降ってわいたムヴァクには、同情の念が湧いてくる。彼の身分を思い出すと、とてもではないがこんな役目など、引き受けられるはずもないからだ。

 一応、王室に連なる生まれではあるものの、身分は子爵相当、つまり先々代の王、スイキャスト二世の孫で、それも傍系だ。次代は男爵、以降は爵位が受け継がれない。要するに、実態としては彼はあのクレーヴェ、ナラドン家と変わらない程度か、もっと下の零細宮廷貴族なのだ。領地もないから領民もいない。しかも、代々の家僕すらいない。あのベドゥーバみたいな忠実なメイドも期待できない。なぜなら王家の分枝だから、家に歴史がない。最低限の使用人が少数いるだけで、それも譜代の家臣とは違い、ただの雇われ人でしかない。

 だから、貴族としての体裁を保つための演出は、専らリンガ商会の仕事になる。人を派遣して礼服を着せ、こうして立たせておく。あとはお客様が来た時に恭しくお辞儀をすればいい。たったそれだけの演出に使う人員すら、ムヴァクには調達できない。サフィスでさえ、そんなことでは困らなかったのに。

 そうしたわけで、あれよあれよという間に、俺やビッタラクが動員されて、横一列に整列させられてしまった。これ、いいんだろうか? さすがに彼は、俺まで引っ張りだされたのを見て、目を丸くしていたが。


 やがて衝立の向こうから、ムヴァクが姿を現した。名前だけは知っていたが、間近に見るのはこれが初めてだ。

 見た目は、タンディラールを縦方向に縮めて、横方向に広げたような感じだ。あと、全体的に老け込んでいて、目にも覇気がなく、肌も汚い。それが胸にジャラジャラと勲章をつけて、めいいっぱい着飾っている。無表情を装っているが、忙しなく小刻みに動く指先から、内心では不安なのだろうと読み取れる。


 しばらくの沈黙の後、向かいの扉が開かれた。

 真昼の太陽と青空を背負って現れたのは、まるで地上で羽根を広げる鳳凰のような姿だった。初めて出会った時と同じく、打掛のような上着を羽織っていたが、その丈がずっと長い。しかも絹でできているらしく、光を浴びるとえもいわれぬ輝きを伴う。色合いは前回と同じくすがすがしい青だが、これはもう、彼女の色なのだろうか。とにかく、そんな服を屋外で着て歩けば引き摺ってしまうので、供の女官がそれぞれ左右について、裾を持ち上げている。


 ムヴァクは、その見慣れない服装とヒジリの美貌に、思わず言葉を失って立ち尽くしてしまった。確かに格が違うのはわかるが、せめて心の中で準備しておいた歓迎の言葉くらい、形ばかりでも唱えて欲しいものだ。

 モゴモゴと何か言いかけて、声が出ず、ようやくうろたえだした彼に、ヒジリは優雅に身を折った。


「ムヴァク閣下、心温まる歓迎に、深く感謝致します」


 ああ……

 目元を覆って嘆きたくなる。


 一瞬、視線を感じた。ヒジリは、なぜか家臣の列に俺が混じっているのに気付いたようだ。だが、いちいち指摘することもなく、ろくに言葉を返せないムヴァク相手に会話らしきものを続けている。

 どう思われるだろうか? 気にしても仕方がない。むしろこの出来事を皮肉に笑う余裕もある。ちょっとした悪戯みたいなもの。ムヴァクは俺の顔も知らないのだ。


 けれども、これが俺らしい里帰りなのかもしれない。おかげでエンバイオ家でどんな日々を過ごしていたかを思い出せた気がする。

 ただ、そんな実家暮らしも、明日の朝まで。いよいよ王都に出向いて、旅行中のあれこれを清算しなければならない。

 先を思うと少々憂鬱だが、なるようになる、と俺は肩の力を抜いた。

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