誇りと名誉、規範ゆえに

「おい、リーア、どうしたんだ?」


 ガリナが不思議そうな顔で彼女に尋ねた。だが、リーアには返事をする余裕すらない。

 いち早く立ち直った俺は、振り返ってフィラックに言った。


「知り合い?」


 俺の問いには答えず、彼女から目を逸らさずに、逆に彼は質問を返してきた。いや、彼女に問うたのか。


「リーア? リーア・シーネラ?」


 この問いに、彼女は一歩、前に足を出してつんのめった。しかし、そこで立ち止まると唇を引き絞って、拳を握り締め……不意に背を向けた。


「あっ、おい!」


 なぜ、どうして、理由……

 長考に沈む前に、直感が俺の背中を押した。部屋の出口付近に立っていたガリナ達を突き飛ばしながら、急いで廊下に走り出る。既にリーアの姿はない。だが、階段の上の方から甲高い足音が遠ざかっていくのが聞こえた。

 目的を悟った俺は、全力で階段を駆け上がった。


 四階からの昇り階段の前の扉は、開けっ放しになっていた。ここから先は半屋外だ。下の階層に光を供給するため、五階の会議室にはごく狭い面積しか割り当てられていない。だが、リーアの目的地はそこではあるまい。会議室の上には屋上があり、そこには例のサイレンが置かれているだけ。あとは階段を除く三方向の壁と繋がる清掃用の細い通路がある。普通は真ん中でサイレンを起動するだけだから、屋上の縁にはろくに柵すら設置されていなかった。

 俺が屋上に顔を出すと、案の定、リーアはちょうど向かいの壁側、ピュリス新市街の真ん中の広場に面した縁に立っていた。


「待て! 早まるな!」


 俺がそう叫ぶも空しく、彼女は悲しげな一瞥を向けただけで、勢いよく真下への広場へと身を投げた。


 そしてそのまま下の地面に激突……はしなかった。

 足場から跳躍して宙に浮いたまま、まるで宇宙遊泳でもしているみたいな格好で、リーアは驚いて左右を見比べるばかりだった。そのまま、掴まるものも踏ん張る足場もないままに、屋上の真ん中まで引っ張り戻された。

 いきなりこんなことになるとは。魔法の力を得ておいてよかった。ただ、能力だけあっても、以前の自分なら、こうまでうまくはいかなかっただろう。長い冒険の旅を経て、俺も少しは即応ということができるようになったのかもしれない。


「落ち着いて」

「お願い」


 だが、彼女はもう泣きそうな顔をしていた。


「死なせて」


 普段は冷静で頭もよく、肝も座っているのだが、急に激情に駆られるところがあるのは、やはりサハリアの女といったところか。

 フィラックの顔を見て、いきなり死のうとした。彼がフルネームで呼んだことからもわかるように、知り合いだ。そしてリーアが死ななければいけない理由があるとすれば、心当たりは一つしかない。


 すぐ下から大勢の足音が迫ってくる。


「リーア!」


 フィラックの叫び声に、リーアは肩を震わせた。


「お願い」


 俺は舌打ちしながら、やむなく手をかざした。それきり、リーアは意識を手放して、屋上の石畳の上に転がった。


「フィラック! 彼女は無事だ!」


 声をかけても、気持ちが落ち着かなかったのだろう。ノーラや事務所のみんなを伴って、みんな屋上までやってきた。


「どうした、どうなったんだ」

「落ち着いて。眠らせただけだ。二階の個室に運ぶから」


 俺の視線を受けて、エディマが頷いた。


「任せて。ちゃんと面倒を見るから」

「ありがとう」


 さっきまでの祝賀ムードが一発で吹き飛んでしまった。


「いったい何がどうしてこんなことになったのです?」

「説明する」


 意識のないリーアを背負いながら、俺は答えた。


 事務所を空にするわけにはいかないので、カトゥグ女史とビッタラクが居残り、それに眠ったままのリーアを見張る役のエディマと、あとはいざという時の実力行使のためにノーラを残して、あとは全員、急遽押さえたファルスホテルの一室に集まった。


「今から七年くらい前のことだ」


 今は取り壊されて跡形もなくなった悪臭タワー。そこに数人の娼婦が転がされていた。表向きは最底辺の肉体労働者のための気晴らしとして。実質は密輸商人どもの拠点で、その隠れ蓑にされていただけだったのだが。

 海賊討伐で久々に手を血で染めた俺が、良心の呵責に苛まれて、衝動的に助けたのが彼女だった。


「つうわけでよ」


 途中から説明を引き受けたガリナが、ベッドに腰かけて俯いたままのフィラックに一切を語った。


「ディーとフィルシャ以外は三年前には足を洗ったし、残りも去年、客を取るのをやめたんだ。今は普通の商売しかしてねぇよ」


 とはいえ、俺に引き取られてからも、三年間はみんな、娼婦の仕事をしていたことになる。

 サハリア人の価値観は、フォレス人ほど緩くない。いや、フォレス人にとっても売春婦は賤業だ。それでも、嫁不足に悩む寒村が奴隷落ちした女性を買い取って、妻の代わりにすることはままある。ガリナが三年前にこの仕事をやめた件を強調したのは、その文脈だ。リーアの腹には、他の男の子種など宿っていない。

 だが、サハリア人に限ってはまずそんな真似はしない。自分以外の男性に肌を許した女が妻になる。常識的に考えて、そこがとにかく受け入れがたい。


 俯いたまま、フィラックは小刻みに震えながら、声を絞り出した。


「死んだと、思っていた」


 冷たい汗が滴り落ちる。その声色から、彼がリーアの生存を単に喜んでいるのではないのは、明らかだった。

 恐らく、ムスタムの親族からは、単にその死を告げられたのだろう。親族がそうした判断をしたのも不思議はない。フィラックが策略にかかって海賊の捕虜になってから間もなく、リーアは強引に自分を妻にした首謀者を自らの手で殺害している。フィラックがミルークによって救われたのは二十歳の時点だから、リーアが奴隷になって四年の月日が経過していたのだ。最低最悪の犯罪奴隷として使い捨てて死なせる前提で売り飛ばされて、事実、奴隷落ちから一年程度、俺に発見された時点でもう死にかけていた。


「ファルスが拾ってくれなきゃ、あたしら生きちゃいねぇよ」

「俺が顔を出さなければ」

「何言ってんだ」


 フィラックの論理もわかる。

 仮に彼が俺と同行せずにピュリスにも来なければ、リーアの生存を知ることもなかった。そして、フィラックに知られない限りにおいて、リーアは奴隷の身の上であるにせよ、恐らくは温情ある所有者である俺の下で、それなりに幸せな日々を過ごせていたはずだったのだ。

 だが、元婚約者の知るところとなった今、リーアは幸福になってはいけない。サハリア人としての規範意識が、そのように彼女を束縛する。ことに彼が貞操を守って、他の女を側に置いていないのなら、尚更。


「それっておかしくない?」


 一連の事情を聴きとったディーが、顎に手を置いて、やや冷たさを感じさせる声色で言った。


「リーアはあなた、フィラックさんの仇討ちだと思って人を殺して、奴隷になったんでしょ?」

「……そうらしい」

「勝手にやったことだけど、全部あなたのためじゃない。黙ってその、あなたを騙し討ちにした人の奥さんに収まってれば、奴隷に落ちることはなかったんだし。なのにどうしてリーアが自分で自分を責めなきゃいけないのよ」

「そーだな」


 ガリナも引っかかっていた部分が言語化されて、追及に加わった。


「あんたに対しちゃ何も悪いことしてねぇんだし、そのこときっちり伝えれば済むんじゃねぇのか」

「そんな簡単じゃない」

「何が」


 俺は手を広げて遮った。


「やめよう」

「あ?」

「これは、僕らがどうこうできる問題じゃない……フィラック、明後日まではこの部屋を抑えておいたから、ゆっくり休んで欲しい。リーアのほうはちゃんと様子を見ておくから」

「済まない」

「行こう」


 俺はやや強引に、ガリナ達を部屋から引っ張り出した。

 フィラックだってわかってはいる。リーアに対して怒ったり、蔑んだりする気持ちは皆無だろう。むしろ自分の間抜けさのせいで苦しませてしまった。その自責の念は一生消せない。

 だからといって、では彼女の汚れた経歴をなかったことにできるのか? ここは現代日本ではない。この世界では一般に、結婚は個人の自由恋愛の結果ではない。また仮にそのような感情が伴っていたにせよ、それ以上に社会的な意味が優先する。共同体に属し得ない人間には、婚約者たる資格もない。婚姻は心と心の結びつきではなく、家と家との同盟であり、次世代を残すための契約なのだから。

 そして、共同体の外にいる人間とは、つまり人間ではないのだ。東部サハリアの凄惨な戦争を目の当たりにした俺は、そのことを思い知らされている。


 フィラックだって、多分、リーアを許したい。だが、彼女を許すということは、自分も人間をやめるというのに等しい。フィラックの両親が、一族が、決して受け入れない女を受け入れる。その決断は決して軽くない。

 思えばラークにしても、汚れたジルを迎え入れるためにネッキャメルの頭領の地位を捨てたのだ。その社会における人としての資格をどこかで捨てなければ、それまでの結びつきを断念しなければ……自分のルーツを否定しなければ、これはできない決断だった。

 だから、俺を含む外野があれこれ口出しすべきではない。本人がじっくり考えて答えを出す以外にないのだ。


「……で? 大慌てで下拵えさせられていたわしは、この食材をどうすればいいんだ?」

「申し訳ありません」


 厨房の入口で、俺とビッタラクは肩を落とすばかりだった。


 俺達が帰ってきた。となればお帰りなさいの宴会が始まるに決まっている。というわけで、ガリナが予想した通り、女達から押し出されたビッタラクが気を利かせて、一足先にセーン料理長に報告を入れに走っていたのだ。幸い、店に予約は入っていなかったので、急遽貸し切りとした。特別な食材は仕入れていないが、いつも客に出すものを使って、料理長はご馳走の準備を始めた。

 ところが、直後にこの事件だ。とてもではないが、みんなでテーブルを囲んで楽しく、なんてできようもない。それでビッタラクは頭を下げているのだが、ついでに俺も頭を下げていた。


「ふん」


 何につけてもまず料理。それが彼だ。せっかくの出番を潰されてしまったも同然で、虫の居所も悪くなろうというものだ。


「ただ、それならそれで、せめて」

「うん?」

「リーアとフィラックには、おいしいものを届けてほしいと……」

「そんなのは当然だ。だが、このスープを見ろ。十人分以上あるんだぞ」

「はい……」


 悩ましいが、どうしようもない。


「まぁ、祝いの席は、後日にでも」

「もう、すぐには無理だ。そうだな、ビッタラク?」

「あ、はい」


 冷や汗をかきながら、彼は上擦った声で説明した。


「実は先程、ワノノマの船団の方々からご連絡をいただきまして、その、あと数日もすれば特使がこちらにいらっしゃる予定とのことで」


 ヒジリのことだ。


「御一行は王都を目指されるとのことですが、ここピュリスでもムヴァク閣下が官邸でおもてなしなさるということになりそうで、はい、それに備えてしばらくこちらでは予約の受付を停止して、臨時休業もできる状態で待機しないといけなくなりまして」

「そういうことだ。で、ファルス、それはそうと、旅に出て、何か得たものはあったか」

「えっと、はい、まぁ」


 料理関連で言えば、一応、獲得できたものはある。コーヒー豆だ。あれのよさ、セーンならきっと理解してくれるはずだ。

 そういえば、ワングは俺の代理人として、ちゃんと仕事してくれているだろうか?


「遠方からの来客をもてなす大仕事だ。明日にでも厨房に入って、手伝ってもらうぞ」

「えっ……いえ、そうさせていただきます」


 俺は逆らわずに頭を下げた。言葉こそ高圧的だが、これでなんだかんだ頼りにしてくれているのだ。

 それにしても、俺の婚約者……俺と結婚することを報告する目的もあってこの国に顔を出すヒジリ、その彼女をもてなす宴会の準備の下働きを、俺がやるのか……


 レストランを出ると、エディマとモライカが待っていた。


「よう、元気だったか」


 事情を聞き知っているのか、モライカは力のない微笑を浮かべつつ、形ばかりの挨拶をした。


「運に恵まれました。まだうちで働いてくれていたんですね。ありがとうございます」

「よせよ」


 肩に乗せた棒をトントンとさせながら、彼女は首を振った。


「なんだかやる気がなくなっただけだ。いや、身の程を知ったっつうかな」

「と言いますと」


 エディマが割って入った。


「えっと、先に案内しても」

「あ、うん」


 さっき、リーアの見張りを頼んだはずだったが……

 察して、彼女は口を開いた。


「リーアが目を覚ました時に、ノーラが代わって欲しいって」

「そういうことか」


 つまり、ノーラは次を考えていた。とりあえず休ませよう、時間を置いて落ち着かせようと誰もが考えているところで、彼女だけは、リーアに何を与えるべきかを思案していたのだ。

 道理を考える彼女らしい判断だ。理屈抜きに休息を与えるのも重要だが、考え方を動かす材料がなければ、それもしばしば無駄になる。手札が変わらなければ、何度考えても結論は変わらない。

 ノーラは旅の道中でフィラックがどんな様子だったかを間近で見ていたのだ。死別したはずのリーアのために生涯未婚を貫くつもりだったことも聞いている。特に私見を交えることなく、それを淡々と語って聞かせようと、そういう腹積もりなのではないか。


「それで、どこへ?」

「まだ会えてない人達がいるから、私が案内しないと」


 そうだった。ペルジャラナンやディエドラ、それにマルトゥラターレ。こちらまで送ったはずだが、彼らはどうなっただろうか?

 それに、ジョイスが残してきたサディスも、ここには顔を出していない。明日から料理長にこき使われるのなら、今のうちに酒場の親父さんのところにも挨拶しにいきたい。


 あとは……


「ああ、そういえば」

「うん?」

「リンさん、この街のセリパス教会をやめたんだって」

「えっ!」


 一人、また一人と知った顔がいなくなっていく。

 少し寂しい。

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