第四十三章 衣錦還郷

帰郷

 見上げると、北の空は淡い色に染まっていた。荘厳さを感じさせる紺碧の空とは違う。遠くに薄っすらと霞みがかったような、実に春らしい青空だった。


 やや濁った紺色の海面に、白い波頭が立つ。頬を打つような風も、甲板の上に立っているとあまり感じない。それでも目を上に向けると、限界まで背を反らした白い帆が見える。

 すぐ前には、いよいよ大きな湾が口を開けていた。沖に出てきた小舟の上で誰かが旗を振っている。西側の軍港ではなく、東側の波止場に誘導しようとしているのだ。

 見ての通り、向かって正面には船をつけられる場所がない。ひと際盛り上がった岸壁の上、女神神殿の真っ白な壁が陽光を照り返す。その奥には、三年前の大改修で建て直された中心街を囲う壁が見える。これも外から眺める限りにおいては、白無垢だ。


 帰ってきた。

 旅の途中の一時帰還ではない。本当の意味で、すべてを終えて、帰ってきたのだ。


 後ろからゆっくりと足音が近付いてくる。


「やっと帰れるのね」


 ノーラが深く息をつきながら、そう言った。

 彼女も、その横に立つフィラックも、思えばどれほどの危険に身をおいてきたのか。いまだに命があるのが不思議なほどだ。


「ううん……『連れ帰る』ことができた、か」


 どこか翳の残る笑みを浮かべて、彼女はそう呟いた。

 その見返りが、その指に輝く黄金色の指輪でしかないとすれば、あまりにけち臭い。とはいえ、ティズが悪いのではないのだが。


 ここピュリスに向かう前に、ハリジョンに寄港した。残念ながらティズは所用で自らラージュドゥハーニーに向かうことになったそうで、留守居役のタジュニドがいただけだったのだが、彼は伝言を預かっていた。俺の旅に最後まで付き添ったことを条件に正騎士の身分を承認する、というのがそれだ。こうして彼女は、俺と同じく正式な騎士と認められた。

 なお、俺と同行することを選んだフィラックとタウルにも同様に、銀の指輪を与えて騎士の身分とすべしと定めてあったのだが、タウルは既にポロルカ王国でその身分を得ていたし、その後、世を去っている。そしてフィラックはというと、ここでも指輪の授与を固辞してしまった。

 わかっている。彼には俺が報いなくてはいけない。


「フィラックは、ピュリスに来たことは?」


 彼はゆっくりと首を振った。


「実はないんだ。すぐ向かいの街で暮らしていたんだけどな」


 それも無理はない。成人して間もなく海賊の捕虜になり、四年間を奴隷同然に過ごして、以後はミルークの郎党になっていたのだ。十代前半から徐々に仕事の見習いはさせられていたはずだが、本格的な船乗りの仕事を任せられていたとは考えにくい。


「散々世界中を渡り歩いたのに、すぐご近所のことも知らないって思うと、なんだか変な気分だ」

「いい街だよ」


 本当に、いい街だった。ただ、今はどうなっているか、わからない。俺の計画を元にノーラと総督府が改造を加えてから四年。しかも、ここ三年は俺達が不在だったのだ。その間、商会の管理は、ティズが派遣してくれた……確か、帝都出身のビッタラクという男が引き受けていたはずだ。一度顔を見たきりだった。みんなとうまくやってくれているといいのだが。


 これから俺はどうなるのだろうか。


 どうなるかではない、どうしたいかだ。それは道理だが、今回に限っては通用しない。既にどうしたいかをやり切った末に、今がある。行動の結果としての責任を引き受けるべき段階なのだ。

 四年前、俺は自由だった。エンバイオ家に身請け代金をすべて支払い、騎士の身分を得て、それこそなんでもできる、どこにでも行ける立場だった。表面上は今もそうなのだが、実質は違う。

 特に決定的だったのは、ポロルカ王国での戦いだった。他の実績はまだ、ごまかしがきかないほどのものではなかった。人形の迷宮の踏破もキースの功績で済んだ。大森林も縦断しただけで、実際には監督官にも死なれているし、計画された本来の探索そのものは失敗している。だが、あのパッシャとの戦いを通して、ドゥサラ王に叙爵されそうになった件は、ある程度の情報通には、既にそれなりには広く知られてしまっているはずだ。だからこそ、ワノノマもそれを口実に、俺の監視役として、ヒジリを押し付けてきた。


 もし、今からワガママを言っていいのなら、俺は街の片隅でひっそりと焼き鳥屋を営んで日々を過ごしたい。おいしいタレを開発して、街のみんなに食べてもらう。細々と稼ぎ、目立たず生きる。ただの市井の人として暮らしたい。

 だが、そう考えると、俺の周囲に纏わりついたさまざまなモノが邪魔になる。今も街を支配しているだろうリンガ商会はいいとしても……では、まさか焼き鳥屋の三階に、一国の王女様を住まわせるのか? その状況をタンディラールが黙認するとは思えない。


 そう、タンディラールだ。

 彼が俺を放置するはずがない。スーディアの一件を片付けることを条件に海外に出したはいいが、その後の大暴れで、ひどいことになってしまった。特に東部サハリアが。どんな意趣返しをされるのだろう?


 だんだんと女神神殿の真下の岸壁が目前に迫ってくる。そこで船首は右を向いた。

 あの波止場が近づいてくる。思い出がたくさんある場所だ。ディンに書類を届けたこと。倉庫に篭って薬の調合もした。お嬢様のハンカチを見つけたのもあそこだった。ムスタムからの帰途、暴風雨の後で海賊に襲撃されて、なんとか帰り着いた時には、どんなにほっとさせられたか。

 未来のことを考えると気が重いのに、それと同じくらい、目の前の場所に染みついた過去が、俺の心を力強く握りしめてきた。


 それから、荷物を取り出して馬車に乗った。ここまで俺達を送り届けたワノノマの船乗り達は、しばらくピュリスに滞在して、間もなく追いついてくるヒジリの船を待つという。だから、ここからは別行動だ。

 とりあえず自宅に戻った。当然ながら無人で、しかも鍵がかかっていて入れない。この家の鍵は、ブラックタワーのノーラの執務室に保管されたままらしい。とはいえ、魔術の力を借りれば、解錠くらいは何の苦もなくできた。

 だが、金属の重い扉が軋みをあげながら開くと、中からは冷たい、死んだ臭いのする空気が吹き寄せてきた。まるで生活感がない。

 元々はノーラとジョイスとサディスの三人暮らしだったのだが、そこから二人が抜けた。あのサディスに自活能力があるとは思えないので、多分、別の家に引き取られているのだろう。エディマあたりが面倒を見てくれているのではないか。

 一階の店舗部分は閉鎖されたまま。それはいいとして、二階に行くと、やっぱり誰も暮らしていないのがはっきりした。食堂の方にもカーテンがかかっていたし、釜も洗い場もきれいにされていた。居間も、あのシュライ風の敷物が巻かれて部屋の隅に纏められていて、板間が剥き出しになっていた。三階の個室を見ると、ベッドはそのままだったが、そこに寝具がなかった。


「やっぱり事務所に行った方がいいと思うわ。宿の手配をしてもらった方が」

「そうみたいだ」


 地下室の財宝も以前のままのようだし、ここは本当に変化がない。また外に出て、鍵をかけ直した。


 およそ三十分後、薄暗いブラックタワーの三階の事務室には、人だかりができていた。

 身を乗り出す女達の真ん中で、その本来大柄な体を縮めて俺に笑顔を向けているのがビッタラクだ。


「ええと、長旅、お疲れ様でした」

「いえ、留守にしていた間、本当にありがとうございます」


 彼の笑顔、どちらかというと卑屈というか、何か恐れのようなものが入り混じっていて、気持ちいいものではない。割と肉付きが良く、がっしりとした体型をしているのに、変に背中を丸めて縮こまっている。


「変わりはありませんでしたか」

「しょ、商売の方は可もなく不可もなく……いや、あの、ファルス様、こう言ってはなんですが」

「はい」

「ひたすら忙しいだけで、こんなのは誰がやっても儲かるお仕事かと」


 それもそうだ。総督とは癒着しているし、市内の商店からは地代を徴収している。おまけにキトから大量の資金が融通される。その状態で屋台骨が揺らぐ方がおかしい。


「では、苦労というほどでもなかったのですね。ならよかったです」

「あ、いや、これがなかなか」

「何か問題でも」

「いえ、一度、ポロルカ王国の方で叙爵されたとかされないとか……ファルス様が外国の貴族になったのではないかということで、総督府を通して王室からも問い合わせがあったりとか」


 冷や汗を浮かべながら、ビッタラクは続けた。


「あとは、税金問題ですかね。キトからの収入は先方で課税済みだからこちらでは無税ということなんですが、その辺でまぁ、ゴタゴタがありまして」

「それは大変でしたね。重ね重ねお礼を申し上げたいと思います」

「あ、いえいえ、それで、まぁ、今すぐファルス様にご利用いただけるお金がこれだけあります……だいたい二百万ほどですが、なので、後程、こちら報告書に目を通していただければと」


 封筒を手渡すと、途端に彼は周囲を取り囲む女達に排除された。一応は、事務方の責任者の彼が報告を終えるのを待っていたということでもあるが……どうやら相当に肩身の狭い思いをしてきたらしい。

 俺達が戻ってきたのだし、彼には休暇の一つでも与えてあげなくてはいけないかもしれない。


「わぁーいっ!」


 用件が済んだとみるや、エディマが俺に飛びついてきた。以前と変わらないその巨乳を押し付けながら、俺の肩に頬擦りする。


「おっきくなったねー、なんかもう男の顔って感じ!」


 俺達の帰還の第一報を受け取ったのは彼女ではなく、カトゥグ女史だ。それから各種報告を受けているうちに、みんなが少しずつ戻ってきつつある。エディマは後の方だったので、じっと我慢していたのだ。


「いくつになったんだ? もう十四か」

「つい一昨日が四月六日なので、そうなるけど」

「一昨日かよ。お誕生日会とはいかねぇか」


 ガリナも相変わらずらしい。こうやって気安く話してくれる昔馴染みがいる。幸せなことだ。


「リーアは?」

「あー、あいつは今、外回りだな。もうちょいしたら戻ってくるし、あれだ、今、オッサンが声かけにいったんじゃねぇか? そうすっと下で料理長の飯食う頃には戻ってくると思うぞ」

「あの、ちょっといいですか」


 後ろの方から、オルヴィータが遠慮がちに顔を出した。


「ファルスが戻ってきたと聞いたのです」

「おぉ? いるぞここに」

「久しぶり」


 人垣の向こうにいる彼女に目を向けると、オルヴィータは目を丸くした。それからまた、バタバタと走り出して、立ち去ってしまった。


「なんだ? ありゃ」


 けれどもすぐにまた駆け戻ってきた。手には一通の手紙がある。


「これ、アドラットさんから届いたのです」


 宛先は俺ではなく、オルヴィータだった。既に開封済みでもある。


「読んでも?」

「いいのです」


 それで取り出して広げてみた。


『オルヴィータへ


 ピュリスでの暮らしはいかがだろうか。

 恐らく、多忙ながらも満ち足りた日々を過ごしているものと思う。

 リンガ商会の方々はどなたも気持ちがよく、面倒見のいい人達だった。


 フォレスティアに留まることができたあなたには、まだまだ明るい未来が広がっている。

 ここに至るまで、苦しみや悲しみがあったにせよ、今、あなたがいる場所というのは大変に好ましいものだと言っておかねばならない。

 充分な教育を受け、貴族と懇意にしている大都市の大商会で働くことができている。

 これは田舎に生まれ育った子供達のほとんどにとって、手の届かない身分なのだ。


 今、この手紙は帝都で書いている。

 こちらも上辺はピュリスに勝るとも劣らない素晴らしさだ。

 だが、光が輝かしいだけ、影もまた色濃い。


 タマリアのその後について、伝えておこう。

 もしファルス君がピュリスに戻ることがあったら、この手紙を見せてあげて欲しい。


 タマリアは移民の身分で滞在許可を得た。

 近頃はこれも簡単ではないのだが、若い女性ということも有利に働いたものと思われる。


 だが、大変残念なことに、彼女ほど教育を受けていても、帝都では実入りのいい仕事に就くことができない。

 一つにはハンファン語に不慣れなことが不利になったのだろう。

 最初、経験を活かして商会の事務員として働く先を探したが、帝都で通用する経歴もなく、うまくいかなかった。

 また、移民労働者であるため、公的支援の対象からも外れている。


 本人が希望するなら、東方大陸のバンダラガフまで連れて行き、そこで神仙の山の関係者が管理する商会の一員として働くという選択肢もあったのだが、タマリアは自活を選んだ。

 娼婦には戻らないと言っていたから、恐らく、彼女は厳しく報われない仕事で糊口をしのぐことになるだろう。

 ただ、そのことを本人は悲観していなかった。


 最低限、住居の世話まではした。

 だが、彼女の今後の収入を考えると、帝都の南部の、あまり好ましいとはいえない場所を用意するのが精一杯だった。

 つまり、不潔で、狭苦しく、これからやってくる冬場には、隙間風が滑り込んでくる。

 周囲の住民もみな貧しく、治安もよくはない地域だ。


 以下、住所を記しておく。

 もし帝都に行くことがあったら、できれば訪ねてあげて欲しい。

 彼女は自立を望んだが、孤独までは欲していないだろうから。


 ただ、明るく逞しいタマリアのことだ。

 きっと自力でそれも乗り越えるだろうとも思ってはいる。


 私とルークは、この後、神仙の山に向かう。

 そこでルークは神通力の克服に取り組む予定だ。

 彼に真なる騎士たる資格があるかどうかを、これから確かめることになる。


 最後に、リンガ商会の方々に改めてお礼を。

 私の気持ちを改めて伝えて欲しい。


 それでは、あなたがたと私達の頭上に女神の祝福のあらんことを。


 九九六年 黄玉の月

 アドラット・サーグン』


 この後、二人が山に辿り着き、一年ほどの修行を経て、下山したところまでは俺も知っていた。ただ、この手紙のおかげでタマリアの住所がはっきりしたのはよかった。

 俺は手紙を返しながら言った。


「この後、帝都に留学することになったら、訪ねてみる」


 だが、オルヴィータは浮かない顔だった。


「その住所、だいたいは知っているのです」

「ああ、そういえば、あっちに住んでいたこともあったんだっけ」


 主人だったダヒアの小間使いとして帝都で過ごしたのだから、今、ここにいる人間の中では、ビッタラクを除けば最も帝都に詳しい。その彼女が顔を曇らせていた。


「帝都の南の方は、移民のシュライ人とかが集まって暮らしていて、危ない場所だと言われているのです。そんなところに一人でいるなんて、心配なのです」

「といっても、二年半も前のことだ。今から慌てても何も変わらない」


 多分、あと一年しないうちに俺は帝都に留学しなければならなくなる。顔を見に行くのは、それからでも遅くはないだろう。

 その時、階下から足音が響いてきた。


「あっ、リーア」


 ディーが振り向いて言った。


「ファルスが帰ってきたよ!」

「本当!?」


 薄暗い通路の向こうから乱れた足音が響いてきて、それが入口のところで止まった。

 久しぶりに見た、彼女の笑顔。だが、それがいきなり硬直した。笑みが消え、驚きと……何か恐れに似た何かに塗り換えられていく。


「リーア?」


 彼女の視線は俺ではなく、その後ろに向けられていた。

 振り返ると、フィラックもまた、口を開けたまま、立ち尽くしていた。

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