黄昏

 海岸沿いに生える松の木。その枝から突き出る鋭い葉先は夕暮れ時の日差しに黒ずんで、潮風に揺れる。

 繰り返し砂浜に打ち寄せる波の音。どこか遠くに聞こえた。砕けては引けていくその営みが滞ることはない。

 西の空には、うっすらと雲がかかっている。灰色に濁った空気の向こう、焼けた鉄のような色をした夕陽が、今、まさに水平線の彼方に没しようとしていた。

 頬をかすめていく微風はあくまで優しい。触れていることがわからないほど、そっと撫でる風。それとわかると、慌てて手を放すのだ。


 沈みゆく太陽に、世界のすべてが赤く燃え上がっていた。黒々とした海面さえ、橙色の火を宿していた。

 そんな中、砂浜に一人、俺はしゃがみ込んでいた。


 この、西の海の向こうに、俺がこれまで旅してきた世界のすべてがある。そして、俺が背にする東の海には……何もない。ワノノマ群島の東に広がるのは、広大な海。陸地らしい陸地は存在しないという。そこをなお東に向かえば、やがて黒い龍神が滅んだ場所、ムーアンの汚染の中心に行き着く。そこから先は、海と沼地の区別のつかない混沌の地が続き、やがて神聖教国の西の山脈に辿り着く。

 だからこれ以上、俺はどこにも行けない。


 四年に渡る旅だった。最初は毎日足にまめができた。歩いては潰れ、潰れては歩き、野宿を繰り返した。野生動物が、魔物が現れては俺をつけ狙った。

 飢え、渇き、凍えた。灼けつく日差しに降りしきる雨。視界を覆う砂塵に、果てのない泥濘の道。

 いつも苦しかった。いつも恐ろしかった。怒り狂うこともあれば、悲しみに我を忘れることもあった。


 そのすべてが、終わった。


 あれから四年。だが、もう四年も経ったのか。

 ピュリスの北門を通り抜けたあの日を思い出す。イフロースは元気にしているだろうか。今もトヴィーティアにいるのだろうか。お嬢様やナギアは、あれからどうしているだろう。


 モゥハと話していた時、俺はまた怒りに我を失いそうになっていたと思う。こんな何の役に立たない世界をなぜ創造したのかと、俺はそう訴えた。

 悲劇は偏在する。俺が目にした数々の不幸もその一つでしかない。もちろん、他の人もそうなのだから我慢すべきなどとは言わないし、言いたくもない。誰もが悲しみや苦しみから逃れるために足掻くのだ。

 では、生きることは苦しみなのか? いや、苦しみでしかないのか?


 だが……

 沈みゆく夕陽は、それに彩られた世界は、なお美しかった。


 今の俺の心には、あの夕陽の彼方の景色が映っている。


 スッケの、あの開放的な家々にも、同じ夕陽が差しているのか。チュエンの運河にも、あの心地よい夕暮れ時が訪れようとしているのか。オムノドの商店街はまだ、明るいはずだ。

 もうしばらくすれば、きっとカークの街にも日没の刻が訪れる。目に浮かぶようだ。訓練を終えたジョイスが汗を拭う。今日もワン・ケンはあの黒いカンフースーツを着て、弟子達の鍛錬を見守っている。

 ポロルカ王国は、ラージュドゥハーニーは今、どうなっただろうか。パッシャの手によって焼き払われた市街地は再建されただろうか。まだ日没には早い時間だから、きっと街の人々は運河で沐浴を楽しんでいる頃だろう。

 大森林はどうだろう? シャルトゥノーマは無事、アンギン村に帰りつくことができただろうか? あの高台から北方を見下ろした時の眺めの良さを思い出す。ケカチャワンの濁流と灰色の沼地、その手前からまた続く緑の森……

 そうそう、キトも美しい街だった。きっとまだ真昼間だ。あの段々になった特徴的な街並みを思い出す。

 ジャンヌゥボンも、本当はもっと魅力的な街だったと思う。あの純白の街並みを、今度は平和な時に、散策してみたい。ティズはきっと今日も忙しくしているのだろう。ハリジョンにいるのか、それともアーズン城か、はたまた天幕か……ラークとジルは、ブスタンで幸せに暮らせているだろうか?

 逆にドゥミェコンはもう、人が住んでいないだろう。もしかしたら、二度と行けない場所になってしまったかもしれない。あれはあれで、何から何までハリボテのような街だったけど、今にして思えば、だからこそどこかワクワクさせられる魅力があった気がする。

 レジャヤは午前中かもしれない。マリータ王女は、今もペン先で人を刺すのだろうか? さすがにその悪癖は治っていると思いたい。多分そろそろ、帝都での留学が始まるはずだから。

 ロイエ市から見えるムーアンの沼の畔は、きっとあの時とほとんど違いがないだろう。相変わらず、沼地のハンター達がお宝と安全地帯を探し求めて、日々を過ごしているに違いない。

 アヴァディリクはどうなっただろうか。ドーミル教皇は、神聖教国をよく治めているだろうか。カディムやヘルは、今も無事だろうか。それとソフィアは……今も頑張っている気がする。

 高齢だったが、あのミール王は元気だろうか。少し前にまた、聖女の降臨祭があったはずだ。あの時みたいに、今年も体を張って市民の笑いを誘ったりしたんじゃないかと思う。ギルやアイク、それにガイ、ノーゼン……タリフ・オリムも、思い出深い街になった。

 旅慣れない俺に、最初に優しくしてくれたのはテンタクだ。今にして思い返すと、彼は驚くべき人物だった。あの時も、これほどまでに清らかな魂の持ち主はいないと感じたが、四年の冒険を経て、俺は今なお彼に遠く及ばない。


 数えきれないほどの人々の顔、顔、顔……

 そしてさまざまな街並みが、聳える山々が、果てのない大海が、どこまでも続く草原が、森と沼地が……

 俺は世界から自分を切り離そうとして旅に出たのに、気付けばこんなにも根深く繋がってしまっていた。


 やはり、そうだ。

 なんと美しいのだろう。いや、美しいなどという言葉では、言い表せない。

 これが無意味な、役に立たない世界のありようだろうか?


 モゥハは、死もまた祝福といった。俺には、それがわからない。

 けれども……


 ここまで歩いて、見て、触れてきた。

 俺は、知っている。


 たとえ俺がこの世界にとっての災厄でしかなくても、俺はこの世界の一部で、この世界は俺の中に結びつけられた、切り離せない何かだ。

 それに対して湧き上がる、この感情は……なんと名付ければよいのだろう?


 俺は、立ち上がった。

 もうすぐ日が沈む。


 明日にも船が出る。行き先はワネ島で、そこでしばらく待たされることになるそうだが、大船に乗り換える。そこからチュエンに寄港し、スッケを経由して、南方大陸の北岸を迂回しながら、ハリジョンに向かう。そこからジャリマコン、ムスタムに寄りながら、最後に北上して、ピュリスに帰る。

 乗り込むのは、船員を別にすれば、俺とノーラとフィラックの三人だけだ。ただ、それとは別に、婚約者としてのヒジリをピュリスに向けて送り出す船を仕立てるそうだ。合わせてワノノマからフォレスティア王に挨拶を伝えるという段取りになっているらしい。多分、十四歳の誕生日を迎える頃に、俺は王都でタンディラールに旅の終わりを報告することになるだろう。


 西の空を眺め渡す。

 黒い煙のようになった雲に、真っ赤な夕陽が霞んでいる。焼けるような色をした空はもうほんの一部で、そのすぐ上は、目にする人をほっとさせるような温かみのある紫色に染まっている。


 どんなお伽話にも、お決まりの筋書きがある。神の力を得た英雄が大望を胸に旅に出る。だが、悲劇が彼の心を真っ黒に塗り潰してしまうと、今度は苦しみを終わらせるべく、英雄は永遠を求めて世界の果てを目指す。でも、その願いは、いつも叶わない。どんな世界にもありそうな、そんなありふれた物語。

 凡人に過ぎないはずの俺だったが、神の力だけは授かってしまった。そして数多の伝説の英雄達と同じように、俺もまた、死を克服できなかった。だが、それは失敗なのか? 挫折なのか? それとも……むしろそれこそが辿り着くべき場所だったのか?


 何一つ解決できなかった。

 でも、なぜか、それでいいような気がしている。目の前の海のように、心の中は穏やかそのものだった。頬を撫でる微風が、打ち寄せる波の音が、そのまま胸の裡に入り込んでくる。いまや俺を追い立てようとするものは、何もない。手も足も、自由に動かせる。


 ああ、俺は今、祈っているのだ。

 けれども、願いは空っぽのまま。


 これでいい。

 あるがままの世界よ、願わくば、あるがままでありますように。


 そして、明日には何を見せてくれるのだろう?


 誰も足を踏み入れたことのない砂浜のような未来へ。

 そこに足跡を刻みながら、いつかどこかに辿り着くのだ。

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