第四十二章 地の果て、海の彼方

はじまりの島へ

 こんもりとした、緑の森。僅かな砂浜以外、すべて木々に覆われている。そんな小さな丸い島が視界に映って、また流れ去る。波も風も穏やかな中を、船は音もなく滑るように抜けていく。

 甲板に立って、俺は移り変わる景色を眺めていた。空はこの上なく青く、白い雲が僅かに浮かぶばかり。舷側から見下ろす海の色もまた青かった。ただ、そこまで透明感はない。潮の流れのせいなのか、水を掻き分ける船の傍からも、ほとんど泡が立つこともなかった。こんな静かな航海は始めてだ。


 ワノノマ本土を構成する群島。その狭間を抜けて、今、俺達はワノノマ最大のワネ島……の東側にある、ヌニュメ島を目指している。

 この島に立ち入ったことのある人は、決して多くない。かつてワノノマの人々は、龍神モゥハとともに、このヌニュメ島に暮らしていたという。それが時代が下るにつれて周辺の島に移住し、開拓していったという。今、群島の経済の中心はワネ島であり、人口のほとんどもそこに集中している。ではヌニュメ島はというと、ごく一部の人々だけが暮らす聖域になってしまった。

 その一部の人々とは、オオキミとその一族、そして彼らに直接仕える者達だ。その他の人間も、ヌニュメ島に渡る機会がないわけではない。島々を収める首長達も、オオキミの命令に従って、統治状況の報告のために定期的にやってくる。ごく稀に外国からの使者も訪れる。だが、一般人が理由もなく立ち入ることは許されていない。


 今日にも到着する見込みだという。俺には、逃げ隠れするつもりがない。姫巫女と会見したい、モゥハと話したいという無茶な要求が通ったのは、クル・カディからの報告があったからだろう。だから俺は調べられるし、正体を知られれば、然るべき処分が下される。だからこの世の見納めのつもりで、せめて外の空気を吸いながら景色を眺めていたのだが……

 さすがにきりがない。もういいだろうと思って、俺は船室の方へと引き返した。


 明るい外から戻ってみると、目が慣れない。暗い中、とある部屋の前に武人が一人、棒を手に立っている。


「お疲れさまです」


 そっと声をかけたのだが、彼は途端に苦々しげな顔を浮かべた。


「おぉっ、王子様ァ! 出ぁーしてくれー!」

「また始まった」


 悪いことをしてしまった。彼は棒を放り出すと、両手で自分の耳を塞いでしまった。

 ワノノマの武人は、厳しく育てられる。軟弱になっては戦えない。そしてつい最近まで、その戦いこそが食い扶持を得る手段だったのだ。だから、腑抜けになるような情報は与えない。それだけでなく、そもそも拒否するように仕向けられる。

 具体的には、女だ。色香に迷うなど言語道断。女もいざとなれば予備戦力として戦うことが期待されるのが武人の家ではあるが、やはり基本的には、男は男らしく、だ。よって身内以外の女とは余計な口を利かないし、色恋沙汰なんてのも、もってのほかだ。

 だから、耐性がない。扉の向こうから聞こえてくる卑猥な言葉の数々に、彼は打ちのめされていた。


「あっちに着く前に、早くブチ抜いてくれよォ! ここ、個室だし誰も見てねぇぜ! 今、オレがどんな格好してるか、教えてやろうか? 蒸し暑いから上着なんざ脱いじまったし、下も」

「それ以上いらない」


 溜息一つで、俺は背を向けた。


 昼下がりになってから、船は入り江に停泊した。島の方から連絡用の小舟が出されたので、俺達はそれに乗せてもらって、砂浜に降り立った。

 砂地の部分を踏み越え、丈の低い草の生える辺りまで進んで、案内を待った。海岸のすぐ傍にまで森が広がっていて、その奥に向かって薄暗い道が一筋あるきりだ。人の手は入っているが、それも最小限。幽玄な、どことなく人を拒むような……自然の木々は美しくまた温かみもあるものながら、人の気配があまりに遠くなると、途端に自然ゆえの冷淡さが顔を出すのだが……まさにそのような、静寂を強いる圧力のようなものさえ感じた。

 迎えに出てきた島の役人も、まるで人間味を感じさせなかった。直立不動、だが一切力みがない。半眼を開いているだけで、そののっぺりした顔には何の色もない。簡素な茶色の上着と下穿き、それにサンダルのようなものを履いている。唯一特徴的なのが髪の毛で、その長い髪を折り畳むようにして耳の後ろの両側で結わえている。


「ようこそおいでくださいました」


 抑揚のない声で、彼はそう言った。声色だけでは、男か女かもわからないほど、平坦で中性的だったが。


「先触れにより、ご到着のあることは承知しておりました。宿舎を用意してございます。ご案内させていただきます」

「あの」

「なにか」


 微妙な圧力を感じたが、俺は思い切って尋ねた。


「私の目的は、伝わっているでしょうか」

「存じ上げております。まず、オオキミがファルス様との会見を望んでおられます。その後のことは、オオキミがお決めになるものとお考え下さい」

「はい」

「本日は、旅の疲れを癒していただけますよう、ささやかながら宴席を設けさせていただきました。ごゆるりとお過ごしください」


 それから俺達は、彼の後について、森の中の道を進んだ。

 三十分くらい歩くと、急に視界が開けた。そこにあったのは、意外にも集落だった。昔ながらの暮らしを守っているのだろうか? 緑濃い森に囲まれた起伏ある土地に、茅葺の家々が点々としていた。また右手には、半月のように丸く切り取られた砂浜があった。


「こちらも海に面しているのですね」

「ええ」


 なんだ、じゃあこっちに船をつければよかったのに。


「考えていることはわかりますが、あの浜に船を寄せるのは許されておりません」

「そうなんですか。どんな理由があるのでしょうか」

「あそこはブルダの浜と呼ばれています。オオキミと姫巫女の考えですが、何代も前から、無闇に立ち入るのはよくないとされています」


 説明になっていない。ではなぜオオキミが立ち入りを禁じるのか。だが、そこまで言うつもりがないのだろう。


「少し浜辺を散歩するくらいなら特に咎めませんが、間違っても水遊びなど、なさらないように」

「はい」

「ファルス様と、お連れ様の宿舎は別々にするようにとの指示を受けております」


 とはいえ、そう遠い場所でもなかった。

 集落の入口近い辺りにフィラックとノーラの宿舎として、それぞれ小さな小屋を割り当てた。こちらの家は、高床式というのがしっくりくるのだが、太い木の柱によって地面より高い位置に床がある。二人に割り当てられた宿舎を見ると、南向きの表玄関の他、裏側にも同じく階段がある。また、裏側は一部、石造りになっているようだ。装飾らしいものはほとんどなく、ほぼログハウスと呼んで差し支えないデザインだった。


「日没の頃に、係りの者が呼びに参ります。お二人はそれぞれ、こちらでお寛ぎください」


 ノーラもフィラックも何も言わず、目を見合わせた。分断される、ということに自然と危機感を抱いているのだろう。だが、この島はモゥハのお膝元だ。ワノノマのやり方が気に入らなくとも、逆らえるはずもない。

 二人がそれぞれ宿舎に落ち着いたのを見届けてから、彼は俺を案内した。少し離れた場所、森に近い奥まった場所にある一つの小屋が、俺の宿舎だった。


「ファルス様の宿舎はこちらとなります」

「はい」

「まだお時間もございますので、ゆっくりお休みいただけます。では後程、係りの者が呼びに参りますので」


 今更不安に思うこともない。俺は大人しく背を向け、階段に足をかけた。

 南向きの戸を引き開け、中に立ち入る。まったく簡素だった。右側に窓があり、左側に長椅子兼収納の木箱がある。その上に編まれたクッションらしきものも二つ置かれているが、まったく柔らかそうではない。その手前に、これまた簡単なテーブルがある。さして奥行きもないその向こうに簾がかかっていた。向こう側に行くと段差があり、その上は畳敷きになっていた。寝具らしきものも畳まれて置かれている。靴を脱ぎ、そこで大の字になって寝転んだ。

 我ながら、よくもここまで来たものだ。世界の果てから果てまで。でも、その旅もやっと終わる……


 感慨に耽っていると、ふと耳に小さな水音が聞こえた。

 そう、この畳の間の向こうにも戸がある。では、この音は、そのまた向こうから聞こえてきている?


 起き上がって戸を開けると、右手に小さな戸があり、足下には草履が用意されていた。土間の向こうは屋外のようだが……

 まず右手の戸を開けると、便所だとすぐわかった。閉じてから、まっすぐ外に出る。

 北側の出口から一歩踏み出したところで、俺は叫び声をあげていた。


 なんと、小さな木の屋根の下にあったのは、露天風呂だった。しかも、四角い湯船の檜風呂で、外から湯が注がれている。ということは、これは温泉だ。

 これはもう、グズグズしている場合ではない。神仙の山以来の温泉だ。ゆっくりお休みいただけます、か。つまり、湯に浸かって疲れを癒しておけ、と。いや、このチョイスは素晴らしい。俺は急いで取って返して、背負い袋の中から替えの下着とタオルを引っ張り出すと、小走りになって戻って、服を脱ぎ捨てると、勢いよく湯船に飛び込んだ。


 空が赤紫色から藍色のグラデーションに覆われる頃、小屋の前に控えめな足音が聞こえた。

 迎えに来たのは二人の女性だった。片方が正式な使者で、もう一人がその補助という立場なのだろう。俺に声をかけてきた方は、桜のような色の上着に紺色の裳という華やかな服装で、項が見えるくらい髪の毛を高く結い上げ、大きな櫛で固定していた。対するに、下働きの女の方は、単に髪を後ろに束ねただけで、上着と裳の色も、冴えない黄土色だった。彼女が松明を捧げ持っていた。

 二人の女性に前後を挟まれた状態で、暗くなり始めた道を歩いた。集落の奥へと進むと、一軒の幅広の建物があった。その前にはいくつもの篝火が並べられている。


「お履物をここで」


 例によって、この幅広の建物も高床式なのだが、中に立ち入る階段の途中に踊り場があり、そこに段差がある。そこを越える前に靴を脱ぐということになっているらしい。案内はそこまでで、俺は一人で中に踏み込んだ。


「おっ」

「よかった」


 ガランとした宴会場には、三人分の席だけが、少し離れて設けられていた。これまた柔らかさを期待できない丸い座布団もどきと小さな座卓が三つ。それがコの字型に置いてあるのだが、到底会話しながら飲食するという位置関係ではない。第一、俺達の分の席しかない。

 歓迎の宴とはいったが、はて……普通、そういうのは相手方の代表者とか責任者とかその代理人とか、そういう人と飲食を共にすることをいうのではなかろうか?


 少しして、表から小さな足音が聞こえてきた。高坏を捧げ持った下女達が列をなしてやってきたのだ。彼女らは次々と俺達の目の前にご馳走を並べていく。まず半球状に盛り上げた白米。塩味と鶏の旨味だけで拵えた野菜スープ。漬物。それからナッツ類が盛られたのもある。果物も多い。ぽんかんのようなもの、苺、それにこちらの世界では初めて見たのだが、柿もある。

 席と席の距離が開くわけだ。一品ずつ、床に高坏で直置きされるので、周囲のスペースが埋まってしまうのだ。豪勢な食事というのは品数が多いこと、という昔の人みたいなセンスでこういう食卓を構築しているのだろう。

 俺達が座ったまま、動こうとしないのを見て、差配をしている女官らしい人がワノノマ語で言った。


「細かな作法などはございません。召し上がっていただいて結構です」


 なんだか落ち着かないが、そういうものなのだろう。それで俺は二人にそのことを伝えた。

 間もなく下女達も運び込むものがなくなったので去っていき、俺達は薄暗い中で少しずつ食べ始めた。


「……変わってるわね」


 相変わらず、ずっと元気のないノーラがポツリと言った。

 俺もそう思う。食事の品数だけ見れば、確かにこれは宴会だ。でも、相手方の人はいないし、わざわざ宿舎は分けるのに食事は一緒とか、何をしたいんだろう? それぞれの宿舎に現実的に食べきれる量の食べ物を運べば済む気がするのだが。

 だが、その辺の違和感は、間もなく解消された。ちょうど食べ終わる頃、外から足音が聞こえてきた。この重さ、大きさからして、下女達ではない。


「お食事中のところ、失礼致しますぞ」


 それなりの身分の人らしく、その男性はフォレス語で挨拶した。やはり長い髪の毛を耳の後ろで結い上げているスタイルだ。黒く豊かな髭が、鼻の下に生えている。がっしりとした体格の中年男性だ。


「私、テリ・ウィテと申します。オオキミの侍従を務める者」


 俺は慌てて立ち上がろうとしたが、ウィテは身振りで押しとどめた。


「ファルス様は来賓でございます。パッシャを相手に勇敢に戦ったことは、オオキミもご存じです」


 ほぼ食事が済んだところと確かめて、彼は合図した。すぐ後ろにいた下女達がきびきびと動き出し、酒壺を手にしたのが部屋の中にやってきた。


「明日にもオオキミとの対面が叶いますが、今日はささやかながら酒宴をと」

「お気遣いありがとうございます」

「いえいえ。ただ、酒を飲むだけでは味気がございませんので、楽人と踊り子をご用意させていただきましたぞ」


 彼の言葉通り、部屋の外から太鼓を首から吊り下げたり、笛を手にした男が入ってきて、壁際に並んでしゃがんだ。その後から、鮮やかな赤や緑の裳を身に着けた美しい女達が何人も雪崩れ込んできた。


「始めよ」


 ウィテの命令に従って楽人が演奏を始めると、踊り子達も身を翻して舞い始めた。


「こうでもしなければ酒が進みませんからな」


 そういって彼は酒壺を手にして、俺の酒杯に注ごうとして、やめた。


「これはしたり、そうではございませんな。それ、そなた、酌をせよ」


 後ろに控えていた下女が無言で進み出て、俺の酒杯に酒を注いだ。それで、ちらっと顔を見たのだが、びっくりするほどの美人だった。しかも所作が美しい。どうして上品に見えたのかと考えて、姿勢がよく、背筋が通っているからだと気付いた。王家に仕える下女なのだから、厳しく仕込まれたのだろうか。しかし、これは只者では……

 だが、俺の思考は中断された。


「それにしても、ファルス様は各地を巡られて、いろんな冒険をなさったとか。ぜひそれがしに武勇伝の一つでもお聞かせ願いたいものですな」


 自慢話などしたくもない。何を話せばいいか、数秒考えて、話題を捻りだした。


「ワノノマの武人の皆様には大いに助けられたものです。スーディアでも、ポロルカ王国でも」

「さようでしたか」

「魔物討伐隊の方々の勇ましさを知ったのは」


 そこまで話したとき、急に背中に悪寒が走るような気がした。


「いかがなさいましたか」

「……いえ」


 俺は表情を取り繕った。

 だが、今、誰かが俺のことを見ていた。漫然とではない。限りなく敵意に近い……強烈な警戒心をもって、俺を観察していた。でも、誰が?

 急いで視線を周囲に這わせる。だが、視界に映るのはノーラとフィラック、壁際の楽人と、真ん中でぐるぐる回ってばかりの踊り子達、それと大勢の下女。食べ終わった食器を下げたり、新しい酒壺を持ち込んだりと、休みなく立ち働いている。

 結局、誰が俺を観察していたのか、わからなかった。今更になってピアシング・ハンドで下女達を見比べたが、それらしいのもいなかった。


 それから一時間も経たず、宴会はお開きになった。そっけないというか、あっさりとしているというか。

 ぶっ通しで何時間も飲むなんてしないらしい。翌日、オオキミとの会見がある以上、泥酔させるわけにもいかないのだろう。


 そうして俺達は宿舎に引き返し、その夜は眠った。

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