不本意ながら、猟狗烹らる
あくる日の朝。空にはうっすらと雲がかかっている。夜が明けて間もないのもあって、その雲は複雑な色をなしている。白、影になる部分は灰色で、直接に陽光を浴びているところは橙色に染まっていた。
遠くで海鳥が鳴き、静かな波が浜に打ち寄せる。風は冷たくも穏やかで、空気は澄み切っていた。
本来なら、気持ちのいい朝になるはずだった。できることなら今からでも、ただの早朝の散歩に過ぎないのだと、そう思い込んでしまいたい。だが、広場の真ん中に据えられた処刑台が、それを許さない。
急ごしらえの処刑台は、実に単純な構造をしていた。太い柱が四つ。その上に板を張っただけ。右側に一応、階段が設けられている。その下には、罪人がたった一人、跪かされている。着せられているのは襤褸一枚。もともと体が大きいのに、恰幅がいいのもあって、本人は項垂れているのに、よく日焼けした腹が上着の下からはみ出ている。
時間が早いのもあって、見物人は多くない。それでも、ここから左手、あのスッケの東西を結ぶ道路の上には、大勢の立ち見客が並んでいた。
「言い残しておきたいことはないか」
たった一日でひどく老け込んでしまったオウイが、足下のゲリーノに向かってそう呼びかける。
のっそりと顔をあげた彼は、最初、放心したかのような表情を浮かべていたが、徐々にその顔に怒りが浮かんできた。
「貴様のせいだ」
謀反を起こしておいて、この言いざまとは。だが、一応の道理ならあったらしい。
「ほう」
「三十人からの武人が俺についたのは、なぜだと思う? 貴様が日々の糧を断ったからだ。ああでもせねば、食ってはいけぬ」
オウイは頷いた。
「確かに、魔物討伐隊を縮小するとは言った。だが、その理由をお前は承知していたはずだ」
「ふん」
「人形の迷宮も既になく、パッシャの活動もここ一年、どこからも報告されておらん。魔境は世界の各地にあるが、そのすべてをワノノマが切り拓くのは行き過ぎじゃ。だから帝都も、我らへの支援を細らせた」
スポンサーが降りてしまったのでは、当主としても活動継続など、望むべくもなかったのだ。といって、彼ら居留地のワノノマ人は……いや、本土の人々も含め、大半は決して裕福とは言えない。ハンファン人の主権を侵害しないよう、海沿いの限られた狭い土地に留まって生きる彼らにとっては、社会の外から引っ張ることのできる支援金は、この上なく重要だった。
だからこそ、彼らは武人になった。また、武人として勇猛になることもできた。自然な道理だ。裏付けもなしに勇ましい人物など、ただの気違いではないか。
魔境の征服は、世界統一以来の悲願だった。パッシャの覆滅もまた、そうだった。
だが、世界が平和に近付くほどに、まさに平和をもたらすための武勇に価値がなくなっていく。勇敢な武人は、次第にただの狂人に成り果てる。
あえて俺のせいとは言うまい。確かに、俺がこの世界に降り立ったことが、これらの成果を招くきっかけにはなった。だが、俺がいなくても、人々はなお魔境に挑み、またパッシャと戦っただろう。そして戦えば犠牲が出る。武人達だけでなく、一般の人々も巻き添えになる。といって戦わなければ、世界はこうした悪の手によって蝕まれていく。
「多少の不自由はさせようとも、家臣達を見捨てるつもりはなかったというのに」
「信じられるものか」
「その言葉、そっくりそのまま返すぞ」
「なに?」
ゲリーノが眉を吊り上げた。オウイは厳しい口調で言い放つ。
「お前が支援金の中抜きをしていたことを、わしが知らんとでも思ったのか」
「なっ!?」
「お前の配下の隊を解散して、ヤレルだけを残したのには、それなりの理由がある。といって、大事にはしたくなかった。表立って罪には問わず穏便に済ませようと思っておったというのに、この馬鹿者が」
そこまで知られていたとは思っていなかったのだろう。彼は愕然として、また俯いてしまった。
「だが」
オウイの視線が、すぐ近くに立っていたアーノに向けられた。
「ああまでせねばならなかったのか」
「何をおっしゃいますか」
アーノは笑みさえ浮かべていた。
「木刀での試合でさえ、手を抜けば大怪我するもの。まして真剣勝負で手加減など、できるものではありますまい」
「お前の腕なら、そうでもなかったはずじゃ」
「だとしても、なぜそうせねばならんのです」
オウイは溜息をついて首を振った。
「この馬鹿者は別として、他の者どもは、本当に先行きが見えず、不安だったのだ。なんとかわしがうまく暮らしていける道筋を立ててやれれば、まだなんとかなったはずのものを」
「そうは思いませぬ」
だが、そうした当主の感傷を、アーノは切って捨てた。
「仮にも代々ヒシタギ家の家臣として、長年仕えてきたはずの者達が、他所の者でもない者達が……たかが食っていけないというだけの理由で刃を向けたのですよ」
「たかがということもあるまい」
「いいえ、たかがです。不満があるなら、ザンのように自ら暇を願い出て、刀だけを手に遠くへ行けばよい。それこそムーアン大沼沢でも、どこでも」
そう、戦う力があれば、生きられはする。死ぬかもしれないが。これまでより貧しくなるかもしれないが。異郷の地で苦労するかもしれないが。
「それをせず寝返った時点で、奴らはただの恩知らず、恵まれた身分に恋々とするだけの、武人と呼ぶに相応しくない輩でした」
「もうよい」
オウイは話を打ち切った。
「過ぎたことじゃ」
それから彼は振り返って、傍らに侍立するザンに声をかけた。
「ザンよ」
「はっ」
「先日は、たまたまお主が傍におらねば、わしはとうに討たれておった」
感謝の言葉に、ザンは目を伏せた。
「本日より、正式に蟄居を解く。また、務めを果たしてはもらえぬか」
「仰せのままに」
オウイは頷いた。
「ファルス殿」
「はい」
「さして報いもない立場であろうに、よくぞ助太刀してくださった」
俺は頭を下げた。
「わしにできるのは、ただ一筆添えておくことのみ。さりながら、オオキミや姫巫女がどう受け止めるかは、約束できぬ」
「これ以上ないお力添えです。感謝致します」
オウイは、やけにグズグズしていた。それもわからなくはない。
本当はいやなのだ。謀反を起こしたとはいえ、身内を処断するのが。これは、彼が甘いからではない。
そうではなく、責任感ゆえなのだ。事態をここまで悪化させてしまったのは、自分の仕置きがまずかったから。他人の心など知り得ない。それでも、ここスッケで起きることのすべては、自分のせいなのだ。
だが、これ以上はもう、引き伸ばせない。
この早朝を処刑の時間としたのも、恐らくはゲリーノのことを思いやってのことだ。この時間なら、見物にやってくる人の数もそう多くはない。一応、重罪人だから、こうして公の場でことを済ませないわけにはいかないが、せめてなるべく辱めずに死なせてやりたいのだろう。
「では……アーノよ」
「お任せください」
彼が顎で示すと、二人の武人がゲリーノの脇に取りついた。ついにその時が来たのだと悟って、彼は息を呑んだ。
「ま、待て!」
その顔には、久しく目にすることのなかった、だが人として当然の感情が浮かんでいた。恐怖だ。
「やめろ、やめてくれ!」
逞しい体と武の心得があるからといって、覚悟があるとは限らない。むしろその反対のこともある。その手の人は、頑丈な肉体で脆弱な精神を覆って、やっと人並みの暮らしをしているのだ。
ゲリーノは両脇を抱えられながら、必死にもがいた。だが、後ろ手に縛られている上に、足にも縄がかけてあり、小股で歩くしかできず、踏ん張れない。両側からやすやすと抱えあげられてしまうと、もう抗うことができなくなった。
アーノが先に階段に足をかけ、言葉にならない呻き声をあげるゲリーノを、二人が引っ張り上げていく。更にその後ろに、処刑の手伝いのために、もう一人の男がついていった。
最後の男から書状を手渡されたアーノは、それを大きな声で読み上げた。
「罪状。右の者、ヒシタギ・ゲリーノは、当主オウイへの謀反を企み、家臣達を扇動してことに及んだ。これにより、武人女中など、合わせて十余人が命を落とすに至った。それゆえ、死罪に処す」
観衆から小さな騒ぎが起こった。これはまた大きな騒動があったものだ、と。
それを目にしたゲリーノは、既に額に汗を浮かべていた。瞬間、獣のような勢いでとにかく飛び出そうとして、左右から張られた縄に引かれて、動きを止めた。
こうなるのは仕方がない。彼もまた、我欲のために他人の命を奪ってきたのだから。
けれども、俺は見物人のようにはなれなかった。死は恐ろしい。ゲリーノが今感じている恐怖と絶望が、容易に想像できる。戦いの中の死でなく、死を予定してこれを押し付けることの、なんと残酷なことか。
「ウォ、ウォッ!」
彼は大きな声で吠えた。そしてもう一度、身震いした。
諦めても助かるわけではない。もがいても無駄なのだが、なおも彼は暴れ出そうとした。処刑台の下からまた四人ほど武人が駆けあがると、ゲリーノの背中に飛びついて、肩と頭を抑え込んで動きを封じた。六人がかりとあっては、さすがにこれ以上、身動きなどできようもない。
「これでは首を斬れぬ。左右に分かれて縄を引け」
アーノがそう命じると、彼らはその通りにした。体重をかけた体を低くし、ゲリーノが立ち上がれないようにした。
だが、なおも抵抗しようとするゲリーノが首を縮め、また小刻みに動くのをやめないので、進み出て髪の毛を掴み、無理やり首を伸ばした。
いよいよ助からない。そう感じて恐怖が限界に達したのだろう。
突然、聞きなれない音が処刑台の近くに小さく響いた。続いてほのかに異臭が混じった。
彼は白目を剥いていた。涎を垂らしながら何事かを呟いているが、意味のある言葉としては聞き取れない。
顔をしかめたアーノだが、すぐまたいつもの余裕ある表情に戻ると、彼はゲリーノに話しかけた。
「叔父上」
もはや水でもかぶったかのように汗だくになった彼が、首を少しだけまわして後ろを向いた。
「行いこそ無道ではあったものの、力で望みのものを掴み取ろうとするその在り方は、まさしく武人そのものでしたな」
言葉の意味が分かっているのか、いないのか。もはや彼は恐慌状態に陥っていた。
「恥じることはござらん。よう頑張られた。土壇場での些細な粗相には、この際、目を瞑りましょうぞ」
「ヒギッ」
「天晴でござった!」
その言葉と同時に、アーノは鋭く刀を振り抜いた。
それこそ芽吹いたばかりの青葉を割くより簡単に、その太い首は断ち切られ、処刑台の上に転がった。遅れてその巨体がゆっくりと突っ伏し、上半身が横向きになったところで、思い出したかのように赤黒い血をどっと吐き出した。
なんといったらいいか、わからない。
けれども、何かうまく言葉にできない何かが忍び寄ってきているような気がした。それは、俺がこれまで目にし、また自ら手を染めてきた残虐とは、どこか違った性質のものだった。
「ファルス殿」
隣にいたザンが、力の抜けた低い声で言った。
「魔物討伐隊の役目は、終わり申した」
「……はい」
「わしは、だが、思うのだが」
処刑台のゲリーノの遺体を一瞥して、彼はまた、顔を背けた。
「平和というのもまた、一つの戦ではなかろうか」
問いかけを残すと、彼は俺の傍から去っていった。
アーノが処刑台から降りるのと入れ違いに、何人かが駆けあがり、用意されていた樽型の棺桶の中にゲリーノの遺体を詰め込み始めた。
その喧騒を背にして、俺は城に引き返すため、ゆっくりと歩き出した。
幸いにして、ゲリーノの謀反によっても、連絡船は大きな損傷を受けずに済んだ。
この処刑の翌日、俺達は、ついにワノノマ本土に向けて出発した。
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