船出の前に
窓から吹き込む風に、生ぬるさを感じた。それだけのことに苛立ちを感じる。
今朝、俺達は数日間留まったスッケから、本土に向けて出港する予定になっている。だから朝一番に荷造りを済ませて、この一室で出発の連絡を待っている。ところが、一向に動きがない。そうこうするうち、日も高くなってきた。
東の海を見渡す限りでは、別に波が荒れているのでもなく、風が強すぎるのでもない。何か船に不具合でもあったのだろうか? 延期なら延期でいいのだが、ただ待たされるのは落ち着かない。
船荷の積み込みが済んでいないのでもなさそうだ。見下ろしてみると、大きなジャンク船は昨夕見たのと同じく、湾内にでかでかと鎮座したまま。今は出入りする人もいないので、準備は完了しているように思われる。
もしかすると、オウイの都合がつかなくなっているのかもしれない。見送りの宴はないにしても、せめて出航の際には顔を出さずには済まないだろう。もしそうなら仕方ない。最高責任者が決裁を求められる状況では、当主は替えが利かないものだから。
「あれっ」
俺達の部屋の掃除をしにきた女中が、居残っている俺達を見て驚き、立ち止まった。
「あの」
「は、はい」
「どうなっているんですか? 今日出発と聞いているのですが」
「すっ、済みません、ただいま」
「あ、いえ、落ち着いてください」
彼女が取り乱しそうだったので、そう言って安心させ、送り出した。
すぐ近くにいたのだろう、間もなくヒメノが俺達の部屋に駆けこんできた。
「も、申し訳ございません、ファルス様、立て込んでおりまして」
「どうなさったんですか」
「今朝になって、ザン・ゾウルード様が登城することになりまして、オウイの都合が急に変わってしまったのです」
近々暇をと話していたが、このタイミングとは。
フィラックが俺のリュックを手に取った。
「なら、俺は先に下で待ってるよ。ちゃんと見送りの挨拶を受ける必要があるのは、ファルスだけだろう」
「そうね」
「悪い。じゃあ、船の中に荷物を運んでおいてもらっていいか」
「ああ」
二人が部屋を出ていくと、ヒメノは重ねて頭を下げた。
「本当に申し訳ございません、不手際で」
「とんでもありません。何日も泊めていただいておいて、少し出発の時に当主が忙しいくらいで、不手際も何もないですよ」
と、そこで会話が途切れると、彼女の生来の内気さが顔を出した。何を話したらいいかわからない。
「あ、あの。私、では、少し様子を見てまいります」
「はい」
引き留める理由もないので、そのまま立ち去らせた。
それから畳の上に座って、床を撫でていた。あちらに渡っても畳があるだろうか。封印されるなり殺されるなりするのは覚悟しているが、最後に畳と白米と、贅沢を言ってよければ、檜風呂も堪能したいものだ……そこまで考えて、さすがに図々しいと一人で苦笑した。
さて、最後の船出、と窓の外に目を向けた時、轟音が下から聞こえてきた。
まさか、と思って身を起こし、窓の下を眺めやると、俺達が乗る予定のジャンク船の向きが変わっている。船体の前半分が斜めになって湾の出口を塞いでいる。しかも、あの微妙に反射しているのは、氷? こんな暖かい地方の海に流氷なんかないから、あれは魔術だ。
誰かの攻撃と察して、俺は即座に身を翻して部屋から飛び出した。
残念ながら、この城の内部構造を知り尽くしてはいない。いつも通る廊下と、外に降りるための階段のルートを一つ知っているだけだ。そして、防衛施設としての必要性から、内部の通路が複雑なものになっていることは承知していた。
離れたところから大きな足音が聞こえる。これは、大勢が階段を駆け上がっているのだ。いったい何があった?
そう遠くないところ、上の階から短い悲鳴が聞こえた。女の声だ。続いて短い断末魔の呻き声が……
剣は預けたままだが、幸い魔道具のネックレスはつけたままだ。声のした方へと、俺は走り出した。
薄暗い木の階段を駆け上がったすぐのところ、左側に四角い窓がいくつも空いているその廊下に辿り着いた時、まず見えたのは二人の武人の背中だった。いずれも胴丸を身に着け、抜刀している。二人の足下には、中年の女中が、まるで捌かれたフグのように横たわっていた。
その奥では、突き飛ばされでもしたのか、尻餅をついたヒメノの姿があった。
「何をしている!」
恐らく二人が女中を斬り、ヒメノを襲っている。だが、念のため、そう問い質した。
「い、いけません! お逃げください!」
即座に振り返った武人の一人が、刀を振り下ろしてくる。狭い廊下、すぐ横は下り階段で足場もない。
だが、突然の激痛に彼の軸足が揺らいだ。ぶれたその太刀筋を見切って刀の腹を手の甲で払いのけると、そのまま彼の喉仏に拳を打ち込み、次いで真上に顎を打ち抜いた。それだけで朦朧となった彼は、さっき俺が昇ってきた階段へと転がり落ちていく。
もう一人も、即座に突きかかろうとしたが、先に俺が左手をかざすと、何もないところで仰け反った。風の拳で体勢を崩した彼に、更に力魔術で過剰な重力をかけていく。途端に膝をつき、苦しげに顔を歪めた。
「何者だ。どうしてこの城を襲う」
返事はなかった。
もう一度手をかざすと、彼は意識を手放して眠り込んだ。
「い、今、何を」
「それより、この連中は」
俺の問いに、ヒメノは数秒、硬直していた。だが、やっと我に返ったらしい。
「武人達、です。家臣の」
「謀反か」
となれば、彼らの狙いはオウイだろう。だが、少し引っかかる。ヒシタギ家はオオキミの臣下にあたる。たとえオウイを殺してこの城を奪ったところで、ワノノマ本国の承認がなければ、地位の継承など許されない。なんなら本国とか他の居留地からの兵が殺到するんじゃないか。
いや、その前に、この謀反の目的は……
「隠れていてください」
「えっ」
「そこの部屋でいいです」
「そんな、すぐ見つかってしまいます」
「大丈夫です、魔法で隠しますから、いいですか、くれぐれも外に出ないように。私はオウイ様を助けに行きます」
何のために先を急ぐかを承知して、さすがにヒメノも武人の家の娘なだけあり、これ以上、余計な手間を取らせることはなかった。すぐ脇の部屋に隠れさせ、その上で『人払い』の術をかけた。それから、手近な階段を駆け上がった。
居場所ならわかる。俺と最初に対面した上層階の一間。なぜなら、お暇を取らせて欲しいと頼み込むザンがここまで来ているはずだから。
いや、待てよ?
だからか?
上階に辿り着くと、早速、血を流して倒れ込む武人の姿が目に付いた。一人、二人……だが、奥の間に人の気配を感じる。丸腰のままなのは不安だが、刀は今、自在に扱える状態ではない。
着いた。襖を乱暴に引き開けた。
パン、と板が打ち付け合う音がした。すぐ張り詰めた沈黙が場を圧する。
甲冑姿のゲリーノが、金棒を手にしたまま、こちらを一瞥した。この狭い部屋には、他に三人の武人がいる。一方、掛け軸を背にしているのはたった二人。オウイとザンだった。
「……チッ」
不敵な笑みを浮かべたままのゲリーノが、俺を見下ろした。
「余計なガキをもう一匹、始末しなきゃならんか」
「ファルス殿」
オウイは刀を構えたまま、丸腰のままの俺を見て、顔を歪めた。一方、ザンは顔色を変えず、やはり身構えている。手にしているのは太刀ではなく、脇差だ。掛け軸のすぐ下にあったもう一振りが、それしかなかったのだろう。
残念ながら、多勢に無勢でもあり、しかも相手は甲冑を身に着けている。既にザンは負傷しているようだ。着物の袖に血の汚れが見て取れる。
当面、大きな危険はないが、後ろをとられているのも気分が良くない……ゲリーノにとっては、そんなところだろうか? 決着を急ぐべく、ザンに話しかけた。
「もう十分だろう、ザン」
「ふざけるでないわ」
「遠い国で魔物を討つべく休まず働いたお前に、蟄居を申し付けたのは誰だ? 俺につけ。そうすればまた、好きなように生きられるぞ」
いやらしい。ゲリーノの誘いの言葉を耳にして、胸糞が悪くなった。
殺されるくらいなら謀反に加担して、報酬を受け取った方がいいのだと。それ自体は道理だ。だが、そもそもそれは、ザンにとって見当違いも甚だしい提案だ。魔物を討つのは恨みゆえだが、その大本には後々の人々が魔物に脅かされない世を作るという大義がある。不義に屈してまで生き延びたのでは、本末転倒だろう。
だが、それ以上に不愉快だったのは、このゲリーノの薄っぺらい口先だけの言いようだった。欲得ずくで悪事に走るだけなら、まだわかる。だが、悪なら悪なりに筋を通せと言いたい。
「断る。わしが死ぬか、そこもとが死ぬかのいずれかよ」
「この石頭め」
「下衆野郎」
俺が割り込むと、ゲリーノはまた振り向いた。
「顔を見るのはたった二度でも、お前の頭の中は透けて見えるぞ、この卑怯者」
「なんだと」
「どのみち、ザンまで殺すつもりなんだろう」
俺がそう指摘すると、彼は顔を歪めた。
「ふん、なるほどな」
オウイはそれと気付いて皮肉に笑った。
「わしに恨みを抱いたザンが乱心。そのザンをお前が討って、晴れてめでたくヒシタギの当主か! いや、めでたい! おめでたい奴じゃ」
「おのれ」
腹のうちを見透かされて、ゲリーノは不機嫌になったが、オウイは首を振った。
「よせよせ、やめておけ。わしを討ち、ムレルを討って城の主になったところで、お前には務まらぬ」
「何をっ」
「お前は城の天辺に住むというのがどういうことか、まるでわかっておらぬ」
オウイは笑っていたが、その笑みはどこか悲しげに見えた。
「ならばこれから悟ればよい。この上は纏めて片付けるのみよ」
ここまでのことをしてしまったのだから、もちろん、それ以外の選択肢などない。正しい判断だ。
但し、余計な時間をかけ過ぎた。
「安心して天幻仙境に赴かれよ、叔父上!」
そう言ってゲリーノは金棒を横ざまに構え……次の瞬間、取り落とした。そのまま膝をついてしまう。その直後に、刀を構えて立っていた他の三人の武人も、糸が切れたようにその場に突っ伏した。
「な、なんだぁ? 急に」
彼とて水魔術くらいは知っている。それでも、詠唱もなしに『四肢麻痺』を三回、『誘眠』を三人に浴びせるなど、理解の外だろう。
「くっ、こっ、このっ、なんで足が……ウッ」
ザンがゲリーノの首に脇差を当てた。
「勝負ありよ。それにしても、わしの登城が一日遅れておったなら、どうなっておったところか」
「ファルス殿、危ういところ、助太刀感謝致す」
「いえ」
オウイはすぐ次のことを考えていた。
「ザン、済まぬがここは任せた。わしは下に急がねばならぬ」
「御意」
「ファルス殿、申し訳ござらぬが」
「お供します」
他にも大勢の武人が、ゲリーノに与して雪崩れ込んできているのだ。彼らを止めなくては、無用な犠牲が更に増える。
だが、俺の居室があった階より下に降りてみると、途端に濃密な血の臭いに満たされていた。薄暗い廊下に踏み場もないほど、胴丸を着けたままの武人が大勢倒れ込んでいる。無論、息があるのはいない。誰も彼も、ものの見事に唐竹割りにされている。
「これは」
「遅かったか」
そうだ。ゲリーノの目的からすれば、オウイを討つだけでは足りない。後継ぎに指名されているムレルを殺さなくては、お鉢が自分にまわってこないのだ。
だが、とすればこの死体の山は……
「アーノ! わしじゃ! 出てこい!」
返事はなかった。だが、これをやれるのが他にいるとも思われない。
とある大部屋の襖を引き開けると、障子の向こうからのうっすらとした光を背に、クガネを手にしたアーノが床几に腰かけているのが見えた。そのすぐ後ろの物陰には、ムレルの姿もあった。
「おぉ、ご無事でしたか、これはこれは」
それから俺に視線を移した。
「ファルス殿が居合わせたのなら、心配など無用だったか」
それからゆらりと立ち上がる。
「アーノよ」
オウイが震える声で言った。
「まずはムレルを守り通したこと、大儀であった」
「なんの」
「じゃが、なぜ」
それ以上は言えなかった。
ゲリーノに加担したとはいえ、彼らもまた、同郷のワノノマの武人だった。それをこうも容赦なく斬り殺してしまうとは。とはいえ、命のやり取りに手加減は禁物。それもわかっている。
「道を外れたのは彼らであって、こちらに何の非もあり申さぬ」
アーノは冷え冷えとした口調でそう言い放った。
「せっかく誉れある武人の家に生まれておきながら、自ら無駄に命を散らせたに過ぎぬ」
その一言には、彼の鬱屈した思いが詰まっていた。
アーノに故郷はない。それでも立場が要求するから、かつての自分をヒシタギの一門として留まらせず本土に送った本家の人間を、守りもする。誰から守る? スッケの民として生まれ育った者達から。かつての彼が望んでも得られなかった生まれを手にしていたはずの者達から。
クガネの血を拭うと鞘に納め、彼は部屋を後にした。
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