貴公子の素顔
ユンイが立ち去ると、そのウェイシェと呼ばれた女性は俺にそっと手招きした。俺が怪訝そうな顔をすると、指を一本、唇の前で立ててから、音をたてないように勝手口の扉を静かに押した。狭い出入口が開くと、右手にすぐ木造の階段が見えた。そちらも薄暗くて狭い。
俺が階段に足をかけると、彼女は木戸を閉じて、俺の後ろから登ってくる。それで仕方なく、俺も足音を殺して上に向かい、踊り場で左を向いてすぐの扉も、静かに引き開けた。
そこはごく狭い生活の場だった。小さな四つの椅子が、これまた貧相な四角いテーブルを中心に置かれている。その真ん中には、蝋燭の火が点されていた。多分、左手にあるのは洗い場とトイレで、正面方向と右手にそれぞれまた引き戸がある。
「こっち」
彼女は俺の手を引いて、右手の部屋に立ち入った。そこは寝室だった。
本当に狭くて、部屋のほとんどが寝台だった。その向こうには、下の通りに面した木窓があったが、彼女はすぐそれを閉じた。そしてさっきの部屋から蝋燭の火を持ち込むと、枕側にある燭台に移した。すぐ戻ってくると、彼女は静かに、相当に気を遣いながら、後ろ手で戸を閉めた。
二人が並んで立てるだけの広さもない。手を伸ばしきらなくても、相手の体に手が届く距離だ。
「あの」
「大丈夫。大丈夫だから。全部任せてくれればいいわ」
そう言いながらも、彼女の顔は憂いで曇ったままだった。それでも彼女は俺の肩に腕を回し、そして体を押し付けて、全身の重みをかけてくる。狭いところでもあったので、立っていられずに寝台の上に座り込んでしまう。
「初めて?」
「ちょ、ちょっと待ってください」
ウェイシェを押しとどめようとして手を伸ばしたら、もろに乳房を鷲掴みにしてしまった。
「あん」
「わっ、ご、ごめんなさい」
「いいのよ」
「いえ、そういうことではなく」
やっぱりそういうことか。俺と寝ろと。ユンイの要求は、それだった。で、ウェイシェは唯々諾々とそれに従った。でも、なぜ?
「どうしてこんなことを?」
「あなたはユンイの仲間でしょ?」
「いいえ、昨日、この街に来たばかりです。何が何だかわからないですよ」
そう告げると、やっと彼女は体を押し付けるのをやめてくれた。
「じゃ、何も知らないの?」
「知らないって、何を?」
「ユンイのこと」
知っているのは、彼が名門の生まれで、クララの作品を盗用した男で、ノーラの父親の可能性が高い、ということくらいだ。
「この街の偉い人だってくらいしか」
「そうなのね。じゃあ、あなたはどうして接待されてるのよ?」
「接待?」
言われて理解したが、確かにそうだ。ユンイの本来の予定であれば、俺は無銭飲食した後で、女を宛がわれていることになる。
「心当たりがありません」
「変ね。この街の人でもないし……じゃあ、お金持ちとか?」
「お金は……はい、まぁ、それなりにはあります。でも、そのことを話した覚えはありません」
なんだか噛み合っていない。そう感じて、俺は尋ねた。
「あの、ウェイシェさん、でいいですか?」
「ええ」
「ウェイシェさんは、どうしてこんなことを?」
すると彼女は溜息をついた。
「他言無用でお願い」
ウェイシェは平凡な町娘だった。元々、一家は南の方の別の街で暮らしていたのだが、八年前、子供のいない親戚が稼業と家を譲りたいということで、一家揃って引っ越してきた。当時十三歳の彼女は、大陸一の大都会に引っ越せるとなって大喜びだった。
それからは仕事の手伝いに読み書き算盤の勉強と、忙しく過ごしていたが、十四歳になってから、路地裏に立つようになった。他の家の娘達と同じように、客引きをするのだ。ところが、彼女は余所者だったこともあり、ユンイのことをよく知らなかった。美しい貴公子がやってきて、話しかけてくれる。舞い上がってしまうのも無理はなかった。
まだ字の読み書きが十分でないと伝えると、彼は自宅に招いてくれた。そこで彼女は夢心地な思いで過ごした。そしてついに、ユンイに身も心も捧げてしまった。
だが、この世界では、帝都を除けば恋愛結婚は一般的ではない。彼女はてっきり、ユンイが自分と結婚してくれるものと思い込んでいたのだが、しばらく逢瀬を楽しんでからは、急に疎遠になっていった。一方、あれよあれよという間に縁談が持ち込まれ、ついにウェイシェは人妻になることが決まってしまった。
彼女は恋人に助けを求めたが……
『君の恋文は証拠として残してある。変に騒ぎ立てないで、粛々と運命を受け入れたまえ』
……要するに、婚前交渉していた事実を言いふらされたくなければ、黙って他人の妻になれ、余計なことは言うなと脅されたのだ。
これっきりで終われば、彼女にとってはつらい思い出ではあるものの、それだけで済んだ。だが、まだまだ続きがあったのだ。
十六で早めの結婚をさせられて、それでも日々を平穏に過ごしていた彼女のところに、またユンイが現れた。もう他人同士なのだからと拒む彼女だったが、脅迫はまだ生きていた。望むと望まざるとにかかわらず肉体を要求され、応じるしかなかった。そして応じれば応じるほど、脅迫の威力は増していく。
完全に落ちたとみて、ユンイは彼女を手駒として使うようになった。
「それで、こういう接待に使われるように?」
「それだけじゃないの」
俯きながら、彼女はこの四年間の苦悩を吐き出した。
ユンイは手下を使って、新参者の情報を常に収集していた。具体的には、見目の良い若い娘が標的だった。ただ、何も考えずに手を出せば、いかに彼といえども責任を問われてしまう。だから、ウェイシェにしたような罠を仕掛ける必要があった。
手順はこうだ。まず初対面で好印象を残し、きっかけを作って距離を詰め、勢いで、なんなら酒の力を借りてでも関係を持つ。その際に、のぼせ上がった女から、恋文その他の証拠となるものを回収する。それで散々遊んで飽きるか、そうでなくても結婚などの話に発展しそうになった場合には、次の段階に進む。
街中にいる手下を使って、その娘の親に働きかけ、縁談を持ち込ませるのだ。余程条件のおかしな話でもなければ、新参者の家が、大勢の古参の住民の持ち込む話を無下にはできない。こうしてユンイの元恋人は、ウェイシェがそうなったように、人妻の身分に追いやられることになる。
最終段階は、今、彼女が述べた通りだ。既婚者になってからも引き続き脅されて関係を結ぶ一方、接待要員としても利用される。そして、新たな犠牲者の情報を収集したり、縁談を飲ませるための圧力をかけたりする。
まるでゾンビ映画だ。
「男の人も同じで……ユンイの手下の男も、ちょっとずつ入れ替わってるの」
「そうなんですか? てっきりみんな腰巾着みたいな連中ばかりだなと」
「昔からの付き合いがある人もいるみたいだけど、例えばあの……会ったかしら? その、若いのに髪の毛が」
「ええ」
「私、あの人の相手をしたわ」
それで理解した。
「男にも、人妻を抱かせて脅しを?」
「そう。秘密を共有してるんだからって。後であの人、謝ってきたわ。他にも、他人の悪口で盛り上がって仲間だって思わせたりとか、そういうのばっかり。だけど、手下を抜けるのも怖いって。だから何かをさせる時にも、ユンイは自分の懐は痛めないの。でも、そんなお金もないと思うわ」
「仮にもチャナ王の末裔で、名家の嫡男でしょう?」
「そんなの、仕事もしないで遊び呆けていたんだから。帝都の留学から帰って間もなくお父様が亡くなったそうよ。聞いたお話でしかないけど、お父様はずっと議席を任されてらして、亡くなる前は議長も務めておいでだったそうだけど、その息子が大陸一の好色家なんて呼ばれるようになるなんてね」
大陸一の好色家、とは随分なあだ名ではないか。
「それから遠くに旅行に出かけて、帰ってからも散財しまくってたみたい。だから今は、屋敷の管理も行き届いていないと思うわ。昔からの使用人も残ってないみたいだし」
悪人は悪人でも、これまで俺が相手取ってきたのと違って、なんとも小悪党だ。
「でも、そんなやりたい放題やってたら、さすがに問題になりませんか」
「多分だけど、偉い人も同じやり方で弱みを握られてるんじゃないかと思うわ。わからないけど」
溜息が出た。寄生虫みたいな奴じゃないか。
「だから、あなたも何か、ユンイが欲しがってるものを持ってるはずなのよ」
「といっても、お金持ちなことは言ってないですし」
「そんなはずないわ。あの人、お金か女の子のこと以外では、何もしないもの。ああ、あとは見栄っ張りだったわね。有名になること、お金持ちになること、女の子と遊ぶこと、おいしいものを食べること、これ以外は何もいらないって言い切ってたもの」
呆れてものも言えない。
「あとは、だらしないのよ、あの人。お酒に酔うと滅茶苦茶になるの。でも、我慢できないから、飲み始めたらそれは酷いものだったわ」
そんな彼が欲しがるもの、それも俺達はただの旅人……俺達?
「もしかして」
「何か思いついた?」
「僕の同行者に、女の子が」
「それだわ!」
狙いはノーラか?
「まだ美人とか言ってないんですが」
「かわいいんでしょう?」
「ええ、まぁ」
「狙われてると思うわ」
となると……
確かに、彼との出会いは偶然ではなかった。元々ユンイは、旅の美少女を発見したら報告がいくようにと街中にネットワークを構築していたのだ。だから到着の翌日に早速捕捉されてしまった。
それだけ? では、使徒なんか関係なかったのか。
「早めに街から出た方がいいのかな」
「ええ、明日にでも。でも、もう手が回ってるかもしれないけど」
「わかりました。じゃあ、僕のことは適当に報告するなりして、ごまかしてください。僕は宿に戻って、明朝一番にこの街を出るよう、仲間に伝えます」
「それは怪しまれるわ。見張られてるかもしれないし」
彼女は少し思案して、言った。
「今夜は仕入れのために、夫と義理の父が家を空けているの。それを知っているからユンイも泊まっていけと言ったのよ。今、表で仕事をしているのは、お手伝いの人だけだから、今夜は私一人。寝床はもう一つあるから、私はそっちで寝るわ。明日の夜明け前にここを出て、すぐ街を出れば間に合うと思う」
どうしようかと思ったが、よく考えたら問題なさそうではあった。
というのも、仮にユンイがノーラのところに乗り込んでも、そこにはフィラックがいる。もちろん、鋼の石頭たるノーラからして難攻不落だ。それを力ずくでどうにかしようとしても、人数が少なければ誘眠の魔法で昏倒させられるだけ。それができないほどの大人数を動員できるとも思えないが、そうなったらなったで『人払い』の魔法があるし、それでも駄目だったら死体の山が築かれる。そこまでの展開になったら、ちょっとまずい気もするが、可能性としては低そうだし、さすがに大勢が暴力で旅の少女を攫おうとする状況であれば、後からいくらでも釈明できる。
夜遅いのもある。俺はウェイシェの提案を受け入れて、この部屋で夜明けを待つことにした。
翌朝、まだ暗いうちに彼女の家を抜け出して、宿へと走って戻った。厄介事には首を突っ込まない方がいい。そう説明して、朝一番に南の水門を超えるつもりだった。
宿に駆け込み、自室に引き返す。ドアをノックすると、早速フィラックが顔を出した。
「ふわぁ……朝帰りか。どうだった? 楽しんできたか?」
そうだった。俺の様子はノーラに逐一伝わっていた。ユンイと夕食を済ませて、それから女の個室に連れ込まれるところまで、ノーラは知っている。だがもちろん、その後の会話も聞いていたはずだ。
「やましいことは何もないんだけど」
「わかってるよ。どうもクッソ面倒な奴っぽいし、さっさと出た方がよさそうだな」
「なら話が早い。ホアとノーラを起こして、すぐこの街を出よう」
更に隣の部屋をノックするも、返事がない。眠り込んでいるのだろうか? 今は急ぐので、あれこれ構っていられない。力魔術で解錠すると、俺は部屋に踏み込んだ。
「うおっ」
フィラックが思わず顔を背けた。ホアの寝相は相当悪いらしく、寝台から転げ落ちている。潰れたカエルみたいな格好で掛布団を組み敷きながら、何やら言葉にならない言葉を呟いている。もちろん、シャツとショーツだけのあられもない格好なのだが、状況ゆえにまるで色気を感じない。
俺は靴を履いたまま、遠慮なくホアの頭を踏んだ。
「起きろ」
「へへぇ、王子様ァ」
「起きろ」
「ぎぇっ」
踵のところでグリッと痛みを与えると、彼女もさすがに目を覚ました。
「起きたな。すぐ出発する。グズグズするな」
「へ? は?」
次はノーラだ。
ところが、彼女もいくらノックしても出てこない。おかしいと思ってドアに手をかけて気付いた。鍵がかかっていない。
踏み込んでみると、荷物だけを残して、ノーラの姿が消えていた。
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