ゴミ処分
初秋の早朝。朝日が城壁の上から顔を出すと、運河の街には朝靄がかかる。白く塗り潰された世界、そこを音もなく水上を滑る船が、櫂を操る船頭の姿が、黒く浮き上がる。ただ、今はその景色の素晴らしさに見とれている余裕がない。
「いいのか、先に出て」
「いい。最悪、僕とノーラはなんとかなる。ギリギリまで南の水門前で待って。でも、まずいと思ったら無断で先に行っていい」
ノーラが行方不明になった。可能性はいくつか考えられる。それこそ最悪の状況から、他愛もない理由まで。ただ、いずれにせよ、この街を急いで出るつもりなのに変わりはない。彼女には悪いが、残されていた荷物も勝手に運んでいる。
「これからどうする」
「心当たりを急いでまわってみようと思う。まずいことになっていなければいいけど」
橋を越え、まだ人の少ない路地を抜けて、俺達はついに南の水門の前に辿り着いた。岸壁の傍には、こんな時間から既に船頭達が待ち構えていた。
「いっそもう街の外に出た方が」
そこまで言いかけたとき、後ろから数人の足音が迫ってくるのに気付いて、鋭く振り返った。
近付いてきたのは、黒いとんがり帽子にゆったりとした白い衣を身に纏った小男と、兵士達だった。あれは役人だろうか。兵士達は鋲を打った革の鎧を着て、槍を手にしていた。
「なんですか」
「ファルス・リンガ殿でお間違えないですか」
「その通りですが、何か」
「では、入市税未払いの件で、身柄を拘束させていただきます」
俺は目を見開いた。
「この騎士の腕輪が見えないんですか! 税は必要ないはずです」
「い、いかにも、あなたは免税されています。しかし、同行者についてはその限りではありません」
だとしても、今更何を? いや、これは奴の手回しかもしれない。
「わかりました。おいくらですか」
「通常なら銀貨一枚ですが」
「支払いが遅れた分の罰金も払います」
「いえ、追徴金はありませんが、その……」
露骨に足止めしようとしている。
「厳重注意ということで、その」
役人も、言いにくそうにしていた。目が泳いでいる。彼も無理やり理由を捻りだそうとしているのだ。
「では、皆さん……いえ、お二方には、少し役所の方まで来ていただいて」
「なんですって」
「ファルス」
フィラックが割って入った。俺の剣幕に、役人はたじろいでいた。だが、脅そうが説得しようが、彼には彼の立場がある。言いつけられた命令には従わなくてはいけない。
「俺達は構わない。それより」
暴れるのは簡単だ。だが、それでは事件になってしまう。
「わかった」
アーシンヴァルの背に積んだ荷物を下ろして、フィラックに抱えさせた。
「すぐ始末をつける。気をつけて」
「大丈夫だ」
俺は、アーシンヴァルに飛び乗ると、二人をおいて来た道を引き返した。
ノーラの不在はどんな原因によるものか。最悪のケースとは、使徒が彼女を誘拐した場合だ。そうなると、多分、俺では追いつく手段がない。もしそうなったとしたら、俺は奴を相手に戦わなくてはいけないが、そもそも相手を見つけられない以上、ノーラをここで見捨ててワノノマに急ぐしかなくなる。
だが、もしかすると案外、もっと簡単な理由によるのかもしれない。これは、俺が無神経だった。
ヌガ村に立ち寄った、高貴な身分のハンファン人。恐らくユンイはノーラの実父だ。
昨夜聞いた話や、年齢などから逆算すると、ユンイは帝都留学後に一度、チュエンまで帰ってきている。だが、父が死去して莫大な財産を受け継いでから三、四年後に、西方への旅に出た。その詳しい理由は、推測するしかない。遊び呆けたせいで財産を使い切ったのか、何かトラブルを起こしたのか、それとも名声が欲しくなって行動を起こしたのか……
ただ、その旅も二年と続かなかった。アヴァディリクでクララを傷物にしてその詩集を手にしてから、またすぐ帰途についている。帰り道ではヌガ村経由ではなく、コラプトを通ってピュリスに向かったはずだ。いくら身分があるとはいえ、強姦事件の犯人である自覚くらいはあっただろうから。
ノーラの立場で考えれば、ユンイの正体をはっきりさせたいのは自然だった。俺がこれ以上、彼と関わろうとしないのは明らかだったから、今のうちにすべてを確かめておきたい。ただ、ではなぜ、俺に相談してから行動しなかったのか?
もう一つ、更に知りたいことがあったから。それは……ユンイがこの俺、ファルスの父親でもあるかどうか、だ。
早朝の、人通りの少ない路地を飛ぶようにして抜け、中央広場に引き返す。ここからは狭い路地ではなく、街の北西部の広い道路を駆け抜ければいい。人を撥ね飛ばさないかひやひやしていたので、少し気が楽になった。
ほとんど指示らしいことをしなくても、アーシンヴァルは察しが良かった。迷うことなく俺達は、塀がどこまでも続く高級住宅街に辿り着いていた。
「そこだ」
俺が指差すと、アーシンヴァルはより一層、力強く駆けた。門をくぐったところで、俺は飛び降りた。
「ここで待っててくれ」
そうして俺は遠慮なく目の前の玄関に手をかけた。鍵がかかっていたが、そんなものは即座に解錠して中に飛び込んだ。
出し惜しみはしない。次は意識探知だ。案の定、二つの意識が廊下の向こう、俺達が以前に通された応接間の更に奥にあるのがわかった。構わずそこまで大股に歩いていき、乱暴に扉を引き開けた。
まるで時間が止まったかのようだった。寝台の上に、ユンイとノーラが並んで座っていた。彼女の手の甲に、彼の手が重ねられていた。まさに今、口説いている最中だったのだろう。だが、突然踏み込んできた俺の姿に、さすがのユンイも驚いて硬直していた。
だが、気を取り直すと、せせら笑い始めた。
「はは、なんだい、いきなり」
「何をしようとしていた」
「何をしようと構わないだろう? 無粋だな。それより昨夜はどうだった?」
他の女と寝ていたくせに、ノーラを取られるとなったら騒ぐのかと。そういう牽制だ。
「ああいうやり口で黙らせてきたんだな」
「女は初めてだったのかい?」
「そんな話はどうでもいい」
俺はユンイを睨みつけた。
「フィラック達を解放しろ」
「何の話かな?」
「とぼけるな。役人を動かしておいて」
肩を竦めると、ユンイはまた余裕たっぷりの態度を取り繕った。
「カッコ悪いと思わない?」
「何が」
「彼女は自分でここまで来たんだ。それを慌てて取り返しにくるなんて、男として自分の価値がないって言ってるのと同じだよ」
俺は彼を睨みつけた。それからノーラに尋ねた。
「こいつとはどこまで、いや……確かめたのか」
「うん」
ノーラは弱々しく頷いた。
「片方は、多分、わかった」
「そうか」
俺はユンイに向き直り、宣言した。
「ノーラは、お前の娘だぞ」
「うん?」
「覚えているか。ヌガ村の城館で、お前はメイドを手篭めにした」
「あー、うん。やったかもね。薄っすら覚えているよ」
「そのメイド……村の農婦が産み落としたのが、ノーラだ」
俺の指摘に、彼はまっすぐ目を向け、また笑い出した。
「で?」
「で、とはなんだ」
「かわいく育ったじゃないか」
これには絶句した。
「むしろ希少価値を感じるね。きれいな女の子は大勢いるけど、自分の娘とはっきりしてるのは、きっとこの娘だけだ」
「この外道……っ!」
自分の娘と聞いて、より性欲を滾らせるとは。瞬間的に怒りを感じたが、すぐ我に返った。どうせ彼には何もできなかったし、できない。今も口説いているつもりだったのだろうが、実のところはノーラに幻惑されて、意識は明瞭ではなかった。俺の割り込みがなければ、夢心地のままだったろう。
「ノーラ、とにかく立ち去ろう」
「うん……」
「どうした?」
だが、彼女は首を振った。
「わからなかったの……」
俯いたまま、頭を抱えてノーラは叫んだ。
「あんまりにもいろんな人に手を出し過ぎてて、この人、ろくに覚えてないのよ!」
俺も口を開けて、呆けてしまった。
ノーラがここに来たのは、もちろんユンイに篭絡されたからではない。今しか確かめる機会がなかったから。自分が本当にユンイの娘なのか、そして、ファルスが自分の弟なのか。
しかし、ノーラの母親に関しては、それなりのトラブルにもなったために、ユンイの記憶にも残っていたのだが、それ以外の女性関係となると、これがもうあまりに数が多すぎて、彼自身、まともに思い出せなくなってしまっていたのだ。それにしても、リンガ村でその時期に誰かと関係を持ったのかどうか、それすら明確にできなかったのか? いや、ユンイが細かな地名を覚えていなくても不思議はないし、ノーラも俺の母親の顔なんか知らない。
「しょうがない。覚えてないのなら、調べようなんかないんだから」
「うん」
「ちょっと待ちなよ」
俺とノーラが何を喋っているのか、魔術で記憶を抜かれているとは思いもしない彼は、まだ痴話喧嘩の続きを演じている。ノーラの腕を掴んで、引き留めようとした。
「そう簡単に返すと思ってる?」
「お前のことなんかどうでもいい」
そして、最後通牒を突きつけた。
「いいから手を放せ。それと、役人に一声かけて、俺の同行者を自由にしろ。でないと、お前を葬り去る」
「はっ、何を言い出すかと思えば……僕を誰だと思ってるんだ」
「ノーラ」
但し、これだけは確認しなければいけない。
「だけど、仮にも父親だ。傷つけたくないというのなら」
「ううん」
その点で、彼女に迷いはなかった。
「でも、ファルスの父さんだったら」
ようやく事情を呑み込み始めたユンイが、一瞬硬直すると、大笑いしだした。
「はっははは! 傑作だ! 息子と娘か! そら、二人とも。親孝行はどうした! 息子なら、娘の教育を邪魔しないでくれ! ははは!」
こんな男の……冗談じゃない。
「ノーラ、僕はこいつを父親とは認めない」
「私も、この人を父親扱いしてほしいなんて言わない」
確認が取れた。ノーラも俺の意図を悟ったらしく、躊躇なく指差した。
「そこの棚の裏」
俺が手を伸ばしかけたところで、棚がひとりでに動き出した。そこに漆喰で塗り固めた壁がある。
「一見するとわからないけど、その壁の裏に空間があるわ。手紙を隠してあるの」
「なっ!?」
驚いたユンイは慌てて立ち上がった。
「今、どうやって動かし……お前ら、どうしてそれを」
では、どうやって壁に穴を開けようかと思ったところで、ノーラが念力で壁をぶち抜いた。果たして、真っ黒な口を開けている空洞に、たくさんの手紙のようなものが山積みされていた。
「これで街の人達を脅してきたわけか」
「くっ、返せ! それは……ぐわぁ!」
行動阻害を一撃浴びただけで、ユンイは腰砕けになった。
「行こう」
「うん」
立ち上がれずにいるユンイの横を通って、俺達は廊下に出た。
アーシンヴァルは言いつけ通り、おとなしく待っていた。
「二人で乗ってもいいか?」
嫌がるそぶりを見せなかったので、まずノーラを助けて座らせ、続いて俺も飛び乗った。ちょうどユンイが我に返って外に出てきたところだった。
「よし、行くぞ!」
「ま、待て!」
手紙の束はノーラに持たせて、俺は手綱を引いた。だが、微妙なニュアンスを汲み取るのが上手なアーシンヴァルは、決して全力で走ろうとしなかった。
「そうだ、うまいぞ」
首を撫でると、アーシンヴァルも立ち止まり、振り返って得意げな顔を見せる。ユンイを引き離してしまってはいけない。俺は剣で彼を殺したりはしないが、社会的には死んでもらうつもりでいる。
この手紙の束はユンイと脅迫されている人々にとって意味ある証拠だが、詳細に調べるのでもない限り、これらがユンイと関係するものであるということはわからない。だから、どこか遠くでいきなり破り捨てても、脅迫材料がなくなったとは、関係者に認知されない。
だから、わざとこうして彼を引っ張り回しているのだ。人通りの多い中央広場辺りでいいだろう。そこで目立つ形で、ユンイが食い止めようとするのを大勢の人が目撃するようにしてから、焼き捨てる。するとどうなるか?
振り返ると、必死で息を切らしながら走るユンイには、もはや貴公子然としたところはまるで見られない。顔を苦しげに歪め、髪を振り乱し、長衣が乱れるのも構わず、全力で追いかけては息切れし、膝に手をついている。
北西部の住宅地から、右手に政庁を見ながら中央広場に駆け戻った。
俺は声を張り上げた。
「ご通行中の皆さーん!」
数人の人が振り返る。
「これがなんだかわかりますかー!」
なんだ、うるさい、関係ない……大半の人が興味をなくして歩き去ろうとする。だが、そこに、鬼の形相のユンイが現れると、再び彼らは足を止めた。
「か、返せっ! それをっ……!」
掴みかかられる前にまた行動阻害を浴びせる。それだけでユンイはつんのめって顔から石畳に倒れ込んだ。
「じゃあ、燃やしまーす!」
「や、やめ」
ボッ! と俺の両手から赤い炎が噴き出した。何の手品か奇術か。通行人の熱い視線が向けられる。
完全に灰にする前に、俺はそれらから手を放し、石の床に放り出した。当然、ユンイは火を消そうとして手を伸ばす。
「あ、あちっ! くっ、こ、このっ!」
だが、無駄だ。俺が魔術でじっくり燃やしている。踏み消そうが揉み消そうが、結局最後は燃え尽きる。
手紙が完全に灰になる頃には、大勢の市民がこの様子を遠巻きに見ていた。
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