砂漠の城砦

 目印と言えるようなもののない海沿いの道を、ただ歩く。

 ずっと昔に盛り土された、まるで川の堤防のような通路だ。ただ、本来は馬車が行き来できるように整備されたものらしく、幅はずっと広い。左手を見下ろすと、砂塵に霞む青空の下、白波が何メートルも下で砕けているのが見える。降り積もった砂金のような目の細かい砂が、恐らくその手前にあった消波ブロックを覆い隠してしまっている。草木一本生えていないこの砂浜は、ある意味で清浄そのものだった。まるでこの世の始まりか、さもなければ終わりの日を迎えたかのように見えた。


 既に数日が経過している。水が必要な時だけ、砂浜まで降りていって海水を回収し、それを魔術で濾過した。あとはアーシンヴァルの背に山積みした食料を節約しながら食べている。

 バンダラガフの街を出るとき、ホアに喚き散らされながら、そこそこ質のよさそうな鋼鉄の剣を買った。だが、今のところ、こいつの出番はない。これまでの旅程で魔物に遭遇することはなかった。もともと海沿いの道には、魔物がやってくることは少ないのだという。

 一度だけ、西の地平線に何者かの影がいくつも見えたのだが、ノーラが威圧の神通力を解放すると、そいつらは戦おうともせずにすぐ去っていった。はっきり見えなかったが、人間のような顔と獣のような体をしていた。この地域について、ルークの世界誌では、マンティコアなる人面獣身の怪物がいるとの記載があった。それかもしれない。


「……あれか?」


 フィラックが遠方を指差した。

 ここからだと、注意していないとただの岩山にしか見えないが、よくよく確かめれば、崩れた建造物の址だとわかる。古代の宿駅だ。


 こんな砂漠地帯を何日も旅するなど、主として補給面で問題がありすぎる。だから、それをサポートするための拠点として、こうした宿駅が設けられた。水、多少の食料などが置かれていて、旅人の助けになったという。

 近づいてみると、はっきりした。もはや扉すら朽ちてなくなってしまっている。石造りの屋根も半分凹んで、斜めに崩れてしまっていた。中に立ち入るのは危険だし、やめた方がよさそうだ。


「井戸は?」


 ノーラがそう尋ねると、目敏く見つけていたホアが黙って指差した。


「こりゃダメだな」


 一緒にすぐ近くまで行って井戸の底を見下ろした。真水など、期待できそうにない。中はしっかり砂に埋もれてしまっていた。


「それより、この宿駅がどこか」

「道標が生きてた。ここが五番宿駅だってよ」

「じゃあ」


 俺の視線は、右手に向けられた。

 いよいよ砂漠の深部に向かわねばならない。ここからは水の補給も難しくなる。海沿いのここと違って寒暖差も激しくなるだろう。


「積めるだけ積んで、先に進もう。暑さも厳しくなる。日中は物影があったら、そこで休んだ方がいいかもしれないな」

「なかったらどうすんだよ」

「魔術で壁を作る」


 砂漠の旅も、これが初めてではない。なんなら夜だけ移動して、昼間は休んでもいい。


「準備ができ次第、進もう。暑さがひどいようなら、どこかで長めに休みをとる」


 内陸に入ってしばらく、時間も昼に近いとあって、だんだんと暑さが途方もないことになってきた。既に見渡す限り、近くは薄い黄土色の砂ばかり。これといった岩場もない。

 俺は、黙ってついてくるアーシンヴァルの様子を見て、休憩を決めた。靴を履いている俺達とは違う。馬からすれば、暑いより熱い。


 その日、昼間の一番熱い時間は、魔術で拵えた岩壁の脇に身を潜めてやり過ごした。夕方になって気温が下がってきたところでまた歩き出した。やがて空が深い藍色に染まった。

 案の定、最初にへばったのはホアだった。


「ちょっ、ちょっと待て、お前ら。なんで涼しい顔して歩いてやがんだよ」

「砂漠は初めてじゃないからな」


 暑さもさることながら、行動時間の使い方も体力に響いてくる。恐らく彼女は、日中の休憩時間に身を休めることができなかったのだろう。暑すぎて、仮眠をとるどころではなかったのだ。それが不規則な時間に早めの夕食を食べさせられて、そこから休みなしの行軍なので、そろそろ限界がくる頃だと思っていた。


「ここはまだマシな方だ。古代の街道があるおかげで、足場がしっかりしている」

「サハリアの中央砂漠なんて、砂に足がめり込むものね」

「魔物も敵兵も出ないしな」


 ケロッとしている俺達に、ホアは目を白黒させていた。


「帰るなら、今のうちだぞ」

「ざっけんな! ブチ抜かれる前に逃げてどーするよ!」

「呆れた奴だ」


 それ以上取り合わず、俺達はまた先に進んだ。とはいえ、完全に徹夜で先を急ぐのもよくはない。月が真上に懸かる頃、俺は寝る準備を始めた。毛布だけ敷いて転がった。きっと夜明け頃には寒さで目覚めるだろう。

 翌朝、冷え切った体に雑穀の粥だけを入れて、またすぐに歩き出した。完全に夜が明ける頃、目印になる建物が見えてきた。


「あれか」


 何もない黄土色の砂漠の中、巨大な赤褐色の岩山が突き立っていた。ところどころに真っ黒な穴がある。あれは自然にできたものではない。

 これが獣王の住居でもあった城塞だ。といっても、今では呼び名も知られていない。


「なぁ」


 ホアが心底つらそうな声で言った。


「あそこでちょっと休んでいかねぇか?」

「水場が生き残っている保証はないんだが……まぁ、わかった。但し、崩れてきそうだったらすぐ立ち去る」


 天然の岩山を削っただけのものなら、そうそう崩落したりもしないとは思うのだが。いざとなれば土魔術で周囲を補強すればいい。ビルムラールが前に見せてくれた対応だ。


 実際に城塞に立ち入ってみると、なんてことはなかった。ただの自然の洞穴、岩山という以上の感想が出てこなかった。

 ダノーヴァの時代から五百年、木の扉のようなものは、とっくに失われている。入念に調べれば、人がいた痕跡も見つかるのだろうが、そういうわかりやすい遺物のようなものは何一つ見つけられなかった。金属製品なんかも残っていなかった。もしかすると、彼女の配下がほとんどの財宝を持ち去ったのかもしれないし、後の時代の誰かが盗掘にきた可能性もある。

 しかも階段がなく、どこも楕円形の屋根とスロープばかりだった。岩山の加工に大きな手間をかけたくなかったのか、当時は木造の足場でもあったのか、それとも荷車や魔物が行き来しやすいようにバリアフリーを心掛けたのかは、俺には分からない。

 かろうじて人の手が入ったものだとわかるのは、高い位置に繋がるスロープの先に、窓があったからだ。そして、それこそが俺達の目当てだった。


「見えるか」

「あれじゃないか」


 フィラックが指差した。


「三つ目の目印。ここから南の方にある、小さな楔形の岩」

「あそこまでなら、今夜、いや、明日の朝には着けるかな」

「あんなところに」


 ノーラが眉根を寄せた。


「迷宮があるなんて」

「今更の話だ」


 本当にあるかどうかもわからない。なかったけど、使徒が作ったのかもしれない。或いはダノーヴァが拵えたこの城からの脱出用地下通路を流用したのかもしれない。


「こんなところを旅人が通りかかるなんてあり得ない。間違いなく罠だ」

「そうね」

「逃げるなら今のうち、と言いたいけど」


 首を振るしかない。


「今から立ち去っても、多分、砂漠の魔物に嬲り殺しにされるだろうな」


 フィラックは、俺の肩を押した。


「よせよ」

「ホアの話じゃない?」

「ははっ、なるほどな」


 進むべき方向は見定めたが、せっかくここまで来たのだからと、俺達は城内を散策した。

 螺旋状のスロープの脇に部屋があるのだが、上層に行けばダノーヴァの居室とか謁見の間に辿り着けるのではないかと思ったのだ。そこにお宝とか、或いはかつての歴史を思わせる遺物などがあれば。今すぐ役に立たなくても、何か後で気付けることがあるかもしれない。

 果たして、最上階の手前に、大きな部屋があった。東向きに大きく口を開けた入口がある。日差しと空気を取り入れるために、高い位置に窓代わりの穴が開いているので、それほど暗くはない。

 これまでの部屋がただ自然の岩窟を掘り抜いただけのものでしかなかったのに、ここは違った。足下に四角いブロックが敷き詰めてある。

 つまり、この部屋がダノーヴァの謁見の間、なのだろうが……


「玉座もないのかしら」


 部屋の突き当たりに椅子の一つもない。あるのは、壁の大きな凹みだけ。


「いや、もしかすると、やっぱりここが玉座なんだ」

「えっ?」

「椅子はない。だけど、まっすぐ椅子に腰かけて臣下を眺め渡すなんてのは、その辺の貴族とか王様の考え方だ。ほら、ここ」


 壁の大きな凹み。不自然なほど平らで、その気になれば人一人が横たわれるほどの幅と奥行きがある。


「ダノーヴァは、ここに寝そべっていたんじゃないのかな」


 寝具などをおけば、硬くて過ごしにくいなんてこともなかっただろうし。

 いわゆる寝椅子というやつだ。別に獣王は正式な貴族なんかではなく、魔獣使役に通じた平民だったのだろうから、要は山賊の頭目と変わらない。作法より快適さをとったとしても不思議はない。


「ふーん」


 フィラックが首を振った。


「よっぽど自堕落で怠け者だったんだなぁ、その砂漠の女王様とやらは」


 さてはて、その辺の真相は俺達にはわからない。

 他に遺物などは何もなかった。そのままスロープを上に登っていくと、円形の屋上に出た。それを王冠の縁のように取り囲む岩山が聳えていただけだった。


 見るべきものを見終えて、城の一階の広間に取って返した。

 大の字になってひっくり返っていたホアはモゴモゴ言いながらも起き上がり、どこか彼女を小ばかにしたようなアーシンヴァルの後から、慌ててついてきた。


 午前遅くに、俺達はまた足を止めた。

 魔術で岩山を拵えて、その陰に身を縮める。こういう場所では水魔術の効き目は期待できない。当面のところは耐える以外の選択肢がない。順番に見張りを立てて仮眠をとっていた。ホアは昨日と違って疲れ果てていたらしく、今度はあっさり意識を手放していた。

 俺は、今までの旅でもそうしていたように、半分眠ってうっすら意識を残していた。そのまどろみが、一人見張りに居残っていたフィラックの声によって破られた。


「起きろ! 赤竜だ!」


 俺もノーラも、一瞬で跳ね起きた。

 雲一つない青空に、黒い点が見える。だが、赤竜の恐ろしさは、その速度にこそある。この程度の距離など、一跨ぎでしかない。


「追い払ってみる」


 ノーラが威圧の神通力を解放したのだろう。俺達の後ろで、ホアが仰け反ってひっくり返り、慌てて目を覚ました。


「えっ? あっ?」


 俺は油断なく空を見上げていた。もし、あの赤竜が急降下と同時に炎の息を吐いてきたら、大変なことになる。なるべく瞬間的に火魔術でそれを防いでしまわなくてはいけない。

 だが、そうはならなかった。そいつは悠々と近付いてきた。俺達のことは捕捉している。恐らく威圧の神通力の射程圏内にも入っている。その上で、そんなのはものともせず、小さな獲物をゆっくりと味わうつもりで距離を詰めてきているのだ。


「なら、ここで」

「待て、ノーラ」


 腐蝕魔術で殺すことはできる。だが、それをすると群れの他の仲間が気付いた場合、大変なことになる。赤竜の谷で散々な目に遭ったのに、奴らのしつこさを忘れるなんてできようもない。


「大人しく帰ってもらおう」


 早速、山で修行した魔獣使役の術の出番だ。俺は、修行のときに使っていた、香木の短杖を手に掲げて、なるべく声高に呪文を唱えた。

 魔獣は、自分より上位の使役者の命令には逆らえない。ただ、それが使役者と認識できない場合は別だ。一度だけでなく、二度、三度と、まるで読経をする僧侶のように、腹から声を出して響かせた。


 そのうち、ホバリングしていた赤竜は、静かに俺の前に降り立って、動きを止めた。目測でおよそ二十メートルほど。この距離なら、詠唱が完全に聞こえているはずだ。

 伏せよ、と身振りと呪文で命じた。野生の赤竜は、おずおずと、しかしゆっくりと首を砂地の上に横たえた。


 ほっ、と息をついた。

 やはり窟竜と同じように、赤竜も使役できるのだ。

 だが、では、なぜそんなことが可能なのだろうか? 人間からの訓練を受けたはずもない野生の赤竜が、初めて出会った俺に、初めての呪文を聞かされて、それに大人しく従うとは。そうなるだろうと思ってやったことだが、どうにも薄気味悪かった。


 俺が短杖を掲げて、今度は立ち去るように呪文を唱えた。複雑な命令は理解されない。動くなとか、立ち去れとか、その程度の単純なものでなければ。

 やがて命令を理解したらしく、そいつは翼を広げて、遠くへと飛び去っていった。


 それからは何事もなく、夕方から宵の口までにかけて、俺達はなおも南に進んだ。街道の址がないので、城に辿り着くまでよりは歩きにくさを感じたが、ホアを除けばそれも問題ではなかった。

 目的地の岩山を目視できるところで、俺達はまた、夜間の仮眠を取った。


 翌朝、俺達はついにその場所に辿り着いた。

 近くに小さな岩山こそあるものの、あとは何もない。そんなところに、唐突に淡い黄土色の階段が設けられている。地下一階まで剥き出しのままになっているが、不思議とそこまで砂が積もってはいない。岩山が風除けになってくれたのだろうかとも思ったが、岩山からは少し離れているし、俺から見て左手にあるだけだ。どうにも不自然さが拭えない。

 下り階段の先には、古びた金属の扉がある。黒々とした表面が灼熱の太陽に照らされて輝いている。手袋なしで触れたら火傷してしまいそうだ。入口は半開きになったままで、鍵などはかかっていないようだった。


「さて、どうしようか」


 俺がそう呟くと、ノーラが答えた。


「もちろん、私も行く」

「俺もだ」


 二人とも覚悟は決まっているらしい。

 俺は頷いた。


「ホア」

「な、なんだよ」

「荷物番がいないと困る。悪いけど居残ってくれ」

「って待て! こんなとこに一人置いてくつもりかよ!」

「アーシンヴァル」


 俺が呼びかけると、彼はまるで頷いたかのように頭を振った。


「最悪の場合には、済まないが、ホアを連れて砂漠から逃げてくれ」


 指示を伝え終えてから、俺達は改めて入口の扉に向き直った。

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