丘陵地帯を越えて
黒々とした影を落とす巨木。その梢が小さく揺れた。小鳥の短い鳴き声が微かに聞こえたかと思うと、囁くような羽音が遠ざかっていった。
起伏のある高原地帯には、一足早い秋が訪れつつあるらしい。この辺に生えているのはどれも常緑樹らしく、今も青々とした葉をつけている。ただ、涼しく乾いた空気が吹き抜けていくので、それとわかるだけだ。
バンダラガフを出発してしばらく、俺達はひたすら歩いていた。東側の海を除き、三方を山に囲まれたあの街から陸路で旅をする場合、大なり小なり登山になってしまう。
カインマ侯国の穀倉地帯は北方にあるので、南側には小さな集落が点在しているだけだ。それもちょうど今朝、後にしたところが最後の村で、この先には誰も住んでいない。いたとしても、行き場のない犯罪者くらいのものだろう。
それなのに、足下にはしっかりとした通路が続いている。大昔に大勢の人を動員して拵えたものなのだが、いまだにその通路には雑草さえ生えない。伝え聞いた限りでは、三度に渡って建設、或いは補修を受けたという。
まず、大昔のカインマ王国がソウ大帝に屈した時、道路の建設を命じられたそうだ。海路の方が圧倒的に便利だったはずだが、大帝は地理的な孤立を許さなかった。複数のルートでバンダラガフに辿り着ける、いざとなれば軍勢を送り込めるということが重要だったのだ。だが、そのための道路を建設する工事は、過酷そのものだった。工法自体は単純で、ひたすら大勢の人の足で地面を踏み固めるというだけのものなのだが、そこに投入された労力の量が並大抵ではなかったという。
この道路は、世界統一後にもメンテナンスされた。南方大陸の南部と東部を繋げる事業と同じように、こちらでも地理的孤立を排除するのが帝都の方針だった。その目的は軍事的支配というよりも、皇帝が理想とした全世界の融和と協調にあったのだが。
最後に、獣王の活動した暗黒時代にも、改めて拡張された。ダノーヴァの最盛期には、砂漠の外、南北方向の勢力いずれにも貢納を課していたそうで、そのために陸上のルートを確保する必要があった。
今はというと、あくまで高原地帯が続く限りにおいては、カインマ侯国が一応管理しているらしい。一応、というのは、普段は特に予算をかけたりしていないからだ。ただ、地震や台風などで道路上に落石や倒木があったりして、移動に差し支えが出ることもあるので、それが現地の村人の手に負えない場合には、兵士を送って始末をつけるのだとか。
しかし、道路そのものの補修が必要になることは、まずないらしい。
「そろそろだと思う」
フィラックが言った。
「村で見せてもらった地図が正しいなら」
「案外近いな」
「お前らの足が速すぎるだけだっつうの」
まだ日没まで間があるが、早く到着するのに越したことはない。
俺達が今日の宿泊先にしようと決めていたのは、かつての村の跡地だ。それもただの村ではない。精霊の民がいたとされる場所だ。
精霊の民がいつからこの高原地帯に居着いたのかは、今となってはわからない。その起源は謎で、砂漠の方から来た、そちらでも暮らしていた、などと言われている。
神仙の山でも精霊の民のことはあまり詳しく知られてはいなかった。精霊魔術の使い手も皆無だった。どちらかというと、女神を奉じる彼らとは敵対することの方が多かったようだが、ここ数百年はその程度の接点もなかった。
とにかく、暗黒時代にはこの辺にも住んでいたらしい。クルが活動していた時代にはおとなしくなっていたそうで、徒党を組んで暴れることもなく、ごく僅かな人々が山間にひっそりと暮らすばかりだった。
今ではすっかり見かけることもなくなったそうだが、俺達はその生き残りであるイーグーの存在を知っている。彼以外の精霊の民がどこにいるかは、わからないが。
跡地に行けば、大昔の井戸もある。水にも困らないし、テントを張るのに都合のいい広場跡もあるらしい。そんなに便利なら、いっそ新たな村でも建設すればいいのに、と思うのだが、地元の人に言わせると、なんだか不気味で近寄りたくない場所なのだとか。実際に見た人はいないらしいが、何やら夜中に火の玉が浮いていたりするとの噂話を聞かされた。
ただ、では実際に被害を受けた人がいたかというと、いないという。だから俺は構わずここで夜を過ごすことにした。浮かぶ火の玉なら、見覚えがある。もしかすると、使徒の行動範囲だったのではないか。
坂を登り切って、見下ろすと急に視界が開けていた。木々の生える密度が下がっている。丈の低い草が地表を覆い隠していた。一見すると、鬱蒼とした森よりずっと快適そうな景色だ。
ここから割と急な下り坂があり、そこからまた急な上り坂がある。その向かい側にある坂の頂点が、ここから見渡せる。この坂を下って右手に向かうと、かつての村の跡地に辿り着けるという。
その通りに足を運んでみると、果たして木々に覆われた向こうに、いきなり広い場所に出た。大昔の村の入口を示す石碑のようなものが脇にあるが、そこに何が刻まれているかはうまく読み取れない。その向こうは丸い広場になっている。どういうわけか、そこにも一切草が生えていない。その広場の真ん中には、何か石の台座がある。これも円形で、まるで柱を輪切りにしたかのような形をしていた。
広場を横切って奥に向かうと、かつての家屋の址が残されていた。さすがにこちらは朽ちてしまっている。元々ほとんどの部分が木造なので、蔦がはびこり、草葺きの屋根はとっくに腐り落ちて、屋根に大穴が開いている。そっと中を覗いてみたが、まともに形を保っている家具などは見当たらなかった。
広場の近くに井戸があり、こちらはいまだに使える状態だった。もしかしたら何かで汚染されていないとも限らないのだが、多少の不純物は魔術で除去できるので、そこまで神経質になる必要もない。
広場にテントを設営して、水を浄化し、少し早めだが今夜の夕食の準備を済ませた。
それから、俺達は鍋を囲んで座った。
「せっかくだし、これからの話をしておきたい」
俺がそう言うと、ノーラとフィラックは微妙に表情を引き締めた。
「おう、王子様」
「どうした」
「なんでお前、あんな無茶な依頼、断っちまわなかったんだ? あんなのクソすぎんだろが」
俺は頷いた。
「断っても無駄だし、下手に逆らったら大変なことになるからだ」
「そんなにギルドが怖ぇのかよ」
「ギルドじゃない」
俺は静かに首を振った。
「二人はわかっていると思う。いよいよ黒幕……使徒からのお誘いだ」
「おい、なんだよ、その使徒ってのは」
「知らなくていい」
「あ?」
食ってかかるホアに、俺は宣告した。
「手持ちの金は持てるだけ持っていってくれていい。逃げろ」
「何言ってんだよ」
「いいか? 俺はお前をワノノマに送り届けるよう、ゼンに言われている」
「それがどうしたってんだ」
「ワノノマに着いたら、お前は閉じ込められる」
「はぁ?」
目を見開く彼女に、俺は説明した。
「お前が帝都でやらかしたことは、そこまで重い罪ではないらしい」
「そらそうだろ。ちょっと貴族の息子に抱き着いてズボン引きちぎったくらいで、ギャアギャア大袈裟なんだよ」
ちょっと、ではない気がするが……この際、それはどうでもいい。
「だが、お前を派遣した神仙の山の立場では、そうも言っていられないようでな。再発防止のために、お前をワノノマに連れていく」
「あー、なんだかお偉いさんに叱られるっつーのは聞いてるぜ?」
「その後、お前は召し抱えられる。但し、ワノノマの離島で仕事をし続けることになる。人前に出すと、また何をしでかすかわからないから」
「その心配はいらねぇぜ」
ニタニタしだすと、彼女は俺の肩をつついた。
「王子様がオレをもらってくれりゃあなぁ!」
この期に及んで……呆れて口をポカンと開けてしまった。
「どうしてそうなる」
「そりゃあ他の男追っかける理由もなくなるしよ」
「なるほど」
いつもホアには、自分なりの論理があるらしい。
こういうところも、自分がもうすぐ死ぬかもしれないと思うと、むしろ微笑ましくさえある。浮かんでくるのは苦笑だが。
「だが、悪いな」
「あん?」
「お前の身柄を預かってやるのは難しい。いいか、俺についてくれば、もう間もなく死ぬ。運よく死なずに済んでも、ワノノマで籠の鳥だ。お前のためを考えるなら、ここで逃げるのが一番いい」
すると彼女はじっと俺を見つめて、首を傾げ、またまっすぐ向き直った。
「わっかんねぇな? なんで死ぬんだ?」
「とんでもなく怖い奴が、多分、待ち受けている。でも俺は、そいつに従うつもりはない。逆らったら、普通は死ぬ」
「じゃ、逆らわなきゃいいじゃねぇか」
「そうはいかない。これだけはもう、絶対に譲れない」
「じゃ、行かなきゃいいじゃねぇか」
「それも駄目だ。砂漠の真ん中じゃなく、大都会のど真ん中で仕掛けられたら、何の罪もない人が大勢巻き込まれて殺される」
俺の言っていることを呑み込むと、また彼女は尋ねた。
「勝てる見込みは?」
「ない」
「じゃあ、なんでそこの二人はここまでノコノコついてきやがるんだよ」
ノーラが答えた。
「私はファルスを連れ戻すためにここまで来たの。だから、それが済むまでは絶対に帰らない。それだけ」
「バカかよ、お前。今、勝ち目ねぇって言ってたろが。それとも、なんだ、怖いのがいるっつうのはただのフカシか?」
「ううん、本当だと思う」
「じゃ、連れ戻すも何もねぇよ。てめぇも死ぬんだろうが」
「そうね」
あまりにあっさりした返事に、ホアは言葉をなくした。
フィラックが引き取る。
「正直、怖くないかと言えば、俺は怖い。今まで信じられないようなものをいくつも見てきた。バケモノの一撃で巨大な城が吹き飛んだりもしたんだ。あれよりひどいのが出てくるとしたら、俺なんかがいても何の役にも立たないし、もうどうしようもないだろうな」
「だったらなんで居残るかって言ってんだ」
「意地だよ」
「意地ィ?」
「そう、意地だ。覚悟なんてカッコつけて言えるようなもんじゃない。だけど、ここで逃げたらきっと一生後悔する」
そこで俺が口を挟んだ。
「二人を安全なところに逃がしてくれるなら、全財産譲ってもいい。奴からすれば、用事があるのは俺だけだ。でも、無理なんだろうな」
「無理だ」
「わかってるじゃない」
そう言うと、二人は静かに笑い出した。
ホアといえども、人情の機微がまったくわからないでもないらしい。尋常でない覚悟に、今度こそ沈黙した。
「真面目な話なんだ。お前を追い払いたくてする作り話じゃない」
静けさに包まれていたこの広場に、控えめな足音が聞こえた。その辺をうろついていたアーシンヴァルが戻ってきたのだ。不思議なもので、特にどこかに括りつけておかなくても、こいつは必ず俺の傍から離れようとしない。
「なんならアーシンヴァルに乗って、いったんバンダラガフまで戻ってくれてもいい。そこから船でチュエンまで出れば、いくらでも逃げられるだろう」
「話はわかった」
「そうか」
「だったら尚更逃げられねぇよ」
これには納得いかない。顔に出たのだろう、ホアは続けた。
「当たり前だろが。じゃ、逃げてオレは何のために生きるんだ?」
「次の貴公子を探せばいいだろう。俺はたかだか騎士、それも農民上がりだ。生まれながらの貴族のご子息でも捕まえたらいい」
「いーや、お断りだね」
キッパリと言い切る彼女に、俺は尋ねた。
「なぜだ」
「オレは決めたんだよ。あんたがいい。今から他のどんな男を漁っても見劣りしちまう。そんなんじゃどうせ誰も選べやしねぇ」
「何を基準にそんなことを言うんだ」
「顔?」
横でフィラックが噴き出していた。確かに、笑うしかないか。
「そんなことのために命を懸けるのか」
「あんたにとってはそんなことでも、オレにとっちゃ何より大事なんだよ。悪いか」
「仮に生き延びても、行き先はワノノマだ。お前は離島に閉じ込められるだろうし、俺はお前を庇わない。無駄な努力だ」
「そんなこたぁねぇだろうがよ」
「なに?」
どうやって活路を見出すつもりなのか?
彼女は言った。
「要はそれまでにあんたを落とせばいいってこった! なぁ?」
俺を含めたホア以外の三人は、座ったまま深い溜息をついた。
それからの旅路は、進むほどに少しずつ景色が変わっていった。丘一つ、峰一つ越えるごとにだんだんと丈の高い木が姿を消していき、草ばかりが残るようになった。登って降りてを繰り返すうち、これまで木々に遮られてよく見えなかった風景が目に映るようになってくる。右に目を向けると、目の前の岩山とその日陰の向こうに、切っ先のような銀の高峰が垣間見えるようになった。
そして四日目。俺達はついに最後の丘を登り切った。
丘の上から見下ろす道は、ほとんどそれ以外の場所と見分けがつかなかった。ついに斜面には草すら見当たらない。砂漠の乾いた空気を直に浴びるこの辺りでは、植物が育つだけの水分がなかった。
すぐ目の前は、黄土色のただの固い地面でしかなかったが、その先、傾斜のない場所を遠くから見渡すと、風に散らされる砂が、まるで漣のように波打つのが見えた。その地平線の向こうは朧気で、何も見通せない。
街道は左手方向、海沿いに続いているらしい。そちらには波一つない静かな海があった。ちょうど時刻は日暮れ時、東の海はまるで前世のムルソーワインのような光沢ある金色に染まっていた。逆に右手に目を向ければ、既に沈みかけた太陽を背に受けた銀の峰々が微かに青く染まって、暗い翳を落としていた。
俺達は、そこに佇んだまま、思わず見とれてしまっていた。
何の値打ちもない場所として打ち捨てられたこの場所は、金と銀の豪奢そのものだった。
数百年もの間、ここを通る人はほとんどいなかったに違いない。暗黒時代の終わりとともに、南北を繋ぐこの道路は放棄された。その、人なき世界ゆえの静寂のようなものが、物悲しくも美しかった。
その日の夜は、丘の上で宿営すると、翌朝早くに出発した。
東の海から、まるで焼けた鉄のような色をした太陽が昇りつつあった。その手前に灰色の雲がうっすらかかっているものの、さながら勢いのある若い王に跪く老臣達のように弱々しかった。
いい朝だ。そう思った。
今日だけじゃない。美しい景色には、今まで何度も巡り合ってきた。
リント平原の、あの白銀の雪原。
たった一人でムーアン大沼沢の遺跡の上で夜を過ごした。分厚い雲の狭間から顔を覗かせた月の輝きときたら。
光の喧騒ともいうべき、あの初夏のスーディアの高原地帯も忘れがたい。それでいて日が落ちると、まるで闇が這い上がっているかのような陰鬱さがあった。
巨木と黒土の丘、そして緑のドームに覆われた大森林。ゆったりと流れるケカチャワンの流れを思い出す。
ありがたいことだ。
なぜだろう。
大地も空も海も、ただそこにあるだけなのに。俺に何かを与えようとしてくれたわけではなかった。それでも、こうして旅を締めくくろうとする今になって、湧き上がってくる思いは、その言葉でしか言い表せなかった。
「行こう」
俺がそう言うと、みんな静かに歩き出した。
いよいよ決着の地へと向かうのだ。
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