指名依頼

 朝方の冷たい風が吹く。ふわっと湯気が形を変え、流されていく。木造の屋根の下、黒々とした湯船の向こうに広がるのは、白銀の高峰だ。その槍の穂先のような頂上が、うっすらと水面に映り込む。

 夏の終わりとはいえ、ここは北方で、しかも山の上だ。朝晩はかなり冷え込む。平地の冬場の昼日中と変わらない。こうして湯に浸かると、体が芯から温まる。

 冷えた肩に軽く手で湯を浴びせた。深い溜息が漏れてくる。快適とは何か。今、俺が味わっているものだと断言できる。


 ここでは贅沢ができないとか、富貴とは縁がないとか、よくもまぁそんなことを言えたものだ。確かに食事は質素だし、これといった娯楽もない。だが、この神仙の山には、比べられるもののないこの絶景と、最高に心地よいこの温泉とがある。

 ここの職人は、カインマ侯国の平地で必要とされる仕事を請け負って生活費の足しにしているらしいが、そんなことをせずとも、この温泉で客を呼べるんじゃないかと思ってしまう。

 もっとも、どういうわけか温泉に執着しているのは俺だけで、他の二人はさしたる興味を示していない。一応、理由は聞いている。フィラックはサハリア出身なので、そもそも温浴の習慣がない。ノーラは、髪が濡れると乾かすのが大変だといって面倒がっていた。清潔を保つ重要性は理解しているのだが、湯を楽しむという感覚がわからないらしい。


 だが、俺にとっての極楽生活も、そろそろ終わりだ。

 いよいよ今日、神仙の山を後にしなくてはいけない。まだ黄玉の月だが、既にして朝晩の冷え込みも厳しくなってきた。降雪がある前に山を下りるには、もう出発する必要がある。だから今朝は、最後の湯浴みを楽しむことにした。ここからまた数日、野宿が続く。カインマ侯国にも、温浴できる場所はそんなにないらしい。


 湯から上がり、衣服を身につけて俺は食堂に向かった。


「くっ……こ、この!」

「まだ慣れないんだ……」


 ここで供される最後の朝食。普段は玄米に雑穀が混じったのが出されていたが、今朝だけは白米だった。アドラットとの繋がりがあったとはいえ、この山に何の貢献もしていない身で、ここまでしていただいたのだと、改めて思い返す。ありがたいやら申し訳ないやら。

 だが、しみじみと感謝の思いと白米を噛みしめる俺の横で、フィラックは茶碗を前に格闘していた。彼を悩ませているのは、箸だ。


 サハリア人の食習慣に、箸は存在しない。フォレス風にスプーンを使うことはある。フォークでさえ、一般的ではない。それ以外となると、ほとんどが手掴みだ。

 だから彼は、最初は箸を串のようにしか使えなかった。それは違うと俺が目の前で実演してみせると、その役割を理解はしたのだが、いまだにうまく扱えないらしい。


「で、でも、まぁ、今日までだからな。うまく使えなくったって、困りゃしない」

「言い忘れたけど、山を下りても砂漠を渡っても、食器は基本的に箸らしい」

「嘘だろ?」


 残念ながら、本当だ。

 南方大陸東部では、お粥が主体だったから箸の困難に直面しないで済んだのだが、ここからはそうはいかない。


「これは、この先、痩せられそうだな」


 苦い顔で彼は呟いた。

 一方、向かいに座るノーラはというと、フィラックよりは上手に箸を扱えるのだが、やはり悪戦苦闘している。


「難しいけど……でも、そういうことなら」


 彼女は箸を置き、茶碗を下ろして、じっと見つめた。そして精神を集中し……

 静かに、ふっと白米の塊が浮かび上がる。それはごくゆっくりと、小刻みに震えながら空中を浮遊し……


 パクリと食いついた。


「あー、いいなー! 俺も念力に目覚めればなー!」


 少々行儀の悪い食べ方だ。

 ただ、これも彼女なりの自主練習なのだろう。念力の神通力を得て、まだ二ヶ月も経っていない。暴走させずに操れることを確かめなくては、怖くて人里に降りられないのだ。


「フィラックさんは『記憶』の神通力を授かったんだから」

「まぁなぁ」


 最大限のリスクを取って二つの神通力を取りにいったノーラとは対照的に、フィラックは慎重な選択をした。肉体的な悪影響がないものをということで、選ばれたのが記憶能力だった。

 とはいえ、これもやっぱり、反動はあったらしい。過去の記憶もある程度鮮明に思い出せるようになるのはいいのだが、そのせいで一気にいろいろな思い出が一方的に頭の中で再生されるような状態になったとか。しばらく睡眠不足になったそうだ。

 一見すると地味な能力を習得したように見えるが、彼の中では必要性があったのではないかと思われる。俺と同行することで見聞した世界の真実は、あまりに重大だった。モーン・ナーが魔王同然の存在だった、なんて青天の霹靂だ。だからこそ、秘密を守りつつも真実をしっかりと自分のうちに留めておくべきと考えたのではなかろうか。


「どっちにせよ、その食べ方はできない。街中の飲食店で神通力を見せびらかすのもよくないし、作法としても好ましくないから」

「そうね」


 それで俺達は、改めて箸を手に取り、残りを片付けた。

 こんないい食事は、少なくとも街に降りるまで、数日の間は食べられない。じっくりと味わった。


 荷物を纏めて厩舎に寄り、アーシンヴァルを連れて東側の山門前に向かった。こちら側の壁は案外低く、人の身長より低いのがあるだけだ。平べったい石をたくさん積み上げ、天辺に瓦屋根を置いている。その切れ目の部分に、まるでお寺の入口みたいに木造の東屋みたいなのがあって、そこに錆びかけた山門が据えられていた。

 そのすぐ手前に、ホアの姿があった。来た時より随分と身軽になっている。どうやらミスリルで打った剣とか槍とかは、纏めて没収されてしまったらしい。つまり、俺もまた丸腰のままということだ。

 ただ、ゼンの好意で魔獣使役に使う短杖だけは授かることができた。


「よっ! 王子様!」

「王子じゃないから」

「いいだろ? 似たようなもんじゃねぇか」

「全然違う」


 二ヶ月弱も隔離されたというのに、相変わらずらしい。隣でノーラが小さく溜息をついた。


「ファルス様」


 ゼンが門の手前からゆっくりと歩み寄ってきた。


「それではホアのこと、くれぐれも宜しくお願い致します」

「はい。大変お世話になりました」


 彼が頷き、振り返ると、山門は大きく開かれた。


「無事、ワノノマの地に至ることを願っております。お気をつけて」

「皆様も健やかでいらっしゃいますように」


 こうして俺達は、神仙の山を後にした。


 五日ほどかけてゆっくり山道を下ると、ようやくカインマ侯国最大の街、バンダラガフが見下ろせるところにまで辿り着いた。

 一見した印象は、とにかく赤いというものだった。といっても全面赤に塗り潰されているのではなく、あくまで屋根だけが朱色に染まっていて、その下の壁は肌のように白い。そうした家々が赤い斑を浮き立たせた白いパンのような街並みを形作っている。そして、この場所からでも見渡せるのだが、この山側の反対には切り立った崖があり、その向こうには、薄く白い雲のかかった空の下に、黒々とした海が広がっている。

 バンダラガフからは船が出ていて、そのままチャナ共和国の首都、東方大陸最大の都市であるチュエンに行き着けるようになっている。その間には、かつて精霊の民が暮らしたという山岳地帯があり、獣王ダノーヴァが暴れまわった砂漠があり、またチャナ共和国の農村地帯が広がっている。普通の旅人なら、ここで陸路を選んだりはしない。


 麓の街に降りてみると、これまで見てきた東方大陸の風景とはまた違う趣があった。不思議で言葉にしがたいのだが、華やかさと鄙びた感じとが同居している。

 家々の屋根がどれも朱色なだけでなく、窓枠にも繊細な細工が施されているのが常で、それらもすべて朱色だ。一方で、ガラス窓のようなものはほとんど見られず、木の窓、木の扉ばかりで、たまにびっくりするほどぞんざいな作りのものが見受けられる。

 どこかに似ている気がした。少し考えて、タリフ・オリムの雰囲気に少しだけ近いのではないかと思った。

 どちらも地の果てなのだ。カインマ侯国から西に向かえばインセリア共和国があるが、山道を歩き通すか、冬場には強風が吹き荒れ、流氷が押し寄せる北の海を敢えて抜けるかでなければ到達できない。事実上、隔離されている。南方にもチャナ共和国があるとはいえ、間に魔物の出没する砂漠地帯があるので、これも船によらなければ普通は移動できない。

 この土地ゆえの文化があると同時に、地理的隔離を受けているが故の貧しさがある。とはいえ、ミッグに見られたような陰気な印象はない。

 共通点もある。人々の服装だが、男女ともパンツルックだ。多少ダボつきのあるズボンを穿いて、大股に歩く。ただ、独特なのは、髪は長髪なのが普通で、それを頭の後ろで束ねているところだ。つまりポニーテールなのだが、これまた男女問わずだ。なんだか馬みたいだと思うのだが、カインマ侯国は名馬の産地でもあり、動物の中でも特に馬に重きを置き、親近感を抱いているらしい。


「とりあえず、どうしようか」

「お金、ギルドに預けない?」


 ノーラがうんざりしたと言わんばかりにそう呟いた。

 もともと、ミッグで装備を整えようと思って大金を引き出したのに、ホアに追い回されるのを恐れて、慌てて内陸に向かったのだ。だが、そこから神仙の山までにはろくな町などなく、買い物をすることもなかった。無駄に重い荷物を担いだだけになってしまったのだ。

 フィラックも同意した。


「それがいいな。地元の宿も紹介してもらおう。あと、さすがに丸腰のままだし、今度こそ剣を買った方がいい」

「てめー、いい度胸してやがんなぁ? おい、オレがいるってのに、他の野郎の武器を欲しがるってのかよ」

「いや、ミッグで売ってたの、全部帝都か山の資産だったミスリルのインゴットを勝手に使って作ったんだろう? そんなの貰えるわけないし」

「チッ、クソが」


 ホアは、それでも気に入らないというように首を振った。


「けど、こんなド田舎でそんないい剣があると思うなよ」

「妥協するしかないな」


 彼女は肩を竦めたが、ここはフィラックの言う通りだ。ただ、チュエンまで無事に船で行きつけるのなら、その間は敢えて武器を手にする必要もないのだが……

 なんとなく、俺には予感があった。


「わかった。とにかくギルドに行こう」


 時刻としてはまだ昼前、宿を探すにしても余裕はある。

 この街に来たことのあるホアの案内で、俺達は速やかに冒険者ギルドの支部に辿り着いた。これまたこの土地らしいデザインの建物で、まるで前世日本の灯篭みたいな形をしていた。もちろん、屋根の部分の色は他と同じく朱色だったが。一階部分の入口がやたら開放的で、扉すらない。まるでティンティナブラム城の地下ロータリーのようだ。それが部屋の隅四ヶ所の幅広の階段で二階以上に繋がっていて、そちらに各種窓口がある。


「済みません、預金の手続きはこちらでよろしいでしょうか」


 俺が声をかけると、窓口の若い女性が顔をあげた。


「お金のお預かりは、上級冒険者の方だけ申請できるのですが」

「一応、そうです。この通り、冒険者証があります」


 俺がタグと冒険者証を首から外して渡すと、彼女はそれをいじくりまわして確認し始めた。

 だが、名前のところに目を落とすと、ポツリと呟いた。


「ファルス・リンガ……」

「どうかしましたか?」

「しょ、少々お待ちください」


 奇妙な反応に、ホアは口をポカーンと開けていた。


「なんだ、あれ……」


 無論、彼女だけでなく、俺もノーラもフィラックも、異変に気付いている。

 この街に来るのは、これが初めて。なのにどうして俺の名前が問題になる? もちろん、ギルド支部間で情報共有はしているから、俺の情報が伝わっていること自体に不思議はない。ただ、個人名を聞いて窓口の人間がバタバタするのがおかしいのだ。普通はタグを見たら書庫に戻って、確かにそういう人物がいるのか、共有された情報をチェックする。それから粛々と手続きするだけだ。


「お待たせしました。済みませんが、先にあちら、依頼窓口の方にお越しいただけますでしょうか」

「依頼? いや、あの、別に依頼を受けるために来たのではないんですが」

「お手数をおかけします。お話だけでも、どうか」


 言葉としてはお願いだが、絶対に後に引くつもりがないというのがわかる。俺達は目を見合わせて、渋々ながら、人払いの済んだカウンターの前に座った。そこには別の女性係員が座っていた。


「無理を言って大変申し訳ございません」


 座ったまま、彼女は会釈だけした。


「いえ、どのようなご用件でしょうか」

「ファルス様に指名依頼が入っております」


 この期に及んで冒険者ギルドの依頼なんて、やりたくもない。断って済ませられるのなら、そうしたいのだが……


「先に報酬のお話をさせていただきます。このお仕事は依頼を請け負うだけで金貨三万枚、調査結果の報告で階級を上げることが決まっております」


 どちらもどうでもいい。

 旅費より多くの財産など、今の俺には必要ない。もしここでランクアップとなれば、俺の冒険者ギルドにおける階級はサファイア、つまり現役冒険者としては最上級になるのだが、そんなものに興味などない。ただ、こうして高額の報酬をちらつかせるあたり、あちらとしてはどうしても俺にこの依頼を引き受けさせたいらしいというのはわかる。


「内容ですが、古代の遺跡の調査となります」

「遺跡ですか?」

「はい。中央砂漠に、統一期以前の遺跡が見つかったとのことで、その中を調査して報告してほしいとの依頼です」


 ハッと悟った。

 話がおかしすぎる。


「ご存じの通り、中央砂漠には赤竜はじめさまざまな魔物がいるほか、今では街も集落もないため、移動が大変に困難です。危険度が高い依頼ということで、特にファルス様を指名してのご依頼となりました」


 近くに人が住んでいない。そこを通る旅人もいない。魔物ばかりが出没する。不毛の砂漠で、得られるものもない。

 ではいったい誰が、そんな古い遺跡を見つけたというのか。何を根拠に「統一期以前」と判断したのか。また、発見したとして、どうして依頼などするのか。もし遺跡に金目のものがあれば、自分で持ち去ってしまえばいい。金品はあっても魔物がいて運べないというのなら、依頼内容は調査ではなく、指定した宝物の運搬になるはずだ。


「依頼人は誰ですか?」


 俺の質問に、彼女は口をパクパクさせた。


「……です」

「えっ? 聞こえません。どなたが何のために」

「だからそれは……です」


 彼女はあくまで真顔だった。


「書類があれば見せてください。どなたのご依頼ですか」

「だから……ですよ!」


 少しイライラしながら、彼女は依頼者の提出した書面を突き出した。そこの署名欄は、空欄だった。


「ということで、このご依頼、お引き受けいただけますか?」

「いえ、せっかくですが興味がありません。それに中央砂漠を抜けられる自信がないので、辞退させていただきたいと思います」


 断ったらどうなる?

 俺の拒絶の言葉を耳にした受付嬢は、まるでスイッチの切れたロボットのように硬直した。眼球がまるでガラス玉のように見えた。


「ということで、このご依頼、お引き受けいただけますか?」

「いえ、お断りすると」


 薄気味悪い。また機械のように停止した。

 この状況に、そろそろ他の仲間達も異常に気付きだした。


「ということで、このご依頼、お引き受けいただけますか?」

「お、おい、王子様、こりゃあ」


 ホアが軽く取り乱している。

 一方、この手の怪奇現象はもう見慣れてしまったのか、ノーラもフィラックも何も言わなかった。ただ、その表情から緊張しているのはよくわかる。


「ということで、このご依頼、お引き受けいただけますか?」

「帰ろう」


 俺が椅子から立ち上がると、受付嬢は満面の笑みを浮かべた。


「お引き受けいただき、ありがとうございます!」


 どうやら、一つ目の決着の時が近付いているらしい。

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