修業の終わり
青空に、ところどころ薄っすらと白い雲がかかっている。まるでレースのカーテンのように、この神仙の山に降り注ぐ日差しを和らげてくれているかのようだ。
そんな空に一点、黒い影が映り込んでいる。翼を広げて滑空したまま、向きも変えず速度も上げずに、無心にこちら、地上の俺に視線を向けている。俺は黙って手にした短杖で右を指差した。するとその鳥はそのままその通り、彼自身にとっては左側に旋回し、まっすぐ飛んでいく。
「お見事です」
「ゼンさんの教え方がよかったおかげです」
俺は両手を打ち合わせた。その音を聞きつけたのだろう、頭上を舞うデスホークは、急に向きを変えて慌ただしく羽ばたき、それからまっすぐ滑空しながらこちらに近づいてくる。
「二ヶ月もしないうちに魔力操作と魔獣使役の術を究めてしまうなど、前例がありませんよ。完全に想定外でした」
彼は首を振った。
「アドラットはあなたを並外れた少年だと強調しておりましたが、まったく誇張ではなかったと思い知らされました」
羽音が耳朶に触れる。風圧が足下からふわっと迫ってくる。木の床の上に散らばる小石や砂を蹴散らして、デスホークは着陸した。そしてそれからも、今の支配者である俺の命令を待っている。このデスホーク、もちろん神仙の山の所有物だ。練習のためということで貸与されている。
「この技の冴えだけを見たなら……差し詰めあなたの正体は、あの獣王ダノーヴァですかね」
「まさか。僕は男ですよ」
「はっははは」
暗黒時代の東方大陸を揺るがした軍閥の一人。それがダノーヴァ・ジャナームルだ。だが、彼女について、詳しいことはほとんど知られていない。わかっているのは女だったらしいというのと、カインマ侯国の南の砂漠地帯に根城を構えていたということくらいだ。とはいえ、一時は東方大陸の北部に貢納を課し、南部にも勢力を伸ばした、一時代の覇者だった。
ほぼ同時期に活躍した海賊王ルアンクーとは対照的に、ダノーヴァの物語は歴史の闇に埋もれつつある。何事につけ開放的で、多くの臣下に囲まれていたルアンクーと違って、彼女はずっと閉鎖的だったらしい。
無理もない。東方大陸を斜めに切り裂く砂漠地帯には、真珠の首飾りほどの経済性はなかった。せいぜいのところ、大陸の南北を繋げる交易路の支配くらいしかできず、それだってさしたる重要性はなかった。誰も欲しがらない土地に居座って、砂漠の王を名乗っていたに過ぎないのだから。ゆえに大勢の臣下を侍らせるなどできなかったし、彼女の事績を語り継ぐ人も僅かしか残らなかった。
だが、ダノーヴァには、砂漠を離れられない理由があった。なぜなら、彼女の軍勢における主戦力は、砂漠や周辺の山々に住まう魔獣達だったのだから。噂には尾鰭がついて、しまいには赤竜すら自在に操ったとされている。
だが、最後は死んだのか殺されたのか、どんな風にして彼女の王国が滅んだのかも定かではない。多分、後継者もいなかった。そのうち、砂漠地帯は元通り、人のいない土地に戻った。
「魔獣使役の術そのものは、既に世に知られております。使い手は限られますが」
「はい」
「しかし、過信なさらないことです。これは使役される側の魔物にも訓練を要する性質のものですから。何も教えられていない魔物に通用するのは『待機せよ』くらいなものです。それも確かとは言えません」
その辺のことは、おおよそ知っていた。キースからも教えられたことだ。野生の魔物にもこの技術は通用するのだが、やはり専用の道具や薬品なしにやると、命令を『思い出させる』のに時間がかかりがちで、事故を招きやすくなる。
魔物は、基本的には凶暴で危険なものだ。だから、安全を確保できず、道具も薬品も何もなしに服従させるのは難しい。しかも、複雑な命令をこなせるようにするためには、それなりの訓練期間も必要になる。
思えば、大森林で魔物の暴走を引き起こしたベヒモスも、単純な命令しか下せていなかった。服従する訓練を積んでいない魔物を動かすとなると、あれくらい大雑把な使い方しかできない。
「それに……」
「それに?」
「理由は定かではないのですが、この技術は、いわゆる危険な、邪悪な術に属するものだと言われております」
邪悪、か。
確かに、どう考えても女神由来の能力ではない。でもそれなら、魔法だってそうなのだが……
ただ、俺には心当たりがある。人形の迷宮の下層にいた、あのレヴィトゥアだ。今まで出会った中で、彼以上に魔獣使役の技術を究めた人物はいない。
あのリザードマンの祭祀王は、何に仕えていたのだろうか。考えるまでもない。破壊神だ。ただ、その破壊神が何者なのか、今でも元気に活動しているのか、それとも滅ぼされたり封印されたりしているのかは、俺にはわからない。
「ところで、ノーラがどうなったか、気になっているのですが」
「ああ、そちらなんですが、言おうと思っていました。出発に間に合いそうですよ。聞いた限りでは、もう暴走することもなくなって、安定しているらしいですね」
「よかった」
「相当に頑張ったようです」
実は、あれからノーラとはほとんど顔を合わせていない。というのも、しばらくは近寄るのも危険だったから。
ノーラは、ゼンを始めとする伝承者達の助力を得て、神通力を覚醒させることを選択した。というのも、大きな力を得る可能性があると告げられたからだ。俺は立ち会っていないが、数度の儀式の末に、彼女は二つの神通力を得たらしい。『念力』と『威圧』だ。
念力は文字通り、ものを持ち上げたり、押し潰したりする能力だ。但し、神通力を用いている本人を動かすことはできないらしい。威圧の方は、実は少々歪んだ神通力らしく、本来は『魅了』『恐怖』という二つの神通力であるべきものなのだとか。もちろん、常時発動するので、本人が制御できないと社会生活に悪影響を及ぼす。
特に問題になるのは、念力の方だった。出力が大きい念力は、本人には直接の害がなくとも、周囲にとっては危険極まりないものだという。よく神通力は、新たに手足が生えるようなものだと言われるが、それは念力についても同様で、要は見えない巨大な腕が勝手に周りの物を押し潰してしまうのだ。
そういうわけで、しばらくは食事にすら難儀をしたとのことだ。うっかり目を向けただけで、投げ与えられたパンすら叩き潰してしまうのだから。とはいえ、パンならまだいい。何より難儀をするのは、水を飲むことだ。コップも革袋も木桶も、片っ端から粉砕される。
なお、この神通力の覚醒のために、俺は彼女の能力枠を二つ、空けなくてはいけなかった。ピアシング・ハンドは奪ったり与えたりはできるが、自ら作り出すことはできないのだ。
もうすぐ彼女の誕生日になる。そうなれば枠が増えるから、また能力を移植し直せばいい。
「久しぶりに今夜にでも、一緒に夕食でもいかがですか」
「いいんですか?」
「ええ。問題なさそうですからね」
彼女と食卓を共にできる機会も、あとどれだけあるだろう。だからこそ、その時その時を大切にしたいと思っている。
「それと……」
ゼンは難しい顔をした。
「どうなさいました?」
「いえ、ホアの件ですが」
「はい?」
何かまずいことでもあったのだろうか?
「いえ、念話で関係者に……帝都とワノノマに問い合わせたのですが、ようやく処分が決まりまして」
「はい」
彼が手招きすると、その腕にデスホークが飛び乗って、足で掴まった。それからゼンは、足を引きずるようにしながら、ゆっくりと近くにある家畜小屋に向かって歩き出した。このデスホークを小屋に戻してしまわなければならない。
「まず、帝都はもう、直接ホアを管理するのは嫌だとのことで」
「まぁ、そうでしょうね」
「それで、徹底的な処分をということで、ワノノマに手助けをお願いすることになりまして」
といって、何をさせるつもりなんだろう? 魔物討伐隊でも監視役につけるんだろうか?
「難しいことではありません。恐らくですが、姫巫女に仕える職人の一人という身分で、普段は女しかいない島にですね」
それはきつい。事実上の監獄じゃないか。
「でも、それ、どうやって送り付けるんですか。そんなの、ホアに行けと言っても逆らうでしょうし、無理やり引っ張っていっても、どこかで脱走しようとするんじゃ」
「そうなのですよ。処分としてはやや厳しすぎるのもありますし、無理やり縛り上げて連行するようなものではなく……あくまで帝都で破廉恥な振舞いをしたに過ぎないのですから、これが正当な罰かというと、そうではない……ですから、あくまで」
小屋の前に立ち止まって扉を開ける。するとデスホークは心得ているのだろう。薄暗い小屋の中に自分から飛び込んでいった。それを確認して、ゼンは静かに扉を押した。
「気が付いていたらそうなっていた……建前上は、もっと小さな罰、処分であって、その、なんと言いますかな……こういうお話なのですよ。女神教の関係者として、ワノノマの重鎮がこの前の不行跡についてホアを譴責する。処罰はこれで終わりで、それはそれとして、彼女の職人としての腕前を姫巫女が認めて、まぁ、栄転という形で……」
「うわぁ」
さすがにいやらしい。
不祥事の処分としてワノノマのどこかの島に永久に隔離します、なんて言われたら、ホアは逃げる。逃げなくても反抗する。すると、これまで学ばせた職人としての技術も活かしてくれなくなる。第一、離島に幽閉するなんて、そこまでされるような重い罪を犯したのでもないのだし、不当だ。
だから、なんとなく流れでそうなるようなシナリオが必要だ。彼女はもう一人前の職人になったので、その腕は振るって欲しい。だから姫巫女に召し抱えられる形にはなる。でも実質は幽閉だ。恋愛したくても島には基本、男は来ない。来ても、ワノノマの関係者で、何かあっても内々で済ませられる。
ゼンはこちらに振り返り、じろりと俺の顔を見つめた。
「ひどいと思いますか」
「え、ええ、まぁ」
「ですが、それを言い出したら、我々神仙の山の住人は皆、結婚もしません。子供もいません。ただ知識と技を伝えて人生を終えるのです。この山の伝承者の一人になった以上、理不尽でも定めに従ってもらうしかないのです。ホアだけ例外にはできません」
と言われると、それも道理ではあるとわかる。ホアが外部の貴公子と恋愛結婚でもして、技術をバンバン提供したらどうなる? だから俺達にも、希少性や再現性のない能力しか提供しないのだ。
例えば、念力を得たノーラにしても、神通力を覚醒させるやり方そのものは教えてもらっていないし、俺も見せてもらえていない。最悪、俺達が手にした力で暴虐の限りを尽くしても、一代で影響が終わるようにしたいのだ。
また、俺が教わった魔獣使役については、こちらは再現性こそあるものの……ゼンが想定していた範囲では、そこまでの希少性はないはずだった。というのも、たった二ヶ月の訓練期間では、普通の人は達人の域に達することなどないからだ。
「本当は黙って済ませようかと思ったのですが、それも不実ですからな。あなたへのホアの好意を利用するわけですし」
「では」
「ファルス様は、これからスッケに向かわれるのでしょう? ホアを連れて行ってはいただけませんか」
そんな、こんな話を聞いてから、引き受けられるとでも……
いや、待てよ?
「……考えさせてください」
「ええ」
それだけでゼンは深く頷いて、この話を打ち切った。
甘い人だ。俺がこっそり裏切ってもいいように、すべてを話した。俺がこの事実をホアに告げれば、彼女は逃げるかもしれない。だが、俺はいくらでも言い訳できる。自分に惚れていてついてくるはずだったけど、他の男に目移りしたらしい、というように。
不慮の事態の責任まで、俺が負えるわけもない。ゼンが逃がせば大問題だが、俺がそうしても事故で済む。山の責任者として掟に従わねばならないという思いはあるのだが、一人の人間としては、やっぱりホアに幸せになって欲しいのだ。
ただ、それはそれとして、他の腹積もりもあるのかもしれない。
俺の異常な能力は、既にクル・カディが識別眼で確認している。その内実まではわからずとも、常人でないことくらいは知れてしまっている。元々、俺の次の目的地がワノノマ、それも姫巫女への面会を求めていると聞いているから、行き先を誘導する必要もないのだろうが、さもなければなんらか対策されていた可能性はある。少なくとも、見たままの情報をワノノマ側に伝えていないなんてことは、さすがに考えられない。
つまり、ホアの護送という任務の依頼は、俺への首輪だ。
今更の話だ。一切承知の上で、裁かれに行くようなものなのだから。ただ、その際にも、同行者の命乞いだけはしたいと思う。
「ホアは今、何をしていますか?」
「ああ」
ゼンは表情を改めて、明るい声で言った。
「今は、ファルス様が持ち込んだ魔道具の調査は終わったそうで、調整に入っています」
「古いものみたいですから……ちゃんとした職人が手を入れてくれると助かります」
「本人はそんなこと考えてはいませんよ。ああなるとホアは、食事もとらずに働き詰めになるのです」
小屋を離れて、俺達は広い修練場を並んで歩いていた。目の前には、幅広な正殿が聳えている。
「そろそろお昼ですな。夜にはみんなで食事ということにしましょう。下山の日も遠くはありませんし……が、昼までは今まで通り」
「はい」
「私から教えることはもうありません。午後はのんびりお過ごしください」
それで俺は、一礼して彼と別れた。
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