神仙の山へ

 雲一つない青空。立ち止まってじっと見上げると、底のない深みに落ち込んでいくような気さえする。空は青いものだが、今日のはあまりに青すぎた。

 辺りは静かだった。鳥の鳴き声も虫の音も聞こえない。自分達の足音ばかりが耳に触れる。ただ、足下には灰色の角張った石がゴロゴロしていて、その上を踏みしめていくので、どうしても砂利が蹴散らされ、或いは石がこすれ合って、この地の神聖な静寂を乱す。

 けれども、もしかしたらそのおかげで、俺はあの底知れない青空に吸い取られずにいられるのかもしれない。そんな風に思われるほど、この神仙の山に至る道は、清らかだった。


「どうした?」


 思わず足を止めた俺に、フィラックが尋ねる。


「いや」


 俺は周囲を見回した。


「本当にきれいなところだと思って」


 思えば、これまでの旅は目的がまずありきで、気持ちの余裕がなかった。不死への手がかりはあるのか、ないのか。魔物が出てきたり、食料が不足したり、暑かったり寒かったり。こんな風に景色を楽しむなんてできなかった。

 今は違う。俺の運命はもう、半ば定まった。神仙の山を立ち去り、ワノノマを目指すとなれば、今度こそ使徒が俺の前に立ちはだかる。そこで命を落とす可能性も低くはないが、もし生き延びたとしても、先はない。モゥハが俺のことを知れば、見逃すなんてあり得ないだろう。そこで殺されるか、監禁されるか、さもなくば封印されるか……

 だが、不思議なことに、逆に今、気持ちは楽になっている。言葉にしがたい痛みのようなものはあるが、どこか納得もできている。その上で、なんとしても旅を最後まで続けようという強い思いがある。

 多分これは、俺が人として生きて死ぬために必要な仕事なのだ。旅の途中、俺はしばしば人をやめた。憎悪の虜になって大勢の命を奪ったりもした。身も心も怪物に成り果てた。それでもせめて、最後は人として。

 ようやく、俺は正気を取り戻しつつあるのかもしれない。そして、そんなまともな俺にとって、この絶景は立ち止まって眺める値打ちのあるものだった。


「そうね」


 ノーラも足を止め、手で庇を作って南の山脈を見遣った。

 そろそろ太陽が真南にかかる頃だ。そちらには、ここより遥かに丈の高い山々が肩を並べていた。その岩肌は荒涼としていて、ろくに草も生えていない。ちょうどここからでは日陰になるのもあって、暗い灰色に染まって見えるが、それでも天辺近くのゴツゴツした岩の割れ目が白粉に塗り潰されているのがわかる。

 真夏にも冠雪したままの高山が連なるこの一帯のことを、土地の人は銀の嶺と呼んでいるらしい。あの向こう側には、また起伏のある高地が少しだけ続き、その先は東方大陸を斜めに隔てる砂漠地帯となる。


「なぁ、そろそろ飯にしねぇ?」


 当たり前のようについてきて、今ではしっかり仲間の一人ですという顔をしたホアが、しれっとそんな要求をした。

 なお、彼女は背中の荷物の一部をアーシンヴァルに運んでもらっている。どうしても嵩張る品々があるので、これはやむを得なかった。それにしてもアーシンヴァルも我慢強いもので、俺が頼み込むと文句も言わず、ここまで黙ってついてきてくれている。最初は手綱を引いていたのだが、そのうちにそんなことをしなくても従うとわかって、今では完全に手放しだ。


「そうだな」


 俺は大きなリュックを肩から滑り落とす。そこから小さなフライパンと蓋を引っ張り出した。


「ファルス、いつも思うんだが」


 フィラックが遠慮がちに言った。


「毎回、飯の準備をお前がすることないんじゃないか。雑用くらい、任せてくれてもいいんだが」

「いや」


 燃料にする木切れを取り出す。それから地面の窪みを見繕う。


「これは自分の仕事だから」


 ノーラも慣れたもので、その辺にある大きな石を拾って積み始める。簡易的な釜を拵えるためだ。


「どうせおいしいものは作れないけど、それでも一食でも多く手掛けておきたい」


 ここは恐らく標高二千メートル程度の高山だ。間近いところを見回しても、ほとんど木が生えていない。もし生えていても、育ちの悪い低木だ。あとは見慣れない草花がポツポツと生えているばかり。こういう場所で煮炊きしても、十分な加熱は難しい。水の沸点が低いからだ。

 それに、材料にも恵まれていない。ゴダ村で買いつけることのできた食材ときたら。僅かな干し肉、それも塩辛いやつと、これまた漬物にされた野菜。そして譲ってもらった食料のほとんどは、稗だった。そう、稗。雑穀の稗だ。あんな寒い地域で安定して収穫できる穀類なんて、それくらいしかない。だが、こいつはすぐにパサパサになってしまうので、食べても満足感が得られにくいのだ。

 即席の釜の上にフライパンを据えて、蓋をする。水だって限られている。いざとなれば魔術で作りだせばいいのだが、そもそも水の少ない場所でそんな魔法を使っても、効果は薄い。水を節約するのにも、食材をなるべくしっかり加熱するのにも、一番簡単な対応が蓋をすることだ。


 石の上に座って、じっくりと鍋の中が煮えていくのを待つ。蓋の上からじっと見ていても中身の具合はわからない。こういう時は、耳に頼る。だからその間は、意識を半分残して周囲の景色に目を向ける。

 南の彼方に見える高峰と違って、すぐ目の前の山々はずっと優しい。その頂には、今にも手が届きそうだ。木々はなくとも、まるで遠目には苔のように見える緑の絨毯が途切れ途切れながらも広げられている。すぐ目の前に、今にも花開きそうな丸い蕾がある。黄緑色の、まるで貴婦人の首のように細い茎と、白い風船のような花びら。それが微風に大きく揺らされた。


「そろそろか」


 乾いたタオルを添えて蓋を外し、白い湯気を避けて、皿にそっと稗のスープをよそっていく。

 食料も残り僅かになった。この辺りには食いでのある野生動物もいない。それどころか、大森林にいたようなグリフォンのような連中さえ見かけない。ただ、ホアによれば、まもなく目的地に着けるという。


「ホア」

「おう、なんだ、王子様」

「あとどれくらいだ」

「そうだなぁ」


 思い出そうとするかのように青空を仰ぎ、それからスープを口に運んで咀嚼して、やっと答えた。


「早けりゃ今日の夕方にも着くんじゃねぇか」

「そんなに来たか。もっとかかるかと思って食料を節約してきたのに」

「お前らが普通じゃねぇんだよ。なんだよ、その健脚っぷりは」


 旅から旅へ。もう三年半にもなる。

 長かったのか、短かったのか。初めのうちは、歩いても歩いても先に進めた気がしなかった。特にアルディニアは歩きにくかったっけ。ロージス街道があちこち寸断されていて……でも、今、あそこを旅したら、また違った感想を抱くのだろう。

 神仙の山を見たら、今度こそ旅の終点に向かうことになる。カークの街にいた時間も含めて、今はその狭間の安らぎの時間だ。


「じゃあ、食べ終わったら少し先を急ごう。せっかくだし、今日は屋根のある所で寝たい」

「う……そうかよ」

「どうした?」


 だが、ホアの表情はすぐれなかった。


「何か不都合があるのか」

「ねぇよ」

「そうか」


 彼女は神仙の山の関係者を自称している。だが、なぜかもうすぐ到着だというと難しい顔をする。

 自分から問題を相談してくるなら話も聞くが、そうでないならこちらからそれ以上、突っ込んだりはしない。俺には俺の、ホアにはホアの事情がある。また、何かまずいことがあるにせよ、それを理由に彼女を置き去りにできるなら、その方がいい。王子様云々はともかく、俺の行く道程は事実上、死出の旅だ。


「よし、じゃあ休憩終わり、出発だ」


 夕陽が山の端にかかる頃、俺達はとある岩壁の横を歩いていた。オレンジ色の地層の狭間、そこに斜めに白い筋がいくつも走っている。西日を受けたそのウエハースが眩しかった。

 昼間にいた場所よりはかなり下ってきたらしい。登ったり降りたりだったので、それだけでは現在位置の標高などわからないのだが、後ろを振り返れば黒ずんだ木々の影が見える。それも鬱蒼と茂っているのでもないから、やっと生えている程度の代物ではあるが。


「すげぇ崖だろ」

「ああ」

「だから、普通はみんなわからねぇんだ。一度でも来たことがあれば別だけどな」

「あそこか」


 俺は、こともなげに斜め前を指差した。

 この岩壁が刳り抜かれているところに、二本の石柱が突き立っている。そのいずれにも龍神を模した石像が飾られていた。


「えっ? どこだ?」


 フィラックが目を細める。彼には見えていないようだ。多分、あの門が魔道具なのだ。


「まぁ、近くに行けばわかる」

「えっ、お、おい」


 迷わずまっすぐ門に向かう俺の肩をホアが掴んだ。


「なんでお前、わかるんだよ」

「どうせ精神操作魔術がかかってるんだろう? わかるんだよ、そういうのは」

「えっ、じゃ、じゃあオレは何しについてきたんだ」

「うん? 神仙の山の立ち入り許可をもらうために口利きしてくれるんじゃないのか?」


 ホアの目が泳ぎ出した。


「ま、いいか。いい時間だし、もう入るぞ」


 彼女に構わず、俺は歩調を速めた。それでホアも項垂れつつ、観念したらしい。

 門の前で立ち止まると、フィラックが驚きの声をあげた。


「おわっ、なんだ、これ、いきなり」

「人払いの魔法がかかっている。本当にすぐ近くまでこないと、ここが入口ってことに気付けない」

「すげぇな」

「でも、それだけじゃないな。これは」


 ピンときた。

 他の魔法もかかっている。恐らく、意識探知などの類だ。来客や侵入者がやってきた場合に警報を鳴らすようになっているのだろう。


「じゃあ、入ろう」


 立ちすくんで動こうとしないホアの袖を掴むと、俺は大股に踏み出した。

 案の定、薄暗いトンネルを通り抜けたときには、向こう側には広場を背にして半円を描いて立ち並ぶ男達の姿があった。いずれも棒を手にしている。


「ようこそ、お客人」


 一人だけ棒を持たない中年男性が、進み出て挨拶した。体はか細く、馬面で、頭には小さな四角い冠をかぶっている。ゆったりとした白い長衣を身に付けている。ほっそりとした髭が鼻の下と顎から、筆先のように伸びていた。


「遠方からいらしたのでしょう。私どもはあなたがたを歓迎します」

「ありがとうございます」

「しかし、どこでここのことを……」


 そこまで言いかけた時、彼は俺の背中に隠れようとするホアに気付いたようだ。


「その者は」

「神仙の山の関係者だということで、道案内をお願いしましたが」

「失礼」


 彼はずんずんと歩み寄って、身を竦めるホアの首根っこを掴んだ。


「これ! この不良娘めが! 今更どの面を下げて」

「うっ、うっせぇよ! 放せよ!」

「これ」


 彼はすぐ後ろに控えていた男達に言った。


「逃げ出してもいかん。厳重に閉じ込めておけ」

「はい」

「あ、済みませんが」


 俺は一応、割り込んだ。


「ここまで連れてきてもらった立場ですし、こちらとしてはあんまりひどい扱いは」

「ええ、何も殺したりはしません。きつく説教するだけです。ご安心ください……ひったてよ!」


 俺の口添えにもかかわらず、彼は処分を取り下げたりはしなかった。

 こうなることがわかっていたから、ホアも神仙の山に行きたがらなかったのだ。といって、俺にも執着していたから、立ち去るという選択肢もなかったが。


「ちっ、ちっきしょぉ」


 珍しく弱気そうな涙声で彼女は訴えた。


「王子様ぁ、あとで助けに来てくれよぉ」

「ああ、気が向いたらな」

「ひでぇ!」


 やりとりはそれだけで、男達に急き立てられて彼女は一人、薄暗い広場の向こうへと連れ去られていった。


「王子様などと、あやつ、まだそんなことを」

「あの、済みませんが」

「おお、お客人、失礼致しました」


 厄介事が片付くと、彼は襟を正して改めて身を屈めた。


「無論、皆様方は歓迎致しますとも。あの不心得者を、おかげで捕まえることができましたしな」

「は、はぁ」

「私、ゼン・レンと申します。こちらの……責任者の一人と考えていただいて結構です。さて、まずはお茶でもお出ししましょう。こちらへ」


 俺達は広場からほど近い、木造の家に案内された。

 既に周囲は薄暗くなっていたが、建物の中には灯りが点されており、温かみを感じさせる橙色の光に満たされていた。彼は俺達に長椅子に座るよう勧めてから、尋ねた。


「それでお客人、失礼ながらまだお名前をお伺いしておりませんもので」

「申し遅れました」


 俺はまたすぐ立ち上がりながら、黄金の腕輪を見せつつ名乗った。


「ファルス・リンガと申します。フォレスティア王より腕輪を賜った騎士です」

「なんと!」


 彼は目を見開いた。


「では、あなたがそうだったのですか! いや、お噂はかねがね」

「えっ」


 こんな山奥にまで、俺のことが知られている? いや、誰かが知らせたのだ。


「まぁ、お座りください」


 そう言ってから、彼は自分でも対面に腰かけた。そうしてお茶を湯呑みに注いで勧めながら、口を開いた。心なしか、さっきまでの固さのようなものがなくなっている気がする。


「覚えておいででしょうか。アドラット・サーグンという騎士のことを」

「もちろんです。では、彼がここまで?」

「ええ。弟子を連れて、ここまでやってきましたよ。その時に、スーディアでの出来事も耳にしまして」


 考えてみれば不思議でも何でもない。彼は余計な寄り道をせず、まっすぐピュリスに向かった。俺が人形の迷宮で悪戦苦闘している頃には、とっくにパドマに到着していただろうから。


「他は、誰か」

「いえ、同行者はルークという少年だけで、あとはそれぞれ後に残してきたと言っておりました。ええと、オルヴィータという少女はピュリスの商会に預けて、タマリアという女性は帝都に送り届けたとか」

「そうでしたか」


 なら、ちゃんと面倒を見てくれたのだ。

 まず、オルヴィータについては主人と死に別れになってしまったので、身分が宙に浮いていた。一応、先代の当主の妻の召使という身分だから、筋合いからすれば、新たなスード伯であるジャンが面倒をみるべきなのだが、あれにそんな器量はないし、期待もできない。だから連れてきたのだが、それであちらから文句を言われることもないだろう。別に彼女は奴隷でも犯罪者でもないし、仕えていた相手はあくまでダヒアなので、スザーミィ家に対してはそこまでの義理もなかった。ピュリスのみんなが面倒を見てくれるのなら、余程のことがない限り、おかしなことにはならないだろう。

 タマリアについては、少し心配が残る。ただ、彼女についてはピュリスに残留させるのに難があった。なぜなら犯罪奴隷の身分だったから。一応、仮にも領主への反逆罪で囚われていたのを、法的手続きもなしに勝手に連れだしたのだ。ピュリスに置いておいて、後から経歴を指摘されるようなことがあった場合、庇いきれない。だから帝都行きというのは、事実上の亡命だ。ただ、そうなると彼女の周囲には知人の縁がまったくないことになる。一連の事件で最も深い傷を負ったのがタマリアなのに、誰も近くにいてやれないとは。


「その、では、二人はまだ」

「いえ。ここで修行をした後、二人とも下山しました。その辺については、後程お食事をお出ししますので、その時にでもゆっくりと」


 残念ながら、再会とはいかないか。それも不思議はない。あれから二年も経っているのだ。二人がここで一年を過ごしたにせよ、その頃の俺はアリュノーか、或いはラージュドゥハーニーにいた。


「ファルス様のことは、アドラットからくれぐれもよろしくと言付かっております。至らないところはあるかと思いますが、我々も出来得る限りはお力になりましょう」

「もったいないお言葉です」


 座ったまま、俺は頭を下げた。

 ありがたい。アドラットは、俺のことを覚えていて、気にかけていてくれたのだ。いつかお礼ができればいいのだが。


 彼は窓の外を見て、言った。


「そろそろいいお時間ですな。ここは山間ですので、日が暮れるのも早いのです。食事を用意させましょう。それと、お部屋にもご案内しなくては」

「あ、あの」

「はい?」


 その前に、尋ねておきたいことがある。


「済みません、疑問がありまして。あの、ホアは結局、何をしでかして捕まったのでしょうか?」

「ああ」


 すると彼はまた座り直して、深い溜息をついた。


「お恥ずかしいところを」

「いえ」

「あれは元々、アドラットの前の、昔の騎士が拾った子だったのですよ」


 うんざりした、と言わんばかりに彼は苦々しい顔をして、首を振った。


「少々長いお話になりますので、また後程、詳しく申し上げましょう。まずはお休みください」

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