水棲馬の伝説
それは人が通い続けた小径だった。誰が整えたのでもなく、ただそこを幾度となく踏みしめられて、そのうち草の方が生えるのをやめてしまったのだろう。その脇には色濃い緑の草木が生い茂り、今も人の領域を我が物にしようと、か細い枝を左右から伸ばしている。だが皮肉にも、その枝が形作るドームが、この先にある人間達の村への入口のように見えてしまっている。
「もうちょいだ」
ホアが前方を指差しながら言った。
「そこの坂を越えたら、ゴダ村が見えるはずだ」
結局、道を知っているということもあって、俺達はホアの同行を受け入れることにした。無論、彼女の誘惑モドキに屈したのではない。
あくまで予想でしかないが、神仙の山を去るまでは、使徒は仕掛けてこないのではないかと思っている。だから、当面は安全という認識だ。
なぜか。
俺の今の頭の中を、恐らく使徒は想定していない。彼の中のファルスは、いまだに生きる苦しみに囚われ、不死を追い求めている。南方大陸ではパッシャの残党に仲間を殺された。これでますますファルスは人の世に絶望したに違いない。
そしてリント平原でヘミュービに襲われた経験がある以上、モゥハのいるワノノマを訪れるのは最後にするはずだ。だから、たとえ神仙の山で不死の手がかりが得られる可能性が低くても、僅かな可能性に賭ける。モゥハに睨まれれば、今度こそ、そこでゲームオーバーなのだから、確率の低い勝負でも、最初から捨てていくなんてするわけがない……
俺は、その想定に敢えて乗ることにした。
実際問題、今の俺は不死にそれほど価値を置いていない。本音を言えば、まっすぐワノノマを目指してもよかった。だが、うっかり使徒の想定から外れると、逆に予想外の被害が広がる可能性がある。
つまり、神仙の山を経由しないとなれば、俺の心変わりを疑うだろう。なぜファルスは、自分を目の敵にするであろうモゥハのところに行こうとしているのか? 俺が不死よりモーン・ナーの呪いを重くみているなどと知られたら、奴は足止めを考える。もしピアシング・ハンドの秘密をモゥハに伝えたら? 使徒を名乗る連中がいて、これこれこういう目に遭いましたと、何もかもをぶちまけられたら?
東方大陸南部には、それなりに人も住んでいる。ワノノマ豪族の居留地もある。想定外の動きに出たファルスを食い止めようとなって、使徒が強引な手段を選んだら、大変なことになる。俺としては、無関係の住民を巻き添えにするような、考えなしの行動など選べない。
俺が神仙の山に行き、そこでまたしても不死を掴み損ねる。絶望する。ワノノマの姫巫女は不死の秘密を握っているかもしれないが、そこにはヘミュービのお仲間がいる。どうしたらいいんだ……そうやって葛藤しながら、奴の中のファルスは、東方大陸を南下する。
その途上のどこかで、きっと仕掛けてくる。なんのことはない。奴もまた、俺を相手に取引をしようとしている。直接殺しにこないのも、力尽くで服従させようとしてこないのも、心が折れるのを待っているのも、要はそういうことなのだ。
だが、俺はもう、覚悟を決めている。
使徒は、人目につかないことを望んでいるはずだ。だから恐らく、奴の想定通りに俺が行動すれば、人里離れたところでの対決になる。犠牲は出るかもしれないが……俺としては、どういう決着にするかはもう、考えてある。
「そら、見えたぞ」
小径の坂を登り切った、その場所から見下ろした。茂みの狭間からは、北に向けて口を開けている半月状の砂浜と、小さな村が見えた。さすがに家々が立ち並んでいるのはもっと手前で、小高い場所を選んで住んでいるようだ。周囲に木々がポツポツと生えているのもあって、ここからでは村の全貌はわからない。垣間見えるのは、くすんだ色の土壁と草葺きの屋根だけだった。
「ここくらいしか、途中で食いもん分けてもらえそうな場所はねぇからよ」
「ああ、助かる」
「んじゃ、お礼に一発」
それには返事をせず、スッと横を向いて坂を降り始める。もう、みんな慣れたものだ。ホアもこの程度でへこたれる女ではなく、溜息一つで黙ってついてきた。
森の中、蛇行する道を歩く。坂を下りてすぐ右に湾曲した道だが、すぐにまた左に大きく方向を変える。しばらく緩やかな時計回りが続いている。この道を見ながら、すっかり自分の中で戦いが習慣になってしまったのだと再認識させられて、溜息が出た。
村に至る唯一の入口だ。有事の際には、ここに村の男達が得物を手に駆けつけて足止めをするのだろう。大半の人は右利きだから、村側の男達は自在に武器を振るえる一方、侵入者の動きは制限されやすくなる。
時計回りが終わると、今度は急に鋭角に左向きの道になり、そこを抜けるといきなり視界が広がった。
ふっ、と海からの風が吹いて、俺達の頬を撫でていった。
「貧しそうな村……だな」
フィラックが思わず呟いた。
口には出さなかったが、同感だった。目の前には農地が広がっていたが、なんともお寒い様子だった。既に初夏に差しかかろうとしているのに、畑は一見して荒れ放題だった。野生動物にでも踏み込まれたのか、麦畑には押し潰され、倒伏しているところが見られた。人手が足りていないのか、何か好ましくない状況にあるのか。
「いや、まぁ、小せぇ村なんだけどよ」
この様子に違和感をおぼえたのか、ホアもそこで言葉が途切れた。
「とりあえず、村長のところまで行こうぜ」
俺達は、踏み荒らされた畑を横目に、口元を引き結んで畦道を歩いた。
「ほほう、お仕事でまた山へ」
「おう、それでこいつら連れて行くんだが、泊めてくれるよな?」
いったいどこからどこまでが本当なのかはわからないが、以前、ホアはこの道を「仕事」で通ったことがある。そのお役目で、また「お山」に戻らなくてはいけないと、そういう話にしていた。ホアが具体的にどんな仕事をしているかは語っていないし、年老いた村長もその辺に触れることはなかったが、この辺では神仙の山の関係者といえば、それで話が通じるものらしい。
「それは構いませんが」
まるで木の皮が色落ちしたような着物を身に付けた老人は、襟を掴んで引き寄せて、背中を丸めた。それから深い溜息一つ。
「あんまりおもてなしはできませんでな……」
「食い物も買い付けていきたいんだけどよ」
「申し訳ない。それは、できればご勘弁願いたいのですが」
やっぱりそうだ。
何者かに畑を荒らされている。今のところ、被害はそこまで深刻化していないとはいえ、この調子では先が危ぶまれる。
「何かお困りですか」
山賊の類か、それとも魔物か。
無暗な殺生は望むところではないが、良民が苦しんでいるというのなら、剣を抜いてならないということはない。むしろ、俺の力の使いどころなど、それくらいしかない。
「はぁ、実は海から馬がやってきまして」
「はぁ?」
ハンファン語に不慣れなフィラックは、自分が聞き損ねたのかと、思わず声を出してしまった。
「いや、今、申した通りです。海から馬が」
「馬って、あれか。人が跨って走らせる……」
「そう、その馬です」
「何がどうなったら海から馬が出てくるんだ」
この質問に、村長は一度、ホアの方に振り返ったが、また向き直って説明した。
「この辺りの昔話でしてな」
東方大陸の北東端、神仙の山の更に東に、かつては王国があった。世界統一前の頃、そこはカインマ王国と呼ばれていた。
女神の復権前のことだから、当然、地域ごとに魔王……当時でいうところの神が存在した。その地に根付いていたのはカインという戦神だった。黒い馬に跨り、黒い甲冑に身を包んだ姿で描かれたその神は、土地に住まう人々に恩恵をもたらした。カインのそれは、人に仕える獣だった。
牛、象、梟……いろんな動物が、カインの加護を携えて現れた。その現れ方にも特徴があった。例えば象は、必ず真っ白な体をしていたし、いつも泥土から這い出てきていたという。だが、中でも尊いとされたのが馬だ。カインの馬は、彼自身が乗りしろにするのと同じく真っ黒で、海からやってくる。
「その馬が、畑を踏み荒らしているってか」
「そういうことです」
「そんなの、罠でも仕掛けて、捕まえて殺すなりすればいいじゃないか」
「いけません」
村長は頭を振った。
「本来、それらの獣は、いずれも人を助けるために遣わされたものとされております。特に馬は、カインが人を信じて、その力を試すため、戦士と呼ぶに相応しい者への贈り物として差し出したといいますでな。それを罠なんかで殺しては」
「でも、魔王の馬だろう?」
「それなのですが」
ローカルな戦神カインは、実に戦神らしくない形で世界統一を乗り切ったらしい。
そもそも東方大陸北部にはカインの信徒達が住んでいたのだが、インセリア王国の成立時にも、武力でこの地域を奪還するに至っていない。この点がまず、戦神っぽくない。そしてギシアン・チーレムがこの地に至った時、カインはこれと戦いもせず降伏したという。
これだけ聞くと、勇ましいエピソードの一つも見当たらない。ただ、それはそれとして、女神の使徒たる英雄に背くことなく和平を選んだという点で、女神教からも魔王として槍玉に挙げられることはなかった。大っぴらに信仰されることはなくなっても、人々がカインの贈り物を象徴する動物の像を軒先に飾るのは許された。
既にシーラの存在を知り、シュプンツェを目撃し、イーヴォ・ルーの秘密を知った俺にとっては、理解不能な存在ではない。異世界からやってきた神々の中には、既存の世界との対立を避けた存在もいたというだけのことだ。戦う力や勇気がなかったのではなく、そうする理由がなかったのだろう。どうも神々というやつは、人間のような欲求というより、何か存在そのものに対する制約のようなものに動かされている面が見て取れる。
しかし、だとすると……
いまだに戦神カインは、滅ぼされていない? 存在し続けている?
もしそうだとすると、この海からやってきた馬というのは、果たしてカインが設定した自然現象がたまたま起きただけなのか、それとも何か意図するところがあってのことか。考えても仕方のないところか。
「だからって畑を荒らされているんじゃ、生きていけないだろうに。今まではどうしていたのか」
「こんなことは滅多にありませんので、実際に海から馬がやってくるのを見たのは、これが初めてでしてな。わしらも途方に暮れておるのです」
俺達は顔を見合わせた。
とはいえ、ここを抜けたらしばらく村落はない。食料をいくらか分けてもらえないと、とてもではないが神仙の山まで行き着けそうにない。
代わって俺が尋ねた。
「では、どうすればいいのでしょうか」
「本来なら、力のある戦士が素手で挑みかかり、屈服させればよいとされます。なので、夜中に馬が出た時に、村の若者が挑んだのですが……」
敵わず吹っ飛ばされてしまった、と。
「毎晩やってきては、畑を踏み荒らしたり、食い散らかしたりするのです。甲高くいなないては村人を挑発するのですが、誰も出てこないとますます乱暴になるありさまで。これでは今はよくとも後々、収穫が減るのも避けられそうになく、既に食料は貴重なものと思って貯めこまねばならんのです」
「では、こうしましょう」
俺は提案した。
「今夜、その馬に挑んでみます」
月明かりが地上を照らしていた。頭上を見上げると、灰色に縁どられた黒い雲がいくつも浮かんでいる。だが、どうしたことか、金色の月を避けるように、そこだけぽっかり口を開けていた。
虫の音が、ちょっと離れた草叢から途切れ途切れに聞こえてくる。それと時折、野鳥の長く尾を引く声が、夜闇を引き裂いた。
真夜中にしては明るい。おかげでゴダ村の様子がよく見える。
東方大陸の北部、海が内陸に深く切り込んできている一角に位置するこの村には、ちょっとした防壁がある。薄っぺらい小さな石を積み上げ、セメントのようなもので補強した代物だ。それが村を囲む土塁の上に据えられている。ただ、壁そのものの高さは一メートルもないし、幅もせいぜい五十センチほどだ。真ん中には村人が行き来するための通路があるし、他も緩やかな傾斜があるので、なんなら駆け登ることさえできそうだ。
これは人間相手の防御施設ではなく、自然環境に対する備えだ。具体的には、海が荒れて土地を水浸しにする危険がある。今の時期から夏場いっぱいにかけて、彼らは小さな漁船で近海の魚を獲るが、冬場は当然に過酷な寒さが押し寄せる。波風の強い冬場には、恵みの海が牙を剥くのだ。
村は決して大きくない。だからこの防壁の維持にかかる負担も小さいとはいえず、海側の壁はしっかり組まれているが、南側の壁はというと、合間から雑草が顔を出していたりもする。その、芽生えたばかりの初々しい双葉、曲がったか細い茎が、月光を受けて影を落としている。
北側は海。三方は鬱蒼と茂る森。そんな中、草葺きの家々がひっそりと佇んでいる。物置を除けば、どれも古びた土壁ばかりだ。
この村の人々の日常は、どんなものだろうか。名目的にはインセリア共和国に従属しているのだろうが、実質的には統治が及んでいるとも思えない。無論、この東にある森林地帯や山脈の向こう側にあるカインマ侯国の支配下にもないだろう。どこからも課税などされないし、またそれだけの余剰も生み出せない土地。昨日と変わらない今日を過ごすので精いっぱいの生活の中に、思いもよらない問題が降りかかってきた。
ここで暮らす人は、ここが世界のすべてなのだ。外の世界との取引が成り立たないくらい、辺鄙で貧しい村だから。彼らにとっての外の世界とは、ごくたまに通り過ぎていく旅人くらいなものだった。
生まれ、物心ついてまもなく親の手伝いを覚える。教育といえば農作業か漁業、その他村で自給する衣類や道具を作ること。大人になればほぼ自動的に結婚が決められ、子供ができれば後は繰り返し。
彼らは何のために生きているのだろう。もちろん、そんな問いが贅沢で傲慢なものだということくらい、承知はしている。
《出たぞ》
海岸を見張っているフィラックの心の声が聞こえてきた。
彼の目にしている景色が、俺の心の中にも色鮮やかに描かれる。
半月上の砂浜に、月光を照り返す黒い波が静かに打ち寄せていた。そこから一層、黒々とした影が、ぬるりと這い出てくる。それは首をもたげ、鬣にへばりついた水気を払うべく、身を震わせた。透明な雫が飛び散って、一瞬、七色に輝いた。
そうするのが当然といわんばかりに、その小柄な馬は、まっすぐ村のある方へと歩みを進めていく。浜辺に繋がれた小さな漁船の横を抜け、木々の狭間に身を隠すフィラックの目の前を通り過ぎ、海から上がる際に村人が使うスロープを静かに登り始めた。
それで気付いたのだが、どうやらこいつは、まだ仔馬らしい。明らかに小柄で、多分、生まれてから一年も経っていないように思われる。
俺は準備を始めた。今は鎧もないので、例のナシュガズで手に入れた魔道具も身に付けていない。馬と取っ組み合っている間に破損したら、たまったものではないからだ。丁寧に詠唱して、身体能力を高めていくしかない。
《聞いてた通り、広場に向かうみたい。もう慣れ切ってるわ》
ノーラの報告が届く。村の入口に待機していた彼女の方を、馬はちらりと見たらしい。だが、向かってくる気配がないのを察したのだろう。一瞥しただけで、すぐまた歩き出した。
それからそいつは、家々に囲まれた村の中心の広場に踏み込んだ。そしていつものように、ここで足を踏み鳴らし、甲高く嘶いた。挑戦者を募っているのだ。これで誰かが勝負を挑めばいいのだが、近頃は誰も敵わないということで、家から出てこない。すると痺れを切らしたこの仔馬は、あろうことか南側の農地に行って暴れ出す。そうすれば誰かが出てきて相手をしてくれると思ってのことだろうか。
「待たせたな」
だが、今夜は俺がいる。
「相手してやるぞ」
そう声をかけると、理解したのか、そいつは村人を挑発するのをやめて、静かにこちらを見据えた。
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アーシンヴァル (5)
・マテリアル ホース・フォーム
(ランク7、男性、1歳)
・アビリティ 水中呼吸
・マテリアル 神通力・断食
(ランク5)
・マテリアル 神通力・暗視
(ランク5)
・マテリアル 神通力・疲労回復
(ランク5)
・マテリアル 神通力・高速治癒
(ランク5)
空き(0)
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まだ若駒ながら、実に美しい体つきをしている。それはいいのだが、名前がついている?
では、誰かの差し金で……しかし、それもどうなのか。昼間に聞いた限りでは、このような戦神カインの遣わす動物は、昔から稀にはいたというのだから。
一つ言えるのは、この仔馬、少なくとも魔獣使役で操られているのではないということだ。もしそうなら、対話コマンドのようなスキルがくっついているはずで、それがなければ複雑な命令を受け入れて実行する能力自体がないことになる。
アーシンヴァルは、俺を勝負の相手と認めたらしい。
軽く上半身を跳ね上げて挨拶をすると、そのまま軽やかな足取りでまっすぐこちらに迫ってくる。俺はそれを、ギリギリになってから飛び退いて避けた。
当たり前だ。このアーシンヴァルとかいう馬、どういうつもりかわからないが、その突進を人間が正面から受け止められるわけもないだろうに。恐らくだが、俺の四倍くらいの体重はある。魔術で強化してあるとはいえ、単純に軽さで持っていかれる危険があった。
力比べをするなら、勢いを殺してから、きっちり組み合う必要がある。といって、馬は案外繊細な動物というのもあるから悩ましい。足を折っただけでも生きられない。その辺は便利な神通力がくっついているから、程度問題かもしれないが。一歳になるかどうかの若さでは、まだ骨格も固まり切っていない。神様からの授かりものを、乱暴に押さえつけて殺してしまうというのもよろしくないだろうし。
肩透かしを食らったそいつは、すぐ振り返ると俺を恨めし気に睨みつけた。そうしてまた頭をぶつけてこようとする。それも避けた。
いろいろ準備はしてあるが、力比べができるのは俺だけだ。一発でやられてしまったのでは。組み合うタイミングを選び抜きたいところだ。
三度目、こちらに振り返ったアーシンヴァルは、さすがに苛立ちながらも、どうせ相手は避けてばかりと学習したのだろう。のっそりと向きを変えた。
そこに飛び出していった。胸を押し付け、前脚の付け根を取る。少なくとも、相手の上半身を浮かせてしまわなくては。四本の足でしっかり踏ん張られては、いくらなんでも分が悪い。
あくまでこの瞬間でなければならなかった。相手が後ろ向きのときに突っ込んでいったら、後ろ足で蹴られていたかもしれなかった。
「あっ!」
だが、この奇襲に驚いたのか、こちらがしっかり組み付く前に、先に上半身を浮かせて俺の拘束を振り払うと、乱暴に向きを変えて南側へと突っ走りだした。
「待て!」
今度はあちらが逃げる番だ。といっても、戦意喪失というのでもなさそうだ。勝負のやり方を変えるつもりなのだろう。
アーシンヴァルは、南側の石垣を前にして急に立ち止まったかと思うと、驚くほど伸びやかな動きで斜め上へと跳び上がった。軽々と壁を乗り越え、一段高いところにある畑へと乱入していく。
こうなることも想定していたし、むしろこれこそ本命だったが、それなら決着を急がないといけない。農作物をメチャメチャにされては、ゴダ村にとっては大損害だ。
追いかけて這い上がると、そこには畝が一直線に並んでおり、緑の葉っぱが大きく広がっていた。その狭間をアーシンヴァルは器用に駆け抜けていく。
「どこへ行く!」
言葉がどこまで通じているのか、或いはまったく理解されないのかわからないが、俺は怒鳴りつけた。それで奴は一瞬振り返ったが……
その時、不意にアーシンヴァルのすぐ前から、騒がしい物音が響いた。木々を打ち鳴らす音がしたかと思うと、月光を照らし返す木片の数々が空中に踊った。ビックリしてアーシンヴァルは急ブレーキをかけて立ち止まる。
ホアが仕掛けた罠だ。といっても、獲物を殺すためのものではない。仕組みは単純で、紐をつけて結んだ木片が畑の土の上に転がされていただけだ。紐は畑の両端に立てられた支柱から垂れ下がっている。それを引っ張ると木片ごと持ち上がり、互いにぶつかり合って音をたてる。要は鳴子だ。
「オォーッ!」
これに呼応するように、畑の右手から、男達の怒号が響いた。連日連夜の騒ぎに困り果てていた村人達だ。彼らが農具を振りかざして叫び声をあげると、既に戸惑っていたアーシンヴァルは、更なる混乱に陥った。
いい感じだ。あとは畑の左側に誘導する。そこで取り押さえてやる。
「おっしゃぁっ!」
暗闇の中から、ホアの声が聞こえた。と同時に、順番に紐を引っ張っているのか、鳴子が時間差をおいて、ここからみて手前から順番に持ち上がって音をたてた。急旋回したアーシンヴァルは、足元を乱しつつ畑の敷地に沿って慌てて逃げようとする。
速度が出ていない今なら。俺は全力で駆け寄り、横合いからその首に抱き着いた。
最初は思った通り、こちらの体が浮いた。だが、足がつくと次第にアーシンヴァルの動きが鈍りだした。
もう少しだ。この辺りに最後の仕掛けを用意しておいた。
不意にその体が揺れたかと思うと、急に押してくる力が弱まった気がした。どうやらかかってくれたらしい。
音の出る罠で逃げる方向を誘導するのだから、その先にもう一つ罠を仕掛けておくのは、当然の考えだ。といって、威力がありすぎるものでは、カインからの授かりものを殺してしまう。だから俺は、畑の左側にところどころ土魔術で落とし穴を作った。といっても、中が空洞な文字通りの穴ではなく、足元が緩くなる程度、穴の中が泥沼になる場所を拵えたというだけだが。
自分の何倍も体重があって、しかも四本の足で踏ん張る相手に相撲で勝負するというのでは、俺としても勝つ自信がなかった。だから相手の有利を殺すための前準備をしておいたのだ。こうして今、後ろ足が泥沼にはまって踏ん張れなくなった今、アーシンヴァルは俺の腕から抜け出ることができなくなった。
しばらく抱き着いていると、観念したのか、アーシンヴァルは前に出ようとするのをやめた。俺が体を離しても、特に暴れ出そうとはしなくなった。
周囲から足音が近づいてくる。さっきまで茂みに潜んでいた村人、ついでホア、ノーラ、最後にフィラックが駆けつけた。
「うまくいったみたいだな」
「次は、ここから引っ張り上げてやらないと……いくぞ、上がってこい」
俺の言葉を理解したのか、そっと前脚の付け根に手をかけて引っ張ると、アーシンヴァルも大人しく従った。
ほどなくして、泥濘にはまりこんでいた下半身を完全に引き上げることができた。自由を取り戻しても、言い伝えの通り、もはや暴れだしたりすることはなくなっていた。
「いや、お見事、これで一安心というものです」
後ろから村長の声がした。
「少し畑を踏み荒らされてしまいました」
「いやいや、今夜で片付いたのですから、これでよしとしませんと。それより」
村長の視線はアーシンヴァルに向けられた。
「力比べで取り押さえたのですから、この馬はファルス殿のものです。カインの祝福です。大切に扱ってやってください。まずは名前をつけては」
名前、か。
既にあるといったら、どんな顔をするだろう?
「村長、つかぬことを聞きますが」
「はい? なんですかな?」
「アーシンヴァルとはどういう意味の言葉か、おわかりでしょうか」
ハンファン語にも、そんな単語はなかった気がする。
思いもよらない質問だったのだろう。彼は眉間に皺を寄せ、思い当たるところがないか考えていたが、結局、これといった答えを捻りだせなかったらしい。
「申し訳ありませんが、何も」
「いえ、気になさらず」
「なぜそのような問いを?」
俺は咄嗟に答えた。
少々軽はずみだったかもしれない、という後悔が混じる。
「自分でもよくわかりません。ただ、この馬が自分でそういう名前だと言っている気がしまして……」
「おぉ」
すると、彼は勝手に解釈してくれたらしい。
「いや、村を荒らされたとはいえ、元々はカインの恵みですからな。そういうこともあるかもしれませんな。なるほど、なら、その名前をつけておやりなされ」
「ええ、そうします」
ノーラは、俺がなぜこんな問いを発したかを理解したようだ。ゆっくりと頷いた。
俺が軽く肩を叩くと、アーシンヴァルはそれと察して、俺の後についてきた。
ようやく安眠できそうだと、気の抜けた村人達に続いて、俺達は農地を降りて村の広場に戻り、割り当てられた家に入って横になった。
それからは何事もなく、夜が明けてから、俺達は村長を相手に食料を買いつけて、また東に向かって旅を続けた。
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