ホアの論理
多少、空に雲がかかっているが、今日も清々しい晴天だ。
北方の大地は実に荒々しかった。今、俺達が歩いているのは、広大な峡谷だ。といっても、それを挟む左右の丘の高さはさほどでもない。まるで巨大なチューブが回転しながら地面をくり抜いていったみたいな形をしている。それが蛇行しながら、おおむね北東方向から南西へと抜けていっている。かつて、ここに氷河があったのだろうか?
この削られた地面の底に、ごく浅い川が流れている。青みを帯びた、まるでついさっき叩き割られたような歪な形の岩が川べりに転がっていた。川幅も場所によってまちまちだ。或いはこの水の流れ、毎年変わっているのかもしれない。周囲に木々はほとんど見られず、ごくうっすらと緑の絨毯が広がっているだけだ。それも川から離れると、途端に赤茶けた丘の天辺が見えてくる。赤褐色の岩肌だが、陽光が差しているところは黄色く染まる。
耳に触れる川の音が心地よい。北国の遅い春だ。あえて一つだけ文句があるとすれば、やや日差しが強すぎることくらいだろう。それも柘榴石の月という時期にしては、まだ過ごしやすい。
思えば、こんな快適な旅は初めてなんじゃないか。最初、ティンティナブリアを抜けた時には真冬に山越えだったし、タリフ・オリムからオプコットに向かう際には、吹雪のリント平原を歩き通した。かと思えばスーディアはやたらと蒸し暑かったし、サハリアはカラッとはしていたがやっぱり灼熱だった。南方大陸については、もう何も言うまい。
「空気が澄んでるわね」
「ああ」
「どうしてかしら。なんだかまるで、どこか自然の綺麗なところに遊びにきたみたい。思い出すわ、収容所の最後の遠足」
ノーラも珍しく明るい表情を見せている。
「サハリア人としちゃあ、これにもうちょっと木が生えてくれているといいんだけどな」
「ちょっと潤いがなさすぎるか」
サハリア人の理想とする自然の姿は、フォレス人の考えるそれとは微妙に違う。フォレス人は最初から自然豊かなところに暮らしているためか、純粋に美しい景色であれば評価する。だが、サハリア人はというと、そこに豊かさをも見出そうとするのだ。
「まぁな。でも、これはこれでいい景色だ。おかげで歩くのがまったく苦にならない」
「でも、足元には気をつけたほうがいい。岩だらけだから」
「わかってる」
楽しい楽しいピクニック……
だが、そんなひと時にノイズが混じる。
後ろから遠く金属音が聞こえてくる。それで俺達の足が止まった。
揃って溜息をつく。
「あの女、まだ追ってきてるのか」
「ごめんなさい、私が鍛冶師を訪ねようなんて言わなければ」
「いや、仕方ないよ」
少し離れた向こうに、大荷物を担いだ女が一人。無理やり風呂敷で包んだ自分の商品……剣とか槍とか、そういうものを背負って、ホアは俺を追いかけてきていたのだ。
まったく、どういう執念だろう。俺達は一泊しただけですぐミッグを離れ、東に向かって歩き出したというのに、どんな手を使ったのか、彼女はそれを察知して大急ぎで後をつけてきたのだ。
「おーう」
俺達が立ち止まったので、彼女はこちらに手を振った。
「オレの王子様ァーッ! オレを受け入れる準備はできたかァッ?」
できない。あり得ない。何を言ってるんだこいつは。
「帰れ」
「オレの帰るところはお前の帰るところだぜ?」
「やめてくれ。申し訳ないとは思うけど、ハッキリ言わせてもらう。気持ち悪い」
これ以上ない明確な拒絶に、だがホアはまるっきりダメージを受けなかった。
「ハァーッハッハァ! その手の話はとっくに予習済みだぜ! いいぜ、高い山を登っていけってことだよな?」
「違うから」
こいつの思考回路が根本的に理解できない。
なるほど、俺はシーラのおかげで美男子に育ちつつある。そこがある種の女性にとって、大変魅力的に映るのだろう。それはいい。
だが、まず、この世界の女性の大半は自由恋愛で結婚したりなどしない。だから男を追っかけるという発想自体がない。もっともこの点、手に職があって、しかもどうやら常人離れした能力まで備えているホアなら、乗り越えられない壁ではないが……
だが、彼女が俺を見初めた理由はなんだ? 確か、金持ちとかお坊ちゃんとか、そんなようなことを言っていた気がする。だとしたら、いろいろおかしい。ホアは自分の腕っぷしでお金持ちになれる。逆に玉の輿に乗っても、いいことなんかない。良家に嫁ぐ娘には、その家に見合った態度や振る舞いを求められるからだ。つまり、獲得したその経済力は、経済的自由とは直結しない。
実際には俺には係累もいないし、やかましい家のしきたりなんてものにも縛られてはいない。そうしたネガティブな面が最小限で済む一方、キトの税収を好きに使えるお金持ちでもあるのだが、それは彼女の知るところではないはずだ。
要するに、ホアは恋愛にメリットを求めているのに、その辺の収支がまるで計算されていないのだ。仮に俺が彼女好みの美男子だとしても……美男子なら他にもいるだろうし、しかも彼女が知り得た範囲で判断するならば、経済的にも生活上においても、得るものより失うものの方がずっと多い。
「まぁーたまたぁ! そういって悪態をつきながら、オレが追いつくのを待っててくれてんだろォ? 知ってるぜ、そういうお話なんだってな!」
「ねぇ」
ノーラがスッと割って入った。
「ホアさん、ちょっといいかしら」
「なんだい義姉さん」
「義姉さんじゃないわ」
さすがのノーラも呆れながら溜息を繰り返した。
「私達に何の用なの?」
「そりゃ決まってんだろうがよ。そこの兄ちゃん、オレと結ばれようぜ」
「断る」
即答したが、まるで凹んでいない。
「いやだって言ってるわ」
「口先だけだろ」
妄想の世界に生きているのか、まるで話が通じない。
「いろいろ問題はあるけど、一つずつ尋ねるわ」
「おう、なんだ」
「まず、どうしてその……」
「結ばれたいかって? そりゃもちろん、王子様だからだ!」
返答が狂っている。
「王子様というのは? ……彼は別に、一国の王子なんかじゃないわよ?」
変に情報を与えないよう、あえて俺の名前を伏せて彼女は尋ねた。
「なんだ? 王子様って言葉の意味もわかんねぇか?」
「ええ、言葉通りの意味しかわからないわ」
「そりゃあお前、まずイケメンだろ? で、まぁあとは条件次第だが、金持ちだったり、いい家の生まれだったり、強かったり、いろいろさ」
この返答に、ノーラは眉根を寄せた。
「じゃあ何? 顔がよくてお金持ちで強そうだったら、誰でもいいってこと?」
「誰でもってわけじゃねぇさ。でもよ、お前だって女なんだから、わかるんじゃねぇのか」
顎をしゃくりながら、ホアはあけすけに言った。
「じゃ、女が男にホレるってなんだよ? 顔がいい、ガタイがいい、オシャレ、金周りがいい……んでもって強い。いちいち理屈で考えなくたって、そういうのに惹かれるんだろが。男だってそうだ。女の胸尻見て興奮すんだろ」
「そこは否定はしないけど」
「だろォ? オレが思うに男ってのはよ、ヤスリなんだ」
「ヤスリ?」
「んで女は原石。イイ男とくっつく。すると磨かれてホラ! キレイに輝けるってもんだ」
この言いざまに、珍しくノーラの顔色が変わった。普段、きつい物言いをすることもある彼女だが、怒りを露わにすることなど、そうそうなかったのに。いや、これは怒りというより、もっと何か別の……とにかく激しい嫌悪感だ。
「最低」
「あ?」
「そういう理由なら、二度と近づかないで」
「やだね」
言葉もないノーラに代わってフィラックが尋ねた。
「素朴な疑問があるんだが」
「なんだ?」
「お前、仕事はいいのか。何もかも放り出してきたみたいだが」
するとホアは手をひらひらさせながら、こともなげに言った。
「いーに決まってんだろが。オレが何しにあんな街にいたと思ってやがんだよ」
「何しにって」
まさか、イケメン狩りのため、とかっていうんじゃないだろうな?
「ボヤボヤしてたらすぐババァになっちまう。その前に最高の男と出会わなきゃ、何しに生きてんだか、わかんねぇだろが」
そのまさかだった。
「だったら、どうしてミッグに留まっていたんだ。こう言っては何だが、良家の貴公子と出会いたければ……出会えるという保証はできないが、帝都にでも行けばいい。あそこなら、名門の子息が世界中から集まって、例の学園に通うから、いくらでも探せたんじゃないのか」
「そのつもりだったんだけどよ」
バリバリと頭を掻きむしりながら、ホアは隠しもせずに言い放った。
「逃げ出しちまって」
「はぁ?」
「そらだってお前、好きに鉄も打てねぇわ、出歩くにも文句言われるわ、男も探せねぇわで、散々だったからよ。何もかも放り出して男を追っかけたら……へへ、騒ぎになっちまって」
よくわからないが、わかった。
帝都にはいたことがある。だけど、この非常識さもあって、問題を起こして逃げてきたのだ。
「はー、イケメン目当てでわざわざ帝都まで行ったのによ、空振りで逃げ出すことになるたぁ思わなかったぜ」
いや、目の前の態度を見ていると、むしろ逃げ出す以外の結末があり得たかどうか。
「けど、行き場所なくて困ってどーしよっかなーと思ってたところでコレだもんな! やっぱ女神様はちゃんと見てるぜ!」
これが女神の差し金だとしたら、この世界の女神というやつは間違いなく邪神だ。少なくとも、俺にとっては。
「俺からも質問がある」
「おう、なんでも聞いてくれ!」
他二人が声をかけた時より、明らかにホアのテンションは高かった。
「まだわからないことが二つある」
「おうおう」
「一つは、男を追いかける理由だ。こう、言ってはなんだが、他の部分はともかく、鍛冶師としての腕は立派だと思っている。少なくとも剣の出来栄えはよかった。だったらわざわざ貴公子を射止めなくても、自分の腕前を活かして自由に暮らせばいいんじゃないのか?」
もしかすると、彼女はわかっていないのかもしれない。俺は説明を追加した。
「帝都出身の女と話したこともある。相当な美人だったが、やっぱり貴族との恋愛はうまくいかなかった。結婚しようとしても、相手の家柄に応じて、生まれも振る舞いも厳しく査定される。仮にお前が大貴族の嫡男と結婚できたとしても、毎日堅苦しいことこの上ない暮らしになる。ひょっとすると、鍛冶仕事をする自由だってなくなるかもしれない。せっかくそれだけの腕前があるのに。なぜだ?」
すると、彼女の表情は……まるで真昼の太陽から、夕暮れ時のような雰囲気に変わった。
「そりゃあ、さ」
声の勢いもしぼんでいる。
「オレも鉄を打つことにゃ誇りを持ってるし、大事な仕事だとも思ってる。なくしたかねぇよ」
「だと思う」
「でもよ、それってイモムシの仕事じゃねえか」
「イモムシ? それはいくらなんでも」
鍛冶師は立派な仕事だ。逆に貴族の奥方なんか、下手をするとただのお荷物じゃないか。よっぽど社交に長けていて政治力でもあればともかく。
「ああ、イモムシって言葉に悪い意味はねぇよ。けど、イモムシがイモムシでいるのは、何のためだ? いつかサナギになってチョウになるためだろうが」
「ん? まぁ」
「どんだけ立派なイモムシになってもチョウになれねぇんじゃ仕方ねぇ。逆にどんだけみすぼらしいチョウでも、立派なだけのイモムシよりはマシさ。わかるか」
なんとなくわかる気はした。
彼女はある種の変質を求めている。それは一人ではなし得ない性質のもので、しかも自分自身の努力の延長線上にはない何かだ。
「もう一つ。なら、結婚なり恋愛なり、とにかく納得できる相手が欲しいというのはわかったが、どうしてそういうやり方なんだ?」
「あん?」
「良縁を求めるなら、一人でこんな無茶をするより、誰か有力者の力を借りて紹介してもらうとか、やりようはあるだろう。それに、一人で相手を口説き落とすにしても、こんな乱暴なやり方でどうにかなるとでも思っているのか」
するとホアは、夕暮れから宵の口に差しかかったかのように、更にしょげてしまった。
「まず有力者っつーのはナシだな。オレの立場からして」
「立場?」
「んでやり方が乱暴だって? んなのわかってんだよ。けど、他にやりようあんのか?」
「なに?」
ホアはいきなりノーラを指差した。
「こんなキレイな顔してりゃ、あとはキレイな服着てるだけでイイ男が寄ってくるさ。でも、オレを見てみろよ。毎日毎日鉄をぶっ叩いて、手なんざこのザマ。オレからいかなきゃ、始まんねぇだろが」
毎日の鍛冶仕事ですっかり固くなった掌を広げて、彼女は言った。
これも一応、道理はあったということか。お淑やかな振舞いをして、男に合わせては……それは、彼女にとって意味が薄い。自分より美しい女性は山ほどいる。黙っていたのでは振り向いてもらえない。本来、貴公子という高嶺の花とは釣り合わないのだから。自覚くらいはあったのだ。
「なるほどな……でも、能力があることはわかっている。もし、なんらか支援を求めているなら、然るべきところに相談してもいい。良縁を見つけるよう、有力者に伝えることもできるが」
なんでもかんでも持ち込んで申し訳ないが、ティズ辺りに頭を下げれば、何とかなりそうな気はする。それに彼女自身、滅多にいないレベルの職人だ。多少、素行に問題があるにせよ、手元に才能が転がり込んでくるなら、ただ一方的に厄介事を押し付けられたとも思われずに済むだろうし。
「ちげぇよ」
「は?」
「適当な男、見繕えっていってんじゃねぇ、オレァ、あんたがいい」
ある意味、男らしいというか、ド直球だ。
ふと、前世を思い出す。もし、当時の俺がこんなに潔く好意を向けられたら、どう答えていただろう? 途端にしおらしくなって、流されてしまっていたかもしれない。
だが、こちらとしては、その希望を満たす余地がない。神仙の山に寄った後は、恐らくモゥハのいるワノノマまで行くことになる。俺の存在を知った龍神が黙って見逃すはずもないし、その前に使徒の介入だって考えられる。
「それは、まずお互い、無事に生きていたら考えることだな」
美男子、貴公子が欲しいなら、他を当たった方がいい。俺の旅についてくるというのがどれほど危険か。ノーラもフィラックも承知して、覚悟の上でついてきている。だが、ホアは何も知らない。
「悪いが色恋沙汰にかかずらっている余裕はない。俺達は旅を続ける。お前の都合にこれ以上、構っていられない」
「なんだよ? オレもついていくぜ? これでも役に」
「死ぬぞ」
「あ?」
フィラックが真顔で言い足した。
「本当だ。ここに来るまで、一緒に旅した仲間も死んでいる。この先も、何があっても不思議じゃない」
「マジかよ」
「俺の剣の腕を見たな? そういうことだ」
会話が途切れる。
俺達は一歩、後ろに下がった。
「幸せになるんだな。こんなところで、たかだか一目惚れだか思いつきだかで、訳ありの連中についていって、人生を棒に振ることはない」
「お、おい」
そのまま去っていこうとする俺達に、ホアは声をかけた。
「どこ行くんだよ」
「どこでもいいだろう」
「待てったら!」
忠告にもかかわらず、彼女は俺の背中に縋りついた。
「まっすぐ東に向かって歩きやがって、そっちにゃちっぽけな村ばっかりあるだけだぞ! あとは山ばっかだ! 何考えてやがんだ? それとも、カインマ侯国まで歩いていく気かよ!」
大陸をほぼ横断すると、やがて人家が途絶え、道もない山の中を歩くことになるが、迷わなければ神仙の山に到達する。その山を東方向に下山すると、北東部の小国に辿り着ける。そこからまた、無人の山岳地帯とそのすぐ南の砂漠地帯を横断し、大陸の南東部、チャナ共和国に至る。あとはワノノマまで渡航するだけだ。
仕方がない。
溜息をつきながら、俺は答えた。
「行き先は神仙の山だ」
「はぁーっ?」
するとホアはその場にしゃがみ込んだ。背中の荷物袋に詰め込まれた道具の数々が、地面に触れて音をたてる。
「マジかよマジかよ、なんだよ、よりによって!」
「行きたくないのか? じゃあ、ここで」
「待てよ!」
起き上がった彼女の目は、据わっていた。
「一般人は、普通は入れねぇ。オレが案内して口利きしてやる」
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