暴走

 次に意識を取り戻した時、俺は少しぼんやりしていた。視界も朧気だった。

 今いる場所は、さっきいた窪地のすぐ上だった。でも、足場もないのに、なぜか森を見下ろしている。この場所からだと、左手にあるデサ村もよく見える。ただ、時折、視界に灰色のノイズのようなものが混じる。

 これではまるで、空に浮いているようだ。だが、その異変は今の俺にとっては小さなことだった。


 それより、我が身を取り巻くこの灰色の渦が、行き先を求めている。目指すは罪ある者達の命だ。

 周囲に目を向けると、村の西側、離れたところに開けた農地があり、そこの片隅に人が大勢いる。農地近くの森の木々を利用して仮設テントを建てており、そこに女子供を寝かせていた。あれは村の連中だ。どうしてこんなところにいるのだろう?

 そう疑問を抱いた瞬間、灰色の霞が彼らを覆った。すると、俺の脳裏にいくつもの情景が瞬間的に浮かんできた。


 ああ、そうか。

 村人は、パッシャの存在を知らなかった。ただ、村長は代々、パッシャの協力者になっていて、村はその恩恵を受け続けてきた。俺の接近を知ったパッシャが村長に命令して、村長は村民を戦いの舞台になる村から避難させた。普段は、この村がパッシャの連中のための荷物を受け取る役目を果たしていた。

 そういうことだったのだ。


 こいつらのせいで……


 そう思った瞬間、灰色の霞が濃くなった。その存在に気付いた村人達が驚き戸惑う様子が見える。だが、知ったことではない。灰色の渦が彼らに向かって噴射される。

 この渦に巻き込まれた男が、その場で崩れ落ちた。その顔は、何百年も生きた後の老人のようになっており、髪の毛は抜けてしまうか、すべて真っ白になっていた。それがジュクジュクと溶解して、なんとか残った爛れた皮膚が縮んで、頭蓋骨にへばりついていく。そのまま彼はうつ伏せに倒れたが、そのまま灰色の煙を吐き出しながら、だんだんと溶けていく。

 灰色の濁流は、止まらなかった。村長は元より、その近くにいた男達、女、子供、老人……構わず襲いかかった。逃げ切れた者は一人もおらず、全員が呑み込まれて、腐った死体になった。


 彼らの死に、俺は小さな満足と、大きな飢餓を覚えた。

 まだ全然足りない。


 鬱蒼と茂る、この森もまた、目障りだった。

 そう思った時、灰色の奔流が周囲を覆った。まるで津波のように、爆風のように、地面を埋め尽くした。僅かな時間の後にそこに広がっていたのは、葉っぱを一枚残らず落とした、枯れた裸の木々だった。


 少しだけ喜悦をおぼえた。

 俺が望めば、そいつは終わる。この世界における「時間」を使い果たして滅び去る。なんと心地よいことか。


 だが、まだ肝心の罪人が片付いていない。

 そうだ。真下に転がる死体だけでは全然足りない。連中の仲間はどこにいる?


 そう念じただけで、俺の意識はまるで自由自在のカメラのように、ある方向に向けられた。ここから北西方向の山の中へと、視界がズームされていく。

 か細く折れ曲がった獣道の向こうに、天然の岩山を利用して築かれた巨大な住居があった。そろそろ夜明けを迎えようとするこの時間帯だ。そこから外に出て、日常の仕事を果たそうとする少女もいた。


 これが。

 これがパッシャの隠れ里か。


 パッシャ、という単語も、どこか遠くに感じられた。どんな意味だったのか、はっきり思い出せない。相変わらず意識は混濁していた。

 けれども、それは大した問題ではなかった。


 断ち切る力が欲しい。俺の自由を妨げる、絡まる何かを、全部、ぶった切ってやりたい。

 もう失う側には立ちたくない。奪う側になりたい。


 彼らが何をしたのか、今、何をされて怒りを感じたのかも、すべてが朧気だ。それでも、彼らを滅ぼすべきだということだけはわかる。

 なら、同じようにするだけだ。


 そう思った時、灰色の津波が巻き起こった。パッシャの隠れ里のある方へと。途中にある森の木々や草、そこに生きる動物や虫達もすべて巻き添えにして、次々死に至らしめていく。残ったのは、辛うじて形を保った枯れ木とドロドロに溶けた灰色の泥だった。

 こちらに気付いた少女が顔を向けた。次の瞬間には、もう形を失っていた。

 奔流は、岩窟の中に滑り込んだ。見回りをしていた中年男性は、驚きの表情を浮かべたが、それだけで消滅した。


 俺の微かな意識は、その灰色の渦の先端にあった。奥へ、奥へ。一人も残さず清めてやろう。


 灯りの点された広い部屋があった。四角い木の部材を組み合わせた床、壁際に並べられた本棚、そこに所狭しと詰め込まれた本。数人の古老がローブを身に纏って立ち尽くしていた。仇敵への攻撃が成功したかどうか、その結果を待ち受けているのだろうか。だが、彼らがそれを知ることはなかった。

 灰色の奔流が扉を突き破って室内に雪崩れ込むと、彼らはこちらに振り返った。素早く反応して何かを詠唱しようとしたのもいたが、すぐに纏めて灰色の靄の中に絡めとられた。

 異常事態に気付いた居残り組の戦士達が、あの黒尽くめの格好で、応戦すべく狭い石の廊下を駆けていた。そこにも容赦なく、灰色の渦が殺到して、片っ端から溶かしていく。


 皆殺しだ。


 これでいい。

 生けとし生けるものはすべて滅び去れ。

 苦しみも悲しみもない、完全な世界がやってくるのだ。


 時を紡げ。

 運命の時針を繰れ。

 その魂の物語を編み上げよ。


 完成することは、終わることだ。

 それは一幅のタペストリーだ。

 出来上がった全てを箱に詰め、永遠に時をとどめて、次の世界に向かうのだ。


 それが『私』の望みだった。


 私……?


 混濁する意識の中に、奇妙な違和感をおぼえた。俺はいったい『誰』だ?

 その疑問を抱いた瞬間、身体の感覚がなくなった。


 地響きを立てて、三つ足の高殿が崩れ落ちた。神々と人々の嘆きの声が世界に満ち満ちた。

 純白の聖殿の突き当たり。そこには巨大な円が刻まれていた。その中央に、一本の時針が留められている。だが、女の手がそれを乱暴に剥ぎ取った。

 暗い王宮の中に、時針を手にした彼女を先頭にして、大勢の神々が雪崩れ込んだ。一人きりの王を殺すと、彼らは外へと取って返した。王宮の外には、大勢の人々が詰めかけていた。


『人々よ! 神々の王、ウィーバルは斃れた!』


 喚声があがる。人々は腕を突き出して振った。


『三つ足の高殿は最早ない。我らには滅びあるのみ。望みを述べるがいい』


 この宣告に、人々は声を揃えた。


『恨みを晴らせ! 一切を無に! 我らが神々よ、願いを聞き届けたまえ!』


 それで先頭に立った女神は王宮にとってかえし、玉座の前で振り返った。他の神々も、それぞれ本来の居場所に立ち並び、新たな女王の命令を待っている。


『時を越え、世界を越えて。我らは牙となって、一切を噛み砕くだろう』


 その瞬間、天地は合わさった。その世界に生きるすべてを押し潰して。

 何もかもが黒く塗り潰された。


 うっすらと理解した。

 これが彼らの物語なのだと。彼らは、遠い彼方からやってきた。その彼方とは滅び去った世界だった。意味と、幸福と、生存の三つの柱しか持ち得なかったがゆえに。

 その彼らを代表する神々の女王、苛烈な法と秩序の神ウィーバルにとって代わった簒奪者、それが……


『目覚めたか』


 目を開けると、俺は椅子の上に座っているのだとわかった。狭い石造りの部屋の中。灯りらしいものはないのに、なぜか視界が保たれている。立ち上がろうとすると、足が思うように動かなかった。手を持ち上げて確認すると……俺はスーツを着ていた。

 すぐ前には、深くフードを被った女が立っていた。片手には、剣のような細長い何かを握っている。


『何千、何万と散った我が魂魄の中で、我が萌芽を宿せたのは、お前だけだった』


 彼女の後ろには、真っ黒な出口が四角く開いていた。その向こうに何があるかはわからない。


『ここはどこだ』

『死と生、時と世界の狭間』


 俺の口が勝手に動いて、彼女に尋ねた。声色に違和感がある。これは俺の体、俺の声であって、かつそうではない。


『俺を帰してくれ』

『帰る? どこに』


 本当に、俺はどこに帰るつもりだったんだろうか。

 ついさっき、派遣の仕事を切られたばかりじゃないか。あのまま家に帰っても、冷え切ったアパートの中で一人過ごすだけだ。年末には案件が動かない。早くて年明けになってから、営業が案件を持ち込んでくるが、基本、この手の仕事は年度末か九月末に募集が集中する。つまり、一冬丸ごと仕事にあぶれ続けることもある。

 自由時間を満喫できるといっても、俺にやりたいことなどない。家族もいなければペットもいない。今となっては趣味らしい趣味もなくなった。


『お前は今、重傷を負ったばかりだ。既にその魂魄は地上を離れ、今は我が掌中にある』

『死んだ、ということか』

『正しくはそうではない。死にゆくお前の魂は、転生の道からかすめ取られたのだから』


 彼女は、人をゾッさせるような笑みを浮かべて、俺に言った。


『そうだろう、佐伯陽』


 そうだ。俺の名前は佐伯陽。やっと思い出せた。


『お前は誰だ』

『時と運命の女神』


 女神、と言われても違和感はなかった。およそ常人から受けるのとは段違いの圧力を感じていたから。

 しかし、ではなぜ女神を名乗る何者かが、ただの凡人でしかない俺に声をかけるのか。彼女は疑問に応えるかように、言った。


『お前に祝福を授けよう』


 何を言っているのか、さっぱりわからない。

 どういう縁があって、俺を祝福するのか。いや、それ以前に、彼女の態度や口調が、人を祝福するそれではない。むしろお前を呪ってやると言われた方が、ずっとしっくりくる。


『何のために』


 だから、俺はそう尋ね返した。


『望みを成就してもらう』

『望み?』

『お前は知っている。この世界は……いや、ありとあらゆる世界が、憎悪と怨恨、悲嘆に満ちているということを。それを終わらせる』


 憎悪、怨恨、悲嘆。それを根絶する。それだけ聞けば、実に素晴らしいもののように思われる。

 でも、彼女の言葉が意味するところは、理想郷の建設とは程遠い。


『お前の中の悔恨が、無念が、我が破滅と共に撒き散らされた世界の欠片、その種子を受け入れる苗床となった』

『破滅?』

『口惜しや! あと一息ですべてをこの手にすることができたものを! 世界の主権を手にすれば、一切を呑み込むことができたのだ! それをあのような……』


 余程のことがあったのだろう。彼女は俺に構わず怒りを吐き出した。


『異界の勇者など、力で押し潰せばよかったのだ! 彼奴が女神の姻族になっておらねば……』


 そこで俺に向き直った。


『既に我が力は飛び散った。そのいくつかは、卑しい者どもの手によって持ち去られた。だが我が真なる権能だけは、誰のものにもならぬ』


 再び彼女は激しい怒りに囚われ、身悶えした。


『思い通りにはさせぬ』


 どこかで見たような光景、聞き覚えのある言葉のような気がした。


『忌まわしい者どもが我が手足を持ち去ろうとも、これだけは、これだけは譲るものか』


 それから、彼女の視線は俺に向けられた。


『お前も望んでいよう』

『な、なにを』

『数多の世界を食らった女神がお前に力を授けようというのだ』


 気味が悪い猫なで声だ。


『我が権能を引き継いでかの世界に降り立つがよい。とはいえ、それは人の身では十全には活かせまい。だが、我が身の力はなお大きい』


 彼女は俺に顔を近づけて尋ねた。


『お前は何を望む? 勝利か、栄光か。成功と富か。お前が望むなら、目の届く限りの一切を石にする目も、すべてを焼き尽くす炎も、大地を揺るがす力も、なんでも思うがままだ』


 どれも恐ろしい力ばかりではないか。

 そんなものをもらって生まれ変わったら、俺は何になってしまうのだろう?


『お前の望みを述べよ……そう、本当の望みを』


 俺の望みは……

 わからない。考えが纏まらない。


『そんな恐ろしいものはいらない』

『そんなはずはない。お前の中には、芽生えた世界の欠片がある』

『だとしても』

『言葉など信じられぬ』


 だが、彼女は待ちきれないようだった。


『憎しみを思い出すがいい』


 その言葉と共に、彼女は手にした剣のようなものを俺の胸に突き立てた。

 不思議と痛みはない。だが、冷たい血液が流し込まれる。


『さぁ! さぁ! さぁ! 数多の魂の嘆きを! 恨みを! おのが内に受け入れよ!』


 血の凍るような、それでいて同時に血が沸騰するような。


 そうだ。

 これは、無念の最期を遂げた大勢の人々の怒り、悲しみ。そしてその望み。

 苦しみに満ちた運命、その無数の生きざまが、今、俺の中に注ぎ込まれているのだから。


 意識がズタズタに切り刻まれるような感触に、俺は思わず絶叫した。

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