血と泥

 星の欠片も見えない闇の中から、間断なく大粒の雨が降り注ぐ。それはまるで空間を仕切る簾のように、俺の行く手を遮った。唐突に空を裂く稲光が一切を白く塗り潰す。続いて地を揺るがす轟音が鳴り響く。そのたびに俺は足下が崩れて失われていくかのような気持ちになる。


 タウルが殺された。殺されてしまった。


 だが、悲しんでいる時間はない。怒り狂うのも後だ。今は一人でも多くの仲間を守らなくてはいけない。それで俺は、右に進むか、左にするか迷って、結局右手に向かって走り出した。村の外周を走りながら、ノーラとラピに割り当てられた宿舎を目指す。

 二人は、他の五人と比べても孤立しやすい場所にいる。村の西と南西に、それぞれジョイス達の宿舎と、家畜小屋がある。ペルジャラナンとディエドラなら夜間の行動も問題ないし、襲撃者を打ち破ったら、割合近くにいるジョイス達と合流するのも容易だろう。だが、タウルの宿舎は北西寄り、ノーラ達は北東だ。

 もう一つ。確かにノーラには最強と言ってもいいほどの能力を付与してはいるが、弱点がないでもない。棒術の腕はまだ未熟だし、ラピにも白兵戦などできっこない。魔法には必殺の威力があるものの、相手を確認できなければ意味がない。そして相手はパッシャだ。そこらの素人ではない。

 ノーラは本質的に戦士ではない。能力だけあっても、経験や知識、判断力が伴っていない。これがキースなら、ほったらかしでも構わない。だが、俺自身にもある程度言えることだが、これがノーラだと、スキルをどれだけ強化してあっても、不安はなくならない。


 凹凸のある地面によろめき、木の根に足を取られ、泥濘に滑って転びそうになりながら、俺は走った。

 運が良かったのか、途中、パッシャの戦士に遭遇することはなかった。だが、そのことが余計に俺を不安にさせた。ではもう、こちらへの襲撃は済んだ後なのか?


 小屋の前に辿り着いた時、間近なところに大きな雷が落ちた。だが、その轟音に身を竦めることさえできなかった。

 二人の宿舎は、元々は食料の貯蔵庫だったのか、木の階段のある高床式の建物だ。その扉は開け放たれていた。それどころか、入口に大穴が開いている。


 そこへと駆け上がると、早速足下に黒い塊が転がっていた。そっとかがんで確かめる。ラピでもノーラでもない。パッシャの戦士だ。それが吐血して死んでいる。これは『変性毒』の魔法のせいだろう。

 では、ノーラは襲撃に対応して、うまく敵を撃退できたのか? だが、それにしては……


 部屋の中央に進むと、黒ずんだ汚れが目についた。まだ乾いていない。

 問題は、そこに落ちていた短いナイフだ。外の微かな光にも反応して輝いている。それは血に汚れていたが、いまだに青みがかった輝きを残していた。

 ミスリル製の武器で攻撃された? それも、これは浅い傷ではない。怪我をしたのは誰だろう? この血痕が二人を襲ったパッシャの戦士のものであればいいが、少なくともそれは、ここに転がっている二人ではない。彼らに大きな外傷はなかった。もしラピであれば、相当な深手を負って苦しんでいるはずだ。だが、ノーラだったら、ことはもっと深刻だ。魔導治癒を付与された状態でミスリルによって負傷した場合、指先をちょっと切っただけでも悶絶するほどの激痛になる。それがこの出血では、意識を保つのさえ難しいだろう。

 周囲を見回すと、ラピの荷物は置きっぱなしになっている。だが、ノーラのものは消えていた。


 できれば後を追いかけたい。だが、外に走り出ても、何も見つけられなかった。降り続く雨のせいで、足跡も血痕も残されてはいなかった。これでは探しようがない。

 いや、それなら、今度はジョイスとディエドラだ。それぞれ心の声を捉える力、優れた暗視能力を備えている。心配で気が狂いそうだが、今は他の仲間と合流した方が早い。この暗闇を何の目当てもなく走り回っても、得られるものがあるかどうか。

 それと方針を決めて、俺は小屋から駆け下りた。


「ジョイス!」


 俺はもう、敵に見つかるまいとするのをやめた。大声で仲間の名前を呼びながら走る。


「ディエドラ! ペルジャラナン! 返事をしろ!」


 それで俺が囲まれても構わない。むしろ好都合だ。その分、他の仲間に向けられる戦力が減る。なのに、俺を襲おうとする黒尽くめは、いまや一人も出てこなかった。


 さっき走った道を引き返し、左手に曲がってジョイス達の宿舎に飛び込んだ。予想はしていたが、中はもぬけの殻だった。荷物もない。恐らく、ジョイスがいち早く敵の襲撃に気付いて、荷物を持ったまま脱出したのだ。

 ただ、彼はフィラックとクーと行動を共にしていたはずだ。居場所を把握しているタウル、ノーラに連絡するという選択肢はなかったのか? それとも、連絡を入れた時点で既に、襲撃が始まっていたのか。いや、俺がパッシャの側でも、最初に狙うのはタウルだ。酒をしこたま飲んで、フラフラになっている。判断力もなく、他の仲間に襲撃を通報もできない。

 その状況で少しだけ早く、ノーラとラピの宿舎が襲撃されたとしよう。ジョイスが悪意に気付いて仲間を起こした時点では……或いは遅くとも、安全地帯まで逃げ切ってから、クーが詠唱して仲間に警告しようとした頃には、もう連絡できる先がなくなっていた。


 であれば、次はペルジャラナン達だ。

 少し走った先に、家畜小屋だったものが見つかった。柱がへし折れていて、もう潰れてしまっていた。中には誰もいなかったが、周囲に黒尽くめの死体が三つあった。剣で切られたもの、大きな爪で引き裂かれたもの、最後に上半身が爆散しているもの。こちらは順当に、ペルジャラナン達が勝利したらしい。彼らも可能なら、仲間との合流を選んだはずだ。

 だが……


 俺は、魔術や神通力では探知されない身の上だ。彼らも俺との合流は望んでいるはずだが、あちらからすれば見つけようにも見つけられないのだ。

 すると、まだ生きていると仮定するなら、多分、比較的発見しやすいノーラ達の捜索に向かっているだろう。

 恐らく、俺が一番最後に目覚めたのだ。パッシャは俺の手強さをよく知っている。だからこそ、直接対決するのを避けたのだろうし、先に仲間を始末することにしたのだ。その方が、万一窒息死させられなかった場合でも、俺を消耗させられるから。


「くそっ!」


 これでは、デタラメに探し回るしかない。


 だが、大まかな方向は決めなくては。

 ペルジャラナンもジョイスも、ノーラの救援を目指していると仮定しよう。では、ノーラはどちらに逃げた? 難問だ。負傷したのが二人のうち、いずれかによる。俺がノーラなら、かつラピが死亡している場合、海岸を目指すかもしれない。見晴らしのいい場所であれば腐蝕魔術の威力を最大限に発揮できる。こちらに駆け寄る前にパッシャの戦士は足を止め、その場で息絶える。だが、それは戦いの面に限って言えば理想的すぎる状況だ。それに夜間、しかも視界を閉ざし物音を消すこの暴風雨の中では、この戦術のメリットも薄れる。

 現実には、二人のどちらかが負傷している。死んだのなら遺体を放置して逃げるはずで、であれば遠くに行くより、俺や他の仲間の救援を期待するはずだ。となれば、パッシャの戦士相手では分が悪いと知りつつ、この嵐に便乗して隠れる方をとるのではないか。となれば、北か南か西か。


 ……北だ。


 パッシャの第一陣を退けはしたものの、片方が大怪我をした。できることなら俺達に合流したい。だが、居場所を彼女らは知らない。最初に寝床を割り当てられたから。それに、この襲撃に村が協力している可能性も高い。となれば、村の中央を突っ切って俺達に助けを求めに行く判断はあり得ない。

 村の北東にある小屋にいた彼女らが逃げ込むのは、北の森だ。彼女らは村を敵とみなすはずで、敵から遠ざかろうとするに違いない。


 そうと決まれば、とにかく見つけるだけだ。合流しさえすれば。パッシャの戦士が何十人いようが、恐れることはない。もしノーラが負傷していたにせよ、今日はまだピアシング・ハンドは未使用だ。彼女の中の『魔導治癒』を取り除いて、俺の『超回復』と交換すれば済む。


「ノーラ!」


 俺は叫びながら木々の合間に分け入った。


「ラピ! どこだ!」


 稲光に、濡れそぼった緑の葉が映し出される。

 ここじゃない。草葉に乱れが見られない。足跡もない。


「誰でもいい! 誰かいないのか!」


 村を囲む北側の丘を乗り越えてしまった。だが、応える声はない。どちらかが無事であれば、この声が届く……いや、一時的に弱まりつつあるとはいえ、この雨風だ。まともに聞こえていないのかもしれないが。

 斜面を駆け下りると、森の切れ目に出た。周囲は丈の高い木々が並び立っているが、周囲を丘に囲まれたこの空間だけは、なぜか木が生えておらず、草の丈も低かった。


 その中心に立った時、俺は気配を感じて立ち止まった。

 黒塗りの短剣が風を切ってこちらに迫るが、俺は力むことなくそれを剣で叩き落とした。


「出てこい」


 囲まれている。

 それがどうした。


「見ないうちに切れ味が増したな」


 正面方向の大木の後ろから、黒尽くめの女が姿を現した。


「思った通りだった」

「お前は」


 昔、会ったきりだ。だが、以前の俺にとってのパッシャとは、こいつのことだった。ピュリスの混乱も、エスタ=フォレスティア王国の内乱も、こいつの仕事だったのだから。


「クローマー」

「覚えていてくれたようだな」

「どうでもいい。失せろ。帰れ。そうすれば見逃してやる」

「そうはいかない」


 彼女は、実に楽しそうだった。


「前に言ったな。お前は人を殺す。それも一人や二人じゃない。数えきれないくらい……ああ! やっぱり私は正しかった!」


 その通りだ。

 その殺人鬼が……今はたった一人、仲間を殺されただけで怒り狂っている。そして、残る僅か数名の仲間の命が失われるのを恐れて、駆けずり回っているのだ。


「たくさん殺した気分はどうだ、ファルス」

「ノーラ達はどこだ」


 妙に余裕たっぷりの態度が気に入らない。


「お前は見たか? とりあえず、間抜けな男の首が転がっているのは確かめたはずだ」


 怒りがこみあげてくるが、一度大きく息をして、辛うじて衝動を抑え込んだ。


「腹立たしいだろう。憎むというのは、恨むというのは、どうにもならないものだろう。失せろ? 帰れ? そうすれば見逃す? いいや、お前は我々を殺したくてたまらないはずだ」

「黙れ」

「復讐より大事なものはない。そう、どんな快楽も、どれほどの富も、いかなる説得も、意味がない。我々もお前を殺したい。殺さずにはいられない。代行者をはじめ、多くの幹部をよくも葬ってくれたな」


 そう言いながら、クローマーの声色には喜悦が滲んでいた。


「残された者達が投票した。このままお前達を見逃すか、それとも……復讐するか! その結果がこれだ」


 彼女がそう言うと同時に、木々の狭間からざっと三十人余りの黒尽くめが姿を現した。


「これしきで俺を殺せると思ったのか」

「試しもしないよりマシだろう」

「無駄なことを」

「無駄?」


 クローマーはせせら笑った。


「無駄というのはな、ファルス、何より大事なはずの復讐をせずに無意味に生を永らえることだ。恨みを晴らすために死んでこそ、生きた甲斐があるというものだ」

「それは、仇討ちに成功すればの話だ。お前達に勝ち目はない」

「ああ、仮にそうだとしても、さしたる問題ではない」


 パッシャの狂気は、もはやここまできていた。一千年の時を経て、本来の目的などとうに忘れられた。

 元はといえば、国防のために武力を必要とし、そのために禁忌を犯してクロル・アルジンという破壊兵器を生み出した。以後、イーヴォ・ルーの国家を復活させようとするために王族の一人が統一世界の秩序に逆らった。

 だが、その過程で記憶のほとんどが失われた。多くの血が流れた。力を得るために、社会の辺縁に追いやられた人々を引きつけた。残ったのは、憎悪だけだった。


「我々がお前に復讐しようとして死ぬ。だが、お前はどうせこれからも大勢を殺すのだ。殺し、殺され、殺し……お前は世界に憎悪を撒き散らす。たとえお前が生涯、敗れることがなかろうとも、その憎悪はまた、新たな種火となる。それがまた、復讐の炎となる。いつまでも、いつまでも、世界を全き姿にするその日まで」


 パッシャの戦士達が身構えた。


「お前達のやり方に巻き込むな」

「いいや、ぜひとも付き合ってもらう」


 クローマーは、背後に手をかざした。


「ようこそ、ファルス……我らの世界へ」


 クローマーの後ろにいた二人のパッシャの戦士が、黒い何かを引っ張っていた。いや、あれは、黒いローブだ。見覚えがある。左右に両手を引っ張られ、足が浮きそうな格好で引きずられている。だが、引っ張る方も黒、引っ張られる方も黒、周囲は暗いので、はっきり見えない。

 ただ、何か形がおかしいような気がする。


「他はともかく、こいつだけは仕留めなくては、お前も納得できまい。よく狙うよう、言い含めておいた」


 信じられない。信じたくない。

 だが、ローブには無数の切り傷がついていて、あちこち裂けている。それでわかった。黒竜の皮でできたローブを貫くために、上質な武器を持たせたのだと。

 それより、自分の目が信じられない。どうして彼女の肉体を視認しているのに、ピアシング・ハンドの表示がない?


「最高の宴だろう?」


 クローマーがそう嘯くと、二人はいらないものを捨てるかのように、彼女を……いや、彼女だったものを、乱暴に放り出した。

 横倒しになったその体には、首がなかった。


 焼けた鉄を呑み込まされたかのようだった。頭が熱に満たされる。何も考えられない。


「はははは! いい叫び声だ! その顔を見たかった! その声を聴きたかった!」


 叫んでいることに、言われてやっと気が付いた。

 体中が敏感になっているのか、それとも麻痺しているのか。自分の息遣いが激しくなっているのを、意識の片隅でうっすら感じた。


「憎いだろう? 苦しいだろう? さぁ、復讐の時間だ! やれ!」


 クローマーの合図とともに、周囲を取り囲む黒尽くめの戦士達が身を躍らせた。


 そこからはよくわからなかった。意識は混濁していたが、体が勝手に動いた。溢れ出す衝動のままに、俺は躊躇なく殺した。力任せに剣を叩きつければ、それで片付いた。はじめからそのために作られた機械のように、俺の体は機敏に動いた。豪雨と暗闇にもかかわらず、物音を聞き落としたりもせず、敵を見失うこともなかった。

 いつの間にか、動くものは俺以外には誰もいなくなっていた。窪地の真ん中には、四肢を切り落とされたクローマーが仰向けに転がっていた。その彼女の腹を、俺は踏みつけている。


「くっ……ふふふ」


 だが、もはや死にゆくだけの彼女は、なおも笑い続けていた。


「復讐は、楽しいだろう?」

「……ああ」


 狂乱が去った後。少し小降りになった雨を浴びながら、俺は乾いた声で応じた。


「我々がこの世界から消え去ろうとも。次はお前が復讐者になる。お前が死んだ後も、誰かが誰かを殺す。殺す。殺す。そうして最後に一人残った勝者も……やがて死ぬ。死に絶える。ああ……素晴らしい」


 クローマーは恍惚としながらそう言った。


「そんな自己満足のためにわざわざ死ににきたのか」

「お前も自己満足のために我々を殺す。同じだ」

「そんなに楽しいか」

「ああ」


 彼女は、命を台無しにしながら思う存分、憎悪を吐き出すことに陶酔していた。


「ファルス、お前は最高だ」

「なに」

「いろんな男に抱かれてきたが、お前が一番よかった」


 抱いた覚えなどないが、彼女の中でそんなことはどうでもいいらしい。


「そうか」


 俺も、どうでもよかった。感情がもう、どこかにいってしまった。

 せっかくだから、彼女の望みを叶えてやろう。そう思って、剣を両足の間に突き刺した。


「あぁっ!」


 それは喜悦の声なのか、それとも苦悶の声なのか。

 どちらでもよかった。


「せっかくだ。じっくり味わえ」

「い……いい」

「この気違いが」


 俺は剣で彼女の中身を掻き回した。暗闇の中、地面の上には大勢の血が流れ、それが泥と混じり合う。そんな中、俺は死にゆく女をいたぶっている。

 だが、その当の女もまた、それを望んでいるのだ。憎み、憎まれ、殺し、殺される。それは奇妙な共同作業だった。


「そら! そら! これでもか!」

「も、もっと! もっと!」


 また頭に熱が戻ってきた気がした。憎しみのままに相手を傷つけるほどに、行為そのものに心を煽られていった。

 自分の内側から、今度こそ何かが溢れ出ようとしているのを感じていた。けれども、もう、それを抑え込む必要はなかった。


「おらぁぁぁあああ!」

「ひゃっ、ひゃはは! ああ! あああ!」


 気づけば俺は、剣を無茶苦茶に振り回し、叩きつけていた。いつの間にか、悲鳴ともあえぎ声ともつかない叫びは消えていた。そこにあったのはもう女の体ではなくて、ただの肉片、血と泥の混じり合った何かでしかなかった。


 雨は、いつの間にか止んでいた。

 夜の闇と静寂。そして場に充満する死。

 俺は呼吸することさえ忘れていた。


 不意に何かがこみ上げてきた。

 抑えようもない衝動が、俺の意識を灰色に塗り潰した。

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