悪夢
いつの間にか、気付くと俺は、何もかもが真っ白に塗り潰された空間に立っていた。
空も真っ白なら、地面もそうだ。そして何の音も聞こえない。何事かと思って我が身を振り返ると、持ち上げた両の手まで、まるでシリコンで拵えたみたいに真っ白だった。太陽もなければ灯りもないのに、なぜか視界はクリアだった。地平線の彼方まで見渡せる。
どこかで見たような景色だと思ったが、どうしてもはっきり思い出せない。
『時は満ちた』
女の声が響いた。かわいらしい少女の声でもなければ、老婆のそれでもない。厳しさを感じさせる、大人の女のものだ。
『運命は織り成された』
どこから聞こえてくる?
現実とも思われないこの空間で、俺の意識はいまだに覚醒しきっていなかった。それで、なんとなく声の出処を求めて振り返った。
その瞬間、景色が切り替わった。
『ああ、悲しむべし、三つ足の高殿よ! 我らがそれを失う日を迎えようとは!』
嘆き悲しむ何者かが、そう叫んだ。
俺の目の前にあったのは、雲一つない藍色の空。そのすぐ下には、中央の広場を取り囲むように立ち並ぶ陸屋根の建物。そして広場には、たった今、誰かが叫んだように、文字通り三つ足の高殿があった。つまり、立方体の形をした、恐らく石造りの建物が空中に聳えていた。それを四隅にある柱が支えているのだが、どういうわけか、四つ目の角には柱自体がない。
その高殿は、小刻みに揺れていた。
『見よ! まず意味の柱が崩れる!』
誰かが興奮して指差した。
確かに、彼が言ったように、まず最初に崩れたのは、柱のない隅の対角線上にあった柱だった。
『次は幸福の柱だ! ああ』
額にも目のある男が、身をよじらせて嘆いた。
『ついに命の柱も……』
高殿は支えを失って、真下の広場へと落下していった。
だが、それが地面に激突して砕けるところを、俺は見なかった。
また場面が切り替わった。
周囲は燃え盛っていた。
ここは……ビルだ。こちらの世界のものではない。そうだ、現代日本のビルだ。だが、どういうことだ? 俺は火災に巻き込まれて死んだのではない。トラックに轢き殺されたはずだ。
大きな吹き抜けのある構造で、まさにその上にある非常用通路の上に、俺は立っている。だが、目の前で広げてみた掌は、子供のそれではなかった。男の手だが、前世の俺のものとは違う気がする。
体の自由がきかない。なぜか柵に手をかけ、すぐ真下、ビルの一階に向けて飛び降りようとする。そして、跳躍した。落ちていく。憤怒と恐怖、憎悪の入り混じった悲鳴が聞こえた気がした。
また場面が切り替わった。
そこは薄暗い宮殿だった。
堂々たる体躯の王がただ一人、金色に輝く王冠を戴き、玉座の方を向いて立ち尽くしている。そこに誰かがやってきた。手には剣のようなものが握られている。その後ろに何人もの気配を感じる。
『神々の主よ』
背を向けていた王は、そのまま首だけをこちらに向けた。
『お前の正義はあまりに苛烈だった。悲嘆に暮れる者どもの嗚咽が聞こえなかったのか』
さっき聞いた、女の声だった。
そのまま彼女は王の首を切り落とした。それが玉座の前に転がり落ちる。
『おのが座にあれ、神々よ』
変わって玉座の前に立った彼女……フードのようなものを被っていて、顔がよく見えない……は、手にしたものを高く掲げた。
『苦鳴をあげよ! その手を伸ばせ!』
彼女がそう叫んだ瞬間、何かが頭上から覆い被さってきて、視界の一切が真っ黒に塗り潰された。
と同時に、その衝撃ゆえに、俺は目を覚ました。
「はぁっ!?」
暗闇の中で、俺は起き上がった。全身、汗びっしょりになっていた。なんと気持ち悪い夢だったことか。
だが、すぐに別の異変に気付いた。まず、頭上からは屋根を打つ雨だれの音がする。それにおかしな臭いがする。焦げ臭い。咳き込みながら、俺は出口の扉を押そうとした。だが、ビクともしない。
異変。悪意。襲撃。
そんな単語が頭の中に駆け巡る。だが、そうした危険はいつものことだ。大方、このデサ村の連中は、旅人を油断させてすべてを奪ってきたのだろう。もう、取り乱すことはなかった。
まず、荷物を引き寄せ、背負えるものは背負う。剣も引き抜いて、落ち着いて呪文を詠唱して身体強化を済ませる。それから、扉のあるところに剣を突き立てた。奥に何があろうと構わない。まずは出口を塞ぐ何かを断ち切って穴を開ける。
四角く出口を切り抜いて扉を蹴飛ばすと、雨に洗い流された新鮮な空気が小屋の中に吹き込んできた。外の涼しさが全身の汗をさっと冷やして、気持ちいい。真っ暗闇の中、強い風に大粒の雨が斜めに叩きつけられているのが見える。
周囲の気配を探るが、武器を持った村人が待ち構えていたりはしなかった。ただ、自分の寝ていた小屋の状態は、外に出てやっとわかった。
入口に大量の木材を凭せ掛けて塞ぐ。その上で、小屋の周囲を隙間なく可燃物で囲い、燻していたのだ。激しく燃やすのではなく、じっくりと窒息させるため。うまいやり方だ。炎の赤い舌が瞼の上から眼球を刺激したら、中にいる人間が目覚めてしまうかもしれない。それに小屋ごと全焼させると、殺した相手の物を奪おうにも、貴重品まで一緒に焼けてしまう。
こんな真似をしてくれたのだ。デサ村の連中はただではおかない。
だが、まず先に仲間を助けに……
そう思って雨の中、駆け出した瞬間、違和感をおぼえた。
こんな状況、起き得るのか? おかしいだろう。仮にデサ村の連中に悪意があって、通りすがりの旅人をこんな風に罠にはめてきたのだとしたら、まずジョイスが気付く。ノーラやラピ、クーは詠唱なしでは精神操作魔術を使えないからどうしようもないが、ジョイスだけは神通力のおかげで、常時、悪意に敏感なままだ。
もちろん、食事や酒に毒は入ってなかったし、村人が俺達を殺そうと決断したのは、もっと後になってからかもしれない。だとしても、この手のことに慣れがあるなら、彼らは前回の収穫を思い出すはずだ。なのに一切警告がなかったということは、少なくとも俺達の接待にあたった村人達には、旅人を殺して財貨を奪うという経験がほとんどなかったと考えられる。
では、この村が他の村の誰かに襲撃された?
いや、それはおかしい。なら、俺を燻して殺すなんて、そんな迂遠な手は取らない。普通に小屋に押し入って、中にいる少年を撲殺すればいいはずだ。第一、窒息死させるための資材を用意する手間暇は? 村にあるものを使ったにせよ、何がどこにあるかを外部の人間は把握などしていない。ただ扉を開けて手斧を振り下ろせば済むものを、いちいちそんな面倒な作業をしたがるだろうか?
何か、どこか、理屈に合わないことが起きている。
仲間の救援はしたい。だが、みんなの居場所はバラバラだ。一度に全員というわけにはいかない。それよりは、手近な民家に殴りこむ。なにせ俺を燻し殺そうとしたのだ。村人を人質にしたところで、責められるものではあるまい。
降りしきる雨が視界を遮る。走れば足下の水溜まりを踏み抜いてしまう。その音で敵に気付かれるのではないかと思うと、気が気でなかった。
村の中心近くに戻ってくると、例のガゼボのある広場を囲む家々が見えてきた。どれでもいい。広場の側に回り込み、適当な家の扉を思い切り蹴破った。
敵が待ち受けているかも、と思ったが、拍子抜けだった。誰もいない。気配がなさすぎて、そのことが信じられなかった。それどころか、ここで寝起きしているはずの女子供の姿さえない。まるで神隠しだ。
いや、この家が特殊なだけではないか。たまたま独り身の男が暮らしているだけということは? 俺は気を取り直して、家から飛び出して、次の家に突っ込んだ。だが、そこにあったのもまた、静寂だった。
家の奥に踏み込み、中を検める。寝室らしいその部屋には、ベッドが四つもあった。その上には、四人分の薄っぺらい掛布団がある。親が子供のために作ってやったらしい木剣のオモチャや、ままごと遊びのための木彫りの人形まである。
これだけ生活感がある場所なのに、人だけがいない。
家の外に出た。雨脚は強まるばかりで、一歩外に出ただけでまるでシャワーを浴びたみたいになってしまう。
これ以上、時間をかけてはいられない。何が起きているかはわからないながらも、とにかく仲間と合流しなくては。でも、誰から救うべきか?
一、二秒ほど考えて、すぐ答えは出た。タウルだ。他は一人ではない。ノーラ達は『人払い』を使って身を守っているはずだし、最悪戦闘になっても、腐蝕魔術の力がある以上、敵は彼女に視認された時点で死が確定する。ペルジャラナンとディエドラは、どちらも強力な再生能力がある上に、暗闇の中での行動が妨げられにくい。そうなると、あとはフィラック、ジョイス、クーの三人がいる場所だが、なるほど、戦闘能力ではそこそこしかないが、こちらはジョイスの神通力がある。敵意の接近には敏感に反応できるだろう。
それで、俺は広場を見遣った。村を一周するようにして、一番外れの方にそれぞれの宿舎を割り当てられたから、タウルの居場所は俺が来た方向からすると、だいたい対角線上にある。
焦る気持ちのままに走りだそうとして、一瞬、立ち止まった。狙われているかもしれない。深呼吸してから、ガゼボに向かって一気に駆け出した。
そして数歩走ったところで、わざと急ブレーキをかけて立ち止まる。耳朶に触れるのは、微かな風切り音。
あり得ると思った。
他の仲間にも同じような襲撃方法をとっているとして。あれほど用意周到に動いているのに、脱出された場合を考慮してないなんて、あり得ない。仲間の救援のために動き出した誰かが、村の中心に殴り込み、人質を取ろうとするのは自然な動きだ。そこで誰もいなければ、今度は最短距離で仲間の寝床を目指すから。
俺に気付かれたと悟ったらしく、暗がりから、更に黒く染まった人の形のシルエットが、揺らめきながら近づいてくる。
二人だけだ。だが……
俺は、ピアシング・ハンドの表示に戸惑いを覚えていた。
全身黒尽くめのそいつらは、それなりの水準で格闘術と投擲術、隠密に通じていた。それだけでなく、どちらも低ランクながら神通力を備えていた。つまり、彼らはパッシャの戦士だ。
立ちすくむ俺にゆっくりと近づいてきた二人だが、あるところで急にダッシュしてきた。
左右に分かれての連携だが、迷うことはない。一気に左側に横っ飛びして、乱暴に剣を振るう。それだけで相手の胸が真っ二つに裂けた。と同時に、右側から短刀が飛んでくる。それを返す刀で弾き落とす。
残った一人は身構えたが、何もさせなかった。手を出す前に、そいつは真っ二つになった。
どうしたことだろう。人を二人も殺したが、まだ俺は動ける。ただ、何も感じないわけではない。何か胸の奥で、それこそバスケットボールくらいもあるような巨大な心臓が拍動しているような、そんな感じがするだけ。全身に鳥肌が立つほど寒々しいのに、まるで血が沸騰しているような気分だ。
自分の中の変化は、でも、後回しだ。まずはタウルのところに駆けつけなくては。
既に二人の死体は血を流して突っ伏している。雨が水溜まりを作り、そこを血が濁らせていた。
急に何かが喉の奥からこみ上げてくる感じがした。いったいどうした? 人を殺すなんて、これが初めてじゃないだろうに。これじゃあ、まるであのリンガ村の夜に戻ったみたいだ。
頭を振り払って、俺は走り出した。ガゼボの向こう側、ここから斜めに通じている村の外れに向かって。
稲妻が走る。草葺きの屋根が照らされて、一瞬だけ視界が得られる。少し遅れて、轟音が響いた。
あちらだ。
泥水を撥ね飛ばす自分の足音ばかりが聞こえる。自分の息遣いが耳障りで仕方ない。自分の吐息が頬に触れるのも不快だった。
そして、軽い坂道の上に、小さな小さな納屋のようなものが見えた。扉が少しだけ開いている。
あそこだ。
「タウル!」
助けに行こうと一歩を踏み出したその時、何かを蹴飛ばしたのに気付いた。
と同時にまた頭上に稲光が閃いた。
一回転して石に引っかかって止まったそれは、タウルの首だった。
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