運河に浸かる人生

 軽い昼食の後、俺達は行きとは違うルートで宿に引き返していた。

 王宮と海の間にある市民の居住領域に、観光ポイントがあるというので、立ち寄ってみたのだ。


 そこは、長大な運河だった。


 運河の岸辺に沿って横に長い石造りの階段が続いている。高さもそれなりだ。水面から見て、だいたい二階か三階建てくらいの高低差がある。そのまた向こうに石の壁がそそり立っており、その地点から見てやっと二階建ての位置に四角い窓が黒い口を開けていた。大雨や増水に備えた構造なのだろう。

 それらの建物の脇には、川とは直角に交わる形で、通路として登り階段の続きがある。その階段の左右にも建物が隙間なく並び立っており、それがいかにも雑然としていた。川に一番近い建物はそうでもないが、あとは大半が飲食店だ。昼下がりの今は、ちょうど書き入れ時なのだろう。軒先からひっきりなしに呼び声が聴こえてくる。

 ここで商売するのは彼らだけではない。運河の階段のあちこちに丸い日傘が突き立っていて、その下で物を売る男達がいる。また、この運河は市民の足にもなっているようで、小舟がいくつか浮いていたりもする。

 しかし、この運河の存在理由は別にある。


「こっちの庶民の家には風呂場なんてモノはないネ。みんな昼間に水浴びするネ」


 ワングが指差した先をみると、なるほど、腰布一枚の男がそのまま階段を下りて、川の水に体を浸していた。頭までしっかりつけて、また水中から出てくる。

 一年中暑い土地だ。昼間の水浴びは欠かせない。


「男達の社交場でもあるネ」

「これで? どこが?」

「庶民の話ネ」

「わかってるけど」


 ワングは建物を指差した。


「あれらが職能集団ごとの、わかりやすく言うとギルドにあたる建物ネ。昼間は暑くて仕事にならないから、朝のうちにちょっと働いて、昼に水浴びして、それから中で昼寝するネ。そこで軽く酒を飲みながら昼飯も済ませるネ」


 それからまた、夕方から夜まで働いて、家に帰る。そういうサイクルらしい。


「あれを見るネ」


 運河に一番近い建物のすぐ下には、必ず壁龕のようなものがあり、そこには何かの像があった。


「あれは裁縫の女神、セラーイーの像ネ」

「百八の女神の一柱でしたっけ」

「仕立て屋の集団が崇めるのは、裁縫の女神ネ。こっちの人間は、百八の女神それぞれにいちいち祈ったりしないネ。自分に関係ある女神だけ大事にするネ。で、その隣は……あれは手品の女神ネ」


 俺も百八の女神のすべての役目を暗記しているのでもない。そんなのもいるのか、という好奇心で、階段を横に歩いてわざわざ覗き込んだ。


「ん? これ」


 俺は同行者達に手招きした。

 その壁龕の下にある像は、椅子にふんぞり返る少女のようだった。かなり古いものらしく、繰り返された川の氾濫によって削れてしまっているのもあって、顔の造形ははっきりしなくなっている。


「なんか似てない?」

「古びているが、格好だけみると、まるでエシェリキアの像だな」

「流用したのかもね」


 ふと疑問に思って、俺はワングに尋ねた。


「女の人は、どこで水浴びを?」

「ここより下流ネ。男に見られない場所で浴びるようになってるネ」


 さっきから運河の水をチラチラ見ていたペルジャラナンが声をあげた。


「ギィイィ、シュシュ」

「えっ?」

「水がきれいだ、と言っている」


 その指摘で気付いた。確かにそうだ。ここの水はナディー川から引いてきたはずだが、あの濁流がここでは少なくとも身を清めるのに使えるくらいになっている。


「川岸の方に濾過する施設があるネ。そこで水の流れが三つに分かれるネ。一番北のがここの沐浴場になるネ。真ん中のは物を洗うため、一番南のはただの汚泥を流すための場所ネ。そこは専門の清掃業者がいて、毎日浚渫工事してるネ」


 しかし、なるほど。

 ここがラージュドゥハーニー観光の目玉の一つと言われれば、それも納得はできる。色とりどりの服を身に着けた男達が、川べりでローブのように巻き付けた布を脱ぎ捨て、体一つで水の中に入っていく。物売り達の声も喧しい。渦巻く混沌のようなこの喧騒、雑踏は、ちょっとした見物だ。


「おっと、気を付けるネ」

「はい?」

「ここにはスリがよく出るネ」


 それはいただけない。俺達はキョロキョロと周囲を見回した。

 だが、その仕草こそ「僕達は余所者です」というメッセージに他ならなかった。


「ヘイ」


 一人の男、浅黒い肌をした若いのが、俺に目を合わせて近寄ってきた。


「草、いるか?」

「はい? 草?」

「炙って煙を吸うと、気持ちよくなる。すごく安い」

「ああ、いりません」


 大麻か何かだろうか? なんにせよ、そういう怪しい薬はいらない。


「草の煙は気持ちいい」

「いりませんって」

「草」

「いりません」

「草」

「いりません」


 しつこく付き纏うそいつに拒絶の言葉を繰り返していると、突然、彼は憤った。


「なんでだよ!」


 いや、逆ギレされても……

 そこにワングが割って入ってシッシッと手を振ると、そいつも諦めて立ち去っていった。


「ああいうのも出るネ」

「はぁ」


 呆れて溜息が出た。

 余所者は人間ではない。狭いコミュニティーの中だけが世界という人々だ。騙しても、麻薬を販売しても、なんら良心の呵責を覚えない。

 万人に対して冷酷な大森林もアレだが、逆に身近な繋がりがすべてというこちらの社会も、相当な代物なのかもしれない。


「おっ、お前」


 またか。

 今度は知り合いのフリか?


「ワング、か?」


 俺じゃなく、ワングの名前を呼んだ。シュライ語で。

 そこにいたのは、ワングと同じく色黒の、ただ、痩せた中年男だった。


「久しぶりだ。よく来た! それで、今回はどうなんだ?」


 笑顔でまくしたてるその男に、俺は違和感をおぼえた。ワングの方はというと、軽い苛立ちを見せているのに。


「こっちにはしばらくいる。ただ、そっちの家に立ち寄る予定はない」

「どうした。お前はうちの人間だ。他に行くところなんてないはずだ」

「宿に泊まっている。こちらのお客も一緒だ。街を案内している。通してくれ」

「待てよ」


 だが、その男はワングの行く手を遮った。


「オヤジとオフクロが死んでから、お前は顔を出さなくなったな? どういうつもりだ。うちの家から生まれてきたくせに、何様なんだ」

「迷惑はかけてない」

「うちがどれだけ困ってるか、わかってるだろう? よく他人みたいな顔をできるな?」

「あ、まぁまぁ」


 俺は割って入った。


「お困りなんですか?」

「なんだお前は」


 ワングが血相を変えて怒鳴りつけた。


「口を慎め! フォレスティア王の騎士、ファルス様だぞ。本来なら、洗濯屋風情が口をきいていい身分じゃない!」


 それで男はビックリして後ずさる。俺は懐から数枚の金貨を取り出して、彼に握らせた。


「済みません。僕達は今、こちらのワングにラージュドゥハーニーの案内を頼んでいます。ご親族の方でしょうか? 積もる話もおありかと思いますが、僕達だけでは宿に帰れません。後程にしていただくことはできますか?」

「あっ、ああ」

「よかったです。では、ここは失礼させていただきます」


 身分を笠に着るのは好きではないが、ワングが言い争いを終わらせるきっかけにしてくれたのだから、便乗しない手はない。ここで俺が頭を下げて多少の金を握らせておけば、ワングへの印象も最悪とはいくまい。詳しい事情は、後から尋ねたらいいのだし。

 それから俺達は、先導するワングに続いて橋を渡り、南岸の街路を更に進んだ。


「ワングさん、あれは」

「兄弟ネ」

「ご兄弟? それがあんな振る舞いでよかったんですか?」

「二度と会う必要もないネ」

「そんな」


 すると彼は立ち止まり、俺をキッと睨みつけた。


「あなたに何がわかるネ」

「えっ」

「そういうことなら、アレを見せるネ」


 彼はやや乱暴な仕草で腕を振り、前に立って歩いた。

 果たして、いくつもの街路を横断して辿り着いた先には、さっきまでの石造りの街並みとは違った、明らかにみすぼらしい領域が広がっていた。

 立ち並んでいるのは、石だけでなく木材も組み合わせたあばら家ばかり。いつ倒壊しても不思議のない雑な家が、見渡す限り続いている。目の前にはさっきのとそっくりの運河が存在するのだが、そこで沐浴している人はいなかった。


 ワングは、黙って一方を指差した。

 運河の中ほどには足場らしきものがあり、その近くに突き出た岩が顔を出していた。そのすぐ脇には膝まで水に浸かった腰布一枚の男が、すぐ横の盥から衣服を取り出す。それを岩の上に叩きつけている。


「あれは?」

「洗濯ネ」


 こちらの世界、それも貧困層ともなれば、洗剤なんて上等なものとは縁がない。だから汚れを落とす手段としては、洗濯板を使ったり、衣類を叩いたりするのが普通に行われている。他、衣服を煮るケースもあるが。


「この国では、何の仕事をして生きていくかは、ほぼ生まれつき、決まっているネ」

「ええ」

「洗濯屋の家に生まれたら、死ぬまで洗濯屋ネ」


 遠目に彼らの作業を眺めながら、ワングはかすれた声で呟いた。


「洗濯は、他人の体についた汚れを落とす仕事ネ。それはもう、卑しい仕事だと思われているネ。フォレスティアでも、女の仕事……料理みたいなものは地位が低いネ。でも、こちらの洗濯屋は、もっともっと下の地位ネ」


 彼は俺に振り返り、自分自身を指差した。


「そんな洗濯屋の四男に生まれたら、どうすればいいネ?」

「えっと、それは」

「食わせてはもらえるネ。五歳からあそこで大人と同じく洗濯の仕事をすれば、困らないネ。一日中暑い中を力仕事で、毎日同じものばかり、おいしくもないひらべったいパンを少しだけ食べる暮らしネ。それを歳取って死ぬまでずーっと続けるネ」


 彼は、遠くでかつての彼と同じように作業に従事する少年を指差した。


「家族や家業を捨てるのは、ポロルカ王国では最低の行いだとされているネ。でも、私は四男ネ。兄や姉は結婚はできるけど、私は無理ネ。一生厄介者で文字の読み書きも習えないネ。死ぬまでオシャレの一つもしないのに、他人の服の汚れを落とし続けるネ。だから、覚悟を決めてこの国を捨てて、真珠の首飾りまで密航したネ」


 すべてが自由過ぎる西部シュライ人の世界へ。かつてのワングにとっての夢希望は、そこにしかなかった。


 確かに、ワングが不満を持つのもわかる。ただ、なんというか、一周回って似たような世界に行き着いたような気がしないでもないが。

 つまり、こういうことだ。ここポロルカ王国は、超保守的な世界だ。だから生まれながらに役割が固定されている。だから洗濯屋は死ぬまで洗濯屋。努力も夢もへったくれもない。だから、生まれた立場次第では、死ぬまで搾取され続ける。

 逆に西部シュライ人の世界、特に大森林ではどうか。あそこは、基本的に自由だ。女神教の理想が形になったかのように。だが、結果として生じている社会は、なぜかこことそっくりなのだ。あのフィシズ女王を思い出してみればいい。


「私は義務を果たしたネ」


 憤りを抑えられず、抗議するかのように彼は言った。


「成功してからは、親が生きているうちは仕送りしたネ。でも、もう死んだネ。なら、子供としての責任は終わりネ」

「さっきのご兄弟は、引っ張り上げて欲しいのかもしれませんね」

「だったら自分でやればいいネ。私がしたように、家業も地縁も血縁も捨てて、誰も頼りにならない土地に飛び出せばいいネ。それもしないで金だけせびるのが親族のすることかネ」


 それも道理だ。別に俺も、ワングにケチをつけたいわけではない。

 俺達の沈黙に、彼は自分が見当違いな方向に怒りをぶつけていたと気付いた。


「……失礼したネ」

「いえ」


 これはもう、彼の内心の話だ。

 ワングといえども、自分の故郷や幼少期に思い入れがないわけではない。家族の情愛や共同体への帰属意識、その規範を持っていなかったわけではない。

 だが、この問題について、俺は既にアナクの身の上話を聞いている。それがペットにせよ、一家の末っ子であるにせよ、大差ない。本人にとっては不都合で不本意な役割が、半強制的に割り当てられる。アナクは食われずに済んだが、ワングは海峡の混沌に身を投じるのでなければ、死ぬまでここで奴隷同然の人生を過ごすしかなかった。


 ワングと俺達は来た道を引き返し、やがて普通の街路に戻った。そこで馬車を捕まえて、王宮の広い庭園を眺めながら宿に引き返した。

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