ワング・リゾートの昼
穏やかに吹く西風。椰子の葉が優しく揺れて、こすれあう。青空にはうっすらと白い雲がかかり、離れたところから潮騒が聞こえてくる。
透明なガラスのコップに、涼しげな音が響いた。
「わぁ! ありがとうございます!」
ラピが嬉しそうにコップを両手で握りしめる。その天然果汁のジュースの中に、氷が一塊。たった今、俺が魔術で作り出した。
ワングの接待用の別荘にも、さすがに氷の備蓄はなかった。キトみたいに高山が間近にあればともかく、アリュノー周辺には雪が積もるような山はない。このリゾートも悪くはないが、やっぱり多少は暑さを感じずにはいられない。なら、氷水くらいは飲みたいだろう。
だが、彼女はすぐに申し訳なさそうに眉を下げた。
「図々しくて済みません」
「全然いいよ。もう自由民の身分に戻ったんだし、家来でも奴隷でもないんだから」
「そうですか……」
騎士である俺の方が目上の立場ではあるが、敬意も忠誠も要求するつもりはない。俺がどれだけ長生きできるか、今となってはわからないからだ。既にヘミュービにも目をつけられているし、使徒あたりがまた何かに巻き込もうと画策している。オマケに、すべてが順調に片付いても、きっと俺はワノノマまで行く。モゥハのお膝元まで行って無事で済むなんて、さすがに思えない。だから、俺の周りに残る人間は可能な限り減らしたい。生きていける道筋だけつけて、自由にしてあげたい。
「散々、みんなに助けてもらったからね。ここでは僕が尽くす番だよ」
そう言ってから、俺は空のガラスのコップを並べ、そこに次々生成した氷を落としていく。
「遠慮しないで、今のうちに楽しんで」
「はい!」
切り替えたのだろう、彼女は身に着けたスカートを翻してまた、日傘の下に駆け戻る。
身に着けているのは真っ白な体を締め付けないワンピースだ。南部の高級な木綿を使った、それなりに値の張る代物だそうだが、ワングはうちにある在庫ならどんな服でも選り取り見取りで使ってくれて構わないと言ったので、そのようにさせてもらっている。
「すっずしー」
俺達が日傘の下でビーチチェアに寝転んでいる中、ジョイスとクーは、目の前のプールの中でバシャバシャとバタ足をしていた。もっとも、泳ぎたがったのはジョイスだけで、クーは無理やり引っ張り込まれた形だが。
なにもわざわざプールに入らなくても、この別荘のすぐ下、石の壁の下には素晴らしい砂浜があるのだが、こちらの人間には海水浴の習慣がない。一応、真珠の首飾りの終端に位置するこの辺の海は、魔物も滅多に出てこない安全地帯なのだが、そこはやはり海賊などのリスクがあるためだ。海峡を赤の血盟が完全支配した今、その海賊も絶滅したに違いないのだが、だからといって急に人々が海水浴に目覚めるわけもない。
「ギィ、ギィ」
俺の横では、ペルジャラナンが気持ちよさそうに声を漏らしている。うつ伏せになってマッサージを受けているのだ。ワングが派遣したうら若い女性が、思いつめた顔で必死になって仕事をしている。なんでも人間の真似をしたがる彼だ。最初、この手の女性が何人か派遣されてきたので、フィラックもタウルもマッサージを受けていた。それを見て、自分にもやって欲しいと言い出したのだ。
だいたい事情は察している。ワングも商売で重要人物を接待することがある。ただ、基本的にそれは男性だ。で、近くには他の別荘はないし、ビーチに人通りもない。プライバシーが確保された空間で女達に取り巻かれて世話されるとなれば……一緒に水浴びしたり、その先のお楽しみも味わったり……もともとそういうコンセプトの場所なのだ。しかし、俺のお供には女達がいるし、俺自身も若い。そうなると、不健全なお遊びは提供できないのだが。
そういう接待をするつもりでやってきた彼女が、どういう因果か、魔物のマッサージをする破目になっているわけだ。完全に想定外なのだろう。どうしてこんなことに、と目が訴えている。
それにしても、俺の人生、いつもそうだが、いつも天国から地獄、地獄から天国だ。
キトで何不自由なく過ごしていたかと思えば大森林で血と泥に塗れ、そうかと思えばまた、高級リゾートでのんべんだらり。本当に極端すぎる。
「けど、なんというか、これは贅沢なんだが」
フィラックがビーチチェアの上で寝そべりながら言った。
「ここは快適だけど、退屈するな」
「だからストゥルンとイーグーは出かけた」
タウルが引き取る。
彼が言うように、今日はこの場に二人がいない。この別荘に案内されてから既に三日が過ぎている。最初の二日は、俺達と同じように寝そべっていたイーグーだが、今日は朝からストゥルンを連れて遊びに出かけてしまった。
いまだに目的が知れないイーグーだから、何かしでかすんじゃないかという不安もないでもないのだが……ストゥルン一人をどうこうしたところで、俺に決定的な影響を及ぼすことはできない。ルーの種族との今後の顔繋ぎ役としての立場は期待されるところだが、それなら別にシャルトゥノーマでもディエドラでもいいわけだし。だから特に咎めなかった。
「もう退屈するなんて、元気が有り余ってるね」
俺が皮肉をいうと、フィラックは笑って肩を竦めた。
氷だけ入ったコップに果汁を注ぎ、トレイに載せて運ぶ。隣の日傘の下には、シャルトゥノーマとディエドラ、その向こうにはノーラとラピが寝そべっている。
「チョウドヨかった」
ディエドラはジュースを飲み干したばかりだったらしい。遠慮なく手を伸ばして、自分の好みのジュースを掴み取る。シャルトゥノーマはそれを咎めるような目で見るが、あえて何も言わなかった。代わりに、俺にポツリと感想を漏らした。
「私は関門城の近くしか知らなかったのだが」
「うん?」
「こんなにも人間の世界は栄えていたのだな。なるほど、ルーの種族が敵わないわけだ」
俺は首を振った。
「ここは金持ちの別荘だから、普通はこうじゃない。ただ、まぁ確かに、これだけの富が集まる場所があるという意味では、そうだね」
能力で人間を遥かに上回るイーヴォ・ルーの軍勢が世界を征服できなかった理由はなんだろうか? 遠くセリパシアにも改造された霊樹があったのだ。つまり、西方大陸の奥深くにまで、ルーの種族は進出を果たしていた可能性がある。実際、フォレスティアやアルディニアの森の奥には、ゴブリンやトロールが住み着いているのだし。
やっぱり、霊樹が足枷になった気がする。死守すべき拠点ができてしまい、戦力の流動性を大きく損なったから。また、そうであればこそ、イーヴォ・ルーも人間を大勢囲い、その統治者としてのパーディーシャーを置いたのだろうし。
「人間の強みは、大きな社会を作れるところにある」
「大きな社会? なんだ、それは」
「僕一人では、ただの人間で、ルーの種族には敵わないとしても」
「ファルスなら普通に勝てると思うが……」
ツッコミは置いておいて、説明を続ける。
「いろんな人がいろんな形で関わりあって、協力を積み重ねていく。そこなんだ」
「よくわからないな。私達も、ペルィやアジョユブと助け合って生きているぞ」
「もちろん、助け合っていると思う。人間同士より、むしろ深い信頼関係があるんじゃないかな。例えば、ビナタン村が人間の冒険者の集団に襲撃されて、霊樹が破壊されそうになったら、みんなどうする?」
「言うまでもない。敵を追い払うか、死ぬまで戦うかだ。獣人の村だからって、他人事では済ませない」
「だろうね」
予期された回答に俺は頷いた。
「でもそれは、シャルトゥノーマや他のみんなが、ビナタン村の人達を同胞だと思っているからだ」
「同胞だろう」
「じゃあ、好きでも嫌いでもない赤の他人のために、同じように戦う?」
「まさか」
そこが人間との違いだ。
「このアリュノーには、たくさんの船がやってくる。フォレスティアから、交易のために……積んできた荷物を売ったり、ここで何かを買って帰ったりする」
「ふむ?」
「その船を出す時には、いろんな人がお金を出す。まずお金持ちの商人が腕のいい船乗りに声をかける。船乗りは船乗り仲間に声をかける。どんな商売をするかを話し合う。すると商人達が、知り合い同士で声をかけて、知り合いの知り合いにも声をかけて、お金を出し合う。そうして船が出発できるようになる」
まだ彼女はピンときていないらしい。
「それがどうしたというのだ?」
「わからない? 知り合いの知り合い、船乗り仲間の船乗りは、お互いのことなんて知らない。知っていても、仲良しとは限らない。同胞なんかじゃないんだ。だけど大事な財産をそこに投資する。そういう仕組みを持っている。だから、顔の見えない人同士でも、結果としては助け合ってる。大きな力を集めて大きな仕事をするから、大きな利益が得られる」
霊樹の制約ゆえに、自分達だけでは狭い社会しか構築できないルーの種族は、そこがボトルネックになったのだろう。だからこそ、ナシュガズには人間の居場所もあった。むしろ、人間の介助が必要だったのだ。なぜなら、彼らは霊樹に縛られずに自由に移動できたから。
話しながら、俺はアイドゥス師のことを思い出した。まるで今の話は、彼の受け売りみたいじゃないか。
大森林でのいろんな出来事が、なぜか彼の言葉の必要性を、俺に思い出させる。せっかく彼から学んだことを、俺はどれだけ生かせているだろうか?
「学ぶことは多々ありそうだな」
「急がなくていいよ。はい、ノーラ」
「ありがと」
ジュースを届け終わってから、俺はまたビーチチェアの上に寝そべった。
これからどうするにせよ、またどうなるにせよ。大事なのはメリハリだ。それはここ数年の激動の人生の中で、だんだんと身につきつつある。
つまり、先々の不安に囚われ過ぎないということだ。イーグーが何者なのかもわからない。使徒が何かを企てている。ナシュガズでは、ルアなる怪しげな人物に警告を受けた。大変なことが起きるかもしれない。でも、今は今だ。
案外、物事はシンプルだ。悩んだり、恐れたり、迷ったりしても、ましてや自分の無力に落ち込んでも、どうにもならない。
それは現状を評価するという心の働きだ。無論、評価は必要だ。現在位置を確認して、軌道修正を行う上で欠かせないものだ。しかし、それはあくまで行動のための手段でしかない。例えば、ある大学を目指して受験勉強をしている。模試を受けたら、英語はA判定だったが、数学はD判定だった。じゃあ、もっと数学を頑張ろう。これだけ。一喜一憂する必要はない。なのにどういうわけか、模試でA判定を取ることが目的化してしまう。それは目標ではあるが、目的ではないはずなのに……そこで無駄な感情に振り回され、やるべきことが手につかなくなる。
そんな無駄に陥るくらいなら、脱力して休んだ方が、まだ身のためだ。なかなかそうは割り切れないものなのだが、今はそう思ってしまうくらいに、俺自身がくたびれていた。
入口の鈴が軽やかな音をたてた。
「どうも、お邪魔するネ」
低頭平身、愛想笑いを浮かべたワングが、ノソノソとプールサイドにやってきた。
「皆様、お寛ぎいただけていますでしょうかネ」
「ありがとうございます。とても快適ですよ」
俺はビーチチェアの上から笑顔でそう言った。
「おお、それは何よりですネ」
バタバタと俺の足下に彼は膝をついた。
「何か入用なものなどございますでしょうかネ?」
「いえ、十分足りています。それより、船の手配はいつ頃になりますでしょうか」
「それなのですがネ」
彼は難しい顔をしてみせた。
「海峡が安全になったとはいえ、荷物が荷物ですしネ……だから、そこらの船乗りには任せられないネ」
「それは、仰る通りですね」
「私の知る最高の船乗りがまたこちらに来るという話があるネ。そいつに緑竜の鱗も、皆様の移動もお任せしたいと思うネ」
なるほど、ことがことだから、変な人間を使うと、目先の欲に狂ってまたトラブルになるんじゃないかと。
そういう配慮は大切だ。
「それで、私に売っていただけるのは、緑竜の鱗のうち、百枚分だけということですが、どうでしょう、金貨十万枚ではどうでしょうかネ」
「ちょっと高すぎません?」
「いやいや、これくらいは出して当然ネ」
最初の値段の二十倍。いくらなんでも、それでは利益など出ないだろう。一枚あたり一千枚も支払ったら。それはもう、ほとんど素材を加工して作った後の完成品と変わらないくらいの値段になるんじゃないだろうか。
だが、彼はあくまで自発的にこの価格を提示してきている。これは、保険のつもりのお灸が効きすぎてしまったか。
ネッキャメル氏族によるクース王国の占領とフィシズ女王の追放という大事件。その引き金になったのが俺であること。更に、俺達が今、アリュノーにいるとギルドには伝わっていること。
これらを足し算していけば、俺を毒殺するという選択肢がないとわかる。どういうわけか、ティズはファルスを庇護する立場をとっている。海峡を支配する赤の血盟の長を敵に回したら、いかに富豪のワングといえども、社会的にも物理的にも命がない。
しかし、なんとも目障りなことに、俺はワングにとっての最悪の秘密、つまりグルービーに協力して病原体をピュリスにばら撒いた事実を知ってしまっている。これが表沙汰になれば、やっぱり彼の命はない。
よって結論は、ひたすら媚びるというところに落ち着く。
「まぁ、でも、そうおっしゃってくださるなら、受け取らせてもらいましょうか」
「ありがとうございますネ!」
もっとも、彼もそれなりの商人だ。先を見据えているのは間違いない。
俺を宥めるためだけに大金を差し出したのでは、あまりにもったいない。それならいっそ、下についてお気に入りにしてもらったほうがいい。うまくすればティズみたいな有力者とも繋がれるかもしれない。
俺の足下から立ち上がり、俺の同行者達にもいちいち頭を下げていく。そしてその視線が、四人の女達に向けられた。
「おお! これはなんともお美しいネ!」
少々大袈裟でわざとらしい気もするが……
確かに、ノーラもラピも、シャルトゥノーマもディエドラも、顔かたちは整っている。変に太っていたりもしない。
「ファルス様、ご提案がありますネ」
「なんでしょう」
「私、なかなかの腕の絵描きを知っておりますネ」
揉み手をしながら、彼は言った。
「皆様が我が家を明るくしてくださった記念に、この美しいお嬢様方を、せめて絵に残したく思いましてネ」
「みんながいいと言うなら、僕は構いませんよ」
ワングが振り返る。
だが、みんな反応が鈍い。自分達を描く? それがどうした? 人間の世界に疎い二人はもちろんのこと、ノーラの頭にもこういう発想がない。彼女の頭は仕事用で、女の子らしい発想があまりないのだ。
すると、この場をリードするのはラピになる。彼女は左右を見比べて、それならと手を挙げた。
「あ、じゃあ、はい、はーい! お願いします!」
「では、早速に手配しますネ」
「かわいい衣装もお願いします!」
「もちろんですネ!」
やれやれ、微笑ましいことだ。
今は今。
せっかく微風が気持ちいいところで寝そべっているのだ。
この瞬間を快適に過ごすというのが、今できる最善なのかもしれない。
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