ワング・リゾートの夜

 窓の外は黒一色に塗り潰されていた。南方大陸の夜空は、サハリアのそれとは違って、いつもどこか澱んでいる気がする。大森林を抜けた今でも、相変わらず空は重苦しく、暗く濁っていた。

 ワングの別荘の高層階ともなれば、他所から覗かれる場所でもなく、虫が入り込んだりすることもまずないが、俺は窓枠を下ろした。そこには薄い布がかかっていて、空気は通すが、光を多少遮る。


 風はほとんどないが、夜になると気温が下がって、少しは過ごしやすくなる。そこで俺は、読書に勤しんでいた。

 ナシュガズの市庁舎に置かれていた、あの魔術書の数々。今、手元にあるこれらは、ルアが俺のためにわざわざ用意したものに違いない。何百年も前からあったのなら、もっと埃をかぶっていてもいいはずだからだ。


「で、これが……『万華鏡』の術、か」


 アイドゥスが魔宮から出てきた毒蜘蛛に用いた目くらましの術。もっとも、今は対象がいないので、使っても意味がないのだが。

 今は室内に蝋燭でなく、魔術の力で青白く輝く光源がある。夜間の読書には大変重宝している。あの日、俺が手にした魔術書と魔道具は、確かにこの上ない宝だった。


 見た目はバジャックが言ったように貧相で、どうということもない。道具は一揃いしかなかった。まず、ネックレスとも呼べないようなネックレスが一つ。これ自体に装飾はなく、金属製の網みたいになっている。そのあちこちに、ボタンを嵌める穴みたいなのが開いていた。

 それに組み合わせるパーツがいくつもあった。例えば、赤い魔石を組み込んだそのパーツだが、こちらも基本は金属の網で、組み合わせるためのボタンがいくつかついている。それをさっきのネックレスもどきにピッタリ合わせて着用すると、火魔術の道具になってくれる。

 ボタンが余っている限り、そしてパーツの形とボタンの配置が適合する限りは、いくつでも組み込むことができる。つまり、このネックレス一つで、複数の魔法を同時に扱える道具として機能する。


 そして、その可用性の高さこそが、俺を底知れない不安に突き落としているのだ。魔術とは本来これほどまでに強力なものだったのかと、再認識させられたから。

 俺はサハリアの戦争で、城門を吹っ飛ばすために火魔術を用いた。あれはあれで強烈だったのだが、しかし、使い方としては子供の火遊びみたいなものでしかなかった。本当の魔術師は、もっと多種多様な魔法を自由自在に用いる。具体的には、複合魔術と魔力操作だ。


 まず、複合魔術から。

 以前、カディムが力魔術で空を飛ぶのを見たことがあるが、恐らくイーグーは、あの何倍もの速度で飛行することができる。風魔術と複合する技法があって、それを活用すると、余計な空気抵抗をなくせるので、航空機もかくやという速度で飛べるのだ。

 また、土魔術と身体操作魔術を複合することで、瞬間的に肉体を硬化することもできる。高度な技だが、水魔術と複合すれば液状化すらできてしまう。もっとも、後者については装備品まで液体になるわけではないので、実戦で使うには問題がある。それで強烈な打撃を受け切っても、術を用いるのに利用したこのネックレスが砕かれてしまったのでは、ありがたみがない。

 はっきりとは言い切れないが、イーグーが緑竜を抑え込んだあの魔法も、ただの『落とし穴』ではなく『蟻地獄』かもしれない。土魔術の落とし穴に、水魔術で足場を脆くし、力魔術で下へと強く引っ張る。ただの穴では、緑竜の強靭な足があれば簡単に這い上がることができてしまう。

 神通力の一部を代用することもできる。例えば『暗視』は身体操作魔術と光魔術、『透視』はそれに土魔術を複合することで実現する。つまり、複数の系統に熟達した魔術師は、掛け算のように手札を増やしていけるのだ。


 魔力操作も重要だ。

 これは、魔術をいつ、どこで、どのように用いるかを制御する技術だ。

 その場で詠唱してその場で発動するのは、幼稚な初心者のやり方だ。事前に詠唱や儀式を済ませておき、条件を満たしたときに自動で発動する。例えば、ドアノブを掴んだ瞬間に『忘却』の魔法が発動するとしたらどうか? 具体的な状況を想定しよう。誰かを尋問して、あれこれ記憶が残った後、それを消してしまいたい。だけど目の前でのんびり呪文を唱えていたら、さすがに相手も警戒する。だが、話し終えて部屋を出ていくときに扉に手をかけるのは、ごく自然なことだ。

 あのサルの群れに襲撃された夜、イーグーが巨大コウモリを『即死』の魔法で始末した件も、これで説明ができるのだ。彼は事前に儀式を済ませておき、いくつかの魔法を手続きなしに意のままに使用できる状態だったに違いない。


 では、恐らく高度な魔術師である使徒と俺とでは、今、どれほどの力量差があるのだろうか?

 それにまだ俺は、イーグーが習得している精霊魔術については、ほとんど何も知らない。ただ、精霊が魔術師の力をとんでもなく底上げするらしいことは、レヴィトゥアを相手取ったときに思い知らされた。現に使徒は、マペイジィの持っていたアダマンタイトの棒を、ただの一撃でドロドロに溶かしてみせた。通り一遍の魔法対策では、あれは防げない。

 しかし、あれらに追いつくにせよ、枠が足りない。火、水、風、土、身体操作、精神操作、力、光、治癒と九系統の魔術を仮にすべて最高レベルで身に着けるとして、魔術核までコミで取り込んだら、それだけで十八枠も消費する。これに加えて腐蝕魔術、精霊魔術や精霊、魔力操作もとなれば、最低で二十三。身体能力を底上げしたり、死亡リスクを下げるための耐性を取り込んだりすることまで含めると……

 しかも、ピアシング・ハンドには、相手を認識しなければ使えないという問題点がある。使徒もその点は認識しているだろう。となれば、それこそ魔術を可能な限り活用して、直接対決するのを避けるはずだ。


 つまり、俺は力で奴の影響を排除することができない。少なくとも今、その見通しは立てられない。

 考えても仕方のないことか。ルアも俺が何か大きな危難にさらされると言っていた。避けようとしても避けられないのも、織り込み済みなのだろう。


 懐から、あの時渡された鏃のようなものを取り出してみる。

 それは本当に黒い鏃のような形をしていた。先端は鋭く、突き刺さりそうだ。後ろにはストローの先端みたいな円筒状の金属部分がくっついていた。それが二つ。

 材質はもうわかっている。恐らくオリハルコンだ。魔力に反応して吸い寄せられる。机の上に置いて呪文を詠唱すると、その魔力に反応してカタカタ震えだすくらいだ。だが、こんなものをどう使えというのか。

 オリハルコンには、俗に魔術師殺しという呼び名がついている。だが、呼び名は呼び名でしかない。確かに、よっぽど強力な魔法を使えば、この鏃はそこに吸い寄せられて刺さるかもしれない。だが、それで術者が驚いて行使を中断すれば、そこで終わりだ。この鏃が刺さったとしても、引っこ抜いて箱の中に入れるなり靴の裏でしっかり踏んづけて固定するなりすれば、それ以上、何の害も及ぼせない。


 一通りの検証と調査は済んだ。

 呪文を覚えきったわけでもないし、実戦で使いこなすには、まだ考えきれていない点も多々あるが……

 ああ、それと俺の多芸を見せつけた件。これはどうしよう。なんでもできるが、一度にいろいろはできない。それをするには枠が足りない。このままでは、俺の秘密を明かさねばならなくなるかもしれない。


 考えが煮詰まったのを感じて、俺は立ち上がった。


 出歩く先がそんなにあるのでもない。夜中に街に出るような真似はしない。チンピラに絡まれる心配はしていないが、道に迷う可能性ならある。

 だから結局、この階の廊下をウロウロするくらいしかできない。そうだ、廊下の突き当たりのテラスで夜風でも浴びよう。


 そう考えて廊下の角を曲がった。

 廊下の向こうにポッカリと黒い口が開いていた。そこのテラスに、白く亡霊のように浮かび上がる影が見えた。


 俺は足音を殺して近づいた。

 こんなところでラピは何をしているのだろう? 声をかけていいものか、このまま立ち去ればいいのか。

 少し考えて、すぐ決断した。俺の周囲には危険が多い。変に気を遣って内心を確かめなかったせいで、何か重大な問題を見落としてしまったら。あの時、本音を聞いておけば、なんてのは愚の骨頂だ。


「あ、あー、こんばんは」


 といって、スマートな声がけができるわけもなく。

 俺がいることに全く気付いていなかったラピは、ビクッと身を震わせて鋭く振り返った。悲鳴をあげかけて、自分で自分の口を塞ぎ、数秒間硬直してから、ほっと息をついた。


「びっくりしたじゃないですか!」

「ご、ごめん」


 もう一度、胸を押さえてほーっと息を吐く。


「なんなんですか、もー……」

「いや、眠れなくてブラブラしてたんだよ。それだけ」

「足音殺さないで下さいよ」


 口調は昼間と同じで、快活そうに見える。だが、表情にはなんとなく翳がある。


「それで、ラピはどうしてこんなところで」

「夜風を浴びてただけですよ」

「ならいいんだけど」


 考えすぎか。日中も、何かあると一番はしゃいでいたのが彼女だ。今いる四人の女性の同行者の中で、誰より元気そうにしている。


「悩んでいることとかがあるのなら、と思っただけで」


 一瞬、身を竦ませてから、彼女は肩をそびやかして鼻であしらった。


「バッカじゃないですか! 私が悩むことなんか何もありません!」


 やはりおかしい。

 妙に虚勢を張っているように見える。以前にも、俺に口答えすることもあったし、もともとは明るい性格の娘であるとも認識しているが、こういう強い言葉は使わない。


「悩んではいなくても、困ってることとか、すっきりしない何か、不満とか、あるかなって」


 すると彼女は、怒りの表情を浮かべた。


「なんですか、それ」

「えっ?」

「ノーラさんに頼んで、私の頭の中でもみたんですか」

「えっ、いや、違う。そんなこと、してない」


 しまった。そういう問題があったか。

 魔術で心を読めるというのは、読む側の特権であって、読まれる側はそれを不安に思わねばならない。仲間だから読まないだろう、読まれても大丈夫……みたいなお話ではない。


「本当にそんなことはしてない。理由がない。だから」

「わかってますよ、そんなの」


 俺が本気で狼狽えて釈明しだすと、彼女は不満げにそう言った。


「ファルス様が悪いんじゃありません」

「やっぱり何かあるんじゃないか」

「私が役立たずだったってだけです」


 言ってしまってから、彼女はしおれた花みたいに俯いてしまった。


「クーちゃんより、全然ダメだった」

「いや、あんな滅茶苦茶な探索によく付き合ってくれた」

「たくさん足を引っ張ったと思ってます」


 彼女は遠い目でテラスの右側に目を向けた。


「最後の最後でも、結局、助けられちゃって」

「というと?」

「バジャックさんが……あの果実を取った時です。あの時、チャックさんが慌てた様子で、ストゥルンさんに降りろって言ったんです。それが罠とも知らずに信じて降りてきたところを、後ろから槍の柄で頭を殴って。息が止まりそうでした」


 彼女にとっては衝撃だったのだろう。だが、俺はその振る舞いから、バジャックの中の小さな良心を感じ取った。殴るより刺殺した方が確実なのに、そうはしなかった。


「でも、クーちゃんは……私を庇って、言ったんです。追いかけないって」


 つまり、クーもまた即時に見抜いたのだ。バジャックは、本音では俺達を傷つけたくないと、殺したくはないのだと……そういう甘さを捨てきれなかった。そしてまさにその通りに、彼は背を向けて走り去った。彼らの姿が見えなくなったところで、クーは走り出し、近くにいたタウルに事情を伝えた。

 下手に騒ぎ立ててもどうせ二人ではバジャックを止められなかったし、お互い望まない結果にしかならなかった。探索の目的、自分の命より優先されるべきであろう不老の果実を前に、彼は最大限の冷静さを発揮したのだ。


「あの時、私がもう少し何か思いついていれば」

「いや、無理だよ」


 完全にあれは、俺の手に負える状況ではなかった。ましてやラピに何ができただろう。


 あの時、俺自身は緑竜の相手で手いっぱいだった。だが、イーグーが本気で食い止めるつもりがあったのなら、なんとかなっていたのではないか。今にして思えば、あの結末はむしろ彼が描いたものだったのかもしれないとも思う。

 俺達はゲランダンの正体を知った時点で、チャックには注目していなかった。だが、イーグーは容赦なく全員の心を読み取っていたのではないか。だから、チャックがバジャックを殺すつもりだったことも知っていた。

 では、二人を見殺しにしたのか? いや、多分、あれが最善だったのだ。


 まず、俺が不老の果実をあの場で食べても、目に見える結果を得られなかった可能性が高い。そもそも若いし、既に老化しない肉体を得てしまっている。だからこれ以上アップデートされる要素がなく、俺は不死を得たのか、得られなかったのかを自分では判断できなかった。

 不老の果実がどんなものかを見せるには、別の被験者が必要だった。だからイーグーは、もともとあれを欲していたバジャックに取らせることにした。あれで俺達は、見つけたのが確かに本物だったことと、俺にとっては意味のないものだったことを確かめたのだ。


 要するに、俺が果実を食べていても、恐らく不死には至り得なかったし、バジャックもチャックも死ぬしかなかった。

 だったら、目の前で探し求めていたものの結果を見せてやった方がいい。そういう道理なのではないか。


 もちろん、これは想像でしかない。バジャックの行動が予想外だった可能性もある。ギリギリまで、彼も裏切るかどうかを決めていなかったことも大いに考えられるからだ。また、この仮説が成り立つためには、前提として、俺の肉体が既に不老になっていることをイーグーが知っていなければならない。

 恐らくだが、不老の肉体を得ているイーグーは、魂の加齢はまた別であることも知っている。仮に彼が使徒の回し者であるとするなら、魂の老化によっても人が死に至ることを伝えなくてはならない。だが、俺がケッセンドゥリアンと会ったこと、そして黙って石像にならなかったことから……なにしろ石像になれば、肉体の劣化は、破損以外では生じないのだから……既にこの事実に至っていると判断することもできた。その辺は、俺が果実を手にしていたら、彼が確かめていただろう。


「多分、あれは、ああなるしかなかった」

「それでも」


 ラピは首を振った。


「何か役に立ちたかったんです」


 それだけ言うと、彼女は背を向けて、暗い廊下に向かって歩き出してしまった。


 俺は、そんなラピの背中を目で追いながら、どうしたらいいのかを考えていた。

 できることがあっただろうか。ピアシング・ハンドで力を分かち与えておけば、こうはならなかったのか。


 答えは出なかった。

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