第三十四章 夕凪の汀

流汗淋漓、悪臭芬々

 朝からずっと、木の車輪と石畳とが小突きあう音を聞き続けている。

 大きな荷台の上には、薄い布を張っただけの日除けがあるが、あまり役に立っていない。風がほとんど吹いていない。重たい湿気をたっぷり含んだ熱気が、頭上からのしかかってくる気がする。


 もし、俺の願いが今、何でも叶うなら、まずは水風呂に飛び込みたい。石鹸で全身をしっかりと洗いたい。それから冷房の利いた部屋で横になりたい。だが現実には、汚れた衣服を着たまま、一日中汗だくになりつつ、無気力に荷物の上で寝そべっている。

 俺だけじゃない。みんな暑さにまいってしまっている。クーなんかはもう、壊れた人形みたいにものも言わずに転がっているし、ディエドラは何度も服を脱ごうとしてはシャルトゥノーマに止められている。


 大森林を南に抜けるナディー川の流れに沿って一週間ほど、川を下った。もともと濁流で、流れも割合緩やかだったが、あるところで豊富に生えていた木々が途切れると、そこから先は一転して、葉の色の濃い、丈の低い木々がまばらに生えているだけの、そっけないとしか言いようのない土地に出た。

 森の中にいる間は、あれほど見晴らしのよさを求めていたのに、実際にそうなってみると、ひたすら暑いだけだった。だだっ広い平野を緩やかに蛇行する濁流の上で、ただ流されていくばかり。日差しを遮るものもなく、俺が能力を水魔術に組み替えていなければ、みんな渇きで死んでいたかもしれない。

 けれども、そんな苦行の時間は、そう長くは続かなかった。ほどなく、ポツポツと四角い土壁の家々が川の西岸に見えてきたからだ。俺達は必死で櫂代わりの木の枝で水を掻いて、その村落の近くに上陸した。


 村人が出てくると、そこからはもう無我夢中だった。残っていた緑竜の肉を差し出して、代わりに野菜とパン……パンといっても、膨らまないひらぺったいやつだが、それらと交換してもらい、ひたすら貪った。

 そう、パンだ。俺達は西部シュライ人の世界を突き抜けて、南部シュライ人の世界に立ち入った。こちらでは、大森林の向こう側と違って、雑穀より小麦の栽培が盛んだ。もっとも、この辺の暑い地域では小麦はあまり多くはなく、俺達が食べたのは、村人が交易で得たものだった。

 そして、これが重要な点だった。つまり、この村には商人が立ち寄ることがある。馬車でそれなりの量の物資を運んでくるというのだ。いつもはこの村から豆を積み出すのだが、そのスペースを譲ってもらった。売れるはずの農作物を無駄にすることになるので、もちろん、支払いはした。ナシュガズから持ち出した小さめの金のキューブの一つを差し出せば足りたのだが。

 そうしていくつかの馬車には、俺達の荷物……つまり、緑竜の鱗や骨を満載した。最後の馬車が俺達の乗り物になり、こうして西の海岸を目指すことになった。


 一週間ほどの馬車の旅は、快適とは程遠いものだった。

 トゥワタリ王国の街道は、あまりメンテナンスされていなかった。そのせいで馬車は小さな凹み一つで大きく跳ねる。腰が痛くてならないので、そこは少しでも衝撃を軽減しようと、俺達は荷台の上に毛布を敷いて、そこに寝転がった。だが、すぐに凄まじい蒸し暑さに気が狂いそうになった。


「ファルス、ミ、ミズ」


 ディエドラのリクエストに応じて、俺はコップを取り出し、念じて水を作成する。彼女は引っ手繰るようにしてそれを掴み、一気に飲み干した。


「あんまりガブ飲みすると、バテるぞ」

「ノまないとヒからびる」


 魔術もタダじゃない。俺の体力を削っているのだが。


「聞いた通りなら、そろそろアリュノーが近い」

「宿が待ち遠しいわ」


 さすがのノーラも、不快感を言葉に出すほどか。


 俺が魔術で作り出す水は、まず飲用に用いられる。生存のため。それが最優先だから。そして南方大陸南部にも、やはりというか、きれいな水は多くない。ナディー川の濁流では、洗濯にも使えない。入浴なんて夢のまた夢だ。

 しかも悪いことに、このトゥワタリ王国、ほとんどがド田舎ときた。俺達が漂着したのは国土の東端だが、だいたいそこは南方大陸を東西で区切ったところの真ん中あたりで、川の向こうは未開拓のまま。猛獣や魔物も出没するので、川という移動の妨げになるものを背にして拠点を築くには、それなりのコストがかかる。そしてこのド田舎の経済的価値は、今のところ、非常に低かった。半ば公共事業のような形で商人が送り込まれるだけで、王国としてはこんな僻地にはさしたる価値を見出していない。実際、これといった産物もないのだ。

 要するに、途中に都市らしい都市がない。つまり、ろくな宿屋もない。清潔な水をたっぷりと使って入浴や洗濯をしようにも、なかなかその機会がない。水はないでもないが、その多くは現地の人々の生活用水として消費されてしまう。部外者がおいそれと利用させてもらえるものでもないらしい。

 だから、俺達は大森林を出た時のまま、悪臭芬々たるありさまだった。


「おっ」


 フィラックが身を起こしかける。町外れにポツポツと四角い家々が見えてきた。その道路脇に井戸があり、そこで水浴びしている男がいた。飛び散る水を、俺達は羨ましそうに見ていた。

 トゥワタリ王国においては、貨幣経済がそこまで強くはない。お金を払えば誰にでも井戸などの設備の利用を許可する、という、ある種の常識が通用しない。流通が限られているがゆえに、小さな共同体の中の信用が、市場経済に勝っている。この馬車の荷台を横取りできたのも、それが数少ない市場経済の領分だったからにすぎない。


 それにしても滑稽なのがイーグーだ。

 彼が存分に魔法を使えば、俺の何倍も水を出せるはずなのに、なんなら一人だけ空を飛んで楽をすることもできるのに、わざわざ俺達と一緒に蒸し暑さに耐えている。演技でなくつらそうなのに、よくもまぁ我慢するものだ。


「んお?」


 ジョイスがビクンと身を起こした。そのまま、荷台の上に立ち上がると、飛び跳ねて喜びを露わにした。


「着いた! 見えたぞ! 街が!」


 前方を透視したのだろう。俺達はのろのろと荷台の縁に身を預けて身を伸ばす。彼の言った通りだった。

 こんな嬉しいことはないと、みんな揃って歓声をあげた。


 トゥワタリ王国の首都、というか唯一の街がここ、アリュノーだ。

 雨の多かった大森林とは打って変わって、トゥワタリ王国の国土は雨もあまり降らず、水に乏しい。だから街並みは先の戦役で見た、対岸のサハリアのそれに似通っている。家々は石か日干しレンガで作られ、陸屋根だ。ただ、一つだけ違いがある。城壁がないのだ。

 目にするのは初めてだが、トゥワタリ王国成立の歴史的経緯と、その立地からすれば、驚くにはあたらない。


 諸国戦争後の混乱の中、南方大陸西岸地域は、ワディラム王国から分離独立したサハリア系豪族の支配下に組み込まれた。だが、それに立ち向かい、この海峡に覇を唱えたのがルアンクーだ。彼はエインに本拠を置き、各都市の有力者の娘達と結婚した。これは、六大国の王女達と結婚したギシアン・チーレムの先例に倣ったものだろう。団結するのが苦手な西部シュライ人を何らかの旗印の下で無理やり纏め上げようとなれば、やり方は限られていた。

 北はキトから南はアリュノーまで、現代の真珠の首飾りの全域を支配する海洋帝国は、既に力においてポロルカ王国を凌いでいた。なにせ物流の首根っこを押さえられてしまったのだ。そしてルアンクーは海戦では圧倒的に強かった。だから当時のポロルカ王国は、ルアンクーの王国を形ばかり「弟の国」として認め、王を名乗ることも許した。そうするしかなかった。アリュノー以南の航海は真珠の首飾りの外側で、安全度も低いので、ルアンクーの脅威は比較的小さかったのだが、それでも王都ラージュドゥハーニーは、南方大陸の南端近くの海沿いにある。迂闊な真似をすれば、二千五百年の歴史を誇る都を失いかねなかった。

 だが、彼がハリジョン近郊で非業の最期を遂げてしまうと、それほどの強盛を誇った王国も、宙に浮いてしまった。もともと纏まりもなく、後継者が指名されていなかったこともあり、大きく二つに分裂した。それが北のベッセヘム王国であり、南のトゥワタリ王国だった。

 金鉱山という後背地を抱えたベッセヘム王国と、サオー以南の港湾都市を掌握したトゥワタリ王国だったが、どちらも勝者にはなり得なかった。ルアンクーなしでは、サハリア豪族の力にはまるで対抗できなかったのだ。かくしてベッセヘム王国は二つの港を維持しつつも豪族の顔色を見ながら風見鶏になり、トゥワタリ王国は三つの港湾都市に独立を許した挙句に、アルハール氏族とポロルカ王国に泣きついて、なんとか滅亡だけは免れた。


 結果だけみれば、海賊王の大業を継ぎ損ねて小さくまとまった国でしかないのだが、サハリア豪族もポロルカ王国も、その血脈となれば警戒もする。かつてのような軍事大国なんかになってもらっては困るのだ。

 そういうわけで、トゥワタリ王国は今でもポロルカ王国の弟の国だ。一応独立しているという体裁だが、事実上の属国、一諸侯の立場でしかない。


 一連の馬車が街中の路地に入り込むと、道行く人々の視線が向けられるようになった。山積みされているのは巨大な骨や鱗。その後ろに俺達……奴隷か犯罪者にしか見えない不潔な連中。交易のために訪れたサハリア人も、荷運びの西部シュライ人も、雑貨屋の南部シュライ人も、みんな口を開けてこちらを見ている。

 だが、行き先はもう決まっている。たまに道路を横切る迷惑な連中のせいで馬車の進みが滞ったりもしたが、家々の屋根越しに王城の尖塔が見えてくる辺りで、俺達はギルドに到着していた。


「はい? 生存確認ですか?」


 石造りのひんやりした建物の一階。圧迫感のある天井の下、薄暗い部屋に蝋燭の灯が点る。

 浅黒い肌の南部シュライ人の受付嬢が、俺の要求を聞いて眉根を寄せた。上半身は布を巻きつけた涼しげな格好だが、下半身は動きやすさを重視してか、パンツスタイルだ。


「関門城から出発した冒険者の集団です。あちらのギルドに生存確認を送ってください。保険の分の支払いが発生していると思うので、そこも確認の上、探索資金の解放をお願いします」


 普段の業務とかけ離れた話なので、呑み込みづらいのだろう。

 一人引き返したアーノの報告があるので、俺達は全滅したものと想定されている。ゲランダンの班員は一人残らず死亡したし、ペダラマンの班も、ここにいるストゥルンを除いては全員死んだ。ただ、アワルの班には生き残りがいる。そうなると、彼ら十名が事前に取り決められた保険金を受け取っているはずだ。

 しかし、その事実は俺達が知っているにすぎない。要するに、探索の終了を正式に伝えない限りは、ゲランダンやペダラマンのためにロックされた資金は利用できないままとなる。これが相当な額にのぼるので、手続きはしておかねばならない。電話もインターネットもないこの世界のことだから、その事務作業には相当な日数がかかる。だから、面倒でも最初に済ませておかねばならなかった。


「とりあえず、生存者の一覧をギルドで共有してください。次に北方に向かう連絡便はいつですか?」

「えっと、三日後ですが」

「では、それまでに手紙も書きます。ギルドと、アワルと……ウンク王国の関係部署と、あとは陛下にも……ああ、纏めて全部ギルド宛てのものになるかと思いますので」

「ちょっ、しょ、少々お待ちください」


 厄介な連中に当たってしまったと、迷惑そうにしているのが目に見えてわかる。それに、俺達を見て、時折、すごくいやそうに顔を顰める。

 理由は分かっている。業務が面倒なだけではない。単に臭いのだ。身も蓋もないが、特に俺は、緑竜の血液を全身に浴びている。服や鎧にも、同様に。一応、拭いはしたが、それで汚れが完全にとれるのでもない。

 南方大陸南部には、香りの文化がある。花の匂いを楽しむだけでなく、さまざまなお香を好んで使う。貴族だけでなく庶民まで、余程貧しくなければ、みんな揃ってそうなのだ。そこへこの悪臭の集団だ。そこは本当に申し訳ない。


「ややこしいかと思いますが、あと大きく三つ、お願いが」

「はい、なんでしょうか」

「一つは、外に積んである緑竜の骨と鱗を、買取査定にまわしてもらいたいということです」

「えっ」


 彼女はバタバタと外に走り出していき、また駆け戻ってきた。


「えっと、あれは」

「お願いできますか?」

「上と相談してみます」

「では、とりあえず引き取って、預かってもらうことはできますか?」


 俺が前にずいと出ると、彼女はそのまま後ろに下がって頷いた。


「ではあと二つ」


 俺は首にかかった冒険者証を取り外して突きつけた。


「金貨百枚ほどでいいので、引き出したいです。手続きのための書類を」

「あ、ああ、はい」


 手持ちの現金は、ほぼ尽きてしまった。今日の宿代にも事欠く有様なのだ。


「で、最後の一つは」

「これが一番重要です」


 受付嬢は、どんな無茶な要求を突きつけられるのかと、生唾を飲み込んで身構えた。


「入浴できる宿を紹介してください!」

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