八つの種族の伝承
沼地を越えた日の夜明けから、俺達は休みなく歩き続けていた。頭上には再び緑のアーケードが広がり、黒土の斜面が続いている。まるで大森林の入口に戻ってきたような錯覚をおぼえる。けれども、ここはもう「あちら側」なのだ。ケカチャワンとその向こうにある危険な沼地の対岸、ここからは再び人が暮らす土地が広がっている。
シャルトゥノーマが後ろに振り向き、声をかけた。
「どうした? 歩け。今日は屋根のある所で寝られる」
本人にも疲労の色は見えるが、それでも気を張っている。沼地は抜けたものの、ここはまだ魔物が出没する可能性のある場所だ。もちろん、あの暴走でもない限り、魔物同士が一致団結して行動することなどないので、ここまでやってくるのはそうはいない。例えば、普段は窟竜が森林オオカミを襲って食い殺しもする。だから霊樹との繋がりを断たれたゴブリンなどもいないそうだ。けれども、安全地帯というにはまだ早い。明るいうちに通過してしまいたいのだ。
その後ろを、俺達は重い足取りでついていくばかりだった。その様子を、彼女は首をひねって見下ろしている。なるほど、クーやラピのように明らかに体力で劣る連中が遅れるのはわかる。だが、どういうわけか、立派な大人まで死んだ目をしていた。
「ああ! そうか。私としたことがうっかりしていた」
そういうと、彼女は懐の袋から、濁った緑色の飴玉のようなものを取り出した。
「空腹では力が出まい。食べていいぞ」
だが、みんなそれを恨めしそうな顔で一瞥すると、黙って斜面に足をかけた。
「なんだ、いらんのか」
すると彼女はその非常食を袋に戻した。
「こんな便利なものはないのだがな」
「メニエ」
フィラックがかすれた声で尋ねる。
「それはいったいなんなんだ」
「前にも言っただろう? パルトヤスだ。アンギン村の風の民に伝わる保存食……ああ、詳しく説明してなかったな。ガラト草、タオムラーの樹液、バイラミーの種子を砕いたものが原材料だ。僅かな量で満腹感を得られるし、こなれもいい。危険な沼地を抜けるときにゆっくり用を足している余裕もないだろうと思ってな……これさえ食べれば何でも解決するぞ」
つまり、目方は軽く栄養は豊富。ただ、便通は非常に悪くなる。というか、きれいに消化されるのもあって、出すものがない。また、体内の水の巡りが悪くなるので、小用の頻度も落ちる。ただ、それはここではデメリットではない。危険な場所で活動するのに、のんびり腰を下ろして用を足すなんて、していられないからだ。ただ当然、長期的に常食するとなると、体のむくみなどの副作用はある。
だが、フィラックの関心は別のところにあったらしい。
「それで、ビナタン村には、食べるものがあるのか」
「獣人の村だ。肉があると思うが」
「肉!」
ジョイスが目の色を変えた。何かに後押しされたかのように、坂道を勢いよく登り始めた。彼だけではない。フィラックもタウルも、ゲランダンもチャックも、イーグーすらもだ。
その生き生きした動きに当惑しながら、シャルトゥノーマはわけがわからないというように首を振って彼らを追いかけた。
ああ、シャルトゥノーマは本当にわかっていない。
ここ四日ほど、沼地を抜けるのに苦労してきた。昼間は灌木に身を伏せて蜂をやり過ごし、夜中は休まず歩いた。虫除けになるあのひどい臭いの草を大量に焚きもした。それだけなら、まだ我慢できた。
問題は食料だ。シャルトゥノーマが提供したこのパルトヤスなる非常食、端的に言って非常に不味い。本人曰く、安全で栄養満点なのだそうだが、薬品めいた苦さとゲロを思い出させる酸っぱい臭いが合わさって、いつまでも口の中に気持ち悪い味が残る。ワームの肉に匹敵するほどのエグさだ。
これを不味いと感じるのは人間だけで、ルーの種族は違うのかと思ったが、ディエドラでさえ何か思いつめたような顔をして、一気に飲み込もうとしていた。ただ、ペルジャラナンだけはよくわからない。淡々と食べていた気がするが。
そんな中、シャルトゥノーマは顔色一つ変えずにこれを食っていた。やせ我慢、というわけでもないのだろう。要するに……
そんな彼らの足が、割と近くから聞こえた咆哮に止まった。
さすがに危険を前にして呆けるほど、彼らも腑抜けてはいない。フィラックは即座に抜刀し、バジャックも槍を構え直した。ただ、ここは経験の違いなのだろう。彼は目配せすると、タウルに先行しろと顎で指し示し、彼は腰を落とし体を斜めにして慎重に斜面を登り始めた。上り坂では、敵が高所を占めることになる。その不利を解消するために、接敵する地点を選びたいのだ。
だが、ディエドラだけは違った。一人、無防備に坂道を駆け上がっていく。
「バカ! 何をしている! 止まれ!」
後ろからフィラックが叫んでも、彼女は止まらない。果たして丘の上、大木の横から、途方もなく大きな虎と狼がそれぞれ顔を出した。
臨戦態勢になったのに気付いて、シャルトゥノーマは振り返り、みんなを押しとどめた。
「慌てるな。あれは敵じゃない」
確かに言う通り、ディエドラはその虎と狼の首を抱え込み、毛皮の中に顔を埋めていた。
一見すると、ビナタン村は普通の村落だった。マンガナ村と同じように、丘の上に家々が散在し、その合間が畑になっている。そして真ん中は広場だ。
但し、住民が普通ではない。頭の上から耳が突き出ている。獣人ばかりだった。働いている人は多くないが、この村には畑を耕す特別な労働力があるらしい。犂を取り付けられて前進するのが巨大な狼なのには、少々違和感があるが。
「コチらだ」
ディエドラは、二頭の巨獣を左右に従えながら、嬉々として先導した。
辿り着いたのは村の広場に面した、ひときわ大きな屋敷だった。入口の扉も人間サイズではなく、この巨獣が通り抜けられるほどだった。
帰還を知らせるべく、ディエドラは大きな声で何事か呼びかけた。ややあって扉が左右に引き開けられ、中から一人の年老いた獣人の男性が出てきた。髪はところどころ白髪に代わっているが灰色で、金色の瞳は眼光鋭く、頭上には犬耳が突き立っている。面白いのが服装で、浴衣にそっくりだった。獣人の都合を考えれば無理もない。変身して暴れることも考えれば、脱ぎやすいのは利点だろう。
彼は彼女を見るやいなや、これまた大音声で怒鳴りつけた。それが叱責の言葉であろうことは誰にも明らかで、何の関係もない俺達ですら思わず身をすくめてしまうほどだった。それから老人の視点は俺達の頭上に向けられた。シャルトゥノーマが進み出て何かを伝えると、彼は頷いた。
「客人、大したもてなしはできぬが、我が家へようこそ」
中に立ち入ってみると、サイズは大きいものの、南方大陸の基本的なスタイルは変わらなかった。床は土足で、椅子というには低すぎる板が渡してあり、そこに刺繍を施した布が渡してある。ただ、さすがに村長の家だけあって、ここは真ん中の囲炉裏を囲むところが石作りの床になっていた。といってもきれいに整形などされていない。丸い石が隙間なく寄せられて、固定されているだけなので、下はでこぼこだ。
部屋は広いので、部屋の隅には、さっきの巨獣にも横たわるだけのスペースがある。俺達は勧められるままに、囲炉裏の周囲に座った。
「カダル村から連絡は受けていた。前代未聞だが、外の人間達がついに我々の世界にやってくると。無事、沼地を渡ってこられるか心配だったが……シャルトゥノーマ、よく務めを果たしてくれた」
彼のシュライ語は流暢だった。
「では客人、簡単に説明しよう。わしはこのビナタン村を預かるワリコタだ。そこの恥さらしは、この村のはみ出し者、ディエドラだ」
厳しい言葉に、ディエドラは項垂れてしまった。猫耳も下に垂れている。
「は、はみ出し者、ですか」
「左様。おのれの力を過信して、外の世界を見たいと言って勝手に北に向かいよった。それで何かあったらということで、シャルトゥノーマに救出を頼んだのだが……まさかこのようなことになるとは」
腕組みをして、彼は深い溜息をついた。
「あ、あの、おかげで僕達はこうして、ルーの種族の皆さんとお話させていただくことができました。助かっています」
すると彼は頷いた。
「ファルス殿だな。アイル村の生き残りを保護してくれていると聞いておる。話を聞きたいということで、カダル村に生き残りが向かっているそうだ。何はともあれ、同胞が一人でも多く救われるとなれば喜ばしいこと。お礼申し上げたい」
「いえ」
それで話がいったん途切れた。
ふと、疑問に思ったので、この巨獣について尋ねてみた。
「あの、ワリコタ様」
「なにか」
「こちらの獣は……」
すると彼は一瞬、小さな怒りのようなものをみせたが、すぐ穏やかな表情に戻った。
「ご存じないなら仕方ない。これは我らの同胞のなれの果て」
「これは大変な失礼を」
「ルーの種族は、それぞれ霊樹に結び付けられておる。その繋がりを失うと、それぞれ大切なものを失う」
そういえば、シャルトゥノーマが言っていた。獣人の場合は、人間の形をとれなくなる、と。
「八つの種族について、どこまでご存じか」
「詳しく聞いたことはありません」
「よかろう。では、ここで説明しよう。ただ、失われたものも多い。知識も不完全ではある」
ルーの種族には、八つの枝があり、それぞれに対応する使徒が存在する。それら使徒を生み出したのが最初の使徒、始祖ともいわれる黒き花嫁だ。今では彼らにはコラ・ケルンと呼ばれている。だが、彼女の人生の始まりは、実に悲惨なものだったという。
いや、彼女と呼んでいいのかもわからないが。
「両性具有?」
「左様、コラ・ケルンは生まれながらに常人とは異なる体を持っていたという。それがために人より忌み嫌われ、荒涼たる山上に打ち捨てられた」
その彼女が一人、山中を彷徨い、生と死の狭間を彷徨っていた時に、天啓が下った。けれどもそれは女神のものではなかった。彼女を取り巻く暴風が新たな生命を注ぎ込み、ルーの種族の始祖となった。
「イーヴォ・ルーより最初の精を受けたコラ・ケルンは、森の大樹と溶け合った。それから時満ちて生み出されたのがヴィント。ヴィントはコラ・ケルンと交わって風の民を産んだ」
「え、えっ、ちょっと待ってください」
話を聞いていたラピが目をまわしている。
「じゃ、じゃあ、コラ・ケルンって人、どっちなんですか? あ、男でも女でもあるんでしたっけ。でも、自分が産んだ子と」
「あくまで伝承に過ぎん。どのような理由があってそうしたのかもわからん。今の人間の世界の道理で考えても無駄であろう」
こうしてコラ・ケルンは、イーヴォ・ルーより新たな精を受けるたび、何かと溶け合いながら使徒を生み出していった。水の民は大河を泳ぐ魚、獣人族は森の獣……
「獣人族が対価としたのは、まさに人の形そのもの。我らは望むとき、獣の姿をとることができる。だが、霊樹との繋がりを失えば、人の姿に戻ることができなくなる。そこにいるボルとヨルバルはもともと我らの同胞で、同じ獣人族の仲間だ」
シャルトゥノーマが付け加えた。
「大森林では、魔獣といえば、人に戻れなくなった獣人族のことを言う。巨大な獣だからそう呼ばれている」
ワリコタも溜息をつきながら頷いた。
「わしも一度は、ディエドラが殺されたという知らせを受け取ってな」
「えっ?」
「シャルトゥノーマだけには任せておけぬということで、ボルとヨルバルが、大森林の浅いところまで出ていって、ディエドラを探しにいってくれていたのだ。ところが雨の降る夜、獣の形をとったディエドラに似た叫び声が聞こえたと」
何の話かと思ったが、やっと思い至った。あの臭いサルに遭遇した日のことだ。魔獣の咆哮を耳にしたアーノは嬉々としてクガネを抜いたが、ディエドラは暴れ出した。その声色で、自分の知り合いだと悟ったからだ。
「もしかして」
「ナカマをコロされるかとオモッた」
「このたわけめが」
だが、ストゥルンの声帯模写によって、魔獣の死を演じると、ボルとヨルバルはディエドラの死を悟ってその場を後にしたのだ。
そして、伝説時代の話に戻る。コラ・ケルンは次々と周囲の命と融合しながら新たな種族を創造した。巨人族は大猿、小人族は小さな猿から生まれたという。
「小人族、即ちペルィの祖がエシェリキアだ。ただ、使徒は、その後に続く種族とはまた違った姿をしており、また不老であったとも言われておる」
ここまでの五種族は、俺も知っていた。だが、ここからは初めて聞く種族も出てきた。
「翼人族は、空飛ぶ鳥と溶け合った末に生まれた」
「初めて聞きましたが」
「翼が生えており、足も鳥の足になっておる。空を自在に舞う者達だ。これも普段は奥地にいるが、カダル村にもやってくる。まもなく会えるだろう」
その次の種族も、初めて聞くものだった。
「羽人族は、虫達と溶け合って生まれた」
「羽人族とは、どんな人達でしょうか」
「今ではもう、姿を見ることもない。滅んだのではないかと言われているが、もしかすると、大森林のどこかでひっそりと生き延びておるのやもしれん。伝えられている外見としては、大きくとも人の指先から肘までの丈にしかならず、背中には虫のような羽が生えておる。そうして霊樹の周りを飛び回る」
これで、ルーの八種族のうち、七つまでが出揃ったことになる。あとは最後の種族だけだ。
「竜人族は、他とは違った」
ワリコタは、ペルジャラナンを見やりながら、静かに言った。
「イーヴォ・ルーは八つの精を抱え持っていた。だが、次の宿り手が見つからぬままに、コラ・ケルンは生まれ出た種族を束ね、日々を過ごしていた。ところが、北に住む人間どもが、我らの祖先に憎しみを抱いた。龍神トゥー・ボーは我らが始祖を討たんとしてナシュガズを目指した」
ここで龍神、それも詳しい伝承の残っていないトゥー・ボーの名前が出てきた。女神教の経典では、世界の創造に協力したとしか記述がなく、その後にどうなったかは一切触れられていない。
「だが、コラ・ケルンは逆にこれを滅ぼした」
「人が龍神を!?」
俺でさえ、ヘミュービには勝てる気がしなかったのに、こんなにあっさり? いや、もしかしたら相当な激闘があって、イーヴォ・ルーの支援も受けて、ギリギリ勝利したのかもしれないが。
「地に伏した龍神の屍は、イーヴォ・ルーの精の宿り手たりえた。だが、命をもたぬ。ゆえに業を担う者を必要とした」
いよいよリザードマンの祖先の誕生だ。しかし、あまり楽しそうなお話ではないようだが。
「そこでイーヴォ・ルーとコラ・ケルンに背いた北の人々……お前達の言葉でムワと呼ぶそうだが、彼らの中から、身を捧げる者が選ばれた」
これがムワ、南方大陸北方の少数民族……恐らくは古代ムーアン文明の生き残り……が差別されるようになったきっかけなのかもしれない。この後、ポロルカ帝国の支配が南方大陸全域に及ぶが、ムワは最後までイーヴォ・ルーに抵抗した人々だったために、軽蔑の対象となった。
「それがケッセンドゥリアンという若者だった」
そうして彼は九番目の使徒となり、リザードマンの祖先となったのだ。
なるほど、罪業の使徒といわれるわけだ。彼はムワの罪を償うために身を捧げ、それゆえに最も危険な場所に身を置かねばならなかった。その結果が、あの人形の迷宮での敗北であり、虜囚としての日々だったのではないか。
「竜人族は、その身に死を含むがゆえに、霊樹との繋がりを断たれると喜びを失う。無の中に置かれた竜人族は狂気に駆られ、死に向かおうとする。戦いを好むようになるのは、そのためだ」
グルービーの屋敷にいたクパンバーナーを思い出す。彼にも二つ目の名前がなかった。つまり、霊樹との接続を失い、狂気に囚われていたのだ。そうでなければ、人間に捕まるような浅い領域を彷徨っていたりはしなかっただろう。
「さて、話が長くなってしまったな」
そろそろ夕刻だ。ワリコタが手を挙げると、ボルとヨルバルは腰を浮かせた。
「ここは獣人族の村ゆえ、大したおもてなしもできん。普段、わしらは肉など生のまま食べるのだが、それでは客人の口には合うまい。せめて串焼きにして召し上がっていただこう」
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