隠された世界の地図
木々の狭間に茜色の空が垣間見える。西側に連なる大きな岩山のせいで、ここは日没が早い。既に木々の黒い影が丘の上を覆っていた。
「すっかり安全になったな」
ストゥルンが皮肉を込めてそう言う。
魔物の暴走は、無から生まれるのではない。周辺にいた魔物が呼び寄せられて隊列をなし、一気に北を目指す。だから一時的に、この辺からはそうした危険な存在がほとんどいなくなった。
「そう考えるのは気が早過ぎる」
シャルトゥノーマが冷ややかな声でそう指摘する。
「結局、ゲランダンを許すのか」
「今、追い返しても、死ねと言っているようなものだから、仕方ない」
バジャック達から事情を聞き取った後、俺もまた疲れ果てていたので、横になった。昼下がりになるとみんな目を覚ましたが、それは元気になったからではなかった。緑のドームのない丘の上には灼熱の陽光が降り注ぎ、しかもそこには片付けられないまま散らばっていた魔物の死肉が転がっていた。一斉に立ち昇る腐臭ゆえに、みんな我慢できなくなったのだ。それで泣く泣く起き上がり、数少ない荷物を携えて、なんとかそこから離れた。
丘一つ移動しただけの場所に改めてテントを張った。それと、とにかくひどく汚れていたので、ひとっ走りして水を汲んできて、テントも衣服も装備も、全部洗った。そろそろ乾いている頃だろう。
ストゥルンは頷いた。
「あの嵐だから、多分、ルルスの渡しまで戻っても、どうせボートは残ってない」
シャルトゥノーマが肩をすくめ、皮肉を言った。
「大森林のハンターなら、それで満足だろう。黄金に埋もれて死ねばいい」
俺は首を振った。
「殺すのでなければ、僕らについてくるしかない。だから見逃すしかなかった」
「ふん、甘いな」
「今回は仕方ない。その理屈で殺すとしたら」
俺の視線がシャルトゥノーマに突き刺さる。
「おまけにあと二人も死なせなきゃいけなくなる」
「確かにそうだ」
悪びれもせず、シャルトゥノーマは頷いた。
まず、討伐命令をわざと真に受けてディエドラとついで俺に刃を向けたアーノ。そして、ストゥルンを背後から襲ったシャルトゥノーマ自身。これも処分されるべき対象となってしまう。
というのも、理屈でしかないのだろう。結局、気分の問題だった。魔物の暴走の際には背中を預けて戦ったのに、今になって首を刎ねるのか。
「それで、俺達をわざわざ呼んだ理由は、それだけか」
ストゥルンに、彼をあの夜襲った犯人が誰だったかは伝える。そのために彼と彼女を呼び出した。
ただ、ついでに片付けてしまいたい問題が残っていた。
「まだある。聞き出したいことがあった」
「なんだ」
「ストゥルン、やりたいことってなんだ? 目的があるらしいとしか聞いていない」
「ああ」
彼はバリバリと頭を掻いた。
「故郷を見つけたいってだけだ」
「故郷?」
「あ、俺のじゃなくて、父のだ。この大森林の奥地にラハシア村ってのがあって、そこが」
そこまで彼が言った時に、シャルトゥノーマが声をあげた。
「ラハシア村だと?」
俺達二人は黙ってしまった。
「そうだ」
「ストゥルン、お前の父は何者だ」
首を振りながら、彼は答えた。
「知らない。ただ、森の奥に暮らしていた、とだけ教えられた。それに、表の人間の世界とは違う、特別な言葉があるとも」
「どうして、何のために関門城まで出てきた」
「外の世界を見るために、父と母は関門城までやってきたそうだ。それから頑張って十年かけて、関門城の北に出られるようになった。エシェリクの街からカークに出て、そこから船に乗って帝都まで行ったらしい。でも、結局戻ってきて、カリからまた関門城のこちら側に戻ってきた。俺はその後で生まれた」
では、ストゥルンの父母は、脱法移民の子孫だったのか? 大森林の奥地に住まう人間となると、それくらいしかいない。だが、そうとなると、もうその故郷は冒険者達に攻め滅ぼされているかもしれない。
しかし、彼の両親は大した旅行をしたものだ。
「お前の父の名は」
「表向きにはアウポックと名乗っていた。でも、秘密の名前もある。それがアヤオタだ」
「それは」
シャルトゥノーマは目を見開き、言葉を詰まらせた。俺も察した。
「ルー語の人名、か」
思えばパッシャの代行者のデクリオンも、ルー語の知識を持っていた。彼にとっては古代語の知識でしかなかったのだろうが。
イーヴォ・ルーの治世が敷かれていた一千年前までは、シュライ語と並んでこの大陸の公用語だったはずだ。というのも、どういう形だったかはわからないながらも、当時の南方大陸を支配していたポロルカ帝国と亜人、獣人は同じ神の下で共存していたからだ。中にはリザードマンのように、徐々に人間としての発声能力を喪失する種族もいたので、どうしても共通語が必要だった。
「父母が死んでから、俺は故郷を訪ねてみたいと思った。だから大森林の探索を今まで続けてきた。でも、ケフルの滝まで行っても、そんな名前の村はなかった。そこでファルス、お前がもっと奥地を探索しようとしていると聞いた。それでペダラマンに頼んで、奥地に同行させてもらえるようにしたんだ」
俺の視線は、自然とシャルトゥノーマに向けられた。
「知ってるんだな」
やや間をおいてから、彼女は頷いた。
「ああ。ラハシア村は、私達の世界の門に当たる」
「門?」
「ストゥルンの両親がいたそのラハシア村は、ここからそう遠くない場所にある。支流の向こう側だ。それは私達の世界の外れにある」
彼女は手にしていた弓で、足下の砂に簡単な絵を描いた。
「ここがケフルの滝、そこを挟んでちょうど中間がここ。その南に、この支流があって、それを挟んだこの場所に、ラハシア村がある」
ストゥルンは、彼女の顔と足下の図を交互に見比べながら説明を聞いていた。
「ラハシア村は、孤立している。ここから南が、危険なところだ。魔物も多い。そこを通り抜けるとビナタン村に出られる。そこから先は、私達の世界。だが……」
彼女はじっと俺を見た。
「私の一存では、そこまでは案内できない」
「なぜだ」
「ビナタン村は、獣人の村だ」
つまり、外部の人間にとっては宝の山だ。
悪意ある人間を外から連れてくるなど、決して許されない。だからこそ、ラハシア村という前線基地を設けた。何かあった時、外の世界の異変を背後に知らせるため。
「その南にも、いくつか村がある。人間の村もあるが、真ん中にあるのが戦士たるリザードマンが数多く住むカダル村。その南西、山の裾にあるのが私の故郷、アンギン村」
知られざる世界の情報、隠された亜人達の村。
これまでも、旅の途上で世界の秘密にぶち当たってきた。知らないままでは済まされないのが俺の身の上だ。そこに真実があるのなら、確かめずにはいられない。
「どうすればいい」
「わからない。決める権利は族長達、連絡がつかなければラハシア村にある。そこで許されなければ私は案内できない。ただ、できれば」
彼女は目を伏せた。
「力ずくで押し渡ってほしくはない」
「そんなことは……いや、そうか」
「この暴走を乗り切ったお前だ。できなくはないだろう」
言われてみればそうだ。
だが、だとするなら、なぜ彼女はこんな地図を俺に見せた? いや、何も伝えなかった場合、俺が力で一切を解決しようとするかもしれない。話が通じるうちに、つまり俺がルーの種族の取り決めに従う余地のあるうちに、条件を呑ませたいのだ。
「ナシュガズのことだが、そこに立ち入ったという者はいない」
「じゃあ、やっぱり言い伝えはあったのか」
「私の村から更に南に向かって山を登ると、行き着けるらしいという話はある」
そこまで明確な手がかりがある!
俺は思わず身を乗り出していた。おかげでうっかり、足下の地図を踏み消してしまった。
「だが、ここ三百年というもの、山に挑んだという者もいないらしい」
「それはなぜ?」
「危険すぎるから」
彼女は空を指差した。
「山の高いところには、吸血虫もいない。ただそのせいで、高山地帯はグリフォンの巣になっている。とてもではないが通り抜けられない」
だが、この暴走を乗り切った俺達なら……
体の大きな魔物がたくさんいるという状況は、今の俺達にとって、割合取り組みやすい状況だ。使徒のおかげと考えると素直に喜んでいいのかわからないが、やはり最高級の魔道具の力は大きい。
「言っておくが、もし挑むのなら、相当な準備が必要になる。上の方には雪も積もっている。一年中、溶けることがない」
とすると、相当な高度になりそうだ。
さすがに防寒具なんて用意していなかった。となると、やはりルーの種族の協力を取り付けなくては始まらない、か。
「とりあえず、ストゥルンだけでもラハシア村まで案内してやって欲しい」
「そこまでなら、全員で行っても問題ない。いや、本当は見られたくない仕掛けもあるのだが……案内はしよう」
「ありがとう」
「なに、どのみち、私達は村まで行くしかない。もう、アワルの班との合流地点まで戻れるだけの食料がないからな」
そこまで話した時、テントの方から人影が近寄ってきた。
「ストゥルン! そろそろ手伝ってくれ」
タウルだ。
魔物の暴走のせいで、俺達の物資のほとんどは消し飛んだ。当然、食料もだ。だから森の中にある食材を採取する必要がある。いくら探しても、この人数では不足するだろうが……それでも彼の経験と知識は欠かせないものだった。
話も一段落したということで、彼は足取り軽く、走り去っていってしまった。と、そこで思い出した。彼を襲った犯人がシャルトゥノーマであることを伝え忘れた。まぁ、後でいいか。
「メニエ、僕らも手伝おう」
「待て」
彼女は立ち止まり、俺に言った。
「シャルトゥノーマ、だ」
「えっ」
「私の名前」
そうだった。
俺はもう、彼女の本名を知っていたが、これまではずっとメニエの名で通してきたのだ。
「私に宿るもう一つの魂の名は、ペルセトゥジュアン」
「そっ、れは、言っていいことなのか」
「魂の方は、あまり言いふらしてほしくない」
どんな心境の変化があったのか。俺は立ち止まって彼女を見つめた。
「そんな顔をするな」
俯きながら、彼女は静かに笑みを浮かべた。
「私は気が早いと思ったのだが、ペルセトゥジュアンの方が、お前のことを気に入ったらしくてな」
「そちらはなんて?」
「信用してもよさそうだと」
彼女は指を一本立てて、説明し始めた。
「お前は、損得だけで動いていない」
「ま、まぁ、それは」
「昨夜、お前は役に立たないクーやラピだけじゃなく、後ろにいたラーマや女達も後ろに庇った」
結局は守り切れず、死んでしまったようだが。俺も途中から後ろを振り返る余裕はなかったから、どこかで魔物に殺されてしまったのだろう。
「あの時、あの場で、仲間でもない……それどころかお前を裏切ったような連中まで守ってやる義理はないはずだ。なぜそうした?」
俺は答えに窮したが、率直な思いを述べるしかなかった。
「理由なんてない。考えていたら、立ち向かえない」
後付けでなら、なんとでも言える。誰かを見捨てれば士気が落ちるからとかなんとか。でも、それはあの時考えていたことではない。
「他にもある。ディエドラに立ち去っていいと言っていたが、もし私もあのまま姿をくらませていたら、お前はどうしていた?」
「どうしようもない。魔物の暴走なんて起きると思ってなかった。だから、あれがなければ、そのまま黙って南を目指していたと思う」
逆に俺から尋ねた。
「教えてくれないか。外部の人間が敵だというのなら、どうして大森林に入った初日にクーとラピを助けようとしてくれたんだ? 数を減らそうとは思わなかったのか」
するとシャルトゥノーマは首を振った。
「私達は、外の世界の人間どもとは違う」
だが、口元には穏やかな笑みが浮かんでいた。
「私達が憎むのは、野蛮な支配と不当な隷属だ。いいように使い捨てられる人間の、それも子供の奴隷を憎む理由なんてない。だから助けた」
「なるほど。僕よりはよくできた答えだ」
「ふふっ、確かにな」
彼女は頷いた。
「頃合いなのかもしれない」
「それは何の」
「ケフルの滝までやってくる人間は、これまでもいた。百年以上前にやってきてアイル村を滅ぼしたという、ワノノマの魔物討伐隊もそう」
俺は目の色を変えた。
その村の名前は知らなかったが、それこそがマルトゥラターレの出身地ではなかったのか。
「あれはどうしようもなかった。霊樹のある場所が、あまりにこちら寄りで……それが運悪く見つけられてしまった」
彼女は遠く北の空に視線を向けながら、淡々と言った。
「それからラハシア村ができた。万一、外部の人間がやってきたら、うまく遠ざけるために。でも、森の中での暮らしは貧しい。関門城を見張らせるつもりで送りだした人間が、そのまま帰ってこないこともあった」
「それがまさかストゥルンの両親だったとか」
「はっきりとしたことは言えないが」
だから、人間を送り込むのをやめた。
しかし、だからこそディエドラは外の世界を知って挑みたいと願い、またシュライ語を学ぶ機会もあったのだ。それは先にラハシア村に住んでいた人間達のおかげだ。
「私なら、目敏い相手でなければ多少はごまかせる。だから関門城の近くで情報を集めていた。これでも十年以上、正体を知られずにやってきた。だが」
彼女は、その長い耳の先っぽをもてあそんだ。
「人間達がやってくるのも、時間の問題だった。このまま見つかれば、ルーの種族は根こそぎにされる。だからもう、外の世界と向き合うしかない」
本当なら、ルーの種族について知る者を一人でも減らしたかった。だが、既にそういう段階ではない。
俺という人間を止められそうにないという認識に至ったからこそ、逆に案内しようと、彼女はそう考えたのだ。
「ま、せいぜいお行儀良くしてくれ。頼んだぞ」
最後に冗談めかして、そう締めくくった。
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