黒いさざ波
「なんだぁてめぇ!」
罵声を浴びせられて、ふと我に返った。
「生きてやがったかぁ!」
粗末な槍を振り上げ、跳びかかってくる男。いつの間にかすぐ目の前に迫ってきていた。
俺は何も考えていなかった。ただ、息を吸って吐くように、剣を引き抜いて振り切るだけ。それで男の上半身が空中で真っ二つに割れた。そのまま俺の後ろに突っ伏して、二度と動かない。
殺した。当たり前のように。そのたびに俺の中に何かが沈殿していく。剣はより白く輝く。
ぼんやりしていたから、見つけられてしまったのだ。けれども、おかげで何をするべきかを思い出した。
こいつらのことなんて、もうどうでもいい。後方支援をしてくれないなら、存在価値がない。それよりディエドラを連れて帰らなくては。
どこか上の空のまま、俺は争う男達を避けて、大回りして彼女の括りつけられている柱に近づいた。
その時、反対側の暗がりから、フードをかぶった誰かが飛び出してきて、ディエドラを拘束しているロープにナイフを押し付けた。
「待て! おらぁ!」
大事な戦利品を持ち去ろうとするのだ。黙ってみているわけもなく、二人が反応した。
するとその人物……シャルトゥノーマは、そちらを指差した。と同時に不可視の拳が二人の男を吹き飛ばし、転倒させた。
風の反動か、そのせいでフードがはだけて、彼女の長い耳が露わになる。だが、すぐに逃げるつもりらしく、いちいち隠そうともしなかった。
「さ、早く」
だが、拘束から解放されたディエドラには、立ち上がる力もなかった。その場に膝をついてしまう。
連れ去られるわけにはいかない。もちろん、死なせるのも駄目だ。俺はそこに駆けつけた。
「貴様」
「下手に動かすな。死なせる気か」
さっき転倒させられたうちの一方が、斧を振りかぶって突っ込んでくる。これも隙だらけ。スッと剣を横に引くだけで、ビクッと上半身を仰け反らせて、顔面から地面に叩きつけられる。
この程度なら俺にとってはもう余裕だ。だが、あまりに自然な殺戮に、シャルトゥノーマは一瞬、言葉を失った。
「何を……お前も奴らも野蛮人だ。我らの地を荒らすだけの」
「その割には、お前はクーとラピを守ってくれたな? なぜだ」
初日に『人食い』の蔦に引きずり込まれそうになった二人を助けようとしてくれた。人間全般をただ憎み、軽蔑しているのなら、あれはしない。単純に俺の班の人員を削って、少しずつ負担を増すようにした方がいい。大事な自分達の森に踏み込む悪人を減らせるではないか。だが、そうはしなかった。
「貴様らと一緒にするな」
「おい」
後ろから野太い男の声がした。
「その耳……まさか亜人か! こいつはいい」
ゲランダンを追い詰めていたはずのトンバが、いつの間にかこちらを向いていた。では、ゲランダンはというと、別に目に見える負傷をしているのでもないが、トンバの盾の一撃を受けて、地面に吹っ飛ばされている。既に疲労困憊の様子で、すぐに起き上がる気配がない。そしてトンバは、弱り切ったゲランダンにトドメを刺すより、新たな「財宝」の存在に気を取られていた。
「その女も寄越せ! 全部俺のものだ!」
盾で上半身を庇いながら、右手に持つ剣を斜め上から斬り下ろす。
普通に避けたり、返し技で応じてもよかったが、とにかく今の俺は気怠かった。武器の性能に頼って、この剣を相手の剣にぶつける。それだけで、あちらの剣がへし折れた。
「はっ、な、なに」
俺は無造作に剣を打ち下ろす。それだけで、盾ごとトンバは切り裂かれた。そして膝をつき、ゆっくりと地に伏した。
その様子を、離れたところでしゃがみ込むゲランダンは、呆然と見つめていた。
「僕もディエドラを守りたい。ここで争っている場合か?」
俺は後ろを向き、シャルトゥノーマにそう言った。彼女は唇を引き結んで苛立ちを表現したが、もはや慌てて逃げ出そうとはしなかった。
一方、周囲は奇妙な沈黙に包まれていた。俺が一瞬でトンバを片付けたことに、他の男達が反応したのだ。手強い奴こそ、集中攻撃で始末するべき。それは通常、正しい判断だ。
だが、彼らが身構えて跳びかかろうとした瞬間、新たな集団が丘を囲む森を抜けてやってきた。
「やめなさい! やめないと」
ノーラが俺への攻撃を止めようと、声をあげる。だが、それを聞き入れるような男達ではない。
一人が槍を手に前に出て……そのままズルリと前のめりに倒れ込んだ。それを視認する前に動き出したもう一人の男も膝をつき、そのままひっくり返った。すぐ後ろでシャルトゥノーマが息をのむのが聞こえた。それもそうだ。ほんの二、三秒で絶息した。口からは泡立つ紫色の体液が漏れていた。
俺が予想した通り、彼女はペルジャラナンとクー、ラピを連れていた。『人払い』の魔法で身を隠しつつ、宿営地近辺に『意識探知』を用いて、状況を探っていたのだろう。だが、連中の意識に俺の姿が浮かび上がったので、駆けつけてきてくれたのだ。
それにしても、異様な状況だった。
既に生き残っているのはゲランダンとその傍にいるチャック、負傷したペダラマン、あとはテントの裏で情欲を満たそうとするラーマともう一人だけになっていた。沈黙の中、彼らの息遣いばかりが聞こえてくるのは、なんとも滑稽だった。
俺のすぐ傍までやってきたノーラは、二人の死を確認して、俯いた。だが、すぐに顔をあげた。
「ファルス」
「ああ。こいつらはクビだ。……お宝が欲しければとっとと持って帰れ! 失せろ! ここから立ち去れ!」
そうは言われても、思考が追いつかないのだろう。ペダラマンは構えていた槍を下ろして杖のようについた。ゲランダンも気の抜けた顔でへたり込むばかり。チャックは緊張した面持ちでナイフを手に、立ち尽くしている。
「あっ」
冷たい雫が、ちょうど緑のドームの薄いこの中心を突き抜けて、ノーラの鼻先をかすめていった。
雨だ。
その時、遠くから角笛の音のようなものが聞こえた。
南側、森の奥から。
俺に立ち去れと言われても、既にゲランダンも力尽き、ペダラマンもまた、ほとんど余力がなかった。第一、こんな状態で夜中の大森林を歩いたら、死ぬだけだろう。だから彼らは呆けるばかりで、一向に動き出す気配を見せなかった。
その空虚な沈黙の中、砂を踏みにじる音が後ろから聞こえた。
「随分と静かになっておるな」
アーノだった。
俺にもディエドラにも逃げられ、大森林の中を彷徨っていたのだろう。陣羽織がすっかり真っ赤に染まっているが、これはディエドラの血だけではあるまい。とすると、ペダラマンに味方した連中の一部は、彼が斬って捨てたのかもしれない。
「アーノ」
「なにか」
「ディエドラは僕の所有物だ。金貨一万枚で購入した」
「この悪獣がか。背かれておったではないか」
俺は、シャルトゥノーマに背中を抱きかかえられながらしゃがみこむ彼女を一瞥してから、またアーノに向き直った。
「躾には時間がかかる。それだけのこと」
「やはりここで斬ってしまったほうがよかろうに」
「それは持ち主である僕が決める」
「ふうん」
だが、その視線は、今度はシャルトゥノーマに向けられた。
「では、その亜人なら斬ってもよかろうな?」
「駄目だ」
「どんな道理がある」
「大森林の案内を頼んで、僕が雇った。だから駄目だ」
雨音が大きくなる。遥か頭上の枝葉を打つ音が響いてくる。
そしてまた、あの角笛の音みたいなのが遠くから聞こえてきた。いったい何の音だろうか?
「仕方がない、仕方がないのう」
そう言いながら、アーノはクガネを引き抜いた。
「邪悪は滅するほかないゆえのう」
「いい加減なことを」
俺も剣を抜いた。
「単に斬りたいだけだろうに」
「違いない」
相当な強敵ではあるものの、全力で戦えば倒せない相手ではない。だが、彼を殺したら、ヒシタギ家はどんな顔をするだろう? 龍神はますます俺を憎むだろうか?
迷いがないと言えば、嘘になる。だが……
俺の構えを見て、アーノは笑みを深くした。やはり手強いと再確認したのだ。そのまま俺達は睨みあう。
さすがに彼の刀はへし折れたりはしないだろう。そして、間合いはあちらのが長い。
後の先をとれば有利になるだろう。懐に潜り込めば……だが、イフロースが教えたのは、そんな消極的な戦い方ではない。一歩踏み込めば、そこから無数の線が見える。アーノの姿は陽炎のように揺らめき、移ろう。そこにはあらゆる可能性が映し出されているかのようだった。
神経を研ぎ澄ませると、背後に気配を感じた。
離れた所にいるノーラだ。彼女もまた、介入のタイミングを見計らっている。ヒシタギの名を持つ人物をやすやすと殺すわけにはいかない。だがもし、俺と剣を交えるなら、その時は……
いかな達人といえども、これでは彼に勝ち目はない。俺がやると決めれば、どう動いても彼は死ぬ。そしてさすがに、彼でもそのことには気付けていなかった。また、知っていたところで、ペルジャラナンが彼の一太刀を受けるだろう。
雨脚が強まる。
そんな中、また南から無数の足音が響いてきた。泥水を撥ね飛ばしながら駆けてくる。
「ファルス!」
だが、俺は振り向くわけにはいかない。アーノは一切の隙を見せていない。
「何をしている!」
タウルの声だ。
「遊んでる場合じゃない! 何をしているんだ、アーノ!」
アーノは笑みを消し、煩わしそうにしながらも刀を引いた。
「……つまらぬ」
ようやく振り返ることができた。
タウル一人ではなかった。そこにはイーグーも、ジョイスも、そして彼に担がれたフィラックもいた。
「無事、だったのか」
一番心配していた二人が、戻ってきてくれた。
その二人を伴ってきたということは、多分、タウルも俺を裏切ったのではなかった。
落ち着いて考えればわかることだ。あの戦争で俺の力を思い知った彼が、そんな軽はずみをするわけがない。槍で腹を貫かれても死なず、魔法で城門を吹っ飛ばしてしまう。病み上がりの体でも名のある敵将をあっさり討ち取った。俺がタウルでも、敵対しようなんて思えないのに。
一瞬でも不安に駆られた自分が情けなくなる。
「ああ、ま、なんとかな」
そう言いながら、ジョイスは足下を見回した。
そこにはさっきの乱闘で死んだ男達が転がっていた。
「ちぇ……やり返してやろうと思ったら、もう死んでやがんの」
やはり、プングナやトンバに後ろから襲われたのだろう。
だが、死んだ彼らの姿を目にしたジョイスの表情は暗かった。強くなりたい、強敵に挑みたいとは思っていても、人を殺めたいと思っているのではないのだ。
「そ、それよりタウルの旦那」
「そうだ、それどころじゃない」
袖を引かれて、タウルは黒いフードから雨滴を滴らせながら、緊張した表情で言った。
「大変だ。魔物が来る」
「魔物?」
「そうだ。あれは……暴走だ」
この報告に顔色を変えたのは俺達ではなく、ゲランダンやチャック、それにペダラマンだった。
ゲランダンは疲れた体に鞭打って槍を杖に立ち上がり、詰め寄った。
「それは本当か」
「俺が見た。昔のと同じ。最初の黒い虫けらどもが、もうすぐここまで来る」
ゲランダンは、呆けたように口を開け、硬直した。それから長い長い溜息をついた。
「何のことだ。暴走?」
俺がそう尋ねた時、森の中に隠れていたストゥルンがこちらに駆けてきた。
「ストゥルン?」
「ファルス! 魔物の群れが!」
戸惑う俺達に、チャックが力なく言った。
「大森林の暴走を知らないんですか」
「いや、うっすら聞いたことは」
「数年に一度、魔物の群れが奥地から溢れて、関門城に殺到するんです。何千、もしかしたら何万というのがね」
「そんな」
ラピが顔を覆って息を呑む。
それが今、ここで始まった? どうして、何がどうなってこんな時に?
「死に場所、か」
ゲランダンは、やけに落ち着いた表情でそう呟いた。
クーが言い募る。
「できることは、何かないんですか」
だが、チャックが首を振った。
「城があって、兵士がいるのに王様が戦死するような事件ですからね……もうすぐ死ぬんですよ」
要するに、運が悪かった、ということか。本当に? いずれにせよ、理由など、大した問題ではないか。
誰もが口を噤んだ。降りしきる雨の音だけが、ひたすらに耳に突き刺さる。
「タウル」
迷っている時間はない。
「どうすればいい。生き残るには」
「それは」
わかっている。常識では、こんな奥地で暴走に巻き込まれたら、誰も助からない。
「こっちを見ろ。ここにいるのが誰か、忘れたのか」
助からないのが当たり前だからといって、諦めるつもりはない。こんなところで魔物の餌になるために生きてきたわけじゃない。
だが、タウルは俯いた。
「いったん魔物の行進が始まると、短くても半日は止まらない。長ければ数日。殺しても殺しても止まらない。逃げても横にも幅が広い。走って逃げきれるものじゃない」
クーが上を指差した。
「木に登ったらどうでしょう? 一晩中しがみついていれば、助かるのなら」
「空を飛ぶのもいる。暴走している魔物は気が立っている。見つけられたら襲われる。それに木を押し倒して突き進むような大きなのも出てくる。無駄」
ラピが上ずった声で提案した。
「どこか、隠れるところは」
「川の中に入っても無駄。魔物の死体で埋まっても、その上をまた歩いてくる」
ノーラがシャルトゥノーマとディエドラに尋ねた。
「あなた達は、森の奥に住んでいたはず。魔物からどうやって身を守っていたの?」
「それは」
シャルトゥノーマが立ち上がり、答えた。
「村から出ないこと」
「出なければ安全なの?」
「必ずではない。ただ、長年残っている村には、魔物が立ち寄ることが少ない。だから、そういうところに陣取って、通り過ぎるのを待つの。それでも近づいてくるのがいるから、それは自分達で倒す。そうやって生き延びてきた」
タウルも言った。
「確かに、魔物は歩きやすいところを歩く。丘の上よりは下を通るのが多い」
「わかった」
俺は話を打ち切った。
「要するに、ここで迎え撃つしかないわけだ」
この一言に、全員が凍りつく。だが、他の選択肢はなさそうだった。
「僕が前に出る。近づいたのは片っ端から潰す」
「ギィ」
ペルジャラナンも横に立ってくれるらしい。
「アーノ」
「ふむ」
彼は腕組みし、嘆息した。
「せっかく極上のご馳走をと思ってやってきたのに、出されるのは粗末な飯の食べ放題か」
「そういうこともある」
「魔物を討つのがワノノマが武人の役目よ。やらぬとは言わぬ」
これだけの前衛がいれば、余程でなければ大丈夫だ。
「ノーラ」
「わかってる」
「大物からやれ」
この雨だ。ペルジャラナンに委ねた火魔術の効果は限られるだろう。だが、ノーラが無事なら、数秒あればそれなりの魔物が息絶える。
「ジョイス、タウル、クーやラピを内側に。守ってやってくれ」
「ああ」
「あ、あの、若旦那、あっしは?」
イーグーが自らを指差しながら、そう尋ねてくる。
俺が誰より疑っているのはこいつだ。こんなにタイミングよく魔物の暴走なんか、起きるものか。使徒と繋がっているのなら、こいつが裏で何かしでかしたからということだって考えられる。だいたい、この期に及んでも「実は魔法を使えます」とも言いださないのだし。
「じゃあ、真ん中に。二人が魔物に捕まらないよう、しっかり頼む」
「承知でさ」
「この状況だ。メニエ」
彼女も黙って頷いた。
「後ろから弓を」
俺は自分の分の弓と矢を渡した。前に立つ俺には無意味なので、彼女が予備として使うためだ。
「それと、飛び道具は散らしてくれ。風魔術を使えるんだろう」
それから俺は振り返った。
「ゲランダン……いや、バジャックと呼んだ方がいいか?」
彼は表情を変えなかった。
「この状況だ。その槍で後ろを固めてくれ。フィラック、怪我をしているところ悪いけど、ディエドラを頼む」
「ああ」
「テントの裏にいるラーマも、女達も一番後ろだ。この際、細かいことを言っていても始まらない」
俺がそう言い終える頃には、そろそろ耳に異音が届いていた。
数えきれないほどの魔物の足音。その先頭を飾るのは、下生えを掻きむしるような無数の摩擦音だった。
「来た」
チャックが悲鳴に似た裏声で、そう呟く。
南側に生える木々の足下に、びっしりと平べったい影がへばりついていた。そいつらは、辛うじて燃え続けている篝火に照らされて黒光りした。
「持ちこたえろ!」
俺がそう叫ぶと同時に、黒いさざ波が一斉に押し寄せてきた。
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