虚無なる世界

「目が覚めたか」


 頭の奥にズキンと痛みが走る。今の俺には、目に差し込む光が刺激的すぎた。

 何があったのか、ここはどこなのか。見覚えがない。相変わらず大樹を背にしているのだが、さっき倒れ込んだのとは違う場所だ。それに、時間も随分と過ぎてしまったらしい。黒々とした木の葉の向こうに垣間見える空の色は、既に茜色だ。ただ、本当に空が見えるのはごく一部で、ほとんどは黒ずんだ雲に覆われてしまっている。これは近々一雨きそうだ。


「こ、こは」

「まずはこれを食え」


 目の前にいたのは、ストゥルンだった。木の椀は、茸や果実を混ぜ込んだスープのようなものに満たされていた。

 俺は震える手でそれを無言で受け取り、すすった。アーモンドを粉にしたようなズルリとした重い甘味に、青臭さと酸味が混ざった奇妙な味わいだった。そこに茸の尖った風味が加わるのだ。うまいとは到底いえない代物だったが、今の俺には何よりのご馳走だった。丸一日、何も食べていなかったのだから。


「あ、りがとう」

「なに、頑張ってもらっていたみたいだからな」


 初めて彼は笑顔を見せた。


「昨夜、何者かに襲われたらしくてな。急に体が痺れて気が遠くなった。気が付いたら、人間くらいの大きさのある大きな水草の葉にくるまれて、木の洞に放り込まれていたんだ。夜中に気が付いたんだが、体は動かせなかった。声も出なくて……」


 ストゥルンは、俺の肩を軽く叩いた。


「そうしたら、俺を探し回るお前の声が聞こえてな」

「あ……」

「返事ができればよかったんだが、あの時は動けなかった。だから、これでお互い様だな」


 後ろめたさが胸に満ちた。

 確かに俺は、ストゥルンの安全を確認しようとはした。だが、ディエドラやアーノとの戦いの後、俺は宿営地に戻ることを選んだ。ストゥルンの命と、他の仲間達のそれとを比較して、後者をとったのだ。それなのにお互い様なんて。


 今朝早くに動けるようになってから、ストゥルンは起き上がって元の宿営地まで撤退する判断をした。俺を含めた四人の拠点はシャルトゥノーマの魔法で吹き飛ばされている。誰がやったかまではわからなかったものの、これでは仲間も戻ってきそうにない。周辺を探し回っても意味がなかった。

 だが、俺の後で駆けつけたとすれば。ケジャン村の三人の死体を見たはずで、異変があったと察したはずだ。それで彼は、今度はケフルの滝まで引き揚げることにしたのだろう。そのおかげで、俺を発見するに至ったのだ。


「いろいろやられたみたいだな。靴は洗っておいた。足のただれはしばらく残るだろうな。『人食い』の中に突っ込んだんじゃ、仕方ない」

「はい」

「吹き矢の毒は、もうだいぶ抜けたはずだ。もう少しすれば、きっと動けるようになる」


 彼は木の椀を指差した。


「一応、薬草を入れておいた。ちょっとはよくなるだろう」

「何から何まで」

「なぁに」


 俺の横の木の根に腰かけて、彼は言った。


「役に立ってくれさえすればいいさ」

「はい、何をすれば」


 だが、彼は首を振った。


「それは、ここを乗り切ってから相談させてもらおうか」


 俺が眠っている間に、ストゥルンは状況を確認してくれていた。

 今、身を潜めているこの丘は、さっき俺が倒れていたところから真西に進んだ、とある別の丘だった。そこまでストゥルンが背負って運んでくれていた。沼地が数百メートルも続くところを渡ったのだから、それなりに危険だったはずなのだが、そこは運がよかったのだろう。泥蛙などに襲われもせず、なんとかここに落ち着くことができた。

 それから彼は、多少でも解毒になるようにと薬草を探し、それを俺の傷口にあてがった。靴を脱がして水洗いし、ただれた右足も同様にした。当面、できることはこれくらいと考えて、彼は追加で食料採取しながら、何が起きているかを見極めに向かった。


 まず、ゲランダンとペダラマンは、やっぱり対立していた。元の宿営地はペダラマンが掌握していた。俺が駆け抜けた朝の時点では、どうもペダラマンがゲランダンに襲撃を加えた後で、人数を恃みに追撃している最中だったらしい。たまたまフラッと戻ってきた三人が、俺と遭遇して殺された。


「獣人が?」

「ああ。お前が連れていたのが、どうも捕まったらしいな」


 総合すると、こういうことだったと考えられる。


 まず、昨日の朝、俺はストゥルンとシャルトゥノーマ、ディエドラを連れて南西方面のルートに向かった。その割とすぐ後に、アーノがディアラカンに命令されて、俺の追跡に移った。ということは、この時点でゲランダンは俺達を抹殺する方向で動き出したのだ。

 その矛先は、ノーラ達に向けられた。だが、その実力を把握していなかったのが不運にも幸運にもなった。先走ったアフリーが一人でノーラに襲いかかり、返り討ちにあったのだ。仮にもし、ここでゲランダンが配下全員で万全の状態のノーラとペルジャラナンに襲いかかっていたら、そこで全滅していただろう。逆に奇襲を浴びせていたら、ノーラが死んでいたかもしれない。

 とにかく、そのままノーラは行方をくらませた。クー、ラピ、ペルジャラナンの行方は明らかではないが、ノーラの傍にいる可能性が高い。

 ジョイスとフィラックがどうなったかも不明だが、この分だと追加の人員が追いかけていって、戦力で勝る状況を作って攻撃したのではないか。


 ゲランダンは、俺がそこそこ強いらしいということは承知している。だが、まさか戦争の行方をひっくり返すほどとは想定できていない。だからアーノが失敗しても、全員でかかれば始末くらいはできると考えたのだろう。

 だから、昨日の午後の時点では、恐らく半ば目的を達した状態だったに違いない。


 だが、夜から朝にかけてのどこかの時間帯で、ペダラマンの襲撃を受けた。彼がゲランダンを始末することにした理由については、深く考えるまでもない。ケジャン村の連中を加えれば人数で圧倒できる。それに、ゲランダンの班には犠牲者が数多く出ていたし、フィラックの班も女子供ばかりだ。そして、手元には例の人魚どもの黄金がある。俺達を皆殺しにした方が、ずっと大きな利益を得られるからだ。

 ただ、微妙に不可解な点もある。それなら、どうして宿営地には戦闘の形跡がなかったのか。ディアラカンを除き、誰の死体もなかった。地面に血が飛び散った痕も、武器や備品、テントなどが破損した残骸もだ。状況だけをみると、ペダラマンは既に空っぽになった宿営地を占領しただけにも見える。


 だが、ゲランダンの側に反撃の意志がなかったかといえば、そんなはずはなかった。だからこそグルを派遣した。空っぽの宿営地に三人分の死体があるのを見て、彼は首を傾げただろう。本来なら、ここを占領したペダラマンへの反撃に備えて、偵察するだけのつもりだったのだ。

 グルは更に北上して、俺が奴らのキャンプを壊滅させるのを見ていたのかもしれない。それで、アーノが失敗したのを悟ったので、俺を罠で殺そうとした。


 一方、ペダラマンは逃亡したゲランダンを追うために、人を分散して派遣した。ディアラカンがその時点で既にゲランダンに殺されていたのか、ここでペダラマンに殺されたのかは不明だ。とにかく、彼の死をゲランダン追討の理由にできることは、彼にとって利益になった。

 ケジャン村の連中を加えれば合計三十人。彼の主観では手強いのはごく一部なので、五人一組で行動させれば困難はなかったはずだ。実際、ゲランダンの傍にいたのは、恐らくチャックとラーマ、トンバ、プングナだけになっていたから、本人含め五人しか生き残っていなかった。

 その探索の途上で、獣人……ディエドラを発見した。アーノの一撃によって重い傷を負った彼女は、回復しきっていなかったためにあっさり捕らえられ、宿営地まで連行された。


「だが、計算が合わんな」

「というと」

「ペダラマンのところには、男が十人ほどしかいなかった。あと、女が五人ほどいたが」


 女については、俺が殺した連中から解放された後、逃げ場を探さなければいけなかった。壊滅したベルムスハン村を目指すわけにもいかないし、食料もない。何よりこの奥地では、守ってもらえなければ生きられない。だから迷った挙句に、ペダラマンのいる宿営地に向かって移動したのだろう。

 しかし、残り十人とは。俺が八人殺しているから、それはいいとしても、残り十名以上を失っている。とすると、どこかでゲランダンと遭遇して、集団ごと皆殺しにされるといった状況があったのかもしれない。


「で、どうする?」

「戻るしかない。ディエドラを助け出さないと」

「ディエドラ?」

「獣人のこと。彼女の協力があれば、奥地を目指すこともできる」


 ストゥルンは呆けたような顔で俺を見つめていたが、すぐにまた笑みを浮かべて俺の肩を叩いた。


「そいつはいい。じゃあ、俺も一枚噛ませてもらおう」


 しばらくして、徐々に体調が戻ってきた。まだ本調子とは言えないが、さっきまでよりずっといい。少なくとも歩けるし、動ける。

 頭上が橙色から藍色に染まる頃、俺達は沼地を渡って元の宿営地目指して歩き始めた。


 夜の闇が辺りを覆いつくした頃、俺達はその丘の麓に着いた。


「光が見えるな」


 ストゥルンが丘の頂上を指差す。篝火自体は見えないが、火に照らされた緑のドームがうっすらと暗い緑色に染まっていた。


「回り込んだ方がいいかも。途中までで」

「ああ」


 今度は反時計回りに丘を登り、徐々に近づいていった。


「様子を見てみる」


 いきなりそう言うと、ストゥルンはまるで猿のように身軽に大木にしがみつき、そしてするすると登っていった。太い枝の上に足をかけ、高所から宿営地の様子を確認する。


「なんだありゃあ」


 連中に聞こえたらどうするんだ?

 不用意な声に、俺は顔を顰めた。だが、彼はまたすぐ降りてくると、興奮した様子で言った。


「殺しあってる」

「それはゲランダンとペダラマンが?」

「いや、全員だな」

「全員?」


 彼ほど木登りに熟達していないことを自覚している俺は、普通に接近することにした。ストゥルンをここに置いて、そっと斜面を這って進んだ。

 ほどなく男同士の怒号、女の悲鳴などが聞こえてきた。武器を打ち合わせる音もだ。驚くようなことは何もない。ついにゲランダンが反撃のためにペダラマンの拠点への襲撃を敢行した。それだけの話ではないのか。

 注意しながら、俺は木陰から丘の頂上、宿営地での戦いを目にした。


 だが、視界に入ったその光景があまりに滅茶苦茶だったので、俺もストゥルンと同じように、変な声が出そうになった。

 なぜなら、集団と集団の戦いなんかではなかったからだ。


 ゲランダンが苦しげな表情を浮かべて戦っている。その相手はペダラマンではなく、トンバだ。彼の右腕だったはずの男じゃないか。槍を巧みに操りながら、彼の剣を捌いているが、反撃に転じる余裕もない。では、左腕たるプングナはというと、こちらは集中攻撃を浴びてしまったのか、既に地に伏して大量の血を流している。ピアシング・ハンドにも反応がなく、既に死んでいるのがわかる。

 なるほど、では劣勢に陥ったゲランダンを見限って裏切った? ところがどうもそう単純ではない。というのも、ペダラマンの背中には、折れた槍が突き立っていたからだ。もともと相当にタフなのだろう。それでも彼は槍を手に戦い続けてはいるが、苦しそうなのは一目でわかる。そして彼の足下には、あのシニュガリが転がっていた。鼻の骨が折れており、また胸を一突きされている。こちらも死んでいた。

 ゲランダンの配下のうち、残り二人はというと……チャックはゲランダンの後ろで、毒を塗ったナイフを手に、身構えている。誰かが近付いてきたら振りかぶって威嚇するが、それだけ。ゲランダンの助太刀もせず、後ろから襲いかかるでもなく。そしてラーマは、テントの裏側に逃げ込んだ女の一人を捕まえ、組み敷いて、半分は笑いながら、もう半分は泣きながら叫んでいた。


「女神様万歳! 自由だ! ここでは何もかもが自由なんだ!」


 押し倒された女は、戸惑いながら抵抗の素振りをみせる。そんな相手に平手打ちを浴びせながら、ラーマはまた悲鳴のような声をあげた。


「何をしたらいいんだ! どうしてこんなところに生まれてきたんだ!」


 血で血を洗う殺し合いの最中に何を、と思うのだが、死の予感があればこそ、思い残すことなく欲望を発散したくなったのか。彼とは別に、もう一人、恐らくはペダラマンの配下と思しき男も、同じようにしている。

 だから、ペダラマンが相手取って戦っているのは、自分の部下かケジャン村の連中だ。仲間のはずが、殺しあっている。そして離れた場所、地面に突き立てられた丸太に、ディエドラはきつく縛り付けられたまま、ぐったりとしていた。


 下っ端すぎるせいか、誰にも相手にされず、ラーマは皮肉にもこの修羅場の中で、自由を満喫していた。

 女の上着を引きちぎり、胸に顔を埋めながら呻いた。


「ああ、女神様、女神様……お救いください」


 ようやく理解が追いついてきた。


 こうなるのは必然だった。なぜならペダラマンは、川底から発見した財宝を独り占めするためにゲランダンを追撃することにしたのだろうから。かなりの分け前を約束してケジャン村の連中を動かし、こうして追い詰めるのに成功した。そしてうまいこと手強いプングナを葬り、勝利が目に見えてきたところで、最初の裏切りが発生した。

 そもそもペダラマンも、仲間を消すことを考えていたはずだ。ケジャン村の連中に財宝のかなりの部分を分かち与えたのでは、襲撃のメリットが薄まる。だからゲランダンを葬ったら、返す刃でさっきまでの仲間を殺すつもりだったのだ。少なくとも、村の連中はそう考えた。だから、背後からペダラマンを襲った。

 だが、内紛に陥ったところで、ゲランダンの側が有利になったりもしなかった。トンバが、ゲームのルールを即座に理解したからだ。ここにいる邪魔な連中を殺し尽くせば、財宝を独占できる。

 力に劣る連中は、もう助かる道はないと悟った。ラーマがそうだ。だから彼は、もうヤケクソになって女にのしかかった。もっとも恐怖のせいで、甲高い声をあげるばかりで、一向に欲を満たせる様子はなかったのだが。


 ……なんという醜さだろう。


 彼らは今日まで何のために生きてきたのか。

 今日を生き延びたところで、何のための明日があるのか。


 篝火に照らされて映るのは、彼らの顔、顔、顔。

 怒り、憎しみ、恐れ、欲望、絶望……


 彼らは、俺達は生まれてきてよかったのだろうか?

 この世界は、生きるに値するのだろうか?


 悟ってしまった。


 魔宮モーの地下には、この理不尽な世界のルールによって閉じ込められた罪なき罪人がいた。強いて言うなら、生まれたこと自体が罪だったのだ。

 ならば解き放てばよい。それを罪と名付けたために牢獄に繋がれていたに過ぎなかったのだから。

 だが……


 俺はここに至るまでの旅で、いくつもの惨劇を目にしてきた。

 スーディアでは、ゴーファトという暴君が権威を失うと、市民同士の紛争が引き起こされた。人形の迷宮でも、監視の目の行き届かない地下で、恐怖に囚われた若者達が殺し合いを始めた。東部サハリアでも、パッシャの介入もあって戦争が勃発した。


 俺はそれを、何か特別な、非常時のようなものだと思っていた。

 頭の中で考える普通とは、例えば農村なら、人々が畑を耕し種を蒔き、雑草を抜いて収穫をする。街の中なら商品を売ったり買ったり、何か工芸品を作ったりする。家に帰れば家族と食事を共にし、外を歩けば知人と挨拶を交わす。そういう生活だ。

 それは普通でもなんでもなかった。それこそが特別、例外だったのだ。


 世界を縛る蜘蛛の巣、その網の目は、滅多にほつれることがない。どんなに原始的で野蛮な社会に見えても、うっすらとは被せられているものだ。だが、もしそこに本物の隙間が生じたら、ありのままの世界が顔を覗かせる。

 サハリアの戦争で目にした虐殺の数々は、ほんのひと時、世界が「正常化」しただけのことだった。考えてみれば当たり前だ。今日のような明日があると信じているから……それこそ金貨と同じように、信仰のように、あると思うからある、ただそれだけのもの……だから人間の顔をしていられる。でも、それはただのデタラメ、嘘っぱちだ。そんな嘘がまかり通る異常が、正されただけだった。


 もちろん、本来ならその嘘の布地は、自然と紡がれるものだった。俺達は生まれつきの嘘つきだから。事実を事実としてではなく、そこに過去や未来の色を重ねて見る生き物だから。でも、ここではそれが成り立たなかった。

 自分達が何者であるかを思い出させる、いや、思い込ませる物語が、この地には何一つ残っていない。代わりにやってきた帝都の秩序たる女神教は、ひたすら自由なのだというばかり。大森林のスコールが表層の土を流し去るのと同じように、ひたすらに降り注ぐありのままの真実が、俺達から心の衣服を奪い取り、丸裸にしてしまった。


 では、俺は今まで何をしてきたのだろうか?


 人を涙に暮れさせるこの世界を憎んで、不死を追い求めた。長年住んだ街には、人の縁もあった。でもその縁は、悲しみをもたらすこともある。だからあえて一人を選んだ。タリフ・オリムで人々の輪を羨みながら、何もない平原を一人で渡った。

 この身に絡みつく糸を断ち切って、苦しみも悲しみもない場所で永遠に眠るために、人形の迷宮を目指した。だが、サハリアの戦争が俺に新たな課題を突きつけた。俺自身こそ、苦しみや悲しみの原因なのではないか? であっても目標は変わらない。不死を得て永遠に眠る。自らを封印する。そうすれば、俺自身も悲しまずに済むし、俺が世界の悲嘆の原因になることもない。


 愚かな思い込みだった。傲慢な考えだった。

 いや、そう思い込みたかっただけだ。旅立ちの時点で、俺は被害者面をしていた。こんな悲しい世界にどうして生まれてこなければいけなかったのか。だが、そうじゃない。生きている限り、毎日何かを殺す。今を生きる俺は、立派な加害者だ。ましてや戦争であれだけ纏めて人を殺したのだ。どうしてごまかせると思ったのか。

 自分で自分を封印すれば、世界の悲劇を減らせるなら、せめてもの贖罪になると。そんな偽りの救済に縋りたかっただけじゃないのか。


 だが、彼らにはそもそも必要なかった。無意味だった。これが人じゃないか。誰もそんなもの、望んでいなかった。

 奪い合い、殺しあう。毎日だらだらと血を流し続ける。悲劇は遍在する。それが悲劇と認識されるのは、人があの、世界を縛る蜘蛛の巣に心を捉われているからだ。その支配が緩めば、途端に世界は元通りだ。偶にしか見かけないから悲劇なのであって、毎日起きることなんか誰も気に留めない。


 現に今、殺しあう彼らが悲しんでいるだろうか?

 そして、俺はそんな彼らとどれほど違うのだろう?


 嘘偽りのヴェールを剥ぎ取ってしまったら、俺達にできるのは、これしかないのだ。


 そんな中、不死を得て、どうするのか?

 使徒の計画を打ち砕いて、何の意味がある? 


 俺がどうしようと、魔王がいようがいまいが、世界は悲惨であり続ける。

 ずっと、ずっと、いつまでも……


 どうすればいいのだろう? 俺は答えを知っている。

 聖都ののっぺりとした白い壁。あれがそうだ。誰も生まれず、誰も生きなければ、そこに罪はない。苦しみはない。正義とは即ち存在しないことなのだ。


 ……死ねば解決。


 いつかどこかで聞いたフレーズが心の中に蘇る。

 不死を願う俺は、半ば死人だ。だが、俺一人が不死になっても世界の悲劇は終わらない。全世界を救う唯一の方法は……


 何もかもが無意味だった。

 黄金を巡って殺しあう彼らも、不死を求めて旅を続けてきた俺も。長い年月、大森林に佇んできたこの巨木の数々も、そこに息づく数々の命も。

 あるのはただ、刹那の快楽のみ。そのすぐ隣には、死があるだけ。


 俺は目的すらも見失って、眼前に広がる虚無の世界を眺めるばかりだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る