密林の罠
頭上は灰色だった。
これは一雨きそうな感じがする。いつになく木々の影が不気味に黒ずんで見える。風の動きもなく、鳥の声も遠くに聞こえるだけで、空気がじっとりと重かった。
疲れない程度の速足で丘を下りながら、俺は状況のまずさを考えていた。
仲間の状況がわからない。というより、誰が味方で誰が敵になったのかさえ、定かではない。水だけは補給できたものの、食料は相変わらず不足している。眠れていないのもよくなかった。昨日の朝から丸一日、休まず進軍して、その後、立て続けに襲撃され、一晩かけてここまで戻ったのだ。
何をしよう、優先順位をどこに置くべきだろう? 食料、睡眠、仲間……思考が纏まらない。
一番いいシナリオは、食料を豊富に持って逃げたノーラあたりに合流して、せめて仮眠をとる時間を確保することなのだろう。だが実際には、彼女らも突発的な襲撃に急いで逃げたのに違いなく、今も飢えている可能性が高い。それでも眠る時間くらいは貰えるかもしれないが、まずいことに彼女の魔法では、俺を探知できない。俺を目撃した誰かの意識に侵入して情報を抜き取れば、と言いたいところだが、大森林は生命渦巻く場所だ。『意識探知』で検索をかけても、情報過多で何もできない。それに彼女は今、恐らく『人払い』をかけてゲランダン達の襲撃を防いでいるのだろう。単純に余力がないはずだ。
やはりそうなると、他の仲間……ジョイスとフィラックを見つけるのが先、か。だが、気が重い。探そうにもアテがないからだ。或いはいっそのこと、ゲランダンとペダラマン、ケジャン村の連中を先に皆殺しにするか? そうすれば、あとは落ち着いて仲間の回収だけに専念すればいい。
森の木々の間を抜け、目の前に丘と丘の狭間の湿地が見えてきた。泥蛙などの魔物が出やすい場所だ。既に来るとき、俺は丈の高い草を切り払っており、それが地面に散らばっている。
厄介なことにならないうちに、と俺は歩調を速めた。
その瞬間、衝撃とともに視界が落ち葉の色に塗り潰された。
一秒ほどのうちに、自分が転倒したのだと理解した。でも、なぜ? 小石にでも蹴躓いた? 違和感は右足の爪先にあった。何かが引っかかって、梃子の原理ですっ転んだのだ。
どうしてこんな……と緩んだ思考が俺の体を動かしかけたが、微かな違和感から、俺の意識は覚醒した。
急いで足を引き抜くと、前方に転がった。
と同時に、すぐ後ろからごく小さな物音がしたのを耳にした。軽い何かが、さっきまで俺の足のあった場所に落ちて、突き刺さった。
ナイフ、ではない。もっと小さな何か。でも、突き刺さったのでもなければ、落下音が止まるはずもない。では、吹き矢?
危険を直感して、姿勢を立て直すと、広い場所に出ようと前に踏み出した。その瞬間、足下の支えを失ってずり落ちる。
反射的に伸ばした左手が辛うじて草の根を掴んで、落下が止まる。
足をすぼめておいてよかった。落とし穴の下には、竹を斜めに切って尖らせたものが大量に突き立っていたからだ。重傷は避けられても、足をやられたら、その後の動きが鈍るのは間違いない。
疲れ果てた脳に思考が入り乱れる。
なんて狡猾な奴だろう。最初の罠だけではなかった。罠を回避しようとする動きを見越して、二つ目の罠を仕掛けておくとは。
誰のために用意したのか。離れたところに陣取ったケジャン村の連中を始末するためか?
でも、襲撃はこれで止まらない。
頭を出せば、きっとまた吹き矢が飛んでくる。矢より小さい物体だ。剣で叩き落せるかはわからない。それに万全の態勢で迎え撃てるのでもないから、難しい。となれば、的を絞らせない動きをするしかない、が……三つ目の罠があったら?
考えても仕方がない。この不安定な姿勢で狙われたら、反撃が難しくなる。
覚悟を決めて、一気に斜め前に転がり出る。そのまま間近な灌木の隅に身を潜める。追撃は?
「ゲェコ」
背後に注意を向けていた俺の正面、泥の中から、丸い頭がヌッと浮かび上がる。
意識の中に火花が散って、考えるより先に剣を引き抜き、その真ん中を一刀両断にする。泥蛙がいたのか。
胸の動悸が収まらない。
追撃は?
なかった。
深追いはせず、撤退したらしい。
こんな真似ができるのは……
数秒間考えて、俺はさっきの場所に戻った。もう周囲に気配はない。
俺には、彼を追わないという選択肢はない。あちらも多分、俺を待ち構えているはずだ。
果たして、俺が獣道に戻って沼地を抜け、丘を登り始めたところで、次の罠が見つかった。丘は即ち森、その森の入口には下生えがところどころに大きく茂みを作っている。その隙間に、さっきの落とし穴にあったような竹槍の先端みたいなのが埋まっていた。
俺はすぐ、近くの大樹に身を寄せて飛び道具を警戒した。それから丘を登るルートに視線を走らせる。どの程度の頻度で槍の罠があるかは、よくわからない。ただ、それを警戒しながら先に進めば、頭上から吹き矢が飛んでくるだろう。見えてしまった以上、迂回するのがいい。
では、右か、左か? 少し迷ったが、左がよさそうだ。なぜなら、普段俺は剣を右手で振るうからだ。左手でも扱えないことはないが、やはり慣れている方でないと不安が残る。矢などが飛来した時、その場で叩き落せなくてはいけないのだから。反時計回りで丘を迂回して登るルートを進んだ場合、比較的無防備な左側をさらすことになる。
この判断でいいのかどうか。ただ、この狡猾な相手がまだここに留まっているなら、後々のために、ぜひとも仕留めてしまわねばならない。今の俺に、正面からの白兵戦で勝てる人間はほとんどいない。だが、この手の絡め手でくる連中は、まさに俺の経験の欠如、奪い取っただけの能力ゆえの欠落を、的確についてくる。こんな苦手な相手に背後をとられるわけにはいかないのだ。
一歩ずつ、周囲を確かめ、息を殺しながら、丘の周囲を螺旋階段のように少しずつ登っていく。蔦が這い、下生えが茂みを作る。そこには羽虫が群れを成して舞い、その羽音が耳元をかすめていく。神経を研ぎ澄ませると、自分の汗の臭いまで感じ取れる。既にじっとりと蒸し暑い。
分の悪い戦いだとは承知している。睡眠不足のこの状況で、神経戦だ。罠にやられずに相手を視認できれば、ほぼこちらの勝ち。だが、それにしくじれば、こちらがやられるかもしれない。
大樹の裏は安全地帯だ。思わぬところから飛んでくる吹き矢だが、ウィーの鉄弓などとは違い、絶対的に貫通力が欠けている。だから、木の幹の裏から裏へと渡り歩く。そうしたくなる。不安や恐怖に動かされて、思わず足早になる。
それを自覚していたからこそ、俺は逆に見落とさずに済んだ。これから駆け出すつもりの足下、そこに這いずる蔦の中に、不自然なものが混じっている。緩やかに輪を描いているような。
直感した俺は、視線を左右に向ける。すると、茂みの奥に小さな小枝が、その向こうには不自然に撓る枝が見えた。ということは……
あの蔦は罠だ。その真ん中にあるあの小枝。あれを踏むと、撓った枝が元に戻る勢いで、吊るされる。
罠があるとわかっていながら、そこに近づくのは避けたい。足下の木の根元には、都合よくいくつか石ころが落ちていた。それを、離れた場所の小枝めがけて、低い位置から横に投擲する。
案の定、蔦が引っぱられ、勢いよく枝が元の高さへと撥ね上げられていく。罠を避けた、と思ったが、そこからどういうわけか、バラバラと小石や小枝が降り注いできた。俺のいる場所には落ちてこないが、これはどういう意図だろう?
まだ何かあるかもしれない。もう少し観察した方がよさそう……
「うわっ!?」
どういうわけか、右膝から力が抜け、よろけて突っ伏してしまった。かと思いきや、そのままズルズルと地面を引きずられる。
これはどんな罠……違う!
これは『人食い』だ。あの、大森林に立ち入った初日にクーとラピを襲った植物の魔物。
そして、こちらが本命の罠だった。目先のスネアトラップにかかってくれてもよし。だがもし標的が充分に慎重なら、罠の看破に時間をかける。だからこそ、罠を『人食い』の近くに設置した。
「く、くそっ!」
右足に力が入らない。いつの間にか麻痺させられている。
滑り落ちる感覚。途端にじわりと皮膚を焼く痛みに、俺は悲鳴をあげた。
袋の口の向こう側から伸びている蔦が俺の足を引っ張っていた。それに引きずられていたから、右足が溶解液の中に突っ込まれる。すると、俺を逃がすまいと周囲の花弁が一斉に起き上がって、俺を袋の内部に閉じ込めようとする。
残った左足を突っ張って全力で抵抗しつつ、右手の剣で花弁の根元をあちこちめった刺しにした。それで『人食い』の力が緩められる。
その瞬間だった。
気づかないほどの小さな痛みが、左手に突き刺さった。
吹き矢。三重の罠だったのだ。
俺は、力を振り絞って『人食い』の花弁から逃れて、丘の下の方へと転がり落ちていった。
あれだけ気をつけていたのに、最悪の状況になってしまった。
この吹き矢、毒が塗ってあるに決まっている。とすれば、今やるべきことは……
右足を溶解液に焼かれ、左手に毒の吹き矢を受け、俺は背中を曲げたまま、斜面に横たわっていた。
そこにサク、サクと軽い足音が近づいてくる。薄暗い中に、半目で見ているので、しっかりとは認識できない。小さな人型の黒いシルエットが浮かび上がる。油断はなかった。俺が死んでいるか、死んでいなくても動けない状態か、確かめながらだ。
「ふん」
そいつ……グル・モマンチンは、鼻で笑った。
「生きのいいムワだったな」
以前に見せた、あの好々爺のような雰囲気はどこにもない。淡々と獲物を仕留める狩人の目をしていた。
俺は、目を見開いた。だが、痺れて動けなくなるだろうと見込んでいたのか、その反応に彼は特に興味を示さなかった。
彼は緩慢な仕草で腰の鉈を引き抜いた。そうして腰をかがめながら、俺の首に向かってそれを振り上げる。
「楽になれ」
その瞬間を待っていた。左足一本のバネで身を起こし、右手の剣で彼の胸を刺し貫いたのだ。
まだ動けるとは思っていなかったのだろう。彼は、信じられないというような顔をして、俺の左腕を見つめていた。そこには、さっき俺を溶解液の袋へと引きずり込もうとした『人食い』の蔦があった。
毒にやられた時、まずやるべきことは、その毒がまわるのを遅くすることだ。そのためには、なるべく動かないこと、傷口を心臓より低い位置におくこと、そして傷口からみて上流、つまり心臓に近いほうを縛って毒が全身に回るのを遅延させること。
手頃な道具がなかった。この際仕方なかった。とにかくグルが近付いてくるまでの間、意識をしっかり保って、動ける状態でなければ。だから、俺はさっき断ち切ったばかりの『人食い』の蔦を使った。
剣の先から滑り落ち、グルは仰向けに転がった。もう息をしていない。
小さな悲しみのようなものが胸をよぎった。ケフルの滝に着く前、ちょっとした罠で魚を捕らえてみんなに配ってくれた、あの夕暮れ時のことを思い出したのだ。
なんとかグルを片付けはした。だが、これからどうするか?
右足の痺れは収まってきた。いつまでも有毒の蔦を使い続ける理由はないので、よろめきながらも俺は斜面を登り、他の植物の蔦を切って、縛り直した。
この場所にいてはいけない。
脅威は人だけではない。大森林には魔物も出没する。丘の低い位置なら、特にそうだ。だから、上までは登らないと、安全を確保できない。
今できるのは、丘のなるべく高い位置に行ってから、木の陰に隠れること。それ以外にない。
してやられた。生き残りはしたものの、負けたのは俺だ。自分なりに最善を尽くしたのに。
思えば、俺が時計回りで丘を登るのも、奴に誘導された結果だ。正面からでは登りにくい、となれば右手か左手か、どちらをとるか。戦士の習性を知ればこそ、武器を振るう右手を前に出すだろうと、そこまで読み切ってああいう罠を仕掛けたのだ。
這いずりながら、俺は丘の上まで辿り着いた。とある大樹の根元に背を預け、しゃがみ込む。
徹夜で動き続けた疲労、昨夜からの絶食。体を蝕む高温多湿。限界に達していた。
まだジョイスとフィラックの安全を確認していない。
やるべきことが……
だが、そこで意識は暗転した。
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