金色の月の下で(下)

 これまで散々、物理法則を無視した不可解な現象を目にしてきた。俺のピアシング・ハンド然り、物体を溶かして何も残さない腐蝕魔術然り。

 だがこれはどうだ。いきなり体が膨れ上がったかと思うと、明らかに体重そのものが増えるような変化が起きた。


 岩の上の足場は、いまや彼女にとっては狭苦しい。足を寄せて蹲るのでなければ、そこにいられない。

 目測で体高が二メートルを超える。これは普通の虎の二倍ほどだ。とするなら、推定体重は……並の虎の八倍。どう考えても一トン以上ある。


 銀の被毛が金色の月に照らされ、静かに輝いていた。

 完全に猛獣の姿をとったディエドラは、もはや人語を話すこともできないらしい。とはいえ、その必要はもうないようだが。

 身を起こし、後ろ足に力を込める。俺は大きく横っ飛びした。直後、巨体が宙を舞った。


 重低音の唸り声とともに、前足が繰り出される。ワンテンポ早く後ろに下がった俺はよくても、そこにあった灌木にとっては災難だった。爪の一薙ぎで枝葉がゴッソリ引きちぎられ、跡形もない。

 元が人間形態だからなのか、ディエドラの後ろ足はしっかりと上半身を支えていた。四つ足すべてを使って全力で駆けることもできれば、前足を武器にもできる。単純に体格だけでも恐るべきパワーがある。

 しかも彼女には、さまざまな魔力が備わっている。ちょっとした傷くらいでは治ってしまうし、その肉体もあって、怪力の効果には凄まじいものがあるはずだ。迂闊に近寄ろうものなら、あっという間に挽き肉だ。


 それにしても、なぜこのタイミングで変化したのか。

 この前、俺と関門城の通路で戦った時には、あえて人間形態のままだったのに。月夜でなければ変身できないとか? 或いは、変身はできるが、あえて奥の手をとっておいた?

 さすがにこれをただ倒すのは無理だ。さっきピアシング・ハンドも使ってしまった。それでも殺していいなら、どうにでもなるのかもしれないが……


 突如、咆哮が地を揺らす。木の葉が揺れ、舞い散る。

 これも予期していた。


 こちらの硬直を狙って、ディエドラが不用意に前に出る。俺は弾かれたように前へと突出し、蜂が刺すように眉間に拳を見舞った。

 手応えは、あまりに重かった。すぐ右に転がって避けた。頭上を暴風が通り抜けていく。

 思った通り、まったく効いていない。当然だ。俺の体重は五十キロもないだろう。あちらが一トンとするなら、二十倍だ。体重六十キロの大人に、三キロの赤ん坊が殴りかかるようなもの。実際には、魔術で身体強化している分、もうちょっと威力はあるので、単純比較はできないが。

 つまり、彼女を傷つけない方法で倒すのは不可能だ。素手での打撃では、ほとんど見込みがない。


 説得が難しいのはもうわかっている。さっきのやり取りで、説明は済んでいる。彼女は、俺を憎んでいない。恨んでいない。道中の銀の首輪も、俺の立場では必要な対応だったと理解している。大金を出して身柄を引き取ったのに、ここで何も報いずに逃げても許される。そこまでわかった上で、なお戦おうとしている。

 理由は一つ。俺が外の世界そのものだから。挑んでみたい、垣間見たいと望んだ新しい何かだから。切り札を隠しておいたとはいえ、一度は純粋に力で自分を上回った相手だから。


 仕方がない。徐々に致死性の高い攻撃手段に切り替える以外にない。

 俺は起き上がると、手挟んでおいた弓に手を伸ばす。射程はそこそこしかないが、取り回しはいいものだ。そのまま抜き撃ちする。

 矢は前足の付け根に突き刺さった。痛みがないわけではないらしく、彼女は軽く身を揺すった。それだけで矢は抜け落ちてしまった。どうやら威力が足りない。よっぽど深く刺さるとか、銀やミスリルの鏃でもなければ、これまたほとんどダメージにはならないらしい。


 それでも、無力化するには、一応選択肢がある。

 目を狙えば。しかし、そのせいで永久に失明したら……


 躊躇する時間を、ディエドラは与えてくれなかった。飛び道具を持った相手に距離を取られる危険性を理解してか、彼女は身を低くして突進してきた。

 これも辛うじて身を翻して避けたが、俺の後ろに生えていた樹木は、根元から大きな亀裂を作ってへし折れた。爪や牙に頼らずとも、この威力とは。


 そうなると、選択肢として残るのはもう、魔術と剣しかない。だが、火魔術を使えない今の俺には、身体操作魔術しかない。そしてろくに道具や触媒がない以上、即座に行使できるものは限られている。『行動阻害』は使えても、『四肢麻痺』を使うには、時間がかかりすぎる。

 だが、この剣……


 俺は少しずつ、川沿いから背後の森と湿地の方向へと、後退していた。それだけディエドラの猛攻には切れ目がなく、避けるので精いっぱいだったのもある。

 疲労を誘って逃げ切るという手も考えたが、それも難しいらしい。


 この剣は、斬る道具ではない。叩きつけると同時に腐蝕魔術が発動して、相手の一部を分解しているらしい。剣身の素材はなんだろう? ミスリルでもなさそうだが、普通の鉄ということも考えにくい。とにかく、あまり効き目がない可能性もある一方、治癒不能な傷を負わせることも考えられる。

 だがもう、これを使う以外に、対応手段などないのでは……


 前足が迫る。それを避けながら、ごく浅く剣を抜きつつ振るう。微かな手応えがあった。

 傷を負わせることに成功したらしい。ディエドラは、やっと負傷に気付いて、傷ついたところを、獣がするように舐めた。それだけですぐ止血したらしい。やっぱりこの剣、ミスリルでできているのではなさそうだ。

 どうする? 傷つけることはできる。だが、これで彼女を止めるには、余程の怪我を負わせなくてはならない。とはいえ、死なせてしまったら元も子もない。しかも、彼女に勝てないのでは、それはそれで意味がない。


 はっと気付いた。

 もし、この戦いにシャルトゥノーマが介入したら……


 だが、考える時間などない。

 その巨躯を、後ろ足だけで持ち上げる。数メートルの胴体が大きな影を落とす。受け止めるのは不可能。大木の幹すら、壁になるとは限らない。その巨体の割に俊敏なディエドラを止める方法はただ一つ、こちらが攻撃することだ。

 それだって簡単ではない。間合いはあちらの方が遥かに長いのだ。


 高所から打ち下ろされる前足が、足下に転がる河原の石や、木の枝の残骸を跳ね飛ばす。一瞬、目を覆って庇った。狙いを悟って腰を落とす。頭上を爪がすり抜けていく。

 飛び退けばいいというものではない。俺が反射的に回避行動をとるのを狙って、目潰しをしかけてきたのだ。


 やはり長引かせるわけにはいかない。

 汗ばむ手で、剣の柄を握り直した。


 ディエドラは、木々の間に身を伏せる俺に振り返り、満足げに唸り声を漏らした。

 それは猫がゴロゴロと甘えるのに似ていた。実際、彼女は無邪気に喜んでいる。挑むということに喜びを覚えている。ここで殺されても、文句などないのだろう。


 覚悟を決めて、俺は身構えた。次の交叉で、懐に踏み込む。

 ディエドラは身をよじりながら、大波が打ち寄せるかのように覆いかぶさってきた。


 そこに、黄金色の月が見えた。


 目立たない、薄汚れた陣羽織の上に、真っ赤な鮮血が降り注ぐ。

 物陰からいきなり現れた彼は、何の躊躇も容赦もなく、ディエドラの真っ白な腹を切り裂いた。


「ははは! これだから、身に着けるなら赤に限るのだ!」


 いつからそこにいたのか。俺とディエドラの乱戦を横目に、アーノはずっと機を窺っていたのに違いない。

 そして今、最高のタイミングで割って入った。きれいに一撃を入れられて、ディエドラは大きく仰け反り、横ざまにぶっ倒れた。


「さても大物……横槍を入れたのは申し訳ない」

「アーノ」


 俺は驚きつつも、なんとか気持ちを立て直した。とにかく、ディエドラをここで死なせるわけにはいかない。


「毛皮も美しい。見事、さすがは森の魔獣」

「アーノ、そこまでだ」

「なんと。いや、トドメは譲れということか」

「そうじゃない」


 俺は剣を納めつつ、彼とディエドラの間に割って入った。


「これはディエドラだ」

「というと」

「うちで連れていた、あの獣人だ」

「だから?」


 彼はまったく動じることなく、眉を少し動かしただけだった。


「害をなす獣を討って何が悪かろう」

「そうじゃない! ここで死なせたら、何のためにここまで連れてきたのか」

「ほほう」


 彼は、何か訳知り顔で頷いた。


「だが、ワノノマの武人としては、このような邪悪は見過ごせぬ。弱っている今のうちに片をつけてしまわねばな」

「やめてくれと言っている」


 俺の言葉など聞こえないかのように、彼はクガネを振りかざした。そして勢いよく、ディエドラの首に打ち下ろす。

 甲高い金属音が響いた。


「邪魔だてするか」

「勝手なことをするな。いくら払ったと思っているんだ」


 彼女を競り落とすのに、俺が金貨一万枚を支払ったこと、彼も知らないはずはない。だが、そんなことなどどこ吹く風と、彼は鼻で笑った。


「なるほど、なるほど、感じるぞ」

「な、なにを?」

「聞かされた時は半信半疑だったが、ファルス、お前に対して討伐命令が下されている」


 討伐? 命令? 誰から?


「馬鹿な! 誰がそんな」


 ワノノマから? あり得なくはない。俺と使徒との繋がりを、もしかしたらモゥハ辺りが察知したのかもしれない。

 だが、アーノが口にしたのは、もっとどうでもいい名前だった。


「ディアラカンが、お前の脱法行為を処罰せよと命じた。命令書もある」

「脱法? そんなことはしていない!」

「そうだろう。だから命令は受けたが、確かめるだけのつもりだった」


 どういうことだ?

 アーノがここにいるという状況からすると、俺が出発して間もなく、すぐにディアラカンがファルス追討命令を下したことになる。


「だが、だが! 見よ、このクガネのわななきを!」


 その刀身は、いつになく輝いていた。色も変わっている。まるで溶鉱炉の中の鉄みたいに赤黒い光を放っていた。


「鉄でも銅でも銀でもない。女神が黄金より生み出したこのヒヒイロカネの刀は、この世ならざるものを断つ」


 それが意味するところは、即ち……


「お主が持つその剣。どこの邪悪に属するものか。そうでなくば、こうはなるまいて!」

「邪悪……?」

「まずはファルス、お主を討ってその剣を持ち帰らねばな!」


 鉄が魔力によって変質したのがアダマンタイト。

 銅が魔力によって変質したのがオリハルコン。

 銀が魔力によって変質したのがミスリル。

 金は……


 女神が金から作り出した特別な金属?

 では、俺の剣は? 女神の秩序にまつろうことのない、異物ということか。


 アーノは軽やかに身を翻し、クガネを横に振り抜く。それをまた、剣で受ける。遠くにまで響く金属音、それに火花のようなものが散っているのが見えた。

 確かに、何かが起きている。彼の霊刀が、この剣の何かの力に共鳴しているのだ。

 アドラットは、この剣を神器だと言っていた。では、これはモーン・ナーの……でも、ではやはり、女神教とモーン・ナーは別物で、これは世界を害する何かなのか?


 それより、アーノの太刀筋は鋭い。

 これもまた、長々と受けていられる代物ではない。俺もまた、彼に剣を叩きつけた。


「ははは! この程度か! そうでもあるまい。本気を出せい!」


 それでいい。ここでアーノを討ち取るつもりはないのだから。


「ディエドラ!」


 俺が声をかけると、彼女は重たげにその体を起こした。


「ほほう、挟み撃ちか。それもまたよし」

「逃げろ!」

「なに!」


 はじめはのっそりと、次第に勢いをつけて、巨大な白虎は河の上流に向けて走り出した。


「おのれ、逃がす……かっ!?」

「足止めはさせてもらう」

「何を」


 やがて夜の闇の向こうに白い巨体が消えると、俺もまた、後ろに飛び退いた。


「ややっ、貴様! 逃げるか!」

「ふん」


 俺は、背を向けてすぐ後ろの暗い森の中へと駆け込んだ。


「逃がすか!」


 ただの駆けっこであれば、逃げ切るまでに、さぞ骨が折れることだろう。しかし、今回は俺の方が有利だ。

 なぜならアーノは、優れた武人とはいえ、ただの人間だ。この暗がりでは視界が利かない。一方、今の俺なら、足下の小石を見落とすこともないのだから。


「待て!」


 後ろから声が響く。

 だが、今となっては彼の相手をしている時間などない。


 問題は、ファルス追討命令だ。

 俺が狙われるのはまだ小さな問題だ。だが、宿営地にはタウルがいる。ノーラもペルジャラナンもいたはずだ。彼らは何をしていた? いや、どうなった?

 別行動していたフィラックとジョイスは?


 こうして俺は、夜を徹して来た道を駆け戻った。

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