金色の月の下で(上)
「なんのことだ」
俺の問いに、彼女はしらばっくれてみせる。だが、本当はもう、わかっているのだろう。
彼女の『幻影』はもう看破されている。それが意味するところは、つまり……
「ちょうどよかった」
余裕を装ってそう言いながらも、俺は不穏なものを感じていた。人跡未踏の大森林の奥地で、あえて相手に対して身を隠す。これは敵対的な態度といえる。はっきり言ってしまうと、彼女は俺に奇襲を浴びせようとしていたのだ。一歩間違えば、いや、もしかするとどんなに丁寧に対応しても、対決が避けられないのかもしれない。
だが、少しおかしい。俺を攻撃する理由があるか? ディエドラを逃がす前ならあったかもしれない。或いは、俺が彼女の正体に気付いている事実を予め知っていれば。なのに彼女は今、最初から身を隠していた。
「改めて二人だけの時に話をしたいと思っていた」
「意外だな」
シャルトゥノーマは、その場を動こうともせず、見抜かれた幻影もそのままにしながら、話を続けた。
「今までいろんな冒険者に色目を使われたが、まさか年端もいかない子供にまで口説かれるとは思わなかった」
「軽口はいい。わかっているはずだ」
それより、俺はストゥルンの身を案じなければならない。彼がここにいないということは……
「先に確かめておきたい。殺したのか」
ここまで言われてはもう仕方がない。幻影は掻き消え、彼女自身が木の影から出てきた。
「まだ生きてはいる。獣に食われでもしていなければ」
「それはよかった」
風がない夜なのが幸いした。距離は開いているが、声はよく通る。
「邪魔も入らない。ずっと尋ねたいと思っていた」
「いつから気付いていた」
「最初から」
俺がそう答えると、彼女は一瞬、目を見開いた。だが、すぐに納得したらしい。
「なるほど。フードを取れと言うわけだ」
「ルイン人の、それも女の冒険者が、こんなところにいるなんて、普通じゃないからな」
ピアシング・ハンドのことは伏せつつ、それらしい理由をつける。
「で、やっと本題だ。ルーの種族がどうして人間のふりをしていた?」
「ルーの種族、だと?」
彼女が訝しげに俺を睨みつけた。
「貴様、何者だ」
「フォレスティア王の騎士ファルス」
「とぼけるな! 普通の人間は、今、お前が言ったような言葉は使わない!」
そう、ルーの種族という表現は、彼らの内情を知る者でなければ出てこない。
俺は頷いて答えた。
「普通は亜人、獣人、そう呼ぶものだからな」
「どこで知った」
「お前の故郷で」
「なに?」
今度は俺がふざけてみせる番だ。
「セリパシア出身なんだろう? 冒険者のメニエ・スポルズ」
「なんだと」
「神聖教国の枢機卿が、とある亜人を奴隷にしていた。いろいろあってその身柄を引き受けて、ピュリスまで連れ帰った。今は静かに暮らしているはずだ」
この話はしておきたかった。亜人を保護した実績がある。俺がいかにルーの種族にとって好意的な人物であるかをアピールするために。
「彼女の名前はマルトゥラターレ、内なるもう一つの魂の名前はスヴァーパ」
「なっ!?」
今度こそ、シャルトゥノーマの顔は驚愕に歪んだ。
もう一つの名前まで知る人間など、そうはいないだろう。
「百年以上前に人間に捕まって、あちこちに売り飛ばされたらしい。水の民……スヴカブララールだといっていたな。故郷の霊樹は刈り倒されてしまったと聞いている」
目に見えて彼女は興奮していた。激情を抑え込もうとするかのように、大きく肩で呼吸を繰り返しているのがわかる。
「ピュリスにいるだと?」
「作り話なら、こんな話はできないはずだ」
「どうして連れてこなかった」
「目を潰されている。危険な旅には連れていけない」
とは言ったものの、行き先が最初から大森林だったら、同行をお願いしたかもしれない。実際にはスーディアに直行せざるを得なかったし、人形の迷宮で人生が終わる予定だったから、連れまわす意味がなかっただけだ。
「なるほど、なるほど、な……」
もはや全身をわななかせ、暗い激情を抑え込みながら、彼女は声を絞り出した。
「メニエ……いや、偽名なのはもうわかっているが」
とりあえず、俺に悪意がないことは、これで通じたはず、だ。
「必要なのは、大森林の奥地を案内してくれる仲間だ。見ての通り、ディエドラのこともちゃんと逃がした。傍にいたならわかるだろう。ペルジャラナンのことも、家畜じゃなくて仲間として扱っている。ルーの種族を捕らえて売り飛ばすつもりなんかない。力を貸してくれないか」
完璧なアピールだ。少なくとも、敵意がないこと、この一点は伝わるはずだ。
なるほど、俺はシャルトゥノーマのディエドラに対する感情は確認していない。最悪の場合、今では風の民と獣人は、敵対関係にあるかもわからない。だとしても問題ない。俺はディエドラを、マルトゥラターレやシャルトゥノーマの身内だと思ったから逃がした。それだけじゃない。獣人より高く売れる亜人がすぐそこにいると知りながら、ずっと見逃してきたのだ。
にもかかわらず、返事がなかった。
「どうした? 人間の冒険者のふりをしていたのは、ああいう仲間……ディエドラみたいなのを助けたかったからじゃないのか」
俺の問いかけに、彼女はようやく答えた。
「最初は、そのつもりだった」
「最初は?」
「だが、気が変わった」
おかしい。どうして俺を睨みつけている?
ディエドラといい、彼女といい、理解しがたい感情の動きがある。俺の想定に何か抜けや漏れがあるのだろうか。
「外の人間がやってくるような場所にフラフラ出向くような間抜けが捕まるのは仕方ない。それでも、できるだけ助けはする。そうだ。お前が金目当ての冒険者だったのなら、それだけ考えればよかった」
「なに? なにが」
「だが、お前は金を欲しがらない。大金を払って買った獣人も逃がしてしまう。なら、そうまでして何を求めている?」
何か、とんでもない勘違いをされているのではないか?
このままではまずい。
「だから、道案内だ。ナシュガズはどこにある? 不老の果実のある場所も知りたい」
「ナシュガズだと! 余所者が許しもなく立ち入っていいとでも思っているのか!」
俺が彼らの秘密に触れるたび、シャルトゥノーマの興奮は高まるばかりだった。
「貴様はどこまで知っている」
「霊樹には手を出さない」
「なに?」
「風の民と水の民は、霊樹がないと子を生せない。知っている。それは奪ったりしない」
俺としては、誠実に本音を口にしただけだった。だが、彼女にとっては、それでは済まない話だった。
「そうやってお前は……いや、もう、いい」
不吉な呟きに、俺は思わず身構えた。
彼女は身動きすらしていない。だが、俺は直感して飛び退いた。直後、破砕音と同時に、焚火が消し飛んだ。
「恨みはない。だが、やむを得ないのだ。お前を見逃すわけにはいかない」
いくつもの理解が頭の中に犇めいた。
完全なルーの種族は、詠唱すら必要としない。少なくともマルトゥラターレは、いちいち呪文を唱えたりせずとも、魔法を使うことができた。もう一つの魂が常に本人と対話して、術の行使を受け持つからだ。
彼女の狙いは、最初からこの焚火だった。暗視能力を持つ風の民が人間を相手どるのだ。夜の闇の中の方が有利に決まっている。ましてや彼女は、俺の弓の腕を知っている。先手を取っても、仕留め損ねれば返り討ちにされかねないと考えたのだ。
そして、俺をここで殺すことにした理由。金を欲しがらない人間の目的は普通、名誉だ。とするなら、獣人や亜人を連れ帰るより、彼らの霊樹を破壊した方が、ずっと大きな功績になる。
それはしないと宣言したし、また仮に彼女自身がその発言を真に受けた場合でも、なお問題がある。俺と俺の仲間を未踏の大森林の奥地に案内すること、それ自体が大きなリスクなのだ。なぜなら、何も壊さず何も盗まなくても、情報だけは持ち帰るから。敵意の有無など関係ない。ただでさえ、ルーの種族について知りすぎているのに。
どうする? このままでは。
殺すのはそこまで難しくない。ピアシング・ハンドを使えば、能力も丸ごと奪い取れる。暗いとはいえ、まだ僅かに視界はある。彼女のシルエットが見えていて、俺がそれと認識できている限りは……でも、ダメだ。仮にもしディエドラが戻ってきても、ルーの種族を殺した事実を知れば、俺に協力なんてしなくなる。
といって、彼女の弓術も一流だ。このまま、遮蔽物のない場所で逃げ回っていたのでは、そのうちやられてしまう。
……仕方ない。
黒い矢の影が微かな風切り音とともに迫る。
抜き放つと同時に、俺はそれを剣で叩き落とした。
「うっ!?」
切り札を使いたくはなかったが、そうでもしなければやられていた。ピアシング・ハンドで『暗視』の神通力を奪い取る以外の選択肢がなかった。
シャルトゥノーマは、急に視界を失った。逆に俺の方はというと、この暗い緑のドームの中でも、相手の姿がはっきり見える。
「聞いてくれ!」
「そこか!」
また矢が飛んでくる。
これじゃ話になりやしない。
「貴様、何をした!?」
「争うつもりはない! 落ち着いてくれ!」
そう叫んでから、また直感した。
ここにいては危ない……!
大きく横に跳んで転がった。と同時に、丘の上の広場に風の渦が巻き起こる。俺は近くの大木の根元にしがみついた。
風は竜巻となり、竜巻はテントや物資、吹き消された焚火の薪などを巻き上げた。丘の上の砂が舞い、視界を覆う。
どれほどの時間が過ぎたのか。或いはあっという間だったのかもしれない。
風が収まり、俺は周囲を見回した。
既にシャルトゥノーマは姿を消していた。
「……くそっ」
気配のなくなった丘の上で、俺は力なく悪態をついた。
シャルトゥノーマが最後に起こした竜巻のせいで、テントは完全に吹き飛んでしまった。食料その他の資材も、散り散りになってしまった。回収できそうなものは、ほとんどない。そして、時間をかけてそれらを拾っている場合でもなかった。
ストゥルンを探さないと。どこかで無力化されているのかもしれない。当たり前に魔物が出没する大森林の奥地だ。放り出したままでは死なせてしまう。
彼は水汲みに出たはずだ。とするなら、この丘からそう遠くには行かなかったはず。シャルトゥノーマがどこかに拘束しておいたにせよ、まさか彼女一人で遠くまで運搬したとも考えにくい。
俺は南側に向かって黒い木々の突き立つ丘を駆け下りた。
足下に泥濘を感じたところで、気配に気付く。細長い何かのシルエットがニュッと伸びる。
「くっ!」
反射的に剣を引き抜き、撥ね上げるようにしてそれを切り落とす。
こんな時に、邪魔くさい。泥蛙だ。手負いのままにしておくのもまずい。俺は一歩踏み込み、即座に頭の上から真っ二つにした。グズグズしていたら、足下に落とし穴ができるのだ。
周囲を見回す。
暗がりの中、他に魔物の姿は見えない。だが、連中はいつも泥の中に潜んでいる。もしかすると、まだどこかに……
俺は振り返らずに、一気に突っ走った。足を取られたら終わりだ。
すぐ暗い木々の下を抜けた。水音が聞こえてくる。
彼がいるとすればこの近くだろう。だが、とにかく物影が多すぎる。あの岩か、あの草か。しらみつぶしに捜索していては、どれだけ時間があっても足りない。
「ストゥルン!」
危険は承知で、俺は声をあげた。
「いたら返事をしてくれ! 助けに来たぞ!」
今の俺なら、魔術のおかげで小さな声も聞き逃さずにいられる。とにかく、彼が応えてくれさえすれば。
だが、聞こえてくるのは河の水が岸辺を洗う音ばかりだった。
或いはもう、彼は生きていないのかもしれない。シャルトゥノーマがああ言ったのは俺のことを見極めるためで、実際にはさっさとトドメを刺していてもおかしくない。常識的に考えて、姿を見られず気絶させなければ、彼女が襲いかかった事実は伝わってしまう。そんなリスクをとるくらいなら、始末した方がいい。
だが、早々に諦めるのも躊躇われた。俺は彼の名を叫びながら、河を下る方向に歩き続けた。
川べりには、大きさのまちまちな岩がゴロゴロしていた。不思議と四角い岩があったりして急に歩きやすくなる箇所もあったのだが、そうかと思えば、いきなり暗がりに泥濘が続いていたりもした。雑草がそこだけ背を伸ばしているような場所もあった。うっかりストゥルンごと切ってしまってはまずいので、いちいち確かめながら、俺はそれらを切り払った。
そうしてしばらく彷徨い続けたのだが、あるところで大きな岩が月光に照らされているのが見えた。
少しずんぐりした米粒型の大きな岩。その天辺は、一階建ての家の天井くらいの高さはある。川辺を洗う水の流れにも動じることなく、その岩は静かにそこに佇んでいた。
その岩の上に、動くものがあった。
「ストゥルン?」
そう呼びかけてから、違うとすぐにわかった。シルエットが違う。
おりしも頭上には金色の丸い月が懸かっていた。その真下では、銀色の髪が微かな夜の光を照り返していた。身に着けているのは粗末なワンピース一枚。こちらに向けられた瞳は、月のように丸く、金色に輝いていた。
遠くに逃げたかと思ったのに。
ディエドラは、割と近くにいた。この岩の上に座り込んでいたのだ。
「ディエドラ」
「ファルス、か」
たどたどしいシュライ語で、俺に応じる。
「逃げなかったのか」
いろいろな可能性が頭の中を駆け抜けていった。
どういうことだ? シャルトゥノーマの目的の中には、ディエドラの救出も含まれていたはずだ。では、ストゥルンを始末した後、ディエドラとは接触しなかった? それとも、あえてここで待たせておいたのか。或いは……
「ニげるヒツヨウがない」
……俺を逃がさないために、待ち構えていたのか。
「おマエはタブン」
身構えた俺には構わず、彼女は淡々と語り続けた。
「アブナくない」
「危なくない?」
「ウソはついてない。ナカマをツカまえてドレイにするキもナい。このままニげてもモンクもイわれない」
「そうだ」
そこまでわかってくれているのなら、手助けをしてほしい。まず、ストゥルンの安全を確認する。それから、いったん元の宿営地に撤退する。戻ってきたフィラック達と合流して、彼女を案内役にして、今度こそ大森林の奥地を目指す。シャルトゥノーマの脅威は残るが、それこそディエドラに説得してもらうしかない。
「なら、助けてくれ」
「ファルス」
俺の言葉を遮るようにして、彼女は言った。
「ホしいモノをくれるとイったな」
「あ、ああ」
雑談をしている場合ではないのだが。交渉は後にしてほしいのに。
俺と違ってディエドラは落ち着き払っていた。彼女は澄み切った目で、俺をじっと見つめる。その眼差しに、怒りや憎しみのようなものは、まったく感じ取れなかった。
「ワタシは、モリのソトにデたかった」
「外?」
「このモリでウまれてソダった。ハえてるキも、フみナれたオちバも、みんなシってる」
彼女は、遠く北の空に目をやった。
「だけど……ここしかシらない」
それなら、俺が力になってやれる。なんだ、簡単な話じゃないか。
「最初からそう言ってくれれば」
「それは」
俺を見下ろしつつ、冷たい声で彼女は言った。
「おマエのカチクになれということか」
「か、形だけだ! ペルジャラナンを見ただろう。乱暴に扱ったりしたか?」
静かに首を振る。
「わかっている。おマエはひどいコトはしない」
「ああ、もちろんだ」
「でも」
彼女はまっすぐ俺を見た。その視線に、やけに圧力を感じる。
「それでは、モリをデたコトにはならない」
「なに?」
「ワタシは! このアシで! セカイをアルきたい! このテで! ホしいモノをツカみトる!」
理解した。俺に与えられるものなど、何一つなかった。
ディエドラが欲しがっているもの。それは、自分の力で外の世界に挑むこと。いちかばちかの冒険をしてみたい。
見慣れた森の中でひっそりと暮らすだけの日々。それが悪いわけではない。そこに生える木々も草も、みんな見慣れている。それは彼女の故郷だ。だが、何もかもを知り尽くした世界に留まるだけの未来には、興味をもてなくなった。それは満たされてしまったがゆえの渇望なのだ。
だから、だ。
オークションの時、他の連中がやれ奴隷にするだの、目を潰すだのとひどいことを言っても彼女は怒りをおぼえなかった。唯一俺だけ、彼女と「対話」しようとした。力で屈服させるのではなく、口先でいいようにしようなどと……それは逆に、彼女にとって軽んじられたようなものだったのだ。
「ファルス」
彼女からの圧力は、強まるばかりだ。
「おマエはイマ、ワタシのホしいモノをヒトつ、モっている」
それもすぐに理解した。
ディエドラが求めるのは外の世界の困難だ。なるほど、彼女は一度敗れてはいる。ゲランダン達に追い回されて捕虜になった。だが、それはあくまで多対一、恐らく罠に追い込まれた末の不運だった。
だが、そうした小細工なしに、正面から彼女の自信を打ち砕いた相手がいる。
「ヤクソクしよう」
急に声が低くなった。さっきまで普通の女の声だったのに、やけに濁った声色に変わっていた。と同時に、彼女の肩の肉が不自然に盛り上がる。
「コンドこそ、ワタシをウちマかしたら」
腿が、腕が、いや、胴体そのものが、歪に膨らみ、はち切れんばかりになる。
薄っぺらいワンピースが引き裂かれ、その下から銀色の体毛が月光に煌めく。
「おマエのノゾみをカナえよう」
最後の方は、ほとんど言葉になっていなかった。
なぜならそれは獣の唸り声だったから。
いまや、岩の上にいるのは細身の女ではない。
そこに蹲るのは、体高二メートルにもなる白虎だったのだ。
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