剔抉の時

 朝、普段より少し遅い時間に俺達は出発した。

 特に早起きもせず、宿営地で朝食を摂り、今後の予定について二、三、約束事を再確認してから、ようやく腰をあげたのだ。


 黒土の丘の上は、昼間でも薄暗い。木々が隙間なく枝を広げて緑のドームを形作っているおかげで、木漏れ日すらほとんど届かない。だから、丘の端まで歩いて降りて、ようやく南西方面に伸びる直線の通路を目にしたときには、あまりに真っ白に見えて、目が痛いほどだった。

 低いところから生えている木々の樹冠を構成する、か細い枝を間近に見ると、なんとなく不思議な気持ちになる。いつも顔を見ている人の、違った表情を発見するような。


 そこを抜けて、日差しの下に出る。雲が多い。ほとんどは白い入道雲だが、空の青い部分のほうが少ないくらいだった。

 歩いている通路は、幅五メートルくらいある。普通に歩いていれば足を踏み外したりはしないのだが、手摺のようなものはないので、しっかり前を見なくてはいけない。ちょっと脇に目をやると、落ちたらまず助からない高さだった。


「四角い、な」


 左を向いたストゥルンが、俺の後ろでボソリと呟いた。

 昨日、ノーラが水汲みにいった池だ。周囲を丈の高い木々に囲まれているので、輪郭は朧げにしかわからない。特に手前側は覆い隠されてしまっている。それでもこの場所から見下ろすと、四つの角がそれぞれ東西南北を指す方向に向けられた正方形に見える。そこに貯めおかれた水は、ケカチャワンのものより汚れが少なく見えた。陽光に照らされて、垣間見えた水面が輝いている。

 正方形の池、か。この通路にしてもそう。とするなら、やはりここには古代の集落があったのだ。


「余所見をするな」


 更に後ろからシャルトゥノーマが早口に言う。それで俺達はまっすぐ前を見て、また歩き出した。


 城壁というべきか、陸橋というべきか。数百メートルもある手摺のない通路を抜けて、また俺達は別の丘の裾に立っていた。

 ここがゲランダン達の到達した最終地点だ。この先のルートを開拓するのが、俺の仕事ということになっている。だが、だからこそこの状況が悩ましい。


 最初、探索班を組織する前に確保したのはディエドラだった。大森林の奥地で捕まった獣人なら、更なる奥地からやってきたに違いないのだから、案内人が務まるだろうと。彼女を買い取った時に俺が想定していた状況は、つまり、俺の仲間だけが彼女を取り囲んでいるというものだった。

 だが実際には、ずっと近くにゲランダンとその仲間達がいた。だから、今まで彼女と腹を割った話し合いができずにいたのだ。


「ディエドラ」


 俺が振り返り、声をかけると、彼女は薄暗い緑のドームの下で、目だけを光らせた。


「この先の道案内を頼みたい」

「ミチなんかナい」

「もっと南から来たはずだ」


 この場にはシャルトゥノーマとストゥルンがいる。それぞれ本音が見えない連中だ。これがノーラとジョイスだったら、どんなに心強かったか。だが、今、彼らにはそれぞれ守って欲しいものがある。


「この南に河があると聞いた」

「アる」

「どうやって渡った」

「オヨいだ」

「泳いだ?」


 そんなはずはない。魔術や神通力に頼るまでもない。これは嘘だ。


「ゲランダンはゴイでいっぱいだったと言っていた」

「ヨルだった。あいつらはヨルになるとメがあまりミえなくなる」

「夜でも襲われる危険が残るはずだ」


 それでも、あり得ない話だと断定できる。


「じゃあ、お前にはもう、安全にあちらに戻る方法はないということか」


 返事はない。


「質問を変えるぞ。そうまでして、どうして北に来た」


 気軽に行き来できない河を乗り越えてまで、彼女は何をしたかったのか?


「ウルサい」


 この会話は、左右に立つ他の二人も見ている。言葉は選ばなくてはいけない。


「いいか、これは大事な話だ」


 特にストゥルンが気になるが、もう言ってしまおう。


「俺は、獣人を捕らえて売り飛ばすつもりはない」

「ナニ?」

「お前の家族や仲間を見つけたくない。もし河の向こうに大事な誰かがいるなら、今のうちに逃がせ。だからこういう話をしているんだ」


 結構な爆弾発言だ。探索隊の儲けをフイにすると言っているのだから。何かでストゥルンを黙らせる必要はありそうだが、それはもう、後で考える。

 ディエドラは、俺の言葉を驚きをもって受け止めた。無言のまま目を見開き、口を半開きにしていた。だが、徐々にそれが引き締められていく。


「な、なんだ?」


 その顔には、明らかな怒りが浮かんでいた。


「どうして怒る? 逃げてもいいと言ってるんだぞ? もちろん、できれば、お前の仲間を逃がした後、戻ってきてもらいたくはある。道案内をしてほしい。何がおかしい?」


 だが、彼女は何も言おうとしなかった。


「逃がすのか?」


 ストゥルンが、いかにも不可解と言わんばかりの顔で俺に尋ねた。


「戻ってこなければ。そうなっても仕方がない」


 俺は不老の果実とナシュガズを目指してはいるが、だからといってそのためにルーの種族を虐待したり脅迫したりでは、マルトゥラターレを裏切っているようなものだ。


「わけがわからん。ファルス、お前はこいつを買うのに確か金貨一万枚も払ったはずじゃないか」


 さすがにあれだけの取引ともなれば、彼も知っていたか。


「大金は払った。でも、ここで殴ったり脅したりしても仕方がないだろう。恨まれれば、道案内する代わりに、罠に嵌められてもおかしくない」


 それから俺はまた、ディエドラに向き直った。


「案内してくれるなら、きっと仲間はゲランダンには引き渡さない。それだけじゃない。もし人間の世界に何か欲しいものがあるなら、手に入る限りはお前にくれてやる。言っておくが、僕は人間の世界ではお金持ちだ。大抵の望みは叶えてやれるぞ」


 すると彼女はじっと考えるようにしていたが、静かに先に立って歩きだした。俺がついていかずに突っ立っていると立ち止まり、前方を指差した。ついてこいということらしい。

 よかった。完全に信用されたわけではないのだろうが、少しは交渉を受け入れてもいいくらいには思ってくれたのだろう。


 俺が先に進むと、ストゥルンとシャルトゥノーマも、何も言わずについてきた。

 今度は丘と丘を結ぶ連絡通路みたいなものはなく、俺達は素直に坂を下るしかなかった。必然、丘の木々の途切れるところには、丈の高い雑草が生えている。ストゥルンは腰の鉈を抜こうとしたが、俺はそれを押しとどめて剣を抜いた。軽く一振りするだけで、草は簡単に散り散りになった。

 幸い、泥蛙と出くわすこともなく、俺達は次の丘に足をかけた。そうしてまた、薄暗い緑のドームの中へと踏み込んでいく。


「ディエドラ」


 俺が呼び止めると、彼女は振り返った。


「どれくらいかかる」

「ゆっくりアルくなら、イチニチ」

「わかった」


 それなら今夜は宿営するしかない。


「仲間を逃がしていいと言ったのは本当だ。今夜は近くの丘の上で眠る。その間に、一人で先に行ってくれ。追いかけたりはしない」


 こちらにしてみれば最大限の譲歩だ。黙って逃げられても、俺には追跡する手段がない。それでも信頼して自由にさせると、そう宣言したのだから。

 だが、彼女は特に表情を変えることなく……まるで何の心もないかのように無表情のまま、また前を向いた。


 それから俺達は、黙って歩き続けた。丘を越え、低地の沼を切り抜け、また丘に登る。

 昼下がりになって、俺は水音を聞いた。


「川?」

「カワ。でも、ここでワタるのはヨくない」


 その丘は、半ば崩れていた。長い年月のうちに、河の流れに侵食されたのだろうか。

 面白いのは、丘の下に何かの遺跡のようなものの形跡が確認できたことだ。この流れによって破壊され、分断されたせいで、この丘は輪切りみたいな状態になっていた。この黒土の丘は、中までみっちり黒土でできているのではなく、内側に四角い石組がしっかり作られていた。

 とすると、昔はここに石造りの家があったのに、上から土がかぶさった、ということなのだろうか? それとも……


 この流れに黒土の丘がぶち抜かれて、一部が流されてしまったのだろう。河は蛇行しており、今いる場所からは西側の岩山はよく見えない。幅は、ざっと見て二十メートルほどもある。決して狭くはない。


「じゃあ、どうする」

「アっちにイく」


 彼女は右を指した。

 それから俺達は川沿いに歩き、やがてその流れは左に逸れ、俺達は目の前の丘の上に落ち着いた。


 空の色が変わり始める頃、俺とストゥルンは丘の真ん中にテントを立てた。


「ディエドラ、僕はここに留まる。どこにでも好きなところに行ってくれていい。案内してくれる気になったら、戻ってきてくれ」


 相変わらず表情を変えないまま、彼女は無言で背を向けた。


「ファルス」


 話しかけてきたのは、シャルトゥノーマだった。


「それなら私達で宿営の準備をする。私は見回りがてら、薪になりそうな小枝を拾ってくる。獲物がいれば仕留めるつもりだ。ファルスはここで火を熾してくれ」

「それがよさそうだ」

「じゃあ、俺が水を汲んでくる」

「わかった」


 立ち去るディエドラを見送ると、俺達もまた、それぞれ散り散りになった。


 二人の背中が見えなくなったところで、俺はゆっくりと立ち上がった。

 火を熾す……手をかざそうとして、火魔術を使う能力が今、ないことを思い出す。いつもはそれを忘れたりはしておらず、だからこそ道中、ずっとペルジャラナンに任せっきりにしてきた。魔術の能力を失っていることを、特にタウルやフィラックに悟られないためだ。

 少しぼんやりしていたらしい。いや、気が抜けたというべきか。


 今の俺には、新たな能力を活用できるだけの枠がない。


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 (自分自身) (13)


・アルティメットアビリティ

 ピアシング・ハンド

・アビリティ マナ・コア・身体操作の魔力

 (ランク9)

・マテリアル プルシャ・フォーム

 (ランク9+、男性、12歳、アクティブ)

・マテリアル プラント・フォーム

 (ランク6、無性、0歳)

・スキル フォレス語   7レベル

・スキル シュライ語   6レベル

・スキル 身体操作魔術  9レベル+

・スキル 剣術      9レベル+

・スキル 格闘術     9レベル+

・スキル 弓術      8レベル

・スキル 隠密      6レベル

・スキル 料理      6レベル

・スキル 病原菌耐性   5レベル


 空き(1)

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 久しぶりだ。普通の手順で火をつけるなんて。のんびりはできない。もう夕方だ。暗くなる前に済ませないと、視界を確保できない。

 火のつけ方を学んだのは、リンガ村でのことだった。思えば歳月が過ぎたものだ。ずっと遠い昔のことだった気がする。火打石は叩きつけるのではなく、擦るようにして火花を散らせる。そうして燃えやすいものに着火して、それを徐々に燃えにくく、しかし長持ちする可燃物に移していく。

 無事、焚火は大きく燃え上がった。


 燃え盛る火を見ると、はじめは気持ちが落ち着いた。頼もしく思われた。

 思えば大森林に入ってから、一人きりになる時間がずっとなかった。やっと肩の力を抜くことができる。


 だが、小さな心配が首をもたげる。少し勢いよく燃やし過ぎたんじゃないか。燃料が足りなくなるなんてことは? いや、シャルトゥノーマが拾ってきてくれるはずだ。でも。

 ここは大森林の深部だ。何か変事があってもおかしくはない。見たこともない魔物がやってくるかもしれない。


 そう思った時、俺は既に詠唱を始めていた。自分の身体能力を引き上げ、感覚を鋭敏にする。

 意識も改めて引き締め直す。二年以上前に旅立ったときと同じように、自分自身だけを頼りにする。


 ディエドラは戻ってくるだろうか? 彼女の頭の中は、いまいちよくわからない。逃げていい、お前の仲間も逃がしてくれ……そう伝えると怒り出す。何が気に障ったんだろうか? けれども、彼女の言語能力もあって、それが適切に表現されることはなかった。

 だが、俺が温情ある対応をしているのは、シャルトゥノーマが見ている。彼女もまた、正体を伏せているとはいえ、ルーの種族だ。となれば、この森の奥に何があるかを把握している可能性がある。だからこそ、俺の善意を見せつける意味もあった。こちらにしてみれば、案内人が誰であっても構わないのだから。

 ストゥルンにも、何か隠れた目的がありそうだ。

 魔獣の声帯模写をこなすなんて、相当な特殊技能だと思うのだが、あれはどこで習得したのだろう? その辺も含め、一度問い詰めてみるべきだろうか?


 あれこれ考えているうちに、この丘の真ん中から覗く空の色が、橙色から徐々に藍色へと変わっていく。今夜は不思議と雲が少なかった。目の前の焚火の光が浮かび上がって見える。そこで俺はやっと時間の経過に気付いた。


 二人とも遅すぎる。何があった?


 小枝を踏みしめる、かすかな音が耳に触れた。

 振り返るとそこには、シャルトゥノーマが立っていた。


「メニエか」

「……遅くなった」


 丘の真ん中に陣取った俺の斜め後ろに、彼女はいた。一抱えもある大木の、そのすぐ横に、弓を手に佇む姿が浮かび上がっていた。


「獲物は?」

「見当たらなかった」

「薪は」

「済まない。使い物になる小枝はなかった」

「そうか」


 そう言いながら、彼女はその場を離れようともせず、こちらに歩み寄る様子もなかった。

 俺は静かに立ち上がった。


「ところで、メニエ」


 木の横に立つ『幻影』ではなく。

 その陰に留まる彼女を、俺は指差した。


「どうしてそこに隠れているんだ」


 どうやら、はっきりさせるべき時がきたらしい。

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