蚊柱
「ファルス、起きて」
聞き慣れた声がした。けれども、自分の体がまるで粘土になってしまったかのようで、思考もまだ追いつかない。ここはどこ……
「起きて!」
まだ朝早い……じゃない!
どうしてこんなに深く眠り込んでしまったのか。いつでも油断なく備えるべきなのに。理由は分かっている。昨夜、ほとんど眠れなかったから。夜遅くまで、ゲランダン達は飲み騒いでいた。あの残虐なパーティーのおかげですっかり気分が悪くなって、余計に頭が冴えてしまった。
「何があった」
半身を起こして、尋ねる。
「そのままでいいから来て。クーが殴られてる」
「えっ」
「フィラックさんが止めてくれてるけど」
俺がのんびり寝ている間に。歯噛みして、すぐさま跳ね起きた。
争いは宿営地ではなくその下、昨日の午前中に上陸した地点で起きていた。
大森林の早朝はいつも霧がかっている。夜の間の雲が、朝の風に流されていく。静かに揺蕩う水面の上で、朝靄が徐々に晴れていく。そんな静けさのひと時のはずが、耳が痛くなるほどの沈黙に包まれていた。
「何があった!」
俺が叫び声をあげると、フィラックと睨みあっていたペダラマンが、首だけ回してこちらを見た。彼の横には、興奮した様子のシニュガリも控えていた。
「こいつがごまかそうとした」
ペダラマンの顎先には、クーがいた。左の頬をこっぴどく殴られたらしく、腫れあがっているのがありありとわかる。立っていることもできず横倒しになり、今はラピの膝の上だ。
「クーが?」
「そいつを殺せ。ケジャン村に火をつけたのもそうだ。厄介事でしかない」
感情のない、それこそいらないものをゴミに出せと言わんばかりの口調で、彼はそう吐き捨てた。
「話が見えない。クーが何をした」
「自分の不始末を、うちのせいにしようとした」
「不始末?」
「見ろ」
ペダラマンが指差した先には、ここまで俺達が乗ってきたボートがあった。
その数は……九隻?
「一つ足りない」
そのうち四つは造りが違う。ケジャン村の連中が乗ってきたものだ。ということは、出発前に買い上げて用意したボートが一隻、なくなっている。
「昨夜のうちに、増水したらしい。水がここまできて、流された」
「それで、どうしてクーを殴るんだ」
「うちの班のボートを、自分が結わえたものだと言い張っている。仕事の不始末だ。そっちでケリをつけろ」
では、クーが係留し損ねて、こちらの班のボートが一隻、流されてしまった。その失敗をごまかしたくて、ペダラマンの班のボートを自分が係留したものだと言い張った?
いや、おかしい。なんとなくだが、クーのこれまでの行動を思い起こすと、そういう判断はしそうにない。むしろ正直に申告してくれそうな気がする。
「証拠は」
「うちのボートには舳先に焼き印が入れてある」
なるほど。
しかし、そんなものは後からでも入れられそうなものだ。第一、それが事実なら、とっくにノーラが気付いているはず。ペダラマンの能力は低くないし、身体的にも逞しいので内心を読み取るのは難しいだろうが、クーの頭の中ならガラス張りだろう。
シニュガリが指差しながら言った。
「そのガキがな、そこに結わえてあったうちのボートを引きずって、お前達のボートがあった場所に結び直すのを見たんだ。でも、騙されるか」
ピンときた。
ペダラマンは、シニュガリのわざとらしさに気付いている。多分、不始末をやらかしたのは彼だ。自分に任されていたボートが流されてしまった。それをごまかそうとしているらしいのも、察している。だが、その言い分を認めたところで、何の得になる? だからこの場は、クーのせいにしたい。その方がケジャン村の連中に対しても心証がいい。
「見ていたのなら」
俺は静かに言った。
「なぜ止めなかった」
簡単な話だ。声をかければいい。クーは子供だ。簡単に取り押さえられる。
「クーの言い分を聞いたか」
「どうせ子供だ。しかも奴隷だろう。嘘をつくに決まっている」
俺は頷き、背を向けた。そうしてラピに抱えられたクーにそっと触れる。
「話せるか」
「あ、あ、はひ」
頬が腫れて声がおかしくなっている。手加減なしにぶん殴られたのだ。
「今の話は聞こえていたか」
「はひ」
「言いたいことがあれば、言ってくれ」
すると、クーは空を眺めて数秒ほど考え込み、そして言った。
「ペダラマンさんを、ここに」
「ペダラマン」
俺が手招きすると、彼は大股に歩み寄ってきた。
「右のボート、例のボートの船尾を見てくたはい。右隅に、うっすら緑色の汚れがついているはずてす。なぜてすか」
この指摘に、彼は眉を寄せた。
「確認しよう」
俺が前に立ってボートを見に行くと、彼もついてくるしかなかった。
果たしてクーの言う通り、そこにはうっすらと緑色の汚れが付着していた。
「ペダラマン、この汚れの理由は?」
「シニュガリ」
答えられるはずもない。ペダラマンはシニュガリに説明を求めた。
「そんなの、元からです」
「そんなはずはない。今回の探索に使うボートは、全部僕がタウルに購入させた。一隻残らず新品だ。もともとなんてない」
言い切られて、彼は顔色を変えた。
「そんなこと言われても、いちいちそんなところまで見てない。汚れがあるからって、なんだっていうんだ」
俺は手招きして、二人をまたクーの傍に連れてきた。
「クー、汚れの理由を教えてくれ」
すると彼は、ラピの膝の上から彼女の顔を見上げた。そして答えた。
「……三日目に、メニエさんか作った虫除けの薬をラピか髪に塗っていて。でも、夜のうちに荷物に纏めておかなかったから、朝になって慌ててボートに持ち込みました。その時、メニエさんに返そうとしてひっくり返してしまったんてす。たから」
視線がシニュガリに集まる。
「その薬は残ってます。ボートの上にこぼして、どんな汚れがつくか、確かめてくたさい」
さすがにここまで具体的に言われてしまっては。
その汚れをつけるためには、その薬を持っていなくてはいけない。女がいないペダラマンの班には、髪に塗る虫除けの薬なんて必要なかった。またもし、今朝、クーがその薬をアリバイ作りのために持ち込んだと想定しても、今度はそれはそれで、薬が乾くまでの時間が足りなさすぎる。というのも、夜が明けてからまだ間もない。危険な夜間に一人でボートの状態を確認に行くはずもないからだ。
ペダラマンはやおら向き直ると、いきなりその太い腕をシニュガリの顔面に叩きつけた。
短い悲鳴とともに彼は背中から倒れ、その場で悶えた。
「好きに処分していい」
「殺してもしょうがない」
どうしてこいつらは、いつもこうなんだ。
「それより、そちらの班のボートが一隻足りない。その分は、なんとかケジャン村のボートに乗せてもらって欲しい。次にアワルと合流して物資を受け取るときに融通してもらうか、この村のボートを一隻売ってもらうか、どっちかだ。それだけのことなのに、騒ぎ過ぎだ」
気分の悪いやり取りが片付いた。フィラックは無言でクーを抱え上げ、俺達はまた、宿営地に引き返した。
朝食の後、俺とゲランダンの班は、自分達のボート四隻を宿営地まで引っ張り上げた。このまま、継続して東へと河を遡行する。今は水量が増しているし、西からの風も弱くない。距離を稼ぐチャンスだ。青い空に白い入道雲と、天気も上々。暑くなりすぎるのだけが気がかりだが、他は問題ない。
昼前にはボートを滝の上の河の水に浸し、俺達は東に向かってゆっくりと漕ぎだした。
滝の上のケカチャワンは、まるっきり別の河みたいだった。泥水そのものだったここの下流に比べると、ずっと透明度が高い。たまに川底の方に魚が泳いでいるのも見えたりする。浅瀬に乗り上げるのを避けるために河の中央に出ているが、おかげで周囲は静かそのものだ。鳥の鳴き声も、なにしろ川幅が広く、片側でも二百メートル以上は離れているため、あまり聞こえてこない。例によって帆を立てて風に押されているので、櫂を漕ぐ手を休めて一息つくと、もう他には何も聞こえてこなくなる。
半透明の藍色の水面。その向こう側には小さく見える河岸。その向こうは鬱蒼と繁る暗い緑の木々。その上には青空と白い雲。それがどこまでも途切れることなく続いている。
美しい世界だった。
美しくないはずがない。ほとんど人跡未踏、ルルスの渡しの更なる奥地に挑む探索隊は決して多くない。手付かずの大自然の中を悠々と旅するのだ。危険と労苦はあるものの、それをいったん忘れれば、これほどの贅沢など、どこにもないだろう。
それなのにこの雰囲気の重さ、暗さときたらどうだろう。
昨夜の揉め事、今朝の事件。俺達は雑談するような気分でもなくなっていた。
もうすぐ昼という時間帯。
そろそろ蒸し暑さに思考力が奪われだす頃だった。
行く手の青空に、うっすらと黒ずんだ霞のようなものが見えた。
竜巻みたいな形に見えるが、別にすぐ下の緑の木々が風に揉みくちゃにされているようでもない。なんだろう。
そう思った時、先のボートに割り込んで乗っていたストゥルンが立ち上がり、こちらに声をかけた。
「寄せろ!」
「えっ」
「ボートを浅瀬に寄せろ! 急げ!」
何が起きたのか。フィラックもわけがわからず、後ろの俺達と顔を見合せた。だが、ストゥルンが無意味にそんなことを言うはずはない。現に先行するタウルやゲランダンのボートは、既に右に逸れつつある。それとボートの真ん中に立てた帆も、取り外しているようだ。俺の後ろに座るジョイスが中腰になって、慌ただしく帆を引っこ抜いた。
「舳先のロープを掴んでおけ! 水中に潜ってやり過ごせ! 顔も出すな!」
黒い霞は、もう先頭のアフリーのボートのすぐ近くにまで迫っていた。
続くゲランダンのボートは、まだ十分に浅瀬に寄ることができていなかったが、全員が転がるようにして河の中へと飛び込んでいく。タウルのボートは全速力で右に向かい、舳先を軽く乗り上げさせたところで、みんな水中に飛び込んだ。クーとラピは、ストゥルンが脇に抱え込んで、無理やり水中に沈めていた。
「俺達も」
「ああ」
状況そのものは理解不能でも、同じようにしなければならないというくらいはわかる。
なぜなら……
百メートル以上も離れた場所から、途切れ途切れの悲鳴が聞こえてきたからだ。
アフリーの船に乗っていた誰かが、水中に飛び込むのを躊躇った。恐らく泳げないからだ。だがそのせいで逃げ遅れた。彼の体は黒い靄に取り巻かれていた。
あれは……虫? 小さな虫の群れか?
「急げ!」
もう仕方がない。
「ペルジャラナン、つらいだろうけど息を止めるんだ。ジョイス、溺れないようにペルジャラナンの手を握ってやって欲しい」
「わかった!」
「フィラック、ボートは」
「任せろ!」
「せーの!」
俺達は胸いっぱいに空気を吸い込むと、一斉に水の中へと飛び込んだ。
黒い羽虫の大群。俺にとっては相性最悪の敵だ。巨大な竜が一匹出てくるより、ずっと性質が悪い。ピアシング・ハンドでは、群れの中の一匹しか倒せない。火魔術などで焼き尽くすにせよ、相手の数と面積によっては始末しきれない。多分、手持ちの対抗手段で確実に勝利を期待できるのは、ノーラに預けた腐蝕魔術と、ケッセンドゥリアンの魔眼だけだ。だが、前者は汚染が付き纏うし、後者は近くにいる仲間も巻き添えになる可能性が高い。
つまり、虫けらに近づかれないよう、水中に潜るしかない。息が続く限り。
どれほどの時間が経ったのか。
もう息苦しさをおぼえたのか、ペルジャラナンが顔を出そうとする。それをジョイスが抑え込む。いつ水中から出たらいいのか。
だが、あるところでイーグーが水中から顔を出した。
そこでやっと俺は安全らしいとわかった。そっと水面から顔を出し、周囲を見回した。黒い霧のような虫の大群は、河の下流に向かって渦巻きながら去っていくところだった。
泳げないペルジャラナンをみんなでボートの上に戻し、とりあえず南の河岸によって上陸した。それから被害状況を確認した。
ゲランダンの班も上陸していたが、彼は難しい顔をしていた。
「また一人やられた」
これで彼の班は、合計三名の犠牲を出したことになる。
河岸に寄せられたアフリーのボートの上には、逃げ遅れた二人分の遺体が転がっていた。しかし、その凄まじいことといったら。目にしたラピは、悲鳴をあげかけて息を止めた。
彼が虫に取り巻かれていたのは一分にも満たない時間だったはずなのに、まるで干物みたいになっていた。血の気がまったく失せていて、皮膚が骨に張り付いているようだった。全身の体液を吸われてしまったらしい。表情には、死に至る恐怖がありありと刻まれていた。急激に失血したせいでショック死したのだろう。
ちなみに、もう一人分の遺体はというと、ベルムスハン村の生き残りの女だ。分配された分を、いわば宿営時の気晴らしのためにと連れてきていたのだ。
「あれは」
「吸血虫と俺達は呼んでいる」
大森林の探索における、最悪の脅威の一つ。それが吸血虫だという。なんといっても雲のように迫ってくるので、一匹ずつ叩き潰してもキリがない。そして吸血の勢いは凄まじく、またその虫の口器の鋭さは衣服をも貫くので、あっという間にこうなってしまう。
この吸血虫、実は大型の魔物より恐ろしい。ケフルの滝付近にグリフォンが現れるのは稀だというが、その理由の一つがこれだ。普段、グリフォンはもっと高地に居座っている。餌を探す時だけ地上に降りてくることがあるそうだが、普段は岩壁の上に身を置いている。森の近くまで行こうものなら、図体の大きい彼らは、吸血虫の絶好の的になってしまうからなのだとか。
前世の蚊柱はこんな物騒なものではなかった。あれは羽虫が交尾するために集合するものだった。この世界の大森林では、動物を食い殺すために徒党を組むのだ。
「蟻と同じで、低いところではあまり見ない。運が悪かったとしか言いようがないな」
「不運、か」
「いや、まぁそれをいったら、川底にあれだけのお宝があったんだ。これで帳尻があったと考えれば、変でもない、か」
あんな厄介な虫けらがいるとなると。これでは赤竜などに体を入れ替えて、大森林の上空を飛び越える、なんて離れ業なんかできなかった、か。運が悪ければ、取り巻かれてあっという間にやられてしまう。
いや、逆に考える。吸血虫の存在があればこそ、俺達は悠々と探索を続けられるのだ。でなければ今頃、この辺にグリフォンの群れが大挙して押し寄せてきていただろう。むしろ空を飛ぶ魔物があまりいなかったことに疑問を抱くべきだった。
「空からでは、大森林は攻略できない……」
「そりゃあ、そんなことができるんだったら、金かけて飛竜にでも乗りゃあ、あっさり奥地に行けるってことだしな。やれるもんならとっくにやってるだろ」
ゲランダンが顎で指図すると、彼の配下達は装備を取り外してから、水分を失った体は死体を河に放り込んだ。それは最初、少しだけ浮いていたが、口の中から水が入ったのか、みるみる沈んでいく。そして緩やかに下流へと流されていった。
「さ、行くか」
それだけだった。
俺達はまた元通り、河の中央に漕ぎ出して、上流を目指した。
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