河の底は素敵なところ

 灰色の空と灰色の水面。代わり映えのしない水音。川幅はやたらと広く、左右を見渡しても何もかもが灰色にかすんでいた。

 入り江のある岩場を除くと、もはや左右とも沼地になってしまっていた。たまに黒土の丘の残骸のような中州が視界に入るのだが、それもあって俺達はケカチャワンの真ん中を突き進むしかなかった。浅瀬に乗り上げてボートの底に大穴が空いたら、面倒では済まない。


 今日にもルルスの渡しに到着する見込みだ。

 これまで南側の陸地のほとんどは低木がまばらに生える湿地帯ばかりだった。そこは蚊の巣窟で、魔物も少なからず出没する。日中に琥珀や水晶を掘るとか、薬草を探すといった目的があるならともかく、夜間に近づくメリットはまったくない場所だ。

 対岸はずっとそんな感じなのだが、そんな中で最初に見つかる南側のまともな上陸地点が、そのルルスの渡しなのだ。渡しと呼ばれてはいるが、今度は北側の対岸が沼地になっている。そこから北上して黒土の森林地帯に入るには、丸一日は歩かなければいけないという。


 実はそこを突っ切るつもりだったのなら、ボートはなしでもなんとかなった。


 ルルスの渡し付近は、いくつかの支流の合流地点となっている。どうもここよりもっと南側、湿地の広がる向こうにもう一つ、ケカチャワンの流れがあるらしい。それが北に蛇行して、横合いからこちらに流れ込んできている。

 そちらを船で遡るのも不可能ではないのだが、あまり探索が進んでいない。南向きの水路を移動する場合、帆が利用できない。河の東側はずっと沼地で、そちらには上陸が難しい。水の澱みも結構なもので、飲料水を得るのにしっかり濾過しないといけない。


 では、西の上流はどうなっているかというと……上陸地点の西側すぐに、ちょっとした落差の滝がある。だから俺達は、上陸してボートを手で運んで、滝の上からまた、遡行を続けることになる。但し、ペダラマンの班は、ここで宿営地を築いて離脱するのだが。

 この、ルルスの渡しから先の上流域は、川幅は広いのに水量はさほど多くない。そのせいもあって、上流域の雨量によって川幅が大きく変化する。そしてこれこそが、平底の船を使わない理由だ。ひどいときには、本当にボート一隻分の川幅しかなかったりして、そういう状況では、みんなが左右に立って河原の石を踏みながら、ロープでボートを曳くということもあるらしい。

 それくらい水量が少なくなるので、北から沼地の横断に成功したのなら、天候次第で南側に渡りきることも不可能ではなかった。ただ、労力と危険を考えるなら、やはり割が合わない。第一、先頭の班は横断できても、あとから物資を補給する他の班がしくじったのでは、ありがたみがないというものだ。

 一ついいことがあって、このルルスの渡しから先の上流からは、水が少しだけきれいになる。そのまま飲むのはまずいが、状態次第では汗を流すくらいには使えるという。


 快適だった河の旅も、そろそろ飽きつつある。単調すぎたからだ。とはいえ、これが終わったらまた、森を歩くことになる。これまでの入り江の宿営地は割合安全だった。蚊もこないし、テントを高所に構えておけば、増水に際してもさほどの危険はなかった。だが、ここから先はそうはいかない。だだっ広い河原に陣取れば快適そうだが、夜中に増水する危険を考えると、やはり森の中に宿営せざるを得ない。虫や小動物、魔物との接触を避けられなくなる。


「おっ? なんだ、もう着くのか?」


 ジョイスが怪訝そうに言った。

 先頭をいくアフリーの船が右に逸れた。といっても、川幅は少なくとも数百メートルはあるのだ。こうしてボートの中に腰を落ち着けていると、対岸はまだまだ遠くにあるとわかる。


「暗礁に乗り上げないために道を変えたのかもしれない」


 となれば、後に続く俺達も同じルートを進むべきとなる。先頭に座るフィラックも、こちらに振り向いて、頷いた。


「みんな、右に寄せるように」


 方角を南西に取り、俺達は示された方へと漕ぎ始めた。


「ねぇ」


 しばらくして、前に座るノーラが呟いた。


「何か、聞こえない?」

「何かって」

「女の人の声みたいな」


 女の声といっても、聞こえるとすればすぐ前を走るタウルのボートくらいしかない。そちらにはラピとシャルトゥノーマが乗っている。


「ちょっとよくわからないな」

「ジョイスは? 聞こえる?」

「……あん?」

「ジョイス、何か聞こえるか」


 二度、声をかけられて、やっと彼は我に返った。


「あ、ああ」

「聞こえるかって言ってる」

「ああ、聞こえるぜ」

「じゃあ、僕だけか。女の声が聞こえないっていうのは」

「はぁ?」


 反応がどうもしっくりこない。会話が噛み合っていない。さっきの質問が聞こえてなかったか?


「今、僕はお前に、何か聞こえるかと尋ねたんだ」

「だから、お前の声は聞こえてるって言ってんだろ」

「じゃあ、ノーラが言うみたいに、女の声は聞こえるか」

「はぁ?」


 やはり聞こえていないらしい。

 なら、何か変な音がないか、俺自身が確かめればいいだけの話だ。俺は手っ取り早く『鋭敏感覚』の呪文を詠唱して、再度耳を傾けた。


「……聞こえた」

「何がだよ、おい」


 しかし、女の声といっても、ラピとシャルトゥノーマの会話ではない。もっと遠くだ。まるで女声の合唱団みたいなのが、この河の向こうで練習しているみたいな。


「何を言ってるかわかる?」

「いや、全然」

「ペルジャラナン、何か聞こえる?」

「ギィイ」


 彼には何も聞こえなかったらしい。


「イーグー?」

「へぇ? 若旦那、なんですかい?」

「いや、いい」


 聞こえたのは俺とノーラだけか。いや、まだ一人、確かめてない。


「フィラック?」


 彼は俺達の会話に加わることもなく、淡々と櫂を漕いでいた。そして声をかけられても、返事をしなかった。


「フィラック、何か聞こえる?」


 何かどころか、俺達の声すら聞こえていないかのように、彼は黙ったまま、ひたすら前を目指していた。


「フィラックさん?」


 ノーラが手を伸ばし、片手で肩に触れる。だが、それでも彼は振り向かなかった。


「ノーラ!」


 異変に気付いて声をあげた俺に、ジョイスは面倒そうに溜息を洩らした。


「なんだってんだよ」

「暗示だ! 多分何か、精神操作魔術にかかってる。止めないと」

「うん」


 俺は後ろに振り返った。


「みんな、漕ぐのをやめるんだ! 僕らは引き寄せられている!」

「で、でもよ」


 目の前をいくタウルのボートとは、少しずつ距離が開いていく。と同時に、後ろからやってきたペダラマンのボートが俺達を追い抜いていく。


「これは、確かにこのままじゃ」

「俺達は助かってもよ、みんなどこに連れていかれちまうんだ?」


 その時、ノーラが詠唱を止めた。


「はっ!?」


 今更、目を覚ましたかのようにフィラックが動きを止めた。


「起きましたか? 今、何が聞こえていました?」

「わ、わからない……けど、なんだか、呼ばれているような」


 彼は急に呼び覚まされたせいか、状況についていけず、キョロキョロしている。


「あっ、おいていかれてるぞ、追いつかないと」

「待って」

「いや、ノーラ、追いつこう。このままだとみんなが……ゲランダンなんかどうでもいいけど、タウルの船に乗ってるみんなが危ない」


 そうだ。こちらはもう目を覚ましている。術を破っている。なら、むしろ最初に術者のところに駆けつけるべきだ。


「全力だ。みんなを追い抜こう」

「つっても、距離空いちまったぜ」

「今、なんとかする」


 俺は手で印を組みながらやや長い詠唱を始めた。『鼓舞』の術だ。


「よし、追いつこう」


 まだフィラックあたりは状況を把握しきれていないようだったが、俺が強い口調でそう言うと、逆らわなかった。

 そこから俺達は、水飛沫をたてつつ、先に進んだボートを猛追した。先に俺達を追い抜いたペダラマンのボートを追い抜き、なんとかタウルのボートに並んだ。


「おーい!」


 声をかけると、二人だけ振り向いた。アーノとシャルトゥノーマだ。


「どうした!」


 俺達の様子に尋常ならざるものを感じて、アーノが返事をした。


「みんな、正気か! 正気ならこっちを向いてくれ!」


 この呼びかけは、正気でない仲間のためというより、正気を保っている二人が異常に気付くために必要だった。

 アーノはハッとして、すぐ前に座るディエドラの肩を揺さぶった。だが、彼女は無心に櫂を漕ぐばかりだ。彼のやり方には遠慮がなかった。いきなり彼女の側頭部に拳を叩き込んだのだ。

 離れた場所からでもはっきりと彼女の悲鳴が聞こえた。だが、それでディエドラは櫂を手放し、恨めしそうな目でアーノを睨みつけた。


「今、起こす」


 ノーラが手早く詠唱すると、タウルがまず、漕ぐのをやめた。クーとラピは、半ば放心状態で櫂を掻き回しているだけだったが、これでほぼ、推進力はなくなった。それもすぐノーラが目を覚まさせた。


「みんな、何かおかしい。どうしてこっちに」


 だが、俺が何かを説明しようとした時、前方の変化に気づいたシャルトゥノーマが話を遮って前を指差した。


「あれを見ろ!」


 少し離れた水上には、先頭を進んでいたアフリーの船があった。それが動きを止めている。ここからだと、陽光の影になって黒いシルエットだけが見えた。

 形がおかしい。細長いボート、櫂、乗員……では、ボートの右にとりついているものは、いったいなんだ?


 そう思った瞬間、ぐるんと一回転して、ボートがひっくり返った。


「敵だ!」


 俺は立ち上がり、前を指し示した。

 だが……


「ファルス!?」


 ノーラの悲鳴で、すぐ足下を見た。

 ボートの縁に、そいつはとりついていた。水色の肌をした女。髪の毛の色も同じ。裸の上半身にもところどころ鱗がついていた。耳にも手にも水かきがあった。目だけが赤い。口元は笑っているかのように醜悪に引きつっていた。


「しまっ」


 次の瞬間、俺達のボートはひっくり返ってしまっていた。

 濁った水の中に落とされた俺は、一瞬、焦りを感じた。仲間が……すぐ思考を切り替えた。まず自分を救う。それからみんなを助ける。順番だ。水中を脱するのが先。泳ごうとするより、ボートを掴んで水上に出るべきだ。

 次。敵は俺達を水中に落として、何をしたい? 意を決して、水中で目を開ける。透明度の低い水の中だが、斜め下に例の水色の女がいるのがわかった。結構な距離があいている。手には粗末な石器の槍があるが、こちらに向かってくる気配はない。

 こうして全身を見て、やっと相手の正体がわかった。下半身は人の足ではなく、鱗のついた尻尾になっていた。こちらの世界の人魚といったところか。


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 メネンギャラン (25)


・マテリアル デミヒューマン・フォーム

 (ランク5、女性、25歳)

・アビリティ 破壊神の照臨

・アビリティ 水中呼吸

・アビリティ 悪食

・アビリティ マナ・コア・水の魔力

 (ランク5)

・アビリティ マナ・コア・精神操作の魔力

 (ランク5)

・スキル メルサック語  3レベル

・スキル ルー語     3レベル

・スキル 槍術      3レベル

・スキル 水魔術     5レベル

・スキル 精神操作魔術  5レベル


 空き(15)

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 間近にいるのはこいつともう一匹だが、それぞれのボートの下に、この手の人魚が潜んでいた。合計で十匹ほどか。

 そしてこいつらの戦術は、こうやって精神操作魔術で川の深いところの真上におびき寄せて、一気に船を沈めて乗員を川底に引きずり込み、溺死させるというものらしい。だから接近戦を挑んでこないのだ。


 そこまで理解した時、俺は水上に出るのを諦めた。目の前の人魚は、俺を川底に引っ張ろうとしている。水魔術の使い手相手に、対抗手段もなく泳いで這い上がろうとしても、思うつぼだ。

 逆に俺は、流れに逆らわず、一気に下を目指した。その動きに驚いた人魚だったが、それならと槍を突き出す。接近戦になれば、難しいことはなかった。剣を引き抜き槍を受け流すと、左手で掴んで引き寄せた。避ける間も与えず、剣がそいつの胸を刺し貫く。

 だが、水中では俊敏には動けない。もう一匹が横から迫ってくるのを避けることはできなかった。


 念じた瞬間、その人魚は、赤い種になった。主をなくした槍は、あらぬ方へと漂っていく。俺は水中でもがきながら手を伸ばし、なんとかその種を掴んだ。

 近くにいた人魚を倒し切ったおかげか、下へと引きずり込まれる力はなくなった。それでも、水面がかなり遠く見える。そろそろ息苦しさを感じていた。


 その時、下に向かってジョイスが勢いよく泳いでくるのが見えた。俺が溺れたのだと思って助けに来たのだろう。乱暴に俺の手を取ると……急にあり得ないほどの勢いで水面へと吸い込まれていく。


「ぶはっ」


 水上に投げ出されて理解した。これも神通力の応用だ。『壁歩き』の能力を、どこかの斜め上の方向に設定したのだ。ただでさえ水には浮力がある。それに加えて、逆向きに作用する重力を得られれば、泳がずとも水面に出られるのだろう。


「ファルス!?」

「ノーラ、みんな無事か」

「ギィ」


 ペルジャラナンはずぶ濡れになって、ボートの竜骨の上にしがみついていた。


「イーグーさんが」


 舳先にいたフィラックは、咄嗟に船にしがみつくことができたらしい。ペルジャラナンはまったく泳げなかったが、イーグーに救出された。ノーラもジョイスが引き上げた。俺だけが深みに引きずり込まれたが、そこでボートをひっくり返した二匹の人魚を始末した。


「ノーラ、慌てず一匹ずつ、毒で」

「わかった」


 幸か不幸か、奴らにとっての仲間を殺した俺には、狙われる理由があったらしい。次々に水色の頭が水面に出てくる。それがそのまま標的になった。数秒後に、ものも言わずに人魚は苦悶の表情を浮かべ、そのまま腹を上にして水面を漂った。

 五匹くらいが犠牲になったところで、俺達を取り巻く人魚はいなくなった。


 安全になってから、被害状況を確認した。

 タウルのボートは転覆させられずに済んだ。ゲランダンとディアラカンの乗るボートも無事だった。ペダラマンのボートも、俺達の後にやってきたのもあって、被害を受けずに済んだ。最後尾にいたケジャン村のボートにも、損害はなかった。だが、それ以外の三隻が転覆させられた。

 俺の班には犠牲者はいなかったが、ゲランダンの班、アフリーの船に乗っていたうちの二人は、川底で見つかった。ペダラマンの班でも、一人が死んだ。


 問題は、水中深いところに沈んだ荷物だった。今後の探索に必要な食料や道具だ。いくらかは諦めなくてはいけないにせよ、できる限り引き上げるしかない……この時は誰もがうんざりした顔だった。

 それが一転したのは、水中から戻ってきたアフリーの報告があったからだ。彼は水からあがると、ゲランダンに何か耳打ちした。するとゲランダンは満面の笑みを浮かべた。


「お前ら、潜るぞ! 河の底はお宝だらけだ!」


 ちょうど南側からの支流の合流地点だったここは、人魚達の狩猟ポイントだったらしい。俺達に先立って、運悪く人魚に目をつけられて、ここで船を沈められた連中がいた。その彼らが集めた水晶や琥珀、発見した黄金が見つかったのだ。

 こうしてその日は、丸ごとサルベージ作業に追われることになった。ゲランダンとペダラマンは、金塊や水晶の原石を回収できてご満悦だった。


 なお当然ながら、犠牲者の遺体は誰にも見向きもされず、そのまま放置された。

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