人面魚
翌朝、目が覚めた時に目にしたのは、テントの布と目の前の断崖絶壁に区切られた青空だった。
相変わらず入道雲が多いものの、灰色の雨雲はきれいさっぱりいなくなっていた。昨日みたいに、けじめなく続く小雨に濡れながら櫂を漕ぐのは気持ちのいいものではなかったから、これは素直に歓迎できることだと思った。
アワルは河の遡行は森を歩くより楽だと言っていたが、それは事実だと思う。
まず、この宿営地だ。何がいいかって、蚊がいない。だからテントを密閉する必要もなく、夜中に寝苦しさで目が覚めることもない。みんな頭上に布を張っただけで、風の通る場所での快適な睡眠を満喫した。
移動にしても、ボートの機動力が素晴らしい。推進力を得るのに腕力だけに頼るのはつらいのでは、と思っていたが、実際には帆の存在が大きかった。単純に物理的に考えて、水面の上を滑っていくのは、地面の上で荷物を背負って歩くより、摩擦が小さい。森の中にみられた起伏もないのだから、尚更だ。
今日はこのテルクの入り江から、次のランジュの入り江まで進む予定になっている。そこがどんな場所かはわからないが、とにかくここは朝のうちは日差しも入ってこないし、快適そのものだった。これなら旅程も捗るというものだ。
心なしか男達の掛け声も明るく、また前日のように順番にボートを河の半ばに押し出すと、そこで帆を立てて風を受けつつ遡行を続行した。
やはり青空が見えると、自然と気分も違ってくる。ずっと緑のドームに頭上を覆われ、しばしば重く垂れこめる雨雲が地表を暗くしてきた。それが今では、真夏のリゾートのような爽やかさだ。
河の流れに逆らって先に進むので、舳先は勢いよく白波を蹴立てて水面を引き裂いていく。そこでゆっくりと櫂が水面を打つ。水を掻いてボートが前に押し出される瞬間、濁った河の水の中で、小さな泡が弾けていく。ボートの縁から水面を見やると、面白いようにスルスルと前に進んでいくのがわかる。北側の断崖絶壁を左手に見ながら、着実に前に進んでいるのが実感できると、なんとなく陽気な気持ちにさえなる。
けれども、目を転じて右側を見ると、そこには代わり映えのしない沼地が延々と続いているのがわかる。それもかなりの遠くで、水面近くを滑っている俺達からすると、いまいちはっきり見えない。
「あちぃな」
後ろに座るジョイスが溜息をついた。
楽だと感じていた河の遡行だが、時間経過とともに、別の苦しみがあるとわかってくる。
「袖のある服を着たほうがいい」
「しくじったな。暑いからって脱いでると、焼かれそうだ」
蚊もおらず、暑いから、気持ちいいからという理由で上半身裸でボートに乗ったジョイスだったが、そのうちに太陽はぐんぐん高度を上げ、水面を高温多湿の地獄に変えつつあった。だが、何より厳しいのは、その直射日光が肌を焼くことだ。
「荷物は出せないし、今日は我慢だな」
「マジかよ」
なお、彼の武器である金属の棒も、重さが相当あるので今は荷物に纏められてしまっている。
「あのフード、貸してくれねぇかな」
ジョイスが、先行する俺達のもう一つのボートに乗るシャルトゥノーマに目を向ける。彼女は森の中を歩いている時も今も、変わらずフード付きマントをかぶったままだ。
「無理だ」
「くっそー、あれ絶対便利だろ」
「そこはそれ、大森林にずっといた冒険者ならではだ。何が役立つかを身をもって知ってるんだろう」
髪の毛に巣食う虫を寄せ付けない薬とか。彼女の知見をもう少し活かすことができれば、この探索はもう少し快適なものになっていた。
「暑い」
俺の前に座るノーラが、珍しく声を漏らした。
「そりゃあそうだろ」
黒竜のローブをかぶったまま。上からサーコートを羽織ってはいるので、ローブが太陽光を吸収しまくって蒸し焼き、ということはないのだが、それにしたって暑くないはずはない。砂漠と違ってこちらはじめじめしているので、暑苦しさではずっと厳しいものがある。
「水を飲むんだ。気分が悪くなったら早めに言わないと」
熱中症で倒れるなんて、冗談じゃない。
「明日からローブは脱ぐ。こんなに暑いなんて」
間抜けといえばそうなのだが、昨日は小雨が降り続いてむしろ肌寒いくらいだったし、今朝は今朝で梱包し直す時間がなかった。今日、ランジュの入り江に着いたら、真っ先に対策しないといけない。ジョイスは長袖の上着、ノーラはローブを荷物に詰める。
それにしても……
朝のうちは左側の景色が切り替わるのが楽しみではあったが、昼近くなってくると、そうも言っていられない。ひたすら暑いし、水面の変化は単調だし、水と波の音にも代わり映えがない。だんだんと気が遠くなってくる。
「ギィィ」
最後尾に座るペルジャラナンの声も、心なしか元気がない。暑さより湿気がつらいのだろう。
最前列に座るフィラックが振り向いて、声をかけてきた。
「ははっ、みんなバテてるな」
「そりゃあ旦那、こんなに暑苦しいんじゃ」
「ギィ、ギィ」
はて?
話に割り込むようにして声をあげたペルジャラナンに、違和感をおぼえた。
その瞬間。
「伏せろ!」
俺は反射的に前に座るノーラを突き飛ばし、自らも上半身を伏せた。
撥ね上げられた大きな水滴が頭上から叩きつけられる。それらは乾ききったボートの床板に、乱暴に線を描いた。
「今のは?」
「魚?」
何かが水面から突然、飛び出してきたということしかわからなかった。
ペルジャラナンは、何かが近くにいると気づいて、警告の声を発していたのだ。そしてまさに、俺とノーラのいる場所をめがけて、そいつは身を躍らせて食いつこうとしてきた。
「うへぇ、なんだありゃ」
「気をつけろ。驚いてる場合じゃない」
俺はそっと腰の剣を抜いた。とはいえ、ここは揺れるボートの上、しかも考えなしに武器を振り回せば、周囲の仲間に当たるかもしれない。
見ると先行するボートも、みんな漕ぐのをやめてしまっている。代わりに彼らは、予め用意しておいた武器を、座ったまま構え直していた。
なるほど、槍、か。
陸上の戦闘では、突くという動作は一撃必殺で、隙も大きい。だが、動ける範囲の限られるこの船上では、誤って仲間を傷つけないという意味でも、非常に扱いやすい。
前から何事か叫んでいるのが聞こえる。だが、何を言っているかは聞き取れなかった。
なんにせよ、あの魚みたいな魔物が襲ってくるから、撃退するまでは下手に動くなと、そういう話なのだろう。
「ファルス」
前からノーラが咎めるような声をあげる。だが、俺はあえてその場に立った。
この剣では、槍ほどの射程は稼げない。前のボートにいるシャルトゥノーマみたいに弓を使うという選択肢もあったが、どうせ狙えるのは相手が水面から顔を出しているときだけ。それなら自分を囮に、あちらが顔を出した瞬間を狙ってバッサリ真っ二つにしてやる。
同じ考えなのか、前のボートでも、アーノがクガネを手に、ボートの上に立っていた。
この状況がいかに深刻なのかは、考えるまでもなくわかる。敵は濁った水面の下に隠れることができる。先手を取れるのは常にあちらで、しかもこちらが船から降りられないのに対し、向こうは水中から水上と、三次元的な機動が可能なのだ。そして、仮に逃げるという決断をしたところで、速度で勝るのもあちらだろう。
同じ魔物が、例えば昨日の砂洲にいる俺達に襲いかかってきたのなら、さしたる脅威でもない。こちらは陸上に撤退できるのだし、恐らくあちらはそこまでは深追いできない。
こういう時、目に頼るのはよくない。前後左右、どこからまたああして飛びかかってくるか。体の力を抜いて、視覚以外に注意を向ける。水音、ボートの揺れ、波の動き……何かの兆候を、違和感を見逃さないこと。
さぁ、どこから……
「うおっと!?」
突如、ガタンとボートが揺れた。
いったい何が? そう思った瞬間だった。
「若旦那!」
イーグーの声で我に返った。
耳の隅に小さく水音が聞こえた。左後ろから。
一瞬で体の力みを抜いて腰を落とし、傾いた体重を右足にかけて立て直す。それから左後ろに向き直って、両手で剣を上段に構えて振り下ろした。
そこに軽い手応えが伝わる。ザクザクと銀色の鱗が裂けていく。魔物の上半身ははっきりと見えなかったが、俺の剣は確かにその怪魚の下半分を真っ二つにした。
背後で力なく水面に叩きつけられる音を聞いて、今の一撃が通用したのを確信した。ダメージが通っていなければ、すぐさま、さっきのように水中に潜ったはずだから。
鋭く振り返り、戦果を確認しようとしたところで、そいつはまた、赤い血で水面を濁らせつつも、潜っていってしまったのだが。
「あ、あれ、なんだ」
ジョイスがあっけに取られていた。
「何が」
「気持ち悪ぃ」
ややあって、さっきそいつが潜った場所にまた静かに浮上するものがあった。それは……人間の顔だった。
「えっ?」
「うえっ」
髪の毛はなく、能面のような顔をしていた。それが口を開けると、どういう仕組みになっているのか、口がどんどん裂けて赤黒い中身が露出する。その内側には、獲物を磨り潰すための白い歯が散りばめられていた。
魚の体に人そっくりの顔。だが、体の前面においては上半身と下半身の間には鱗がなく、そこは口の一部だった。胴体そのものは、人間一人を丸呑みできるくらいの大きさがある。
ようやく魔物の正体を知った俺だが、もう一つ気づいたことがある。
「気を抜くな。まだいるぞ」
最初にボートを揺らしたのと、さっきの奇襲をしかけてきたのは、別の個体だ。つまりこいつらは、集団で活動し、しかも連携して行動できるくらいに賢い。
ノーラは死にかけて口を開けた人面魚に目を向けた。彼女に睨まれたそいつは、徐々に眼の光を失って、水中に没していく。
こうしてはっきり視認できさえすれば、倒すのは難しくない。『変性毒』の魔術にかかれば、こんな魔物は一発だ。しかし、そこに至るまでが簡単ではない。
だが、俺達のボートには次の襲撃はなかった。代わりに、前をいくタウル達に狙いを定めたらしい。
とはいえ、タネの割れた手品のようなものだ。水面に顔を出した瞬間、そこにシャルトゥノーマの矢が突き刺さり、大きく跳ねてアーノに挑みかかったところを、同じようにまたバッサリと両断されていた。
何尾かの人面魚が泡を残して水面に没しても、俺達はしばらくその場で警戒を解くことはできなかった。
次なる襲撃がないとは、誰にもわからなかったからだ。だが、やがて前のボートから出発を告げる声が聞こえてきた。
夕方、俺達は次の宿営地に到着していた。
既にテントも立て終えて、今は鍋に火をかけながら、順番に体の汚れを拭っている。これがまた手間で、淡水とはいえ、ケカチャワンの水はそのままでは汚過ぎて飲用はもちろんのこと、衣服や体を洗うにも使い物にならないので、軽く濾過して加熱する必要がある。だからまず、明日の飲用水の分も含めて水を用意し、それからやっと夕食の準備と清拭の時間となる。
俺達の班を除けば男しかいないので、それはもう、遠慮というものがない。構わず全裸になって体中を濡れた手拭いで清めるのが普通だ。当然、そんなところに居合わせるわけにもいかず、ノーラとラピ、シャルトゥノーマはテントの幕の向こうにいる。なお、ディエドラだけは平然として、絶壁に背をつけて男達の様子を眺めていた。
自分の洗濯と清拭を終えて、あとは鍋が煮えてしまうのを待つばかりとなった俺は、ぼんやりと空を見上げていた。茜色の空に、大きな入道雲が浮かんで、静かに漂っている。地上の喧騒とは対照的な天上の静寂は好ましく、不思議と見飽きなかった。
だが、横合いから声をかけられて、俺は座り直さねばならなかった。
「ファルス、と呼んでいいか」
そこにいたのは、異彩を放つあの男、ストゥルンだった。浅黒い肌にドレッドロックスの髪型、そしていつでも裸足のままの彼は、俺の向かいにそのまま座り込んだ。
「構いません」
「俺のことを覚えているか。ストゥルンだ」
「もちろんです。サルの群れに襲われたあの夜には、本当に頼りになりました」
その特技を俺が誉めると、彼は肩をすくめた。
「今日は確認にきた」
「はい」
「俺を、大森林の奥を探索する仕事に混ぜてくれるんだよな」
彼が訳ありの男であろうことは、想像がついている。だが、現時点でその申し出を断る理由はない。
「前に了承したかと思いますが」
「ならいい。あー、ただ」
「はい」
彼は俺に尋ねた。
「いや、今回、ゲランダンとペダラマンはベルムスハン村を襲う手伝いをすることになってるんだが」
「そうみたいですね」
「あんたは行かないのか」
「行きません」
何の話だろうか?
「それがどうしましたか?」
「なんで行かない?」
今度は俺が肩をすくめる番だった。
「行く理由があるんですか。恨みもない。そんなに儲かりそうにもないですし」
「儲けはある。それに、村の女も好きにできるぞ」
「興味ないですね」
本当に、それがどうしたというのだろう。
だが、彼はじろりと舐めるような視線を向けてきた。
「行けと言われたら……でも、そういう約束はないので、関わりたくないです」
「戦う腕はあるみたいだが」
「勝ち負けの問題じゃないです。単純に、村を略奪することに興味を持てないだけなので」
すると彼は、何か納得したのか、何度か頷いた。
「じゃあ、奥地で何を探すんだ」
「誰も見つけたことのないようなもの、でしょうか」
「ほう」
「魔王の遺物とか、そういう何かです」
すると彼は、皮肉めいた笑みを見せた。
「そう簡単に見つかるものか」
「見つからないかもしれません。あてがあって来ているのではないのです。でも、できる限りは頑張ろうと」
「なるほどな。わかった」
彼はまた頷いた。
「俺もああいう略奪は好きじゃない。今回もいかない」
「許されたんですか、それは」
「ああ」
いまいち彼の質問の意図が掴めなかった。だが、彼は彼で、何か納得してしまっている。
なんにせよ、ストゥルンが俺にとって大きな脅威になる可能性は、そうはなさそうだ。今、無理やりあれこれ聞き出さなくても、あとから話を聞けば済む話でもある。
「そういえば」
それに他に気になっていることがあった。
「せっかくなので教えて欲しいんですが」
「なんだ」
「僕は大森林に来て間もないので……その、監督官のディアラカン様について、何かご存じですか」
「なに?」
彼が訝しげな表情を見せたので、俺は言葉を添えた。
「先の合流地点から出発する前に、話しかけられたんですよ。必ず結果が求められるものと心得よ、とか、それしか言われてないんですが」
「ふうん」
ストゥルンは腕組みして、頷いた。
「もしかすると、地位が危ういのかもしれんな」
「そんなことがあるんですか」
「当然だろう。ウンク王国は実力主義だ。運よく地位を得ても、結果が伴わないとそのうちに降格されたり、解雇されたりする」
してみるとディアラカンも、クビが落ちそうなのかもしれない。俺の無謀な探索計画に同行すると決めたのも、昨日考えたように崖っぷちだからなのか。
「今回も何人か死んだからな。監督官の点数になるのが、まぁ、間引かれた魔物の数と、新規ルートの開拓と、あとは指揮した班の獲得物の稼ぎの総額だな。逆に減点されるのが、犠牲者の数だ」
「なるほど」
「ま、俺達の知ったことじゃないだろう。こっちはこっちでこっちの仕事をするだけだ。そうだろう?」
「ですね」
それだけ言うと、ストゥルンは腰をあげた。
「あと二日ほどでルルスの渡しだ。そこからは頼むぞ」
「ええ」
彼は手を振ると、そのまま歩き去っていった。
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