大河ケカチャワン
纏わりつくような小雨がずっと降り続いていた。
珍しく緑のドームの途切れる場所に差しかかっていた。濃淡のある灰色の空には動きがなく、雨雲はじっとこの場に留まるばかりだった。足下は下り坂で、例によって黒い土が続いていたが、しばらく見かけなかった巨石が丘の狭間の谷間に転がっていた。
誰もが無口だった。雑談など、できる雰囲気ではなくなっていた。
原因は、半分くらいは俺にあると思う。ラピが襲われかけたあの日、俺はタウルに向かって苛立ちをぶつけてしまった。こんな腐った連中と一緒に行動して何の意味があるんだ、と。
だが、タウルにも言い分があった。その人間のクズどもが全面的に敵に回らずに済んでいるのは、ゲランダンやペダラマンといった連中を伴っているからだ。それにまた、探索活動に必要な物資の運搬その他にも、人の手が必要だ。もしこの分を自分達だけですべて賄おうとしたら、もっと大変なことになっていた。船も食料も自分で運ばねばならない。途中で物資が不足したら、自力で採取する必要にも迫られていたはずで、その都度いちいち足が止まっていた。要するに、どれほど不愉快な連中でも、大森林の顔役達を仲間に引き入れたのは、活動する上では正しかった。
そんなことくらいわからない俺ではない。だが、実際に起きたことがひどすぎた。
それに正直、こんな連中だとわかっていたなら、別のやり方を考えていただろう。能力も役割も期待しない十人組をもう一班雇って、マンガナ村まで同行してもらい、そこで解散。俺達だけで行方不明になればいい。食べられるものはタウルが判別できるだろうし、あとは力で押し渡ればいい。ケジャン村など、本気でやれば俺一人で廃墟にできた。そうしてしまったほうがよかったのではないか。
あとは中身のない口論になってしまい、結局、具体的な改善案も何もなく、みんな気分を損なっただけでおしまいになった。
ただ、俺の内心に引っかかっているのは、それだけではない。
言葉には出さなかったし、出せなかったが、このところ俺の見ていないところでタウルはよくラーマとつるんでいる。ゲランダンの意のままに動いているだろうラーマとだ。だが、何を話しているかは訊いていない。今の状況で確認するのは、余計に話をこじれさせかねないからだ。
彼の心を覗きたければノーラやジョイスに頼めば済む。しかし、それをまた言葉にして彼らに頼むのも憚られる。特にジョイス辺りに言おうものなら、却って藪蛇になりかねない。俺だって秘密を抱えている。能力のこと、使徒のこと……
秘密と言えば、俺の周囲も秘密だらけだ。
イーグーの正体は? 冴えない下級冒険者のオッサンなんて、ただの仮面でしかない。
シャルトゥノーマは、亜人のくせにどうして人間の冒険者の中に混じっているのか。
そういえば、ゲランダンにも秘密があった。バジャック・ラウト。それが彼の本名だ。
なんだか、歯車が噛み合っていない。
それに、計画外の出来事も勝手に進行している。
後に続く二十人近い男達がいる。大抵、上半身は裸で、手には槍を持っている。弓と矢を携えているのもいる。彼らは、ケジャン村の男達だ。
俺がいない場所で、ゲランダンとペダラマン、それに代理で打ち合わせに出席していたタウルが決めてきたらしい。ルルスの渡し付近にベルムスハン村というところがあって、そこの住人とケジャン村の連中とは敵対関係にあるという。そんな中、俺の班を除いても二十人以上の戦力が合流してくれた。ケジャン村としては、援軍として活用しない手はない。
要するに、敵対する村への襲撃に、ゲランダンとペダラマンの班は協力する。俺達の班は任意参加ということらしい。そしてもちろん、この計画を、監督官のディアラカンは承認している。
別に驚くようなことでもない。そういう現地の争いに介入するからこそ、捕虜という商品を獲得できるのだから。ここでは、これが日常なのだ。
ただ、同行する班がそれをするということは、俺達もその活動に加担しているも同然だ。多分、殺人や強姦が繰り広げられるのだろう。その責任の一端は、俺にもあることになる。また、最悪の事態も想定しなければならない。彼らが敗北して、俺のいる宿営地まで撤退してきた場合、敵対した村の連中を撃退するために、俺も戦わなくてはならなくなるだろう。
そうしたことを思うと、なぜタウルが断固拒否しなかったのか……いや、拒否できなかったのも理解できるのだが、どうにも不信の念を抱かずにはいられなくなってくる。
俺の後ろでは、雨に濡れて冷えた体に鞭打ちつつ、クーとラピが必死になってついてきていた。俺達からはぐれたら、今度こそどうなっても不思議はない。そのことを思い知った。相手が人間でも、助けを求めることはできない。本当に、俺やその周囲の誰かでなければ、むしろ危険を増すばかりなのだ。
不意に前方から、口笛の音が聞こえてきた。先を進むペダラマンの班の男達が、喚声をあげている。
気づくと斜面は終わっており、足下はずっと平坦になっていた。立ち並ぶ暗い緑色の木々の狭間を抜けると、水音が耳に着いた。
「河岸に着いた」
槍を杖代わりに突き立てたペダラマンは、少し嬉しそうに、珍しく気の抜けた顔で俺にそう告げた。
「あれが目印だ」
槍の穂先で指し示したのは、川岸にある大きな岩だった。
それは不思議なほど四角い形をしていた。だいたい長方形なのだが、ただ、岩の上の部分だけは凸凹が目立っていた。そっと触れてみると表面はツルツルだが、何か刻み込まれたような線が入っている。指でなぞってみると、円と直線の塊だった。凸凹の高い位置に円が描かれていることが多く、その円を繋ぐように線が引かれているように見えた。ただ、それも絶対ではなく、直線と直線が交差していることもあるし、線が途切れていることもあった。
「これ、顔?」
ノーラに言われて気づいた。
この巨岩の横の面、うっすらとだが、平べったい人の顔のレリーフみたいに見えなくもない。ただこちらも、長年風雨にさらされたせいか、摩耗していて確かなことはわからない。
これもイーヴォ・ルーの遺物だろうか?
それとも統一時代以後に残されたものなのか。或いは割と最近、大森林に潜るハンター達が、何かを記録するために印をつけたり、単なる目印として彫刻を施しただけなのか。
これだけではまだ、なんともわからない。
「ボート運べ! こっちだ!」
いつの間にか、ペダラマンはここより一段低い、砂洲のところまで降りていた。ここからだと二メートル以上の差がある。近くの木々が押し流されずに残っているこの位置からすぐ下は、ちょっとした崖みたいになっている。これはつまり、この落差ができるくらいの高さまで、川の流れが押し寄せることがある、ということだ。
ペダラマンの立つ場所へとアワル率いる人足達が荷物を運んでいく。俺はそこから視線を外して、ゆったりと流れる濁流に目を向けた。
大河、とは聞いていたが……
雨のせいか、対岸がはっきりと見えず、灰色に霞んでしまっている。微かに低木の翳のような濃い灰色の輪郭がポツポツ見えるだけで、それもやたらと小さい。この川幅、どれくらいあるんだろうか。目測では正確に判断できそうにない。少なく見積もっても、数百メートルはある。もしかすると、もっとか。
流れはごく緩やかだ。水の透明度は低い。僅かに黒土を溶かし込んではいるが、ほぼ灰色に見える。
この対岸にあるのは、だだっ広い湿地帯だ。話に聞いているだけだが、たまに琥珀が見つかったりもするという。どちらにせよ、今回はここから東に遡行する。
「帆を立てろ!」
緩やかに西風が吹いている。この時期はいつもそうなので、ボートに帆を立てることで、漕ぎ手の負担を減らすことができる。こちらまで戻るときには、今度は帆を立てずに川の流れに従えばよい。
自分達の乗るボートに荷物を移して出発する準備をしないといけない。俺達は目を見合わせると、砂洲まで降りていった。
「ファルス様」
下まで降りると、既に先に来ていたアワルが声をかけてきた。
「俺達はここで引き返す。河を遡るのは、森を歩くよりつらくはない。だけどこの先はずっと危ない場所になる。魔物も当たり前に出るようになる。気をつけて欲しい」
「ありがとうございます。アワルさんも、お気をつけて」
それだけで、彼は頷いて背を向けた。
まだ彼には仕事が残っている。生き残った十四人の人足をケジャン村まで連れて行き、まもなく追いついてくる別動隊の到着を待つ。その別動隊の引率で、彼らは関門城まで引き返すのだ。
よくよく思い返してみると、大変なようで、ここまでの道中、そこまでの危険はなかった。『人食い』に狙われたり、サルのフンのせいで虫やネズミ、巨大コウモリの集団に襲われたりはしたが、魔物相手の本格的な戦闘に至ることはなかった。
むしろ道の起伏、降りしきる雨、常に体中がべとつくこの湿気、耳元をかすめる蚊の羽音……それらが俺達を消耗させていった。だが、多分この先は、それに加えて魔物も姿を見せるようになるのだ。しかも、あちらは地の利を生かしてくる。迷宮の中の魔物みたいに、ある程度出現が予期される状況からヨーイドンで戦闘が始まるならいいが、きっとここではそうはいかない。生存のために獲物を捕食する彼らは、恐らく常に環境の中に我が身を埋もれさせて、目立たないように奇襲を仕掛けてくる。それも、必ず弱いものを選んで狙うだろう。
「ファルス、グズグズするな」
今日、初めてタウルが口をきいた。
「ここは歩いて降りられる場所だから、荷物の受け渡しに使う。でも、水量の変化が激しいから、ここでは宿営できない。ここから東に遡ると、宿営できるところがそんなにない。雨だが、手近なテルクの入り江まではいかないといけない」
「入り江?」
小雨に濡れた顔を振りながら、彼は答えた。
「もっと東に行くと、北の川べりはほとんど断崖絶壁になる。南側はほとんど沼地。そんなところでは寝られない。平底の船なら碇を下ろして川の上で休むこともある。だけどそれではルルスの渡しの向こうには行けない。だから、絶壁の狭間にある場所を使う。そこなら、ボートも流されにくい」
「わかった」
とにかく、俺がしっかりしないといけない。タウルと俺がギクシャクしているのは、みんなわかっている。
まずラピは先の事件の当事者だし、クーは村に放火するという強硬手段をとってしまったことに罪悪感を抱いている。二人とも、自分のせいで雰囲気が悪くなったのだと受け止めるだろう。
それに、この居心地の悪さは、シャルトゥノーマやアーノにも伝わってしまっている。彼らとは、更に希薄な関係性しかない。中核であるべき俺達が動揺すれば、彼らもまた身の振り方に困ってしまう。
「イーグー、今は荷物はそのままでいい。ここで仕分ける時間はない。いいから箱のまま、別々のボートに載せてしまおう。入り江についてから、中身を整理すればいい」
「へぇ、わかりましたです」
今は小雨で水位にも大きな変化がないが、思わぬ天候の変化も考えられる。なるべく早めに、安全度の高い宿営予定地に向けて出発すべきだ。
フィラックに手招きされるままに、俺は細長いボートの前から三番目に乗り込んだ。
「おっと、ここからは俺達が先なんだ」
こちらに用があるのか、ゲランダンとディアラカンがやってきていた。慌てて俺はまた砂洲に引き返した。
「何か御用ですか」
「俺はない」
すると監督官は、その大きな腹を揺すりながら前に出た。
「ファルスよ」
「はい」
「今回の探索は、四つの班が合同で行う、大規模な作戦である」
「はい」
「必ず結果が求められるものと心得よ。よいな」
今更何を?
「承知しております」
「ならいい」
それだけで、彼は背を向けた。
難しく考えることもないか。ケフルの滝は、相当な奥地だという。そんなところに宿営する仕事だ。監督官としての身分が安泰なら、わざわざこんな案件に手を出すこともなかったのだろう。見た限りでは、どう考えても仕事ができそうな男でもない。ディアラカン自身、背水の陣でここにきているという推測も成り立つ。
「アフリー! 準備はいいか!」
ゲランダンが叫ぶと、先頭を進む予定のゲランダンの班のボートから、返事がとんできた。
「いつでも行ける!」
「よぉし、出せ!」
すると、ボートの横に控えていた二人が膝上まで水に浸かりつつ、ボートを川の深みに押し出し、そこから一気に飛び乗った。すぐに櫂をとって、ゆったりと漕ぎ始める。それがなくとも後ろから西風を受けているので、少しずつ川を遡っていけるのだが。
「んじゃ、俺も行くか」
ゲランダンはディアラカンを伴って、その場を去った。
「よし、そろそろ河に押し出すぜ」
イーグーとジョイスがズボンをたくし上げて、ボートの縁に手をかける。
「僕も押す」
「いいって。お前は乗ってろ。行くぜ」
既に舳先はケカチャワンの静かな波にもてあそばれていた。
さしたる苦労もなく、俺の乗っていたボートは砂洲を離れて水上に浮いた。
「いよいよ本番、ってか。長かったな……よっ! と」
ジョイスが勢いよくボートに転がり込み、後ろが激しく揺れた。
「おいおっさん」
「へ、へぇ……わっ!?」
乗り損ねておいていかれそうになったイーグーを、ジョイスは無理やり引っ張り上げた。
空も、水面も、何もかもが灰色の中、十隻もの細長いボートが一列になって、東を目指した。
こうして俺達はケカチャワンを静かに遡り始めたのだ。
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