ここは自由でいいところ
灰色の綿に、赤い縁取りがなされる。熱帯の空には幾重にも雲が覆い被さっていて、空はその隙間にしか見えない。左右に突き立つ木々、関門城の東西を挟む岩山のせいか、ここでは夕暮れの訪れは少し早く感じられる。
気温が下がってきたのもあってか、また鳥の鳴き声がどこかから聞こえてくる。朝に聞いたのとは違う、どこか不吉さを感じさせる低い声。大森林は昼から夜へ……役者も入れ替わる。
関門城に引き返そう、王に与えられた居室に戻って休もうと言ったのだが、タウルの歯切れは悪かった。どうもノーラが様子見に戻る前に、フィラックとかなり感情的な言い合いになってしまったらしい。
それもわからなくはない。これまでタウルはネッキャメル氏族の私兵として、秩序の枠組みに自分を合わせて生きてきた。一方、生まれつきサハリア人だったフィラックにとって、それは当たり前のことで、まさかそんなことに努力を要するなんて思ってもみない。ところがここ大森林はというと、まるっきり社会の仕組みも人の考え方もあちらとは違う。
ましてタウルは、自分の栄達のために俺についてきた。サハリア人らしい義理と人情で同行を決めたフィラックとは、根本的に行動原理が異なっている。
元はと言えば俺のせいで生じた摩擦なので、これは責任もって俺が解消しなくてはいけない。まずは俺から頭を下げて和解してもらうべきなのだが、それはそれとして、潤滑油が必要だろうと考えた。となれば、手っ取り早いのは、やはり酒だ。
それで俺はタウルとうち揃って、冒険者ギルド前の街の中心部にやってきた。適当な酒場で、最悪、安酒でもいいから少し買って帰ろうと考えたからだ。
広場の前は、閑散としていた。
正確には、人は少なからずいた。だが、その誰もが働く側の人ばかりだった。声をあげず黙々と荷物を運ぶか、所在なさげにのんびりと夕方の風に涼むかだ。地元の客は、まだこんな時間には飲みにこない。早い時間から混雑するのは、挺身隊が到着してからのこと。繁忙期はまだ先なのだ。
「椰子で作った酒がある」
タウルは立ち並ぶ木造の店舗を見渡しながら言った。
「いくらでも飲める味だ」
「飲んだことが?」
「ある」
適当に店を選ぶと、タウルは大股に歩み寄って、店の入口をくぐった。
「二つくれ」
「タウル」
止めようとして声をあげかけて、すぐ取り下げた。
彼は味見をするために酒を注文したのだ。お土産の酒がまずいのでは、腹を割っての話し合いにもミソがつくというものだ。
その店のテーブルは古びていた。客が乱暴に扱っても壊れないように、豪快なほど分厚い板が使われているのだが、どうしても客席側のところが削れてきてしまっている。横から見ると、長方形というより台形といっていいくらいに。
俺達は向かい合ってそこに座り、持ち帰った小さなジョッキを両手に抱えて、そっと口に運んだ。
「ん、これは」
体はまだ若いとはいえ、前世の味の記憶がなくなったのでもない。酒の喜びも忘れてはいない。一口含むと、椰子酒の質の良さが分かった。濁りのある青白い液体を口にすると、思った以上に爽やかな酸味とほどよい甘味があった。独特の風味が鼻の奥から喉へと突き抜けていく。これなら悪くない。
では、これをお土産にして帰ればいい。ただ、小さめのジョッキとはいえ、一気に飲み干すには躊躇われる。といって捨てるのもなんだし……
夕食までにはまだ少し時間がある。慌てなくてもいい。
「多分、四班は必要になる」
両手でジョッキを掴みながら、俯き加減でタウルが言った。
「川の北岸に留まるのが一つ。南岸の東側にもう一つ。最後にケフルの滝近くに留まるのがもう一つ。あとは俺達。最低で四十人、下手をすると百人くらいには膨れ上がる」
「そんなに」
「犠牲が出ないで済むなんてことはない」
俺は、俺の周りの人は守る。ノーラはもちろんのこと、ともに戦争を生き抜いたフィラックやタウル、それにアルマスニンから預かったペルジャラナン。昔からの顔なじみであるジョイス。ついこの前拾ったばかりのクーやラピに至るまで。それどころか、自分が直接雇い入れた人物であるなら、それも。
それでも、必ず零れ落ちる命が出てくる。それを許容しなければ、大森林の探索には乗りだせない。
「最低でもあと二人は、いや、多分三人は俺達の班に含めることになる。でも、信用できる奴らじゃない」
「信用できないと、どうなる」
「勝手に逃げ出すならいい方。金目の物を見つけたら、仲間でも背中から刺す」
それはおっかない。俺ならなんとか生き延びてみせるが、特にクーやラピは、そんなことになったらまず助かるまい。
「俺の仕事は、まずファルス、お前を生かすこと。新入りの二人がすぐ死んでも、安くつくと考えている。もしあいつらを帰したら、その分余計に二人、信用できないのを雇わないといけなくなる」
ノイズが三人か、五人か。タウルはそういう計算をしていた。
「でも、こっちで優秀な人間に出会えるということはないのか。詳しくは聞いてないけど、この前も『大物』を捕らえたとか」
「できる奴はいる。それはそう。だけど、そんなに簡単に味方につけられるなんて思わない方がいい」
軽く首を振ると、タウルはぼやいた。
「ここにいるのは、みんな自分のために生きてる奴らばかり。本当に危なくなったら、本当に儲けられそうだったら、いつでも誰でも裏切る。そういうところ」
では、どうすればいいだろう? 考えを纏めつつ、俺は椰子酒にゆっくりと口をつけた。
それなら、身内だけで固めてしまえばいい。少なくとも自分の班だけは。となると、またタウル恃みなのだが、彼の知り合いで使えそうな人を紹介してもらうというのは……
ふと、背後に気配を感じた。
俺の向かいに座るタウルも、顔をあげている。
「お前」
振り返る。
そこにいたのは、やはり細身の西部シュライ人だった。
顔立ちには少し特徴がある。金平糖のように縦長で、髪の毛も天然パーマであるものの、そこまで縮れていない。肌は浅黒いが……そこまで見て取って、やっと察した。多分、彼はサハリア人との混血なのだろう。
それより服装が変わっていた。誰もが薄着で過ごすこの地域にして、この男はブカブカした灰色の僧衣を身に纏っている。これは、女神教の下級神官のものだ。以前、冒険者でもあったハリが着用していたのと同じ。
「もしかして、タウルか?」
彼の視線も、タウルに向けられていた。
なんということ。俺が心の中で願ったら、早速、知人が現れてくれるとは。
「その顔……ラーマか!」
タウルは腰を浮かしかけた。
それを今、ラーマと呼ばれた男は、手で制する。
この機会を逃がす手はないだろう。俺は無言で立ち上がり、席を譲ると、ラーマのために新しい椰子酒を買うべくカウンターに向かった。
それからテーブルに戻ると、既に彼はタウルの向かいに座っており、話し始めていた。
「……で、わざわざ戻ってきたのか」
「大森林に挑みたいというから、案内することになった」
「物好きだな」
その物好きな俺が、そっと椰子酒を勧める。ラーマは俺の顔を見もせず、それを遠慮なく受け取り、一口飲んだ。
「けど、出世したじゃないか。今ではムワの下僕まで連れているなんて」
ラーマとしては、何の悪気もなかったのだろう。だが、タウルの顔は凍りついた。そして俺はというと、苦笑するしかなかった。
「いい。僕が悪かった。誤解させた」
タウルの横に座り直し、改めて声をかけた。
「どうも、ラーマさんとお呼びしてもよろしいでしょうか」
「ああ」
「ファルスといいます。よろしくお願い致します」
「ああ……あ? ファルス?」
タウルは首を横に振ってから、溜息交じりに言った。
「さっき言った。俺が仕えることになった騎士だ」
「はぁっ!?」
「ムワじゃない。黒髪だがフォレス人だ」
タウルの主人に当たる人物に、いきなり無礼な態度をとってしまったと悟ると、ラーマは目を見開いて狼狽えた。
だが、俺は小さく首を振った。
「お気になさらず。仕えるとはいっても、今回は僕がお願いしてついてきてもらったのですし。僕も元々、フォレスティアの貧農の子です。生まれながらの貴種というのでもありませんし」
「あ、う、ムワなんかと一緒にして、申し訳なく」
「気楽になさってください。タウルも僕に敬語は使いません」
笑顔を浮かべてそう言いはしたが、内心では気持ち悪さが勝っていた。
俺のことをタウルの下僕だと思い込んだのはいい。引っかかっているのは、彼の中の差別意識だ。前世の価値観をいまだに引きずっている俺からすると、ではムワだったら見下してもいいのかと、そう言いたくなる。
しかもラーマは、女神教の神官だ。女神教において、人に貴賤の区別はない。なるほど、この宗教も身分制を肯定することはある。例えば女神の名において六大国の王を承認したりもするが、それはあくまで民草を率いる代表として選んでいるに過ぎない。また、バーシュリクのように南方大陸の人々に冷たい視線を向けるのもいるが、これもフォレス人が上でシュライ人が下という意味ではない。どれだけ女神に近いか、魔王から遠いか、それが問題なのだ。なのに今、ラーマは迷わず人種で俺を差別した。
「どうぞ召し上がってください。椰子酒で口を清めれば、好ましからざることも、なかったことにできますよ」
それでラーマは目を伏せ、口元で笑みを浮かべて座ったまま俺に一礼し、それから一気にジョッキの中身を飲み干した。
「ありがたく」
「お近づきになれて嬉しいです」
それでも、ここでキレ散らかすことにメリットはない。それよりラーマを俺達の役に立てる方が大切だ。
「もう一杯召し上がってください」
「いや、それは」
「まだ肩の力が抜けていらっしゃいませんよ」
俺が手を挙げると、店員がもう一杯、椰子酒を手にテーブルまでやってきた。銀貨を握らせて帰すと、俺はテーブルに肘をついて身を乗り出した。
「つい先日、こちらに到着したばかりで、右も左もわかりません。最近の様子を教えていただけませんか」
「あ、ああ……ええと」
「言葉遣いは気になさらず」
ラーマは一度、咳払いして肩を揺すると、少しだけ目を泳がせた。
「最近、と言われても」
「ああ、じゃあ質問を変えます。ラーマさんはやっぱり女神教の神官なんですか?」
「こいつは」
タウルが割って入った。
「もともとは俺と同じ。子供の頃から、大森林で下働きをしていた」
「えっ? でも、服装が」
「俺と違って、女神神殿の学校に通った。父親もいない。母親も早くに死んだから」
立ち入った話になってしまった。今度は俺が言葉に詰まったが、逆にラーマは皮肉の滲んだ笑みを浮かべた。
「父親もいない? タウル、もっとはっきり言えよ。わからないって」
「ここじゃ珍しくもない」
「まあな」
大方、ラーマの母親はサハリア人の愛人だったか、売春して妊娠したか、強姦されたか……そんなところなのだろう。
だが、それが当たり前の世界で生きてきた彼にとって、そうした過去は悲劇でも何でもなかった。
「俺はついてたのかもな……タウル、お前と違って余計なものを背負い込まずに済んだ」
「違いない」
頷きあうと、二人は低い声で笑った。
確かに、ラーマの言う通りだったのだ。親と生きたタウルは、父親の借金のせいで売り飛ばされた。一方、親のいないラーマは女神神殿に引き取られ、そこで一応、教育を受ける機会を得た。
「えっと、では、今は神官として、神殿で活動を?」
「あ、いや」
表情が翳った。
「神殿の仕事はなかなか空きがなくて……今は昔と同じ仕事をしている」
「というと、大森林に」
「一応、一通りのことはできるので」
なるほど。
彼にとっては残念かもしれないが、俺にとってはありがたい。つまり、生の情報源なのだから。
「この通り、アクアマリンの冒険者になった。もう下働きではない」
「先日はどちらでお仕事を」
「近場で、アワルの班に混ぜてもらって、薬草を集めてきただけ。何もおいしい仕事なんかしてない……」
遠くを見るような眼をして、付け足した。
「獣人を捕まえるなんて、そんなうまい話はもう、近頃じゃ滅多にない」
「獣人?」
「ああ」
椰子酒を一口飲んで、やや乱暴にジョッキをテーブルに戻すと、彼は深く息をついた。
「ゲランダン……タウル、覚えてるか、あの」
「まだ生きてたのか」
「そういう顔役がいるんだが、そのゲランダンの班が奥地で獣人を捕まえてきたっていうんだ。耳長ほど高くは売れないが、これはこれで大儲けだ」
小さく首を振って、また溜息。大成功が羨ましいのだろう。
「そういうところに参加できれば、分け前がもらえるというわけですね」
「そう簡単にはいかない……いや、いきま……」
俺は小さく手を振って、それから自分の肩を乱暴に叩いてみせた。力を抜けというジェスチャーだ。
それでラーマも頷いた。
「ああ……つまり、うまいこといってる顔役のところには、気にいられた奴しか呼んでもらえない。紛れ込むのも一苦労だ。けど、確かにいい時もある。儲かるときは本当に儲かるし、それにな」
また一口、椰子酒を喉に流し込んでから、ラーマは指を立てて続けた。
「ここには、ほとんど税金がないんだ。わかるか? 世界のどこに行ったって、働いた傍から稼ぎが持っていかれる。でも、ここにそういうのはない。まぁ、細かいことを言えば、ギルドを通して多少の天引きはあるが、これだって微々たるもんだ。しかも、それだけじゃない」
半ば身を乗り出して、彼は熱を込めて言った。
「金だけじゃない……ここには、自由があるんだ。本当の自由が」
「自由? ですか?」
「もちろん、生きるだけでも大変なところだ。それはある。作物もなかなか育たないし、密林からは魔物も出てくる。だけど、誰からも何からも、ああせよ、こうせよと言われることはない。ここの人間は、家族にさえ縛られない。これだけの自由がある場所は、世界でここだけ。ここだけだ」
そこで彼は、椅子の背凭れに身を預けて、ゆったりとして残りの酒を飲み干した。
「何のしがらみもない。信じられるか? 血筋も家柄も何もないただの若者でも、実力さえあれば、王様の婿にもなれる。つまり、次の国王ってわけさ。本当に、ここではなんでもあり。自由なんだ」
俺はというと、面食らっていた。
確かに楽に話していいとは言ったが、いきなりこれはどうしたことか。言葉が熱を帯びるのは別にいい。儲けについてとか、いやな奴の悪口とか、そういうのが口をついて出るのは自然なこと。だが、ラーマは急にこの大森林の開拓地を賛美し始めた。
「本当にいいところだ……自由で……」
脈絡もなく自由を強調する彼に、俺は若干の薄気味悪さを感じていた。
いや、もともとこういう人なのかもしれないが……
「タウル」
「ああ」
彼は立ち上がろうとした。だが、俺はそれを制して、数枚の金貨をテーブルの上に置いた。
「昔馴染みにあったのなら、ゆっくり飲みたいだろう。フィラックには僕から話をしておく。今夜はのんびりしてほしい」
彼は真顔で俺を見て、少し考えてから頷いた。
「わかった」
この「わかった」の意味は、つまり、これも仕事だと受け止めたということだ。
せっかく知人に会ったのだ。大森林の近況について、詳しく聞き出すこともできそうなのだから。
「ではラーマさん、またご縁がありましたら」
「あ、ああ、若旦那、よかったらまた」
軽く挨拶を交わすと、俺は背を向け、そのまま酒場を出た。
空を見上げると、もはや山の端にかすかに赤い光が残るばかりで、頭上は暗い藍色に塗り潰されていた。
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