腐りかけた無気力な家

 関門城は、峡谷を塞ぐ建造物だ。だからその東西方向には、切り立った崖が続いている。離れた地点からなら、その荒々しい岩肌が暗緑色の樹冠の上に聳えているのが見渡せるだろう。だが、今の俺の居場所からとなると、そうはいかない。頭上は緑のドームに覆われてしまっている。

 城門のすぐ南が城下町の中心部だとしたら、その辺縁はここだ。クース王国の圧政に耐えかねて故郷を捨てて流れ着いた難民、罪を犯してここまで逃げてきた者、辛うじて生き延びた挺身隊のなれの果て……そういうこの地の最貧困層が、間に合わせのボロ小屋を拵えて何とか暮らしている。奥地に居を構えるのはあくまで少数派だ。大半は、多少なりとも安全な所に留まろうとする。

 ここに家を建てるのに、誰の許可も必要ない。関門城の南は開拓中の土地、法などあってないも同然の領域だ。みんな思い思いの場所に好き勝手に暮らせばいい。その代わり、誰からの保護も約束されない。


 この家も、本当にボロ小屋で、その多くは南方大陸に来てから目にした、あの例の半地下の草葺きの家だ。ホールケーキのような円形をしている。風雨にさらされ続けたその屋根には、長い草の葉が力なく垂れさがっていた。

 もともと水はけの悪い土地である。熱帯雨林の土壌は基本的に粘土質だ。降りしきる雨によって常に土壌が流されるので、水を吸収できる粘り気のあるものだけが残る。だからこんな半地下の家は、実はここで暮らすには適当ではない。だが、手間をかけて高床式の家を建造する資力や気力などないのだろう。

 ゆえに崖の近くにあるそのボロ小屋を見た時の俺の感想は「腐りかけた無気力な家」だった。本当に、こんな状態では雨漏りくらい普通にありそうだ。


 さて、これからあの家を訪ねるべきか、彼が出てくるのを待つべきか。

 だが、ここに留まるのはやはり耐え難い。さっきから耳元を虫の羽音がかすめていく。きっとそのうち、体中を蚊に刺されることになる。それでも俺を足止めしているのは、ちょっとした気まずさだ。


 軽い昼食の後、俺は関門城に引き返した。例の小屋に残っていたのはフィラックだけだったが、彼にみんなの行き先について教えてもらった。クーとラピはとりあえず、城内の俺達の居室に戻した。タウルは出かけるというので、場所だけ確認したという。

 俺が間違えていなければ、タウルはここにいる。つまり、彼の実家に。


 意を決して、俺は一歩を踏み出した。

 木の扉……といっても、ただ格子状に木の板を重ねて釘を打って布を張っただけの代物……は、既に外れかけていた。いや、最初から外れているのか? これも古びていて、一部、表面にはぬめりさえ見て取れる。これをノックすることには躊躇いを覚えたが、勝手に踏み込むというやり方もどうかと思った。

 俺が戸を叩くと、沈黙が返ってきた。けれども、やがて内側から聞き慣れた声が応じた。


「ファルスか」


 すぐに戸が引き開けられた。蝶番なんて上等なものはなく、本当に取り外し可能なただの蓋でしかなかった。

 タウルは戸を抱えたまま、一歩下がった。


「さっさと入れ」


 そう言われて、俺は土間へと降りていった。狭い入口を潜ると、タウルは手早く戸を戻した。こうでもしないと、蚊が入ってくるのだろう。

 中に入ると案の定、ムッとする湿気が充満していた。しかも、微妙に焦げ臭い。部屋の真ん中には囲炉裏があって、そこで何か草を燃やしている。多分、これが虫除けになっているのだ。


 まったく簡素な家だった。草が折り重なる天井、その頂点に向かってか細く白い煙があがる。土間の上には支えのある木の板が四つほど。椅子というには丈が低すぎ、幅が広すぎる代物だ。その上に茣蓙のような敷物が載っている。家の隅には棚があった。凹みだらけの薄汚れた灰白色の鍋が、赤い囲炉裏の光を静かに照り返していた。

 部屋の奥には年嵩の女性、左手にはやはり高齢の男性、右手にタウルが座っていた。俺は残されたもう一つの台の上に静かに腰かけた。


 勧められる前に座を占める無作法を咎めたのでもないのだろうが、タウルは大きく溜息をついた。

 なんだ? 今朝の俺の話がそんなに気に食わなかったのか?


 しかし、どうもそうでもないらしいとわかってきた。

 ただでさえ湿気がひどいこの家の中なのだが、それ以上にじとじとした視線が向けられている。タウルの母親は、なるほど身分の高い人間に対してするように、顔をやや伏せてはいるのだが、その半開きになった目が、じっと俺を捉えていた。


「フォレスティア王の騎士、ファルス・リンガと申します。タウルにはここまで大いに助けられてきました」


 とりあえず、俺は挨拶した。

 ところがタウルの両親は、すぐには何も言いださなかった。いや、何も言えなかったのか。口元をモゴモゴと動かしはしたが、声が出てこなかった。


「俺の両親だ」


 代わりにタウルが言った。


「さっき言った。ミルーク様亡き後、この、騎士ファルスの下で仕事をしている」


 だが、この表現すら、二人にとっては難しすぎたらしい。反応は鈍かった。

 ややあって、母親の方から声があがった。


「タウルや」


 何を言い出そうとしているのか、俺は少しだけ身を乗り出した。


「どっちだね」


 どっち、とは?


「昔、お前を買ったサハリア人の旦那が、えっと、ミルークだね?」

「そうだ」

「じゃあ、今度はそこの……がお前を買ったのか」


 俺は衝撃を受けた。

 言葉遣いとか、俺に対する礼儀とか、そういう問題ではない。これはこれで失礼なのだが、それより彼女の理解の方がずっと強烈だった。

 タウルをミルークに売ったのは、かつて困窮したからだろう。ミルークの側には善意があり、タウルにも見所があって決めたのだろうが。それ自体は事実だから構わない。しかし、彼女の中では、息子は今でも売り買いされる奴隷のままなのだ。


「そうではありません」


 俺はなるべく穏やかな口調を選んで、説明を試みた。


「既にタウルは奴隷の身分から解放されています。今は自分の意志で、僕の手伝いを申し出てくれたのです」


 ところが、こんなシンプルな説明でも、彼らには理解が及ばないらしい。


「じゃあ、なんだ」


 今度は父親のほうだ。


「タウル、お前は金にもならんのに、このムワの小僧の言いなりになっているのか」


 また頭を一打ち。思いっきり差別用語を、それも陰口ならいざ知らず、本人に向かって。

 どうなっているんだ、こいつら……いや、タウルのご両親は。


「お金にはなります」


 それでも俺は、彼の顔を潰すまいと思って、無理やり笑顔を拵えた。


「大森林の探索で成果をあげたら、功績に応じて賞することになっています。もちろん、探検中に見つけた財宝も山分けです」


 すると、二人はやっと目を見合わせた。それからまた、口の中でモゴモゴとやりだした。

 ややあって、母親の方がタウルに尋ねた。


「それで、どっちだね」

「何が」

「前のミルーク様と、今のご主人と、どっちが偉いんだい?」


 いちいち衝撃を受けていては身が持たないが、本当にどういう神経をしているんだろうか。

 それでも、俺はなんとか返事をした。


「ミルーク様はネッキャメルの御曹司、貴族に相当するご身分です。僕は王に腕輪を賜った身とはいえ寒村の貧農の子で、今も騎士に過ぎません。言うまでもなく、尊いのはミルーク様です」

「じゃあ、格が落ちたのか」


 もはや目を見開き、口をポカンと開けて、呆然とするほかない。この夫婦には、処世術なるものが完全に欠けている。

 タウルの実家が貧しいことは、なんとなく聞き知っていた。だから、金をせびられたり、媚びられたりするだろうとは思っていた。ところが、彼らは想像の斜め上を突き抜けた。


「いくら払うんだ」


 タウルの父親がボソッと言った。


「偉いとか、そんなのはどうでもいい。タウルにいくら払ってくれるんだ」


 さすがに言葉に窮して、俺は口をパクパクさせはじめた。

 だが、さっきからどんどん不機嫌を増すばかりのタウルは、ここでパッと立ち上がった。


「もういい。ファルス、行くぞ」


 彼は乱暴に俺の手を取ると、引き起こして立たせ、さっさと入口の戸を外して外に出てしまった。そのまま振り向きもせず、大股に歩いていく。

 森の中で、やっと彼は立ち止まり、俺の手を放した。そこでもう一度溜息をつくと、足下の砂利を蹴飛ばした。


「フィラックの間抜けが。居場所は教えたが、こういうことはするなと言っておくんだった」

「あ、あの」


 俺はまた、言葉が見つからなかった。


「済まなかった」

「なに」

「家族でいるところを邪魔して」

「それはいい」


 彼は首を振った。その顔には、深い悲しみが見て取れた。


「恥ずかしい家族。でも、見られたからって、見たファルスが悪いということはない。あんな親だから、誰にも会わせるつもりはなかった」

「あ、ああ……」


 さすがに彼の両親だ。一緒になって侮辱するのも憚られる。


「お前が怒らないのはわかってる。腹が立っても我慢する。だから俺から謝っておく。済まなかった」

「いや、それは」

「それともう一つ」


 タウルは軽く頭を下げた。


「大森林で何をしたいのかを訊きもせず、勝手に頭の中で決めて、舞い上がっていた。これで俺も偉くなれると。これも済まなかった」


 こちらから謝って譲歩してもらうつもりが、あっさり彼の方が謝ってしまった。


「あ、いや……最初に全部説明しておかないといけなかったのに、それをしなかったのが悪いので」

「いい。ただ、できることとできないことはある」

「それはもちろん」


 ほっと胸をなでおろす。

 どんな結果になるにせよ、自分の無神経でチームを瓦解させ、それで余計に犠牲が増えたのではたまったものではない。頭を下げて歩み寄るだけでリスクを減らせるなら、安いものだ。


「ただ……」


 彼は遠い目をして、南の彼方を見やった。

 鬱蒼と茂る枝、その緑の葉は、もはや黒ずんでいた。うっすら橙色を帯び始めた熱帯の雲が垣間見える。


「これが西部シュライ人の世界。わかるか」

「今まで、いろいろ見てきたので、なんとなくは」


 ゆっくり歩きながら、タウルはポツリポツリと身の上話を始めた。


「俺の祖父母が、クース王国から来たらしい」


 金鉱が何より大事で、地方の農民などは搾取されるだけのあの国で、彼の祖父母は農地を相続できなかった。生きる糧を求めて、どこかに流れていくしかない。それで彼らはウンク王国を目指して南下した。ティンプー王国に出てもよかったのだが、天秤にかけた結果がそれだったのだ。というのも、カリで働くとしたら、交易の下働きしかない。だが、生粋の農民の子だった彼らには、何をすれば食えるのかがまったくイメージできなかったようだ。その点、大森林の領域であれば、どこを開拓しても自由とされた。好きなだけ農地を広げてよい。となれば夢も広がるというものだ。

 ところが、現実は厳しかったようだ。


「五年もしないうちに、やっていけなくなった。ここでは作物がそんなによくは育たない」


 熱帯の土壌は、想像以上に貧しい。水にだけは不自由しないのだが、むしろ過剰な水が土壌を流し去ってしまうために、また高温な環境が有機物の分解を促進するがゆえに、栄養に乏しいのだ。だからこそ、前世でも熱帯雨林に生きる人々は、焼畑農業というやり方で、その貧しさを補ってきた。


「それでも、城下町の下働きをして、子供達を養った。子供が立派になれるようにと、少しだけ女神神殿の学校にもやったらしい」


 つまり、タウルの両親は一応、教育を受けている。

 だが、教育があって、あれとは。何があったんだろうか?


「父が成人する前に、祖父が死んだ。それで女神神殿が面倒を見ることになった」


 といっても、フォレスティアの女神神殿とは少し違う。ピュリスでは、孤児に職業訓練を施すなどしていたが、こちらはいきなり仕事を斡旋する。タウルの父は、非熟練労働者のままだった。ただ、別の活動には力を入れていた。


「父が十五歳になったとき、結婚した」

「早すぎるんじゃ……農地も資産も何もなくて、先に結婚?」


 これは、フォレスティアと南方大陸西部地方の状況の違いによる。カリの神官長バーシュリクの言葉を思い出せば、難しくはない。

 フォレスティアは女神教にとっての先進地域だ。そして商売敵のセリパス教会も存在する。だからあちらでの神殿の仕事は、とにかく社会貢献して、人々の支持と信仰心を集めることにある。一方、南方大陸では事情が異なり、そもそも人々の教化が進んでいないという認識だ。だから、住民を女神教のライフスタイルに近づけるのが最優先となる。

 女神教の信者の生き方、それ即ち帝都の価値観だ。同性愛も自由恋愛も許すが、最終的には一夫一婦制を基本とし、家族単位で纏まって女神に帰依する。とにかく魔王に靡いてはいけない。大事なのはそこなので、その他の事情は後回しだ。


「神殿が仕事を作って回してくれた。とにかく、信者らしい暮らしをしていれば、貧しいながらに生きてはいける」


 神殿のお見合いで結婚し、神殿の指示で子供を持ち、神殿の斡旋した楽な仕事をして、神殿の提供する資金でその日を暮らす。中途半端に終わった教育もあって、タウルの父母には未来への確たるビジョンもなく、土地に根付くこともできず、自堕落そのもの、ダラダラと飼い殺される人生を過ごすようになった。


「それでも少しだけ足りない。酒も飲めない。だから、子供には働かせる。俺も、親には捨てられたくなかった」


 子が親を慕うのは、半ば本能ではなかろうか。だから幼いタウルは、早速に大森林の探索を手伝うようになった。冒険者ギルドへの登録は許されない年齢だったが、ただのポーター、下男としての仕事はお目こぼしされている。そうして稼いだ金が、父の悪癖を強化した。


「酒だけならよかった」

「というと、ああ……まさか賭け事?」


 最初は息子の稼ぎを酒と交換していた父だが、なにしろ子供の収入なので、そんなものはすぐなくなってしまう。物足りなさを覚えた彼は、僅かな金を賭け事に使うようになった。


「じゃあ、大負けしたから、まさかそれで借金が?」

「そう。ミルークがいなければ、どうなっていたかわからない」


 当時十三歳だったタウルは、不満と不安の板挟みになっていた。

 どれだけ働いても無意味だというのは、そろそろ悟りつつあった。自分の稼ぎを適切に投資するでもなく、全部博打に遣ってしまう。たまに勝っても酒代だ。何より父自身があまり働こうとしない。もちろん、ねぎらいの言葉もない。と同時に、これまで数年間、危険な大森林で下働きをしてきた努力が無になってしまうのかと、そういう葛藤があった。

 だから、ついに売り飛ばされた時、タウルの中にスイッチが入った。


「これで、これまでの俺の人生は終わった。本当に、何にも縛られない、何にも繋がっていない。それがわかった」


 すべてをなくした人間ゆえの、どこかぶっ壊れた感性とでもいえばいいのだろうか。

 もう大事なものはない。上に行くしかない。死んだとしても、だからどうだというのか。死ぬのは怖いが、生きる値打ちなど、さしてない。だから、ここから先は自分の栄達だけが人生の意味になる。


 この地の住人には、規範がない。善とか悪とか、やってはいけないこととか、逆にやるべきこととか、そんなものはない。その命は道端の石ころと同じ。

 だからこそ、タウルの両親は頑張らない人生を選んだ。これも前に、彼から聞いた話だ。いい仕事がない、どうすればいい? 働かなければいい。働かないと金がない、金なんかいらない。金がないと餓死する……死ねば解決。

 だが、そんな環境だからこそ、きっかけ次第で、とんでもない方向に精神が弾け飛ぶ人間も出てくる。それがカチャンであり、タウルなのだろう。どちらも強烈な上昇志向を持ち、努力を怠らない。彼らには安住の地などないから。個人的な成功以外に、自分の価値を確かめられる場所がないからだ。


「それでも、久しぶりにこの街に戻って。もしかしたらという思いはあった。俺が肩で風を切って、大きな探索隊を仕切るようになったら」


 両親を見返してやれたかもしれない。

 そんなことを心のどこかでずっと思っていた。冷静になれず、突っ走ってしまったわけだ。だが……


 帰る家はあったのか。

 その答えは、さっき俺が目にした通りだ。


「ファルス、お前はクーとラピをキトに送りたいと言ったな」


 タウルはゆっくりと首を振った。


「お前が薄情な奴じゃないのはわかってる。でも、それは見当違いな優しさ」

「見当違い? いや、そこはそうは思わない。守り切れなければ死ぬんだぞ」

「二人はまだ奴隷。お前がキトに行けと言えば行くしかない。見たところ、クーと違ってラピは、大森林に行くことを怖がってる。でも、今お前に帰れと言われたら、きっと死ぬまで後悔する」


 どういうことだ?

 疑問が顔に出た俺に、タウルは淡々と告げた。


「どちらも捨てられた人間。お前に拾われなければ死んでいてもおかしくない。それがしまいまでお前の世話になって、安全なところで何もできずに過ごす。世話になるだけで何も返せない。出世もできない。家畜小屋の中で生きる豚と一緒」

「そんなつもりは」

「訊いてみろ。あいつらの本音を」


 そう言われてみれば、納得できなくもない、か。

 どうするのが正しいのか、自分でもわからなくなった。


 彼は足を止め、振り返った。

 その顔には、はにかむようなうっすらとした笑みが浮かんでいた。


「古代の魔王の都と、不老の果実か。見つけたら、俺の名前も残るかもしれないな」

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