試しの巾着袋
「ファルス殿、申し訳ございませんが」
「いいえ」
ほっと息をつきつつ、俺を先頭に大きな馬車から降りる。ご丁寧にも、足下には既に木の板が敷かれている。
見上げれば、空は薄曇り。降りそうで降らない天気だ。じめっとした重たげな微風が流れていく。周囲を見渡すと、筆をそのまま絵の具につけてキャンバスにこすりつけたような濃い緑色。街道の横に広がる森林地帯だ。道沿いはどこもこの空き地のようになっていて、少なくとも数十メートルはいかないと、森の入口には手が届かない。もちろん、街道を整備した際に木々を伐採したから、こうなっている。森の奥から魔物や野獣が出てくる可能性もあるが、何より地元の住民が武装して奇襲をしかけてくる危険を避けるためでもあるそうだ。
そして足下はというと、黄土色の泥濘だ。今、俺達が馬車から降りたのは、例によって車輪がはまりこんでしまって、抜け出せなくなったためだ。少しでも重量を小さくして、ここから抜けないといけない。
「やっぱり馬で駆け抜けたほうがよかったんじゃないか」
フィラックが難しい顔で呟く。
「そうかも」
俺も力なく同意する。
大名行列もかくやと言わんばかりの規模だった。
まず、先頭には大臣のクリル専用の馬車。これはいい。彼はティンプー王国を代表する使節なのだから、身分に相応しい乗り物が必要だ。
続いて俺達の馬車。これが大きい。俺、ノーラ、ペルジャラナン、フィラック、タウル、それに後から追いついてきたジョイスと、六人が乗っている。しかし、ここには荷物がほとんどない。武器にしても最低限のものだけ、防具も重いので、別の馬車に積載されている。
次の馬車が俺達の荷物と旅の食料を積んだもの、その次の馬車には俺達の世話をする下僕達が、更にその次の馬車にはその食料、そしてそのまた後ろにはなんと、俺達の宿舎を運ぶ馬車が続いている。
そう、宿舎だ。テントではない。仮設とはいえ、毎度毎度、木でできた小屋を建てては解体する。ここまでするのかと、初日には俺達揃って口を開けて呆れ果てたものだ。
この泥濘のせいもあり、また旅の「快適性」を維持するためもあって、一日に稼げる距離はごく僅かでしかなかった。これなら、不便をしながらでも一気に進んだ方が、まだストレスが少ないというものだ。しかし、この土地の人間にはそもそも「急ぐ」「効率性」という考え方がない。
「ファルス」
タウルが難しい顔で話しかけてきた。
「それよりどうする」
「どうするって、何を」
「クーだ」
俺は溜息をついた。
「本当に、南方大陸って、どうなってるんだ」
「こういうものだ。子供なんて簡単に売られる」
フォレスティアで奴隷を売ろうと思ったら、まともにやると、それなりに手続きを踏む必要がある。一応、その土地の貴族なり総督府なりに届け出る必要もある。だから奴隷商人という専門家がいるわけだ。実際には、それこそジルのように盗賊まがいの連中に捕まって売り飛ばされ、グレーゾーンでロンダリングされてしまうのもいるのだが、基本的には法の枠組みの中で取引されるべきものと考えられている。というより、奴隷という身分が一連の法制度の中で位置づけられているのだから、それは当たり前のことだ。
ここでは、そういう面倒な手続きなんかない。売るとなればその場で売られる。書面もない。地縁ばかりか血縁での結束も持たない人々なので、そういう無茶苦茶をやっても、誰からも文句が出ない。そもそも貧しい都市部の住人など、王国にとっても利益を産まない存在だから、戸籍も何もない。増えようが減ろうがどうでもいいのだ。
「大森林に踏み込むのに、戦う力のない子供を連れていくのは……どこかで追い返そうと思う。クリルにでも頼んで、キトにでも送ってもらおうかと。シックティルの使用人にでもなってくれれば」
「甘い」
だが、タウルは首を振った。
「お前は剣は鋭いし、敵には容赦しないのに、たまに妙に間抜けになる。子供だからって甘く見るな。信用するな」
この土地を知ればこその言葉だ。カリのスラムを目にした今では、納得せざるを得ない。
「あの武器屋の店主にしても、長年使う下僕は、ずっと逆らわなかったまともな奴だけだ。ひどい扱いでも文句を言わずこなした奴だけが信用される。クーは信用されなかった。だからクビになった」
「どうしたらいいと思う?」
タウルは溜息をついて肩をすくめた。
「あの」
ノーラが口を挟んだ。
「今のところ、何か悪いことを考えているようには見えないのだけど」
ジョイスも同調した。
「俺も、見た感じじゃそう思うけどな」
ノーラが精神操作魔術で人の心を読める件については、既にごまかしようもないので伝えてあるが、ジョイスの能力については説明していない。そして、ノーラが魔術で確認した限りにおいては、今のところ、クーに悪意らしきものは見て取れないということだった。
個人的な印象としては、クーはなかなかに頭のいい少年だという評価だ。言葉遣いもしっかりしているし、それなりに目端も利く。うまくすればひとかどの男になれるのではないかと思っているのだが。
なお、当然ながら彼はこの場にいない。身分に相応しく、馬車の列の後ろの方で、クリルが連れてきた下僕達に混じって下働きをしている。
「今はそうだろう。でも、先々まで悪いことを考えないなんて保証はない」
タウルのその主張にも一理ある。あくまで魔術では、たった今考えていることがわかるだけ。頑張っても過去の記憶に触れるのがせいぜいで、未来のことまではわからない。
「関門城の向こうは無法地帯だ。俺もそこで育ったから知っている。そういうところでは、人を騙したり裏切ったりするのが当たり前になる。役立たずでも信用できるのが大事だ。逆に信用できないのを連れていくのは危ない」
そう言われてまず思いついたのが、クー自身が危険にさらされる状況だった。しかし、そうなると逆に信用できなくなるのか。無法地帯で悪い連中に「協力して分け前を貰うか、逆らって殺されるか、どちらか選べ」と言われたら、どうするだろう?
「前もって篩い落とす、という手もある」
俺は悪意では彼を見ていない。だが、タウルは安易に信用するなという。であれば、折衷案はこれだ。
「ちょうどここにある、この金貨数十枚の入った財布を握らせる。欲に目がくらんで盗んで逃げたら、それっきりだ。でないなら、使い道もあると思う」
「それでいいなら、構わないが」
俺達が話しているうちに、馬車の進む方向に男達が集まる。ロープが結ばれ、数十人の男達が掛け声と共に一気に力を込める。車体が浮き、車輪は泥濘から抜け出した。
俺が目配せすると、離れたところからクリルが歩み寄ってきた。またあの馬車に乗ってのんびりと旅を続けるのだ。
この、亀の歩みにも等しいのろまな旅だが、一つだけいいことがあった。
橄欖石の月の中旬にキトに到着し、下旬にカリに入った。そこで一週間ほど待たされ、もう緑玉の月の中旬に差し掛かっている。この膨大な待ち時間のおかげで、俺の魂がまた一つ加齢した。
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ファルス・リンガ (13)
・アルティメットアビリティ
ピアシング・ハンド
・アビリティ マナ・コア・身体操作の魔力
(ランク9)
・マテリアル プルシャ・フォーム
(ランク9+、男性、11歳、アクティブ)
・マテリアル プラント・フォーム
(ランク6、無性、0歳)
・マテリアル プラント・フォーム
(ランク6、無性、0歳)
・スキル フォレス語 6レベル
・スキル シュライ語 5レベル
・スキル 身体操作魔術 9レベル+
・スキル 剣術 9レベル+
・スキル 格闘術 9レベル+
・スキル 弓術 7レベル
・スキル 隠密 5レベル
・スキル 料理 6レベル
・スキル 病原菌耐性 5レベル
空き(0)
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誕生日は翡翠の月の六日だが、あれこれ肉体を入れ替えたりしているうちに、タイミングがずれたのかもしれない。
ともあれ、おかげで枠が増えた。植物の種を取り込むことができる。欲張って二つも取り込んでおいた。今後は機会を逃すまいという考えだ。大森林に入る前にどれだけ幸運に恵まれるかはわからないが。
なお、サハリア語はバクシアの種に戻した。ジョイスも合流したことだし、今後、仲間内の会話はフォレス語で、現地の人間とはシュライ語で話す、というルールを決めた。言語にいちいち貴重な枠を取られていたら、とてもじゃないがやっていけない。
なお、ペルジャラナンには、使えない可能性も覚悟の上で、赤竜の咆哮を付与した。
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ペルジャラナン (17)
・マテリアル デミヒューマン・フォーム
(ランク5、男性、17歳)
・マテリアル 神通力・高速治癒
(ランク1)
・アビリティ 熱源感覚
(ランク3)
・アビリティ ビーティングロア
・アビリティ マナ・コア・火の魔力
(ランク7)
・スキル メルサック語 5レベル
・スキル ルー語 2レベル
・スキル サハリア語 2レベル
・スキル フォレス語 2レベル
・スキル 剣術 5レベル
・スキル 盾術 4レベル
・スキル 格闘術 4レベル
・スキル 火魔術 8レベル
・スキル 病原菌耐性 5レベル
空き(4)
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まだ試していないから、どう転ぶかわからない。役立ちそうならそのままにして、そうでなければ外せばいい。どこかで動作確認しておきたいところだ。
途中、ところどころに農村のようなものも遠くに見えたが、基本的に街道沿いには何もなかった。宿営地になりそうなところに井戸がポツンと据えられているだけで、宿屋などの施設は一つもない。未開発にもほどがある。
だから娯楽や気晴らしになりそうなものはなく、ただただじっとりと汗ばむ蒸し暑さを箱の中で我慢するという、居心地の悪い時間を過ごすしかなかった。
それでも、緑玉の月の下旬に差し掛かる頃には、ようやく目指す場所に辿り着く。
遠くにポツンと人工的な四角いシルエットが見える。あれがクース王国の都、キニェシだ。明日には到着し、まともな宿が割り当てられる予定だという。
暗がりの中、俺達は自分達のために組み立てられた小屋のすぐ下で、焚火をしていた。
「クリル様のおかげで、大変快適な旅でした」
俺はそうお礼を述べた。本当なら、少しくらい不便でも、もっと先を急ぎたい気持ちがあったのだが、お世話になっている身でもあるのだし、頭を下げるのが道理だろう。
「それはようございました」
彼は感情を見せず、穏やかな微笑みを浮かべたまま、そう答えた。
「明日はキニェシの宮城にそのまま入ってお部屋を借りることになるかと思います。沐浴もできますし、気持ちよくお過ごしになれるかと」
「沐浴ですか」
それはよかった。体中、どうもベトベトする感じが消えない。一応、濡れた手拭いで体を拭きはするのだが、やっぱり入浴に勝るものはない。
ただ、行先が宮城とは。なんだか本当に大名行列みたいだ。
「宮城には、とにかく大きな沐浴場がいくつもございます。宮殿の広さということでは、クース王国は随一ですよ。なにしろベッセヘム王国の都だったこともありまして、当時の宮殿の一部がそのまま利用されていますから」
ただ、これから俺達は大森林の奥地に挑むのだ。快適な文明ライフに慣れきってしまっていいものだろうか?
「ですが、そこまでする必要がありますか? 別に、普通の宿屋に泊まるのでもいいのですが」
「そんな場所は、キニェシにはほとんどありません」
クリルは簡単に説明した。
「クース王国は鉱山で有名ですが、それを取り扱うのは一般の商人ではございません」
「と言いますと、つまり王家の独占事業なんですね」
「その通りでございます。ですので、我が国と違って普通の旅人や商人が泊まるための宿自体がほとんどありません。あったとしても、それはもう、大変に居心地の悪いところだけです」
要するに、お金が街に落ちてこない社会ということだ。金鉱を掘って得られた利益は、そのまま王家の懐に入る。一般人がその利権に食い込むことはない。
「ウンク王国からの隊商もこの道を通りますが、これもキニェシに彼らのための宿舎がありまして、そこで一切を整えてカリに向かうのです」
身分の上下で切り分けられる。まったくの別世界。
しかし、それでどうやって国家を運営しているのだろう? ティンプー王国は、治安維持のための武力を対岸のサハリア人に依存している。では、クース王国では?
「ご興味があれば、滞在中にご覧になられればよいかと思います。ただ、ご予定ではそんなに長居するつもりはないとのことでしたが」
「はい。二、三日ほど休んだら、そのまま関門城を目指したいと考えています」
「左様ですか。では、到着し次第、その旨、女王陛下にお伝えするように致します」
そこまで話した時、使用人が彼の後ろに駆け寄って何事かを耳打ちした。それで彼は手を差し出して席を外すことを俺達に伝え、立ち上がっていなくなってしまった。
場が静かになった。頃合いや良し。
俺は左右に目配せしてから、後ろに立つクーに声をかけた。
「クー」
「はい、ご主人様」
俺は懐から小さな巾着袋を取り出した。
「これは」
彼の端正な顔が曇る。
一見して財布だとわかる。責任を伴う何かが自分に課せられようとしていると悟ったのだ。
「金貨がいくらか入っている」
「はい」
「お前に預ける」
こういうのは、気質的にどうにも俺には合わない。人を試す、という行為が。しかし、避けては通れまい。
「何のためでしょうか」
「大したことじゃない。まだキニェシがどんなところかは見たこともないから知らないが……もし、今後の大森林の探索に役立つものでもあれば、当然、買うことになる」
「はい」
「ただ、それ以外の……大きな取引は僕が自分でやるが、例えばちょっとした店で飲み食いするときとか、いちいち自分で支払いをするつもりはない。その他、必要な支払いについては、下僕であるお前に任せようと思っている」
とはいえ、今、クリルが話した限りでは、そういう機会自体がなかなかなさそうなのだが。
「確か……タウル、エシェリクの街にはそういうところがあるらしいと聞いているが」
「ある。あちらは住民のための市場もある」
「ということだ。ただ、これは僕のお金で、お前のものじゃない。管理を任せるだけだぞ」
「承りました、ご主人様」
彼は一礼して、浅黒い手を伸ばした。
表面を取り繕うのは難しくない。しかし、もし彼の内面が、あのカリの貧民と同じようなものであるとするなら、きっと機会を見つけて、この巾着を持ったまま、姿を消すだろう。中には五十枚ほども金貨があるのだ。
正直、それならそれでいいと思っている。俺についてきて死ぬよりは、泥棒にでもなったほうがましだろう。
「今日はもう、下がって休んでいい」
彼が遠ざかっていく。
俺は小さく溜息をついた。
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