思いがけない渡航者達

 今日も空は曇っていた。だが、晴れていようと曇っていようと大雨だろうと、関係なかった。俺達は、あれから一歩も外に出なかった。

 言い訳は、タウルに一任した。ファルスは今、食中りで寝込んでいるらしい。嘘だということくらい、バーシュリクにはとっくに気付かれているだろうが、もうどうでもよかった。


「今にも降り出しそうだな」


 フィラックが憂鬱そうに言う。


「明日も降るかも」

「雨の中の移動か」


 予定では、今日の夕方に例の武器屋から品物を受け取ることになっている。つまり、もうすぐだ。特に遅れそうという話もないので、明日の朝には出発する予定だ。大臣のクリルも既に準備を終えている。俺がクース王国に行くと言えば、今すぐにでも案内してくれる。

 ただ、雨の中を移動するとなると、いろいろ面倒なことになりそうだ。神聖教国みたいに幹線道路が整備されていたりはせず、ところどころ泥濘になってしまうものらしい。ただ、時期的にはそろそろ雨期に差し掛かるので、運がよくなければどうせ避けられない問題だ。


「馬車は用意してもらえるし」

「泥沼にはまって、みんなで押す破目になるんじゃないか? 馬に乗っていったほうが、楽な気はするけどな」


 それでも、どうせノーラとペルジャラナンは馬車に乗るしかない。自力では馬に乗れないだろうし。旅程を稼ぐという意味では、無駄だろう。


「やめておいたほうがいい」


 タウルが短く言った。


「暑い国でも、雨は体を冷やす。思った以上に疲れる。甘く見るとよくない」


 俺も頷いた。

 これまでの旅の経験のおかげだ。濡れるというのは、考える以上に危険なのだ。体が冷える。衣服も水を吸って重くなる。


「わかってるけどな。体がなまっちまう」


 そう言いながら、彼は椅子の上で仰け反って、伸びをした。


「あちらについたら、少し体を慣らそう。木剣でも借りて、模擬戦でもして、体を引き締めたらいい」

「それ、誰と?」

「僕が相手する」

「うへぇ」


 フィラックは、嫌そうな顔をした。とはいえ、口元には皮肉笑いも浮かんでいるが。


「ボコボコにされそう」

「刺激になる」

「ひどすぎないか。退屈で死にそうな思いをするか、剣の練習で死にそうな思いをするか、どっちかしかないなんて」


 大森林で死ぬよりはいい。

 本当は二人にもスキルを移植したくはあるのだが、俺の正体を知らせるのは、まだ躊躇われる。それなら地力を少しでも高めておきたい。といっても急に強くはなれないから、せめて戦闘の危険をしっかりと認識してもらいたい。


「雨が降ってないなら、少し裏庭で剣でも振ろうか」

「仮病がバレる」

「どうせ明日にはいなくなる。もうどうでもいい」


 そんなやり取りをしていたところ、また扉がノックされた。

 みんな会話をやめ、俺は出入口から見えない場所にそっと身を潜める。もしバーシュリクがきたら、ソファに身を埋めて腹でもさすり続けよう。


「はい、なにか」

「お客様がおいでなのですが」


 扉の向こうにいる使用人がそう言った。タウルはもう何度も繰り返したフレーズで応じた。


「今、ファルスは食中りで寝込んでいると、バーシュリク様には伝えて欲しい」

「は、はい、ただ、別の方ですが」

「クリル様か」


 明日の件で、打ち合わせでもしたいのか。とすると、通さないわけにはいかない。


「いいえ、ジョイスと名乗る、ルイン人のような」

「ジョイス!?」


 俺は思わず声をあげた。ノーラも椅子から跳ね起きた。

 どうして彼が、こんなところに? 俺は出入口まで走り寄って、メイドに向かって言った。


「通してください。今すぐ」


 それから十分ほど。

 手には棍、背中には小さなリュック一つ。実に身軽な恰好だった。特筆すべきはその服装で、クリーム色の上着は、まるでマオ・フーが着けていたのとそっくりだった。服装だけはハンファン風なのに、その袖から見える毛深さときたら。一年前と比べて、また少し背も高くなっている。


「よぉ」

「ジョイス、久しぶり」


 顔つきは相変わらずだった。ふてぶてしいというか、自信ありげというか。気を抜くと礼儀作法を忘れるところは問題だが、常に強気なメンタルは、武人には不可欠だ。

 それでも多少は成長したらしい。俺の後ろにいるノーラに気付き、その周囲に見慣れない男達がいるのを確かめると、彼は慌ててリュックと棍を放り出し、その場に直立する。


「はじめまして。ファルスの知人のジョイスと申します」


 それでも口調には、どうしたってがさつさが出る。

 挨拶の順序が逆だとばかり、ノーラは溜息をついた。


「はは……気楽にしてくれていい。みんなを紹介するよ。積もる話もある」


 そうして彼を居室に招いた。


「それで」


 メイドがお茶を置いて去っていってから、俺は尋ねた。


「なんでこんなところに?」

「あー、大した話じゃねぇよ、うーん、まぁ」


 ツンツン頭をバリバリ掻きながら、彼は言い澱んだ。


「お師匠様の命令でな、カークの街まで行かなきゃなんねぇんだわ」

「へぇ、それはまたどうして」

「ま、修業だ」


 でも、こんなところで出くわしてしまうとは。俺はマオ・フーの手紙を預かっているが、それならジョイスに託しても良さそうな気がしてきた。


「そういえば、カークの街には、ワン・ケンっていう知り合いの方がいたんだっけ」

「そうそう、そこ行って鍛えてもらえってよ」

「鍛えてって……意味あるのかな。シュライ語、話せないんじゃ? あっちの人に指導してもらっても、意味わかんないのに」

「それも覚えてかねぇとなぁ」


 なんという無茶な。まるで放り出すような修業の旅ではないか。


「タウル、カークの街って、ここからだとどうやって行けばいい?」

「船便があまりない。いったん帝都に出て、そこから東方大陸の沿岸の町で別の船に乗るのが簡単」

「ピュリスからなら帝都行きもあったのに。どうしてそうしなかった?」

「あー、そりゃだってそうだ。他に船がなかったんだ、最近まで」


 それもそうだった。


「戦争のせいか」

「そうそう。本当はもうちょい早く出発するつもりだったんだけどよ」

「陸路で行くなら、ここからクース王国に出て、それから南の街道を進んでウンク王国に入る。そこでエシェリクという大きな街があるから、そこで西に向かう山道を通り抜ければいい。関門城は、そこから南」


 ということは、途中までは一緒ということか。


「ついでだし、そこまでは馬車に乗っていくか? 道に迷わずに済むし、ちょうどいいだろうから」

「お前はどこ行くんだ?」

「大森林」


 すると、ジョイスは俺をじっと見た。しばらく口を噤んだまま。


「どうした」

「俺も行こうかな」


 今度は俺がキョトンとして彼の顔を見つめる番だった。


「お使いはどうするんだ」

「どうせ修業だしな、急いでも変わんねぇよ」

「こっちは修業じゃなくて、実戦になる。大森林も相当に危ない場所だし」

「だから行きてぇんじゃねぇか」


 ジョイスには躊躇というものがなかった。こんなにあっさり行先を変えて問題ないんだろうか?


「いや、マオさんから預かってる手紙があって、それもついでに届けてもらおうかと思ったのに」

「あー、ま、それも急ぐもんじゃねぇだろうし、いいだろ。行きたいところ行ってからで」

「本当に大丈夫かな」

「へーきへーき」


 師匠が目の前にいないと、躾けられてないサルに逆戻り、なんてことはないだろうが。俺だっているんだし。

 だが、それはマオ本人と話し合ったジョイスの判断だし、俺が口を挟むことではない、か。


「面白そうじゃねぇか。人形の迷宮ブッ潰して、お次は大森林ってか。そりゃあ当然、行きてぇに決まってんだろ」

「命の保証はしないけど」

「じゃなきゃ修業になんねぇよ。望むところだ」


 そこまで言うのなら、連れて行ってもいいか。


「わかった。ただ、女絡みで事件を起こしたら、わかってるな?」

「しねぇよ! いつの話だ、そりゃあ」


 エロザルだから、そこだけは気をつけないといけない。こいつの起こした不祥事の後始末を俺が引き受けるなんて、冗談じゃない。しかも、俺が出会う相手だが、最近は特に、だんだんと身分の高い人が増えてきている。貴婦人の類にセクハラでもかまされたら、もう収拾がつかない。


「それはそうと」

「ん?」

「ジョイス、どうして僕らがここにいるとわかったんだ」

「あー、それか」


 座り直して椅子の上にふんぞり返ると、彼は手首で自分を扇ぎながら言った。


「噂を聞いたんだ」

「噂? 僕がここにいるってこと?」

「んー、そうじゃなくって、お前を探してる奴がいるらしくてよ、そいつが血眼になってお前の名前を広めてんだよ。ファルスの居場所を教えてくれたら、金貨百枚やるとか言って」


 はて? 誰だろう?

 賞金まで懸けるとは、尋常ではないが。


「どんな人だった?」

「俺は会ってねぇよ」

「そうか。誰だろう」

「一応、聞いた限りじゃ、割と大柄なフォレス人だったってよ」


 思い出せない。ピンとくるのがいない。


「男?」

「もちろん。んで、冒険者らしくて、あとは、髭モジャのハゲってことくらいかな、わかってんのは」

「ハゲ!?」


 思い出した。あいつだ。

 シモール=フォレスティア王国の高級ホテルにいる時、俺の宿舎を襲ったやつだ。


「まぁ、そういうことがあったんで、お前がいるかなーと思って」


 ジョイスは自分の指先を頭に向けて、くるくるさせた。

 人の心を読んで、壁も透視して、俺の居場所を知ったのだろう。彼の神通力では、直接には俺を視認できないが、ノーラなら発見できるのだし。


「見つけてここまで来たってわけだ」

「運がよかったな」


 フィラックが言った。


「明日にはもう、出発するはずだった」

「そいつは確かに運がいい。これもお師匠様のお導きかねぇ」


 だが、俺は既に思考の沼に沈んでいた。


「ギィ?」

「ファルス、どうしたの?」


 ペルジャラナンとノーラに声をかけられて、俺は我に返った。


「明日か。よかった。逃げよう」

「は? 逃げる?」


 ジョイスが素っ頓狂な声をあげる。


「逃げるって、さっきの野郎の話か? 誰なんだよ」

「わからない。だけど、一年前から僕を追ってるらしい」

「おいおい、ヤベェんじゃねぇの、それ」

「そう、多分、ヤバい」


 一年以上も前から俺を追い続けて、ここまでやってくるなんて、相当な奴に決まっている。戦えば勝つんだから、と甘く見るのは危険だ。サハリアでも、そうやって大きく構えていたからハビに殺されかけたのだし。


「去年、僕が泊まっていたレジャヤのホテルにも忍び込もうとして、警備兵を蹴散らしたそうなんだ。あれからずっと追ってくるなんて、ちょっとやそっとで諦めるような奴じゃなさそうだし、関わり合いたくない。それに、ハゲだ」

「ハゲがどうかしたのかよ」

「今までの人生、ハゲに関わってよかったことなんて、一度もない。ピュリスの海竜兵団の軍団長だったバルド、覚えてるか? 直接に会ったことはなかったっけ。あいつも手柄欲しさに好き勝手やってくれたし。アルディニアでも、サモザッシュっていうろくでもないハゲがいた。ハゲはダメだ。ハゲはダメなんだ」


 俺の突然のハゲへのヘイトに全員が目を丸くした。だが、知ったこっちゃなかった。

 こうなれば行動は迅速に。ハゲは避けるに越したことはない。


 ……ふと、他にもう一人、俺の人生においてハゲがいたような気がしたのだが、思い出しかけてフッと意識から消えてしまった。誰だったっけ?

 いや、悩んでいる時間ももったいない。


「そろそろ雨が降りそうだ。直した武具を引き取りに行こう」


 俺達はホテルを出て、まず冒険者ギルドに向かった。事前に話は通してある。今回は大金が動くので、ギルドが預かっている俺とノーラの所持金から差し引く形として、現金は持ち歩かない。いくらで商品を引き取ったかの記録だけ、受け渡す。そのための立会人として、職員を伴うことになっていた。

 それから歩いて、例の武器屋に向かった。


 開けた場所の一本道なので、進む先の様子はよく見える。さっきから背の低い誰かが出てきては、木箱を勝手口の方に運んでいるのがわかる。あれはクーだ。


「あ、こんにちは」


 彼は少し悲しげに微笑んで挨拶した。


「こんにちは……って仕事してるじゃないか。雇い直してもらえたのか」

「先月分のお給金をいただきにきたついでで、今日だけお情けで」


 残念ながら、どうにもならない。ここで俺が怒鳴りつければ、店主も一時的には命令に従うだろう。だが、根本的には何の解決にもならない。可哀想だが、これもクーの人生だ。

 それより、さっさと武器を引き取ってしまわなくては。


「お客様がおいでと伝えて参ります」

「ああ、お願い」


 運んでいた木箱を建物の脇に置くと、彼は表玄関から立ち入った。その後にゆっくりと続く。


「お待ちしておりました」


 少し前から俺達の到着を待っていたらしい。室内は燭台の灯火に照らされ、仕上げの済んだ武具の類がきれいに展示されていた。


「お確かめください」


 そう言いながら、店主は深々と頭を下げた。

 俺が目配せすると、フィラックとタウルは、やや緊張した面持ちで前に出て、手を伸ばした。


 二人とも、こんな武具を与えられたことなどないはずだ。

 フィラックには、ミスリル製の曲刀とアダマンタイトの小剣、それに赤竜の鱗をベースにミスリルのリングで補強した鎧を与えた。タウルにも、格闘戦用のミスリルの大型ナイフに、投擲用のアダマンタイトの小型ナイフをいくつかと、黒竜の皮革をベースにした防具を与えた。ペルジャラナンについては既に鎧があり、かつ本人が魔法を使う関係上、ミスリル製の剣とその予備、そして盾だ。これに加えて、俺自身が使う弓と鎧もある。ミスリルのリングで補強されてはいないが、赤竜の鱗と黒竜の皮革を重ね合わせた軽量な防具だ。これに四人分のマントがつく。

 合計で金貨一万三千枚以上。一財産だ。


「実際に身に着けて、体に合うかどうか、ご確認ください」


 二人は目を見合わせたままだったが、どうせ使うしかないのだ。腹を決めると、防具を抱えて奥へと着替えに向かった。


「派手に金遣ったなぁ」

「ジョイス」

「あん?」

「遠慮しなくていい。鎧はもう間に合わないが、今すぐ選べるのなら、武器を一つくらいは買ってもいいぞ」


 そう言われて、彼は手元の棍と見比べた。少しの間、考え込んでいるようだったが、すぐ頷いた。


「わかった。じゃ、選ばせてもらうか」


 特に新規の装備が買い与えられないのはノーラだけだ。とはいえ、彼女の道具はもう揃っている。

 俺も自分用の鎧を手に、カーテンを潜った。


「いい感じだな」


 着替えて戻って、鏡を見ながら俺は頷いた。一方、店主は不満げだ。

 せっかくの赤竜の鮮やかな色合いの鱗。それをルビーのように輝かせていたのに、俺の注文は「脱色」だった。今ではささくれた木の幹みたいに冴えない感じになっている。その他の部分はというと、やっぱりパッとしない緑色だ。

 そして、その上から灰色の、これも脱色した黒竜の皮革で作ったマントをかぶる。防水性に優れるこのマント、フードもついているので、雨天の行軍にはもってこいだ。


 わざわざ色合いを地味にしたのは、実用性を考えてのことだ。ギラギラに輝く真っ赤な鎧は街でパレードするのにはいいかもしれないが、大森林で探検するのに持ち込むとか、バカでなきゃできっこない。

 もっとも店主には、そんな実用性を考える俺こそが大バカ者に見えて仕方ないだろう。大森林に潜ったって、そんなに稼げたりはしない。儲けより大きな金額を装備に費やして、何をするつもりなのかと。


 だが、どんな目で見られようが知ったこっちゃない。俺は俺の目的に向かって邁進するのみだ。


「もうちょっと早く来たらよかったかも」


 ノーラが少し憂鬱そうに言った。


「どうした?」

「小雨が降りだしたみたい」

「ああ」


 それならこれらの装備はまた、袋にでも収納し直そうか。濡れたくらいで駄目になるものはないが、本格的に使う前からわざわざ汚すのも、どことなく気持ちがよくない。


「おい、ファルス」

「ジョイス、どうだ。いいのはあったか」

「この棍、お前の金で買っていいんだな?」


 見ればシンプルな棍だった。不透明な赤い金属の棒で、両の先端に金色の縁がついているばかり。


「それでいいのか? もっと取っ手に滑り止めのあるミスリルの棒とか、あるだろ」

「それに頼って型が崩れるのもまじぃだろ。これだったら多少は握り込める。雨が降って手元が滑るってのは、ま、気を付けるしかねぇな」

「いくらだって?」

「一千枚だとさ」


 はて、適当に金額を設定しているような気がする。この棒、ちょっと薄汚れた感じもするし、やけに年季が入ったもののように見えるのだが。ボッタクリなんじゃないか。


「重さは」

「結構あるけど、これくらいなら、ちょうどいい」

「なら、いいんじゃないか。でも材質は」

「よくわかんねぇ。アダマンタイトじゃねぇのはわかるけど」

「だったらいい」


 それとわからないのに魔法を阻害する道具を使われると困る。近くで戦っているだけでこっちの魔法が失敗したり、ひょっとしてジョイス自身の神通力の効きが悪くなったりしたのでは、想定外の危機を招くことになる。


「みんな、どう? 変なところとかは」

「ない」

「じゃあ、袋に詰めて持って帰ろう」


 それで俺達は話を纏めた。支払金額を確認して、ギルドの職員に伝える。

 あとはもう、明日の朝、クリルが馬車で迎えに来てくれるから、それまでホテルに閉じこもっていればいい。足早に俺達は外に出た。


 そこで俺は面食らって足を止めた。


「……へっへっへ」


 待ち構えていたのが、中年男の卑屈な笑顔だったからだ。

 既に雨は本降りになりつつある。誰もいない中央街の大通り、その歩道にクーと、みすぼらしい恰好の父とが立っていた。


「ご主人様ぁ」


 思わず舌打ちした。

 この手の人種が、俺はどうしても好きになれない。いや、まともな神経をしていれば、きっと誰だってそうだ。自分では何の努力もしないのに、飲んで、暴れて、要求だけする……


「うちのクーが、お世話になりましたぁ」


 俺達は軒先にいるから雨に濡れることはない。だが、二人は雨に打たれ続けている。クーは、申し訳なさそうに俯くばかりだ。


「憐れんでくだせぇ、クーは今日で仕事をなくすんです。おぜぜをいただけなくなるんで」

「なら、父親のあなたが自分で稼いで養うんですね」

「それが難しいんで、お願いしとるんです」

「僕の問題じゃない」


 馬鹿馬鹿しい。こいつに金をくれてやって、何かいいことがあるのか。俺からもぎ取った金でクーを学校に入れてやるというのなら、まだわかる。どうせ飲んで終わりにするだけだ。

 だが、俺の拒絶に、カッセルはまるで動揺しなかった。彼は口元に薄気味悪い笑みを残したまま、ゆっくりと向き直る。そして突然、隣に立つクーの頬を打った。


「何をする!」


 返事はなかった。抵抗もできず、逃走もできない。そんな我が子を、彼は容赦なく打ち据えた。


「やめろ!」

「こいつは」


 手を止めず、こちらを盗み見ながらカッセルは得意げになって言った。


「うちの子なんでさぁ。俺の子を俺がどうしたって、俺の勝手でしょうが」


 下劣な態度。この卑しさ、いやらしさ。

 俺は、理由のある怒りや立場の衝突、意見の不一致には、まだ辛うじて耐えられる。だが、こういうのだけはダメだ。


 瞬間的にカッとなって、俺はポケットに手を突っ込み、握り込んだ金貨を街路にぶちまけた。


「失せろ! この乞食めが!」


 カッセルは、降りしきる雨の中でも金属音に敏感に反応した。手を止めると、地面に向かって抱き着くかのように身を乗り出し、小さな金色の粒を拾い集めた。


「へへ、やっぱり若旦那は慈悲深ぇ方だ! よかった、よかった!」


 いっそ斬り殺してやろうか。

 そこまで考えて、なんとか思いとどまった。


「ありがとうございます。じゃ、お礼にこいつはお譲りしますんで」


 一瞬、クーの肩に手を置くと、そのまま道路の真ん中まで転がっていった金貨を追いかけて小走りになり、それを拾うと、そのまま反対側の建物の隙間からスラム街へと消えていった。

 それを見送ってから、ハッとした。クーはその場に立ち止まったまま、じっと俺を見つめている。俺はゆっくりと彼に振り返った。


「宜しくお願い致します、ご主人様」


 顔を伏せると、クーはその場に膝をついた。


 俺はたった今、奴隷を購入してしまったらしい。

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