カリ市内観光
「もう見終わってしまった」
王宮から港まで。まっすぐに伸びた大通り沿いの立派な建物は、ほとんどが交易に関する施設ばかりだった。まず宿屋兼飲食店。それから僅かな数の高級な小売店。この手の店舗は最低限の数が営業しているだけだ。あとは娯楽らしいものなどない。
それもごく当然の話で、この街にはそもそも市場が存在しない。真珠の首飾りの交易拠点としての価値ならあるが、それらは一般市民の経済とほとんど関係がない。
例えば、富裕な外国の商人がここにやってくる。一般の船員は、俺達が泊まったところより格が落ちる場所に落ち着くのだろうが、基本的にやることは変わらない。上の人間が取引をしている間は待ち時間だ。ホテルに留まってのんびり過ごし、酒を飲む。台風でもやってくれば別なのだろうが、普通は数日の休暇の後、また船上の人になる。
あとは本当にこの国の上流階級、王族や大臣達が手早く需要を満たすための仕事が存在するだけ。俺達が先日立ち寄った武器屋もそうだ。
だから、大通りの向こうの一般市民は、この中心街の必要に応じて、最低限の賃金で招かれる以外、関係がない。存在自体が無視されている。どうせ利益を産まない、どうでもいい存在なのだ。
しかし、では彼らはどこからやってきたのだろう。
「キトとは全然違う」
ノーラは、ついさっき着替えた。我慢強い彼女にして、ここの蒸し暑さには耐えられなかったらしい。黒いローブを脱ぎ、白いワンピースに着替えた。日差しを避けるために帽子も身に着けた。
「国、といっても全然違う理屈で動いてるってことか」
とにかく、利益は海の向こうから王宮まで、この大動脈で直接に繋がっている。だから、脇にある市街地にはほとんど何も落ちてこない。
市場がないから、庶民の生活の広がりも何もない。土地ならではの文化とか娯楽がまったく育たない。
「出歩いてるのもいないな」
フィラックも困り果てているようだった。
といって、宿に帰ればまた、あの神官長が粘着してくるだろう。いっそ居留守でも使おうか。
「ギィ?」
ペルジャラナンが声をあげて、一方を指差した。
そこには、弱々しい足取りで大通りを行く一人の少年の姿があった。
あれは、あの武器屋で働いていた少年だ。クーとか言ったか。
こうしてみると、彼の顔立ちは他のシュライ人とは少し違う。目鼻立ちがくっきりしていて、肌も少し色が明るい。どちらかというとサハリア人に似ているのだが、微妙に違う感じもする。
しかし、表情が暗い。また何かあったのだろうか。暇だったのもあって、俺達は自然と彼に歩み寄っていた。
「やぁ」
声を掛けられると、彼は浮かない表情のまま、こちらを見上げた。
「どうした。仕事のお使いか」
フィラックが気さくにそう話しかけたが、彼はしばらく俺達の顔を見比べるばかりだった。
「ん?」
「お仕事は、たった今、なくなりました」
なんと、あっさりクビとは。
「何かあったのか」
「別に、あれからは何も。ただ、代わりはいくらでもいるので」
この国は、貧民にはどこまでも厳しくできているらしい。ろくに教育も職業訓練も受けられず、真面目に働いてもこの仕打ちだ。
小さな罪悪感をおぼえて、俺はつい言ってしまった。
「この国に来て、僕らはまだそんなに経っていない。街をほとんど見ていない。案内してくれるか」
「それは、そう言われましても」
「多少の給金は出す」
そう言われて、彼は少しだけ元気になった。俺は数枚の金貨を取り出し、彼の手に握らせた。満面の笑みに変わった。
「それでしたら、今すぐにでも」
こうして俺達は、この少年を案内人にして、裏通りへと立ち入った。
しかし、なるほど、タウルが事前に言った通り、まるで別世界だった。
中心街の大きな建物の裏側の日陰を抜けると、そこには粗末な家々が並んでいた。古びた木材が乱雑に突っ立てられて、家の柱の役目を果たしている。一応、茅葺きということなのだろうが、屋根もろくにメンテナンスしていないのが丸わかりだ。遠目に見ても、雨漏りしてそうな状態の悪さだった。
通りに沿って、一定間隔で人がしゃがみこんでいる。昔、カチャンがロイエ市でやっていたような露店だ。薄汚れた布の上、もしくは直接地べたの上に座って、そこに商品を並べる。そのほとんどはガラクタでしかない。取っ手のない鍋、先端の折れた包丁。何に使うのかわからないが金属製のドアノブだけが置かれていたりもした。
それでも、商売をしている連中はまだましだ。何もせず、ただぼんやりと座っているだけの男達が目についた。別に怪我をしているのでもなく、働けないほど高齢なのでもない。ただ漫然と時を過ごしているだけ。仲間達と語り合うでもなく、いかにも退屈そうに一人でぼーっと通りを眺めている。
そこに喧騒はなかった。あるのはただ、完全な無気力。これだけ大勢の人がいるのに、中心街の西側は、照り付ける太陽の下、異様な沈黙に包まれていた。
「ええと、クー? と呼んでいいのかな」
「はい。クー・ハータラといいます」
このやり取りはシュライ語だ。だからノーラには聞き取れていない。だが、後ろでタウルがその場で通訳して、短く彼女らに伝えてくれている。
「じゃあクー、ここはいつもこんな感じ?」
「ええ、これが普通です」
いい大人が昼間から働きもせず、さりとて遊びもせず、無為に時を過ごしている。これが普通とは。
「何かやることはないのか」
フィラックが尋ねる。
「仕事をするとか」
「僕みたいな子供は、中心街のお店でお仕事をいただけることもあります。そこでご主人様に気に入ってもらえたら、年嵩の先輩みたいに長く使ってもらえるんです」
その辺の事情は、想像がつく。
この世界は機械化されていないので、男の腕力は重要な労働力だ。しかし、武力もまた腕力に依存するゆえに、抵抗する力をもたない子供こそが理想的な従業員たり得る。そこで年季を積んだのが、正式な下働きになれる。つまり、信用を積み重ねた人間だけが、社会に底辺として参加することを許される。
そこから漏れたのが、こうなってしまうのか。だが、こうして話してみるとクーは真面目でいい子だ。クビにしなければならないほどダメな少年ではないように思われるのだが。
「でも、こんなところでダラダラしていても仕方ないだろう。街の外に出て、田畑でも耕したらどうだ」
後ろでタウルが小さく首を振る。フィラックの無知ゆえだ。
クーはというと、素直に疑問に答えてくれた。
「ここの人達は元々、田舎の口減らしでここに来たんです。それじゃあ、あべこべです」
タウルが付け足した。
「農地はそんなに増えない。いいところはみんな、王族とか貴族の荘園になっている。だから、三人目からの子供は、親元から追い出される」
「追い出す! 親が?」
ムスタム出身とはいえ仮にもサハリア人、家族の絆を価値あるものとみなすフィラックには、少々信じがたい価値観だ。
「そうしないと生きていけない」
二人とも以前からミルークの郎党だったのに、こういう話をしたことはなかったのだろうか。ただ、フィラックに関しては仕える立場になって日も浅いし、機会がなかったのかもしれないが。つい二年前に奴隷船から解放されて、一時期はムスタムに戻りもしたのだから、ミルークに仕えていた期間は相当に短かったはずだ。
「でも、クー、それじゃあここの人達は何を食べて暮らしてるんだ」
「じゃあ、ご案内しますね」
辿り着いた先は、ちょっとした広場だった。目の前には陸屋根のみすぼらしい東屋のようなものがあるだけだ。しかし、床だけはしっかりしている。そこには水汚れのようなものも見て取れた。
「今は誰もいませんが、毎朝、ここで炊き出しがあるんです」
「誰が恵んでくれるんだ」
「女神神殿です」
そうしてみると、バーシュリクの集金活動も、必要あってのことなのかもしれない。ここの人間には仕事がない。で、人道援助をする。しかし、頭数が多ければ多いほど、支援額は膨れ上がっていく。一方で、ここのシュライ人は怠惰に慣れきってしまっている。彼の立場から見れば、軽蔑の情もわいてくるというものだ。
「随分とひどい建物だが」
「元々はもっと立派な石造りの建物だったそうです」
「どうしてこんな」
クーは肩をすくめた。タウルが代弁した。
「ここまでの露店で何が売られていたのか、見てなかったのか」
つまり、誰がどういう目的で拵えたものか、それがたとえ自分達を救うための公共施設であろうと関係ない。目先の利益や快楽のために、彼らはこの救貧施設の建材その他を持ち去って、こんなざまにしてしまったのだ。
「そこ、危ないから落ちないでくださいね」
クーが指を差した先には、ポッカリと穴が開いていた。
「なに、これ?」
「井戸です。水は一応、出ますよ」
但し、周囲の囲いはもう、取り去られてしまっている。水を汲みだすための釣瓶も残っていない。
「ただ」
「ただ?」
「たまにゴミとか赤ん坊が投げ込まれるので、もう誰も使ってません」
この一言に、フィラックは憤った。
「人殺しじゃないか! 戦じゃあるまいに」
だが、クーは静かに首を振った。
「病気になったり、食べるものがなかったら、投げ込まれます」
「神殿は助けてくれないのか」
「運が良ければ薬はもらえます。でも、ほら」
クーは上着を脱いで、背中を見せた。今も残る生々しい痣に、俺は思わず問い詰めた。
「薬を渡したはずだ。塗ってないのか」
「取り上げられました。もう、どこかに売られたはずです」
この国の底辺以下の連中には、長期的展望というものがない。彼から薬を奪ったのは親だろうか? しかし、クーがもし、この怪我のせいで病気になったり、死んだりすれば、今後彼から稼ぎを分捕るのもできなくなるのに。
そろそろ構図が見えてきた。
この国の王侯貴族には、二つの収入源がある。荘園と交易だ。農村の開発は、それ以上利用できる土地がないのか、それとも単に興味がないのか、これ以上は行われずにいる。だから余剰の人口が首都に流入する。ところが、この街には産業がない。要するに、一般の国民のレベルでは、既に成長しない第一次産業だけがあって、あとは工業も商業もない。なければ育成すればいいと思うのだが、これも放り出されている。教育も職業訓練も施されない余った人間どもだが、上流階級は彼らを交易利権に関わるプレイヤーに加えるつもりはない。貧しいものは貧しいまま、愚かなものは愚かなままだ。
しかし、そんな貧民どもでも飢餓に陥れば暴動を起こすかもしれない。一応、それを取り締まる武力自体はあるものの、すべてを暴力で片付けるのは高くつく。そこで帝都の援助を仰ぐわけだ。女神教は人道支援の名目で資金を提供し、こうして炊き出しをする。
するとどうなる? 彼らはますます学ばず、働かなくなる。それでいいのだ。なにせ彼らは捨てられた存在なのだから。そうしてやることがないまま、退屈に身を任せて子作りをする。それが世代を重ねて、今に至るということか。
「まだ見ますか」
「あ、ああ」
今から宿に戻っても、神官長に捕まるのがオチだ。しかし……
「いつも皆さんを案内しているのは、こちらです」
少し進むと、聳え立つ黒い影が目に入った。前世のビルとかマンションを思い出す。港に入る前、遠くから見えたあの高層建築物だ。それが通りの左右にあって、色濃い影を落としていた。
「誰が建てたんだろうと思っていましたが、前にここに来た船乗りの方に教えてもらいました。統一時代に作られた古い石造りの建物なんだそうです」
当時はどんな社会があったのだろうか。集合住宅を作るくらい、大勢の人が暮らせるようにするだけの経済的合理性があったのだろうか。
「でも、今は」
今は……なんだ?
そう尋ねようとしたとき、頭上で何かが動いたのに気付いた。視線を上に向けると、建物の窓から突き出された浅黒い細腕が見えた。
まるで漣のようだった。けばけばしくも安っぽい、真っ赤な、或いは黄色の布切れ一枚。よく見れば薄汚れている。そんなワンピース一枚の西部シュライ人の若い女達が、ベランダに身を乗り出してこちらに手を振っているのだ。
何を言っているのかはよく聞き取れないが、こちらを誘惑しているのは間違いない。
「売春婦達の巣、か」
フィラックは眉根を寄せた。
「皆さんにはお勧めしません」
クーは冷ややかな口調で言った。
「皆さんがお泊りのところには、お香を捧げ持つ女の子がいませんか」
「ああ、いる」
「あれは選り抜きの娘達なので、安心です。病気も多分、持ってませんし。僕がここまで案内するのは、一般の船員の方だけです」
こんなえげつない話を、彼は純真そうな清らかな瞳のままで語るのだ。
「格が落ちる宿だと、そういう女の子がいませんから。僕はよく、そういう宿の前でずっと立って、船員のお兄さんに声をかけるんです。話を聞いてもらえたら、ここまで連れてきて、僕が女の子を選り分けて、その中で選んでもらうようにしてます」
逞しいというか、なんというか。
彼の商売の仕方は良心的であると言える。仲介料は取っているのだろうが、その分、客の安全にも配慮している。とはいえ、クーはまだ九歳なのに。
「念のために言っておきますが、もしここの女の子が気になっても、一人で戻ってくるのはやめてくださいね。僕を通してください。特に夜は危ないですから」
「前に何かあったのか」
「ここで亡くなった船員の方もいまして。僕が案内した人ではないんですが、騒ぎになっちゃいました」
今の頭上で俺達に黄色い声を浴びせる娘達も、配給所の群がるばかりの男達も。誰もが皆、交易利権から滲み出る甘い蜜が薄まったのをすするばかり。もっとも活動的なのが売春婦で、あとはよくて露店商。本当に終わっている。
「哀れな」
フィラックは気分が悪くなったらしい。
「見れば子供みたいなのもいるじゃないか。あんな若さでこんな仕事をするなんて」
「本人は哀れだなんて思ってませんよ」
クーはあくまで冷淡だった。
「どうせこんなところで暮らしていたら、そのうち犯されます。なので若いうちから誰とでも寝ますから。誰が父親かもわからない子を産み落とすのも珍しくないし、そういうのはよく井戸に放り込まれます」
「女神がお許しになられまい」
「配給はもらえますから、許されていますよ」
まるで人間社会として機能していない。どうしてこうなったのか。
「そうじゃない。女神教でもモーン・ナーでもなんでもいいが、信じる何かはないのか」
クーは静かに首を振るばかりだった。
神なき世界、か。
ハビやデクリオンの言葉が、今更ながらに思い出される。ギシアン・チーレムは南方大陸を征服し、イーヴォ・ルーとその魔人達を打倒した。魔王の帝国を瓦解に追い込んだその後には、形ばかり残されたポロルカ王国を通しての支配がもたらされた。
それまでイーヴォ・ルーを信仰していた人々が、いきなり女神達を信仰するように求められたのだ。しかし、女神教は宗教としては欠陥品だったように思われる。というのも、具体的に規範を強制する部分がほとんどない。定期的に祈りを捧げるような習慣もないし、推奨される道徳の基準もない。性においても、強姦こそ許容されないにせよ、同性愛くらいならまったく問題としない。一言で言い表すなら、あなたは自由ですよと、それしかない宗教だ。
それでいて、イーヴォ・ルーのような具体的な恩恵をもたらすこともなく、目に見える権威も帝都の人間のそれしかない。心からの信仰を根付かせるのは、最初から難しかった。ましてやパッシャのような組織が真なる信仰を失わないよう、暗躍し続けていたのだ。
たった三百年で統一時代が終わると、南方大陸も動乱に見舞われた。この西部地域は相次いで王国の支配を脱したが、すぐさま対岸のサハリア人に征服された。ルアンクーの栄光はあったにせよ、長い歴史を無力感と怠惰の中でただやり過ごしてきた。
現代の彼らには、規範も理想も信仰も、何もない。昨日も明日もない。あるのは今だけだ。社会の骨組みたる伝統は、ただ破壊されただけで、再建されることはなかった。
「いったいどんな暮らしをしてるんだ」
フィラックがそう呟くと、クーは静かに頷き、答えた。
「では、お見せします」
ビルの谷間を抜けると、また雑然としたスラム街に入った。
ここはさっきの中心街の付近より、なおひどい状態だった。軽く斜面になっているらしく、足場もデコボコしている。そこに無秩序にバラック小屋のようなものが林立しているのだ。
「ここは?」
「僕の家です」
扉もなかった。形の不揃いな石を積み重ねただけの外壁。木の板の上に形ばかりの茅葺き屋根。中には部屋が一つあるだけで、テーブルも家具も何もない。あるのは寝床と、物置兼追加のベッドと思しきハンモック、それに足下に転がる酒瓶だけだった。
寝床の上には、太った女性が一人、こちらに背中を向けて寝転んでいる。
「他所の家を見てもいいんですが、だいたいどこもこんな感じだということで」
彼はそこまで言って、口を噤んだ。その視線が気になって、俺は振り返る。
俺達の後ろから、年齢の割には老け込んだ、浅黒い肌の男が登ってくるのが見えた。上半身は裸で、髪の毛は力なく垂れ下がっている。どうやら酒を飲んで酔っ払っているらしく、足下がおぼつかない。
「なんだぁ、てめぇらぁ」
恐れを知らない粗暴な態度に、昔の、それこそ前世の感情が刺激された。思い出したのは父だ。手をあげることに何の躊躇もなかったあの父親の姿に、彼の振る舞いが重なる。
もちろん、目の前の人物は俺の父ではない。戦うとなれば相手にもなるまい。かつ今の俺の身分は相当に高いので、ここで無礼討ちにしたところで、なんら問題はない。にもかかわらず、大昔の恐怖のような感情が、なぜか甦ってくる気がした。
「父さん」
俺達への失礼をやめさせようと、クーは前に出た。その彼を、一瞬じっと見据えてから、いきなり横ざまに打ち据えた。彼は仰け反って、石段の上に倒れ込む。
「おっ?」
クーの懐から転がり出た金色の何かに、彼は目敏く反応した。
「いいもん持ってんじゃねぇか」
「お客様がくれたんだ、だから」
するとクーの父らしきその男は、手早く金貨を回収すると、急に表情を切り替えた。わざとらしく笑いかけてきたのだ。
「いやー、どーも」
当然ながら、彼の視線はフィラックに固定されていた。この一行で最も身分が高いのは俺なのだが、紹介を受けていない以上、年長で、かつシュライ人ではない彼が主人に見えたのだろう。
「およ? んん? 飲み過ぎたか? ま、いいや」
それとなく混ざっているペルジャラナンに違和感を覚えつつも、彼は小さなことは気にしなかった。これは相当飲んでいるはずだ。
「おーい、カカァ! いんじゃねぇか。起きろ! お客様だぞ!」
昼寝中の妻に、彼は乱暴に呼びかけた。
「なんだぁ、起きやしねぇ……ま、いい、いい」
彼は俺達に振り返った。
「ま、家内は寝てますが、どーぞ」
「なにが?」
「かるーく突っ込んでやってくだせぇや」
この一言に、フィラックは愕然とした。
では、妻を抱けと、そう言ったのか? だが、この男は指で輪っかを作った。金さえくれるなら、妻の貞操なんかどうでもいいらしい。
「父さん、この人達はそういうお客じゃない」
「なんだ、男なら同じだろが、ええ?」
「クー、こちらは」
「ああ、済みません」
慌てつつも、クーは俺に説明した。
「父のカッセルです。済みません、酔っぱらっていて」
「なんだぁ、てめぇ、人を酔っぱらいみてぇに」
「父さん、この方達は」
「うるせぇ!」
もう一発、平手打ち。クーはまたしても倒れ込んだ。
「へへ……へへ」
それでスカッとしたのか、カッセルは奇妙な笑みを浮かべていた。
「あー、じゃ、もうちょい若いのがいいですかね、旦那様」
「私達は別にそんなことは望んでいない」
「まーまーまー、あとちょいしたら……おっ、きたきた! おい、早く上がってこい!」
俺達の後ろに、粗末な布切れを身に纏った少女が現れた。
俺はクーを助け起こしながら、小声で尋ねた。
「あれは?」
「姉です」
まだ十一歳だ。見た目は良くも悪くもない、十人並みの容姿といったところか。ただ、なんといってもまだ少女といえるくらいの歳でしかない。
だが、カッセルには関係なかった。
「こいつなら、へへ、どうですかね」
「クー、ここまでありがとう。僕らはやっぱりそろそろ帰る。見送ってくれないか」
俺はやや早口にそう言った。
やや強引にみんなを追い立てて急いで引き返したが、誰も逆らわなかった。
大通りに戻ってから、俺はまた、数枚の金貨を取り出し、俯いたままのクーに握らせた。
「今日はありがとう。この金貨は見つけられないよう、隠しておくといい」
「いいえ、ご主人様、お恵みをありがとうございます」
彼の返事に、俺は軽く頭を打たれたような気がした。
「お恵みじゃない。仕事の対価だ」
「ファルス様」
彼は泣き出しそうな笑顔を浮かべながら、ポツリと言った。
「あれでも、私の家族なんです」
「……わかってる」
彼はその場で深く頭を下げた。
俺は手を挙げて応えると、もう振り返らず、みんなして早足にその場を立ち去った。
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