魔王に囚われた哀れな民に救いの手を

 雨が止んだ。


 地上四階の客室から、通りの向かい側を見つめる。暗がりの中に冷ややかな貌をした、色褪せたミントグリーンの建物がうっすらと浮かび上がる。それはまるで、幽鬼の顔のようだった。

 この時間、大通りを歩く人はいない。裏側のスラムと違って、夜でも治安は悪くない。ただ、出歩く必要がないだけだ。飲食物から娼婦まで、すべてがホテルの中で提供されるから。けれども、どういうわけか大通りには街灯があり、そこでは一晩中、灯火が絶やされることはない。

 この高さだから、窓を開けっ放しにしても滅多に蚊が室内に入り込んだりはしない。下のフロアには虫除けのためもあって濃密にお香が焚かれている。おかげで、雨によって適度に冷やされ、洗い流された空気を存分に取り込める。


 昨日、武器屋に立ち寄ってからというもの、俺達は外出していない。暑苦しいから、というだけではなかった。

 ペルジャラナンの中では結論が出たらしい。どうしてリザードマンが人間に勝てないのか。理由は「人間のが怖いから」だそうだ。違いない。


 なんとなくだが、俺がこれまでの人生で見聞した野蛮さとは質の異なる残酷さが、この地には充満している気がする。あのクーという少年は、ただ鞭で打たれただけだ。戦争で何千人も殺した俺に比べれば、あの店主はずっと小さなことしかしていない。だが、何かが引っかかっていた。

 その思いはみんな同じらしく、誰も何も言わず、自然と外出を控えるに至った。


「こう、ずっと閉じこもっていると、気がくさくさしてくるな」


 フィラックがそう呟いた。

 その思いはみんな同じなのだが、うっかり出歩くことで、またどんな不愉快を見聞きするかもわからない。


「あと何日かの辛抱ですよ」

「やっぱり気にしなくていいじゃないか? あの後、あの……クーだっけ。あの子のために、わざわざ薬も買ってやったんだろう?」


 鞭の当たり方がよくなかったらしい。あとで背中を見せてもらったら、ひどい痣になっていた。別に俺が悪いわけではないのだが、多少の罪悪感もあって、あの後、薬屋に向かった。そうしてクーに軟膏を手渡した。


「よくなってるといいけど」


 ノーラの声も暗い。


「考えても仕方がない」


 タウルが淡々と言った。


「ここはそういう場所」

「金持ちが下っ端を当たり前のようにぶん殴る場所だと」

「あの子供は裏通りから雇ってもらった。裏通りから先は別の世界。ティンプーの王は、貿易からの利益にしか興味がない。特に街に住んでるのは、農地もないただの貧民。いなくなっても、入れ替えても、全然困らない」


 そして、最低限の仕事のために、メインストリートのお金持ちが「拾ってやる」だけ、か。


「どうしてこんな」


 詳しく尋ねようとしたところで、ノックの音に気付いた。フィラックが立ち上がって扉を開ける。

 立っていたのはホテルの召使で、来客があるとのことだった。しかし、夕食も済んだこの遅い時間に? ともあれ全員、俺を中心に座り直して、待ち受けることになった。


 その人物は、この土地にしては珍しく、仰々しい鈴の音もなしで、たった一人でここまでやってきた。ゆったりとした白衣に白い僧帽。そこに金糸で刺繍が施されている。三十代半ば、人種はフォレス人らしく髪は亜麻色だった。居室に立ち入る前から、彼は嬉しくてならないというようにニコニコしていた。


「このようなお時間に、大変申し訳ございません」

「いいえ、お気になさらず。どうぞおかけください」


 向かいの席を勧め、俺も椅子に腰かけた。

 そこにホテルの女給が白いカップを置いていく。


「済みません、この土地ではどのようにするのが礼儀に適っているのか……女神神殿の方が、ただの旅の少年騎士に、どのような御用がおありなのかと、ああ」


 この女神教の神官は、どこの出身だろうか。フォレスティアの上流階級だったとしたら、こうしていきなり用件から始めるのは、やや礼を欠いた対応になる。普通は庭の草花を愛でつつ、気持ちをほぐしてから語らうものだからだ。ホテル暮らしの俺達には、そんな対応はできないが、やはりそこは似たような気遣いをしなくてはならない。

 だが、考えすぎだったようだ。


「ご存じの上でのご訪問とは思いますが、一応……フォレスティア王の騎士、ファルス・リンガと申します。この度は南方大陸の大森林を目指しての旅の途中です」

「申し遅れました。私、カリの神官長、バーシュリク・タリムベルシュといいます。帝都から参りました。気軽にバーシュリクとお呼びください」


 帝都出身。なら、そこまで作法にうるさいということもなさそうか。

 けれどもそうなると、俺に会いたがる理由がわからない。いや、一応、俺は人形の迷宮を攻略したパーティーの一員ではあるし、あれから五ヶ月ほどが過ぎているのだから、ある程度の情報が行き渡っていても不思議はないのだが。


「バーシュリクさん、それで今夜のご訪問はどのような」

「はい。私は神官、つまりは聖職者でございまして、その目指すところは常に人々の救済です」


 どことなく宗教家の胡散臭さを感じて、顔が強張るのを感じた。


「僕は既に女神に跪いておりますが」

「もちろん、ファルスさんの信仰や女神への忠実など、いちいち疑うまでもないことでしょう」


 女神は女神でも、俺が心から跪くのはシーラだけだろう。もっとも彼女は、そうした振舞いを嫌がるのだが。

 この世界のその他の女神は、どれも信用ならない。シーラを追い立てたのは女神教の神官戦士達だし、モーン・ナーにしても、裏で魔物や吸血鬼を飼っていたのだし。


「信仰を新たにするのに無駄はないかと思いますが、では、それはそれとしまして」

「ああ、済みません。つまり、私が願いたいと思っているのは、この地に住まう大勢の方々の救済です」


 じゃあ、あれか。

 要は喜捨。寄付金集めのためにここまできた、と。


「なるほど、それは重大なお役目ですね」

「ご理解いただきありがとうございます」


 既に俺の頭の中は、こいつをどう追い払うかで占められていた。


「ファルスさんはこれまでフォレスティアで生まれ育ってこられて、今は旅の最中ということですが」

「はい」

「フォレスティアは恵まれた土地です。なるほど、今は大きな戦争こそないものの、国が三つに分割されています。しかし、早くから女神の導きを得ていたのですから」

「そうなのですか?」


 俺は首を傾げた。


「失礼ながら……僕が学んだ限りでは、女神教はかの英雄が世界を統一した後に広めたものとのこと。どの国でも一千年の歴史があるだけでは」

「それは違います。もともと女神はこの世界を生み出した存在ですから、最初に人々が信仰を捧げていたのも女神でした。確かに女神神殿の組織が今の形になったのはおよそ一千年前からではありますが、そもそもの信仰それ自体には、更に長い歴史があるのです」


 と言われると、そうなのかとも思う。

 シーラは、ウルンカの神だった。彼女が今でいうところのティンティナブリアに降臨したのがいつ頃かは、俺にはわからない。ただ、ギウナが滅ぼされたのが二千五百年前、ポロルカ王国の最古の時代まで遡っても三千年くらいしかないそうだから、シーラもそれくらいの時期にこの世界にやってきたのではなかろうか。

 世界の創造それ自体がその時期になされたのか、それとももっと古いのかはわからない。ただ、もしそれ以前から世界が存在したのだとすれば、それを生み出したのは女神達であり、また龍神達なのだとすることもできる。

 シーラが言うところのフィオレッチャやレハヤンナには、それぞれ別の神々への信仰があったに違いない。一部はシュプンツェやその敵対者だったミュアッソ、コーシュティなどに従っていたのかもしれないが、そうした外来の神々以外に従っていた人達、特に「混ざりもの」でないレハヤンナには、旧来の女神信仰が残っていたと考えても不思議はない。


「では、南方大陸は恵まれていない、と?」

「ええ。長らく魔王イーヴォ・ルーの支配下にあった、それは不幸な土地なのです」


 宗教に染まった人間の視点だと、そうなるか。

 フォレスティアには、細々と女神への信仰が残っていた。だから幸せ。お隣のセリパシアもセリパス教に染まっていたが、そこは一応、原初の女神と同一視されることもあるモーン・ナーの支配下にあったのだし、まぁ一応お仲間。一方、南方大陸には魔王がいて、一千年前の世界統一までは魔王を神様として崇めていたのだから、不幸せ。


「で、ですが、今は女神教の神殿もありますし、何の問題があるのでしょうか? 信仰のない時代なんて、一千年も前のことですよ」

「ああ、ファルスさんはご存じない。今もってこの土地には、女神教の力が行き渡っているとは言えないのです」


 さぁ、そろそろ集金トークか?


「それはなぜでしょうか」

「魔王が齎した災いは、この地に深く根を下ろしています。人々はいまだに悪徳に染まっているのです」


 さも嘆かわしいと言わんばかりに、彼は目を瞑り、首を振ってみせた。


「ファルスさん、私が申し上げたいのは、単に神殿への資金援助をして欲しい、というようなお話ではございません」

「えっ」


 お見通し、か。

 しかし、では、何をして欲しいのか。金はいらないのか。もしくは、金は欲しがりつつも、彼から何か見返りがあるというのか。


「私ども神官にとっては、この地に住まう人々を教化するのが使命です」

「はい」

「しかし、この悪徳に染まった土地では、彼らは救われないのです。ファルスさん、ご覧になられましたか。この美しい宿舎の裏に、どれほどみすぼらしい家々が連なっているかを」

「え、ええ」

「私としては、彼らに更生の機会を与えたいのです」


 何を言いたいのか、よくわからないが……


「彼らは哀れな存在です。女神の正義を知らないばかりに、ありとあらゆる悪徳に日々、身を委ねているのです」

「と言われましても、僕には何のことだか」

「いいですか、ファルスさん、彼らにはまず、家族愛すらありません。同じ町で生まれ育っても、連帯感もない。みんながみんな、自分の目先の快楽しか追いかけない。これは本当のことです」


 ホテルに入ってから一度しか外出していない俺に、そんなことを熱弁されても困る。


「女神神殿としても、どれだけの支援をこの地域に費やしてきたことか。ですが、何度努力を重ねても、ここでは何ら得られるものがありません」

「そんなにひどいものですか」

「端的に言って、彼らの心はいまだに魔王に囚われているのです」


 バーシュリクの表情には、確かな憤りが見て取れた。

 と同時に、そこには南方大陸の人々に対する軽蔑の感情も滲み出ていた。


「さすがにそれは言い過ぎではないでしょうか」

「いいえ」


 ここで彼は、チラッとタウルのほうを垣間見た。


「しかし、もちろんシュライ人が醜いとか、そういうことではありません」

「そうでしょうとも」

「然るべき機会さえあれば、彼らも更生できるのです。女神に仕える身としては、その機会こそを提供しなければなりません。だからこそ、他所からいらした有力者の方にお声がけさせていただいているのです」


 そうしてバーシュリクは、行き過ぎた激情を鎮めようとするかのように、そっと出されたお茶に口をつけた。

 俺はというと、そんな彼の考え方や振舞いに、多少の傲慢さを感じないでもなかった。この国の人々がこの国の習慣や考え方に従って生きていて、何が悪い?


「具体的には何をなさりたいのですか」

「新天地に彼らを送り出したい。そのお手伝いを、と」


 少し混乱した。新天地? それが彼らの幸せ?

 確かに環境を変えれば、人も変わることはある。ただ、生まれ育った場所を離れれば、いろんなものを失う。地縁、血縁は遠ざかるし、言葉も通じない外国であれば、苦労も大きい。食べ慣れた料理も見当たらないから、寂しさもひとしおだろう。


「よくわからないのですが」

「はい」

「要は外国にこの国の人達を送り出したいということですか?」

「その通りです」


 そんなことをして、何になる? バーシュリクや女神教の利益は?

 いや、仮に彼が狂った宗教家で、完全に善意で動いているとしても。海外に出たシュライ人が幸せになる姿がイメージできない。


「そんなことをして、何になるのですか」

「もちろん、徳を養うのです」

「学校にでも入れるんですか」

「いいえ? 当然、働くのですよ」


 頭の中のハテナマークが、ここでようやくかすれて消え始めた。


「ファルスさん、西方大陸にはまだ多くの魔境が残されております。特にエスタ=フォレスティア王国は、未開の地が数多く残されています。旧ロージス街道も途中からは人の近付けない場所になりました。トーキアが開拓されたのもそう昔のことではありません。何より、デーン=アブデモーネルとピュリスの間に広がる国土中央部の森林地帯の開発は、これからだというじゃないですか」

「確かに、陛下は国土の中央部を開発するために、水路の建設を進めておいででした」


 彼は身を乗り出して、目を輝かせ始めた。


「そうでしょう? より多くの人がより豊かに暮らすための大事業です。実に素晴らしい! しかし、大事業にはそれに見合った人の手が必要です」

「い、いや、待ってください」


 こいつは俺に何をさせたいんだ?

 もしかして、俺が口利きすれば、タンディラールが大量のシュライ系移民を受け入れるとでも思っているのか?


「僕は確かに王の騎士ですが、ろくに後見人もいない、貧農出身の少年ですよ?」

「またまたご謙遜を。であればなぜ、金の腕輪をこんなに早く授かったのですか。将来を期待されているからではありませんか」


 なるほど、そこまでの情報は把握の上での来訪らしい。

 それも当然で、この街の女神神殿の神官長、つまりティンプー王国における女神教のトップなのだから、当然、この国の大臣達とも横の繋がりもある。


「あのですね、そもそもティンプー王国として、勝手に国民が出ていくのを許すとでも思うんですか」

「そちらは問題ありません。既に帝都も多くの有望な青年達を受け入れておりますし」

「帝都が?」


 どういうことだろうか。

 その辺、あまり興味がなかったし、詳しいことがわからない。


「ですので、ここはファルスさんから一筆、陛下にご意見をですね」

「とんでもないことです。一介の少年騎士が、どうして一国の王を動かせると思うのですか」


 冗談じゃない。こいつ、俺に何をさせるつもりなんだ。

 今、タンディラールにそんな手紙を書いてみろ。きっとあの玉座の間で、彼は怒りと共に書状を破り捨てるに違いない。ゴーファト討伐でようやくピュリスの知人への嫌がらせを食い止めたのに、その後、俺はサハリアで彼の恨みを買ってしまった。


「確かに陛下があなたの手紙一つで動くとは思いませんが、何事も積み重ねです。陳情に陳情を重ねれば、人はその熱意に動かされるものです」


 ゾッとした。

 じゃあ、こいつ、まさか、俺がここにいる間中、ずっとこういう訪問を繰り返す気か。


「何より、哀れなこの国の人々を救うためです。ぜひご協力を」

「考えさせてください」


 ここは引かない。

 せいぜいのところ、一週間程度しかここには滞在しないのだから、一切をうやむやにしてすぐクース王国に向かう。なんとか乗り切ってやる。


「わかりました。今夜のところは、ではお時間も遅いですし、失礼させていただきますね」

「では、そこまでお見送りします」

「お気遣いは結構です。この街は夜でも安全ですから。では、またお話しましょう」


 扉が閉じられてしばらく。

 ノーラがぽつりと呟いた。


「遠くに行ったわ。近くにはいない」


 ほーっと息が漏れる。


「まさか来るとは思わなかった」


 振り返った俺に、タウルが短く説明した。


「あれは仲介。人を外国に送り出せば送り出しただけ、神官長の手元にお金が落ちる」

「ええ?」

「ここはそういう国」


 開いた口が塞がらない。

 それじゃあまるで人身売買じゃないか。


「あの手の連中はしつこい。多分、明日もまた来る」


 嫌悪感が胸の奥からじわじわと溢れてきた。

 俺は顔を引き攣らせながら、なんとかみんなに提案した。


「あ、明日は……じゃあ、ちょっとこの街を観光しようか」

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