カリの宮殿にて
海沿いを一昼夜、南下した後に航路を東に取った。夜が明けて甲板に出てみると、生暖かい南からの風が頬に触れた。頭上には、昨日まで見かけなかった黒雲が、濃淡をつけつつ広がっている。
この天候の変化はどうしたことかと思ったのだが、陸側に目をやると、不思議でもないとわかる。キトとカリの間を山脈が区切っている。水気をたっぷり含んだ南風は、ここで雨になって落ちていくのだ。このちょっとした地理的隔離が、南方大陸北部の少数民族にその存続を許したのだろう。
風上に向かって微妙に切り上がりつつ、船は徐々に真横から風を受けられるよう、向きを変えていく。急な揺れはほとんどない。ネッキャメルの海兵達の熟練がわかろうものだ。マストの上を見上げると、そこには赤と白の同盟旗がはためいている。それは灰色の空の下、やけにくっきりと浮かび上がって見えた。
昼前には、船はカリの港の付近に到着していた。ただ、入港はあちらの都合もある。水先案内人の小舟が出てくるので、その誘導に従わねばならない。もちろん、宗主国の軍船なので、当局も最優先で対応するのだろうが。
また甲板の上に立って、俺はカリ港の様子を遠くから眺め渡した。それは心躍るとは言えそうにない、なんとも表現しがたい雰囲気を伴っていた。
北の山脈を背に、市街地は東西にだだっ広く続いていた。その様子を一言で言い表せというなら「福袋の中身をぶちまけたみたい」な具合だった。
灰色のビルとでもいおうか、少なくとも四階建てはある集合住宅がいくつも聳え立っている。どのビルも上の方にはまた、木造の屋根のようなものが乗っかっていて、その天辺は色褪せた黄色、つまり茅葺きだ。そんな高層住宅は街の中心というより、少し東西に除けられたところに建てられている。また当然、その他の建造物もあるのだが、なんというか、遠目に見ても、どこか掘立小屋のような雰囲気がある。いかにもボロそうな黄土色の家々が、高層住宅の狭間を埋めているといった感じだ。
但し、街の中心部だけは違う。海からでも大通りが見えるのだが、その左右には色鮮やかなフォレス風の建造物が並んでいる。シックなワインレッドからすまし顔の薄い黄緑色まで、さまざまだ。ただ、それも真ん中の大通り沿いだけで、その裏側からは、途端にバラック小屋と呼んで差し支えのなさそうなスラムが広がっている。
その真ん中の大通りの彼方に垣間見える金色の屋根が、曇天の下のかすかな陽光を鈍く照り返していた。
この景色だけで、ティンプー王国の社会の実態が垣間見えるというものだ。
あれこれ想像してしまうと、俺は思わず溜息を洩らした。
「ファルス殿」
タジュニドが後ろから声をかけてきた。
「このまま、案内が来たら王宮に向かう」
「普通、待たされたりとかしませんか?」
シモール=フォレスティアの王宮ではそうだった。順番に召されて謁見の間に向かう。それが普通ではないか。
「我々は別だ。ティンプー王国は事実上、赤の血盟の……というよりは、ネッキャメルの属国だからな。帯剣したまま、乗り込む」
「やりますね」
なんとも尊大な。
だが、彼は首を振った。
「正直、この国では礼節などと言っておられん。法とか道理とかより、顔利きのほうがずっと大事だ」
そういえば、ハリジョンでも少しそういう話は聞いた気がする。秩序のない世界なのだと。サハリア人が横暴でも、その横暴なサハリア人がいないともっとひどいことになる土地なのだと。
「それに、ここの王族やその廷臣達には、まったく敬意を払う気になれん。本当に、形ばかりのものを好むだけの連中だ」
どこか遠い目をして、タジュニドはそう吐き捨てた。
船が着岸し、俺達が波止場に降り立つと、仰々しい恰好をした一団が現れて、深く身を折った。それは本当に仰々しいとしか言えなかった。
先頭にいた西部シュライ人の男は、頭に金の輪っかをかぶっていた。その正面、額のところには七色の羽飾りがあしらわれていた。それに、手首にも足首にも金の輪っかが嵌められている。シャツらしいものも身に着けていないのに、肩から胸にかけて、V字型の上着というか、装飾みたいなものをつけていた。多分、これがこちらの正装なのだろうが、これも赤と緑が交互にサンドウィッチされるデザインだった。長い腰布も同じで、なんとも眩暈を起こしそうな色合いだ。唯一地味だったのは、彼らが履いていたサンダルだけだった。
そのけばけばしい男は、こちらの先頭に立つタジュニドの前まで摺り足で近付くと、早口に何事かを述べた。声が小さくてよく聞こえなかったが、シュライ語であろう。彼が頷くと、その男もまた頷き、背を向けて先行した。彼のお供の男達はというと、左右に散らばって道を作った。彼らは先端にボンボンのついた木の棒を捧げ持ち、歓迎の意を表してか、一定のリズムで歌声のようなものを響かせた。しかし、彼らの表情は厳しく引き締められている。
この辺は、いちいち考えなくてもわかる。ティンプー王国は、先の戦争で黒の鉄鎖に降った。戦わずしてだ。その件について、ティズから咎めを受け、キトの事実上の領有権を喪失した。
そうなってから、初めて首都を訪ねる大使がタジュニドなのだ。ネッキャメルの頭領の一人でもあり、粗略な扱いはできない。と同時に、どんな要求をされるのか、恐れる気持ちもあるのだろう。
大通りには人がいなかった。立っているのは歓迎のために動員された男達だけ。誰もが強張った顔のまま、ボンボンのついた木の棒を揺らすばかりだった。
そのまま金属の柵に囲まれるばかりの王城の門を潜った。濠もなければ石の城壁もない。本気の戦争になったらどうするのか、と思ったが、そもそも彼らには戦い抜く覚悟などハナからないのだろう。せいぜいのところ、治安維持さえできれば、それで十分なのだ。
黒に近い灰色の、目の細かい石畳の向こうには、朱色に塗られた幅広の階段、黄色の列柱、緑色の屋根が見えた。どことなく前世の東洋を思わせるデザインで、その屋根の両端には、まるで天守閣のように何かの装飾が反り返っていた。
階段を登って宮殿の中に立ち入ると、途端にお香の匂いを感じた。
左右の屋根や壁に色鮮やかな絵画が描かれている。それは前世の基準では上手というより、どこかエキゾチックというか、独特の手法で様式化された表現だった。背景は緑、人の肌は赤、大地は黄色と、コントラストの激しい色使いで一切を単純化している。
全般に、宮殿の中は薄暗かった。一定間隔で燭台が置かれ、そこに火が点されてはいるのだが、どうにもガランとしていて、どこか寒々しい。だが、そんな薄暗いトンネルを抜けた先には、煌びやかな光が待ち受けていた。
何かにつけ派手すぎる国だとは思っていたが、玉座の間に達したときには、呆れて声が出そうになった。
丸い部屋の内壁には金箔が隙間なく貼られていた。そして部屋の奥にはピラミッドがあった。エジプトの四角錐ではなく、マヤ文明に見られるような階段状のやつだ。もちろんこれもすべて金箔塗れで、その一段ずつに何か動物の浮彫が施されている。その頂点には玉座があり、その頭上には天蓋まで取り付けられている。
もちろんその上、更に高い位置に天井がある。さては遠くから金色に輝いて見えたのは、ここの屋根だったか。
室内には臣下達が控えている。それぞれ四色、五色の腰布を身に着けていた。どうやら身分が高ければ高いほど、身に着ける衣服の色の数も増えていくものらしい。ただ、頭に羽飾りをつけているのはいない。
左右の脇にはカーテンがかけられている。その向こうから、銅鑼の音が響いてきた。
「我らが賓客、タジュニド・ネッキャメルを歓迎する!」
そのような声がどこかから聞こえてきた。ピラミッドの上に座ったままの王ではない。
この辺りの言葉遣いには、なんとも彼らの立場と振舞いの難しさが滲み出ている。ここまで仰々しい連中が、王の権威を強調せずにいられるわけがない。しかし、赤の血盟は事実上の宗主国だ。といって、壇上から王が降りてペコペコするのも極まりが悪い。
廷臣の一人が進み出て、一礼してから膝をついた。
「タジュニド様、ようこそお越しくださいました」
甲高い声で早口に彼はそう述べた。もちろんシュライ語で、だ。
なお、彼の後ろには、どういうわけか俺達が普段着のまま従っている。つまり、俺やノーラ、ディノン、フィラックやタウルにペルジャラナンまで。前もってタジュニドから「そのままついてきてくれ」と言われたからそうしたが、やっぱりまずかったんじゃないのか。この異様な集団に、ティンプー王国の大臣達も眉を顰めずにはいられないのだろう。ざっと見渡しても、何人かは明らかに不機嫌そうだった。
「して、本日のご用向きはどのような」
「ティズ・ネッキャメルよりの親書を届けに参った」
タジュニドは平伏もしていないし、腰に帯びた剣を預けてもいない。それをあちら側は咎めることもできないのだ。思うに、俺達が当たり前のように宮殿に出入りすることも含めて、あちらへの威圧になっているのではなかろうか。
廷臣は膝をついたまま親書を受け取ると、そのまま腰を低くしたまま引き下がり、それを王の座るピラミッドの下に控える男に手渡した。すると男は、その親書を長い棒の先に挟んで玉座の前に膝をつき、その先端をそっと差し出した。
あくまで王様はピラミッドの上。そこに足をかけて登っていくわけにもいかないから、か。でも、さすがに不便すぎやしないか?
静まり返った玉座の間に、紙をめくる音だけが聞こえた。
息の詰まる時間だと思ったのだが、そのうちにその音さえ聞こえなくなった。そうしてしばらく、そのまま時が過ぎた。
「カパル王よ」
タジュニドが呼びかけた。
「その親書に書かれていることはすべて事実である。秘密にすべきことは何もない。廷臣達に読ませても、何の不都合もない」
玉座の上にいる王の顔はよく見えなかったが、彼が手を振ったらしいのはわかった。それで足下の男がまた跪いて、長い棒を差し出す。そうして手紙を返すと、それは間近にいる大臣の手に渡された。
反応は劇的だった。喉に餅を詰まらせたような顔をして、彼はすぐ隣の大臣に手紙を渡す。すると、すぐにまったく同じ表情を浮かべた。
ティズはいったい、何を書いたんだろう?
そう思って首を傾げていると、タジュニドが一歩下がって、俺をそっと真ん中へと押し出した。
「書面の通り、赤の血盟はカリ南東の城砦に身を置いて、貴国の防衛に協力する」
その辺は別におかしなことは何もない。以前にもファフルがやっていた仕事だ。
だがどういうわけか、大臣達の視線が俺に突き刺さっているのだが。
「また、こちら、フォレスティア王の騎士ファルスは、ティズ・ネッキャメルの個人的な友人でもあり、賓客である。この度、南方大陸を旅するにあたって不自由があってはならぬ。カパル王自らが一切の便宜を図って手助けするよう求める次第」
そんなことを書いたのか? やり過ぎだ。あちらもわけがわからないだろう。
俺が一人でアルハールの艦隊を全滅させた件とかまで書いてあったりとかはしない……と思うけど。口裏合わせの意味がなくなるから。
「なお、ティズへの非礼は問われずとも、ファルスへのそれは決して見逃されはせぬと言伝されている」
外向けにそういうことを言わないで欲しい。無表情を装っているものの、今、この場で一番怯えているのは俺だと思う。
この言葉に、廷臣達は顔を見合わせてざわめき始めた。
頭上のピラミッドに動きがあった。椅子の上に腰かけていた王が立ち上がったのだ。
それと察した廷臣達は目の色を変えた。左右のカーテンから従者達が金色の踏み台をもって駆けつけ、ピラミッドのすぐ足下に置いた。そうして俺のすぐ目の前にももう一つ、踏み台を用意すると、その場で両膝をつき、頭を垂れた。まさかここに立てと?
カパル王が踏み台の上に足を下ろす頃には、すべての大臣達が膝をつき、目を伏せていた。
王は小柄で細身な男だった。四十代に差し掛かった彼の顔には深い皺が刻まれていたが、髪も髭もなかった。毛皮のマントを身に纏い、頭に金の輪っかと三つの羽飾り、腰布は七色だった。なるほど、これが最上位を占める王の衣装か。
彼は口元では笑っていたが、目元にはいじけた怒りのようなものが見て取れた。こんな子供にも頭を下げねばならんのか、という心の声が聞こえてくる。
「ようこそ我が国へ」
「お招きいただき光栄です」
最低限、礼を失することのないようにと、俺は言葉遣いだけは余所行きにした。というか、それ以上何ができるだろう? 次の言葉が出てこない。
「それで、ファルス殿が望まれるのは、どのようなことか」
頭の中で忙しく計算する。
これ、必要かな? いや、ティズは俺のためにこういう段取りを……権力者の庇護がないとこの土地ではよっぽどやりづらいとか……ええい、素直に考えを述べるだけだ。
「私と供の者達は、女神の正義を明らかにすべく、これから魔の領域、大森林に挑みます。この地で準備を整え、ウンク王国の関門城を目指したいと望んでいます」
「承知した。一切の不自由をさせぬよう、臣下に命じておく。カリを我が家と思って過ごされるがよい」
よくよく考えれば、怯える理由もないはずだ。俺は今まで、タンディラールやミールといった国王と真っ向から話をしてきた。神聖教国のドーミル教皇という大国の元首とも。ティンプー王国なんて、小国中の小国じゃないか。
甘く見られまいと表情を引き締めていたのだが、その無表情のせいか、逆にあちらが不安になっているのかもしれない。場の緊張が解けていかない。
「取り急ぎ、宿舎を用意させていただいた。そちらにてお寛ぎいただきたい」
心の準備ができなかったという点で、まったくもって心臓に悪い会見だったが、タジュニドに言わせれば、当面はあれで十分だとのことだった。
南方大陸西部の国々では、とにかく縁故がものをいうらしい。頂点に立つ王を台座から引きずり降ろして喋ったという事実を、廷臣達に見せつける。そうすることで、俺が今後、何か面倒ごとに巻き込まれた場合でも、便宜を図ってもらえる。裁きにおいても、法律とか道理といったものより、立場の強弱がダイレクトに影響するのだとか。
タジュニド自身は間もなくこの地を離れてまたサハリアに帰ってしまうので、いつまでも面倒を見られない。そのせいでカパル王がこちらを軽んじる可能性もあったために、あえて釘を刺しておきたかった、とのことだった。
実はこういうのは苦手なのだが、そもそも初対面のティズに喧嘩腰だった俺が、ティンプー王国の主ごときに怯んだりするなんて、想像もしなかったのだろう。
ただ、それにしても、ここまで大袈裟な儀式が必要だったのか。そう尋ねると、彼は「足りないくらいだ」とさえ言った。
シュライ人は「物覚え」が悪く、とにかくその場で力を見せつけてやらないと、すぐに裏切ったりごまかしたりする。長期的な視点でものを考えず、その場しのぎばかりをするので、あてにならない。だからしっかり脅しておく必要があったのだ、と。
ともあれ、こうして俺達は要人用の宿舎を割り当てられ、一息つくことになった。
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