キト出発前夜
「ようやくご用意できました」
一度目の俺のお願い……彼にとっては命令……に比べれば、遥かに容易な仕事に、しかし彼は必死になって取り組んだ。
長官の邸宅の奥の間、その正面方向をまっすぐ進んだ先には、ちょっとした謁見の間がある。突き当たりには君主のための玉座があるばかり。左右にはレースのカーテンがゆったりとかけられている。涼を取るために窓は開け放たれているが、虫が入ってくるのを防ぐ目的で、お香が焚かれていた。そろそろ夕刻ということもあり、日差しにも黄色いものが混じってきている。室内が暗くならないよう、燭台にも火がともされていた。
それにしても、ちょっとした雑用をお願いしただけなのに、彼の仰々しいことときたら。
「お確かめください」
俺を玉座に座らせ、その前にテーブルを運び込ませて、彼はそっと木の器を置いた。そして恭しく跪く。
中にあるのは、キトで入手可能な植物の種だ。なるべく状態がよく、しかも目立つ色合いのものをという要求にした。サイズも小さすぎず、大きすぎず。
言わずと知れた、種爆弾のための準備だ。つまり、予め俺の中に仕込んでおいた植物の種を敵の魂に放り込み、本来の肉体を奪う。そうすれば、相手のスキルを丸ごと損なわずに奪い取れる。
反省を生かさなければ、それはただの後悔、自己憐憫と変わらない。俺は今まで目的を果たすことしか考えてこなかった。強くなるのはそのための手段で、だから能力を奪うのも、あくまで必要だからやるというだけにとどめていた。その甘さ、先を急ぐあまりの「手抜き」が、前回の危機を招いた。
せっかく魔物犇めく大森林に挑むのだ。可能な限り能力を奪いまくる。少しでも自分を強くする。自分だけではない。ノーラやペルジャラナンといった味方も、できるだけ強化する。
ピアシング・ハンドを最大限生かすことを考えたら、どこかで仲間を信頼する覚悟が必要になる。なぜなら、俺自身の能力枠は加齢によってしか増やせない。そして不老不死を目指す以上、老化は最も避けたいリスクだ。
一見すると、一日に一度しか能力奪取できない制約ゆえに、奪うほうが大変に思われる。だが実は、それを利用する枠を得ることの方が、遥かに難しいのだ。
「あ、えっと、シックティルさん」
「そろそろ呼び捨てにしていただけるとありがたいのですが」
種に手を伸ばして検分し始めたところで、彼が跪いたまま動かないのに気付いた。
「いえいえ……待ってなくてもいいんですよ? お忙しいでしょうし」
「これは失礼しました」
彼はスッと立ち上がると、恭しく一礼し、引き下がって言った。
「私としたことが……お邪魔をするつもりはございませんでした。どうぞ、ごゆっくり」
そのまま彼は静かに部屋を退出していった。
なんというか、必死なのはわかるのだが、距離感がある。それも当然か。フィラックやタウルとは、短いながらも戦場で共に戦った。彼らが奮戦したのは俺のためではなく、かつて恩義を蒙ったミルークのためではあったが。そんな義理堅い態度に俺は好感を抱いているし、彼らもそれはわかってくれていると思う。だが、シックティルと顔を合わせたのは、ついこの前だ。だから、彼は俺の怖さしか知らない。しかも伝聞だ。
まぁ、仕方ない。
それに、俺のことを恐れているうちは、キトに圧政を敷いたりはしないだろう。
そう自分を納得させると、俺は改めて器の中に指を突っ込み、使えそうな種を選り分け始めた。
夕食後。
明日には船に乗ってキトを離れるということで、シックティルは盛大な宴を催した。これも彼なりの忠誠心の表れである以上、俺も笑顔で付き合わざるを得なかったのだが、おかげでこの時間になっても、作業が終わらない。
既に窓の外はとっぷりと暮れており、黒一色に塗り潰されていた。そんな中、俺は手を休めずにひたすらペンを動かしていた。
「ああ、ありがとう」
「ギィ」
机の上の燭台の蝋燭が尽きそうになっていた。そこにペルジャラナンが手をかざして、魔術の火を点したのだ。
俺の居室には、ノーラとペルジャラナンがいる。明日出発というのもあり、今となっては遊びに行くところもない。それで二人は、街中で買ってきたチェスを持ち込み、俺のキングサイズのベッドの上に座り込んで遊んでいるのだ。
「ファルス、そんなに根を詰めなくても」
「あと何ページかだけだから。今やっておかないと、後悔するからね」
俺が取り組んでいたのは、ティズから譲り受けた魔術書の読み取りと、その筆写だ。すべてを書き写すのは無理なので、例によって要点だけ抜き出してメモに取る。これで魔物から能力を奪い取ったとき、速やかに魔術を使えるようになる。
実のところ、この一週間はこの仕事にほとんどかかりきりだった。だから、キトの街の観光はそんなにできていない。ペルジャラナンの案内も、ノーラに任せきりだった。
「それより」
俺はペルジャラナンに振り返って言った。
「どうかな、秘術の調子は」
「ギィ!」
威勢のいい声が返ってきた。
同行するフィラック達には不審がられるかもしれないが、大森林に入る際には、俺は火魔術を封印する。枠がないだけだが。
轟音をたてて周囲を焼き尽くす魔法など、密林の中で乱発したら大変なことになる。といって、火魔術の便利さも熟知しているので、利用する可能性をゼロにもできない。そこでペルジャラナンだ。彼に「秘術」と称して、魔術核とスキルを移植した。但し、俺の限界を超えない程度に。
それから俺達三人にはもう、病原菌耐性の能力も付与してある。ゴキブリには感謝するしかない。足をもいだゴキブリ達はまだ生き残っているので、フィラックとタウルも、同様に守るつもりだ。
だが、問題はこの先だ。
ちょっと試しにペルジャラナンに精神操作魔術のスキルを移植してみたのだが、まず詠唱ができない。「ギィ」か「シュウ」しか言えないので、それも無理はない。まだ年若い彼なので、実は相当に無理をすれば、人間の発声を真似るのもまだできるのだが、相当に息苦しくなるらしい。一度やってもらったのだが、なんだか喉の奥で喋ってるみたいで聞き取りづらかった。これでは人間用の魔術書を読んでも、詠唱など不可能だ。
彼が火魔術を使えるのは、リザードマン用の手順が代々伝わっていて、それを学んだからに過ぎない。それらは口伝でしかなく、他の魔術を使う際にはどうすればいいといった情報はどこにもない。強いて言えば、レヴィトゥアが使っていた力魔術なら、或いは誰かが教えてくれるのかもしれないが。
せっかく捨てるほど精神操作魔術の能力が余っているのに、口惜しいといったらない。
「実は、他の秘術もあるんだけど、その……副作用があるんだ」
「ギィ?」
ペルジャラナンの能力枠は、まだ五つもある。全部埋める必要はないが、あと二つか三つか、何か突っ込んでもいいと思う。
しかし、魔術がダメ、戦闘技術も剣、盾、格闘と一通りは揃っている。投擲を覚えさせる手もあるが、両手が塞がる彼に習得させるメリットがどれほどあるか。となると、神通力などから選び取るしかない。
だが、それも候補が絞られてくる。『魔導治癒』なんかは、既に『高速治癒』を備えている彼にはもったいないし、ミスリルの武器に耐性がなくなる。俺もノーラもそれで回復するしかないので、全員が同じ弱点を持つのは避けたい。
つまり、彼に適用できるのは現時点では……『怪力』『暗視』『透視』『鋭敏感覚』『壁歩き』『痛覚無効』『無光源強化』……これらとなる。どれも微妙過ぎる。『飛行』など、明らかに使えないものを除くと、これらしか残らないのだが、それにしても使いにくそうなものばかり。
壁歩きの能力は、体が慣れないと転んでばかりになる。痛覚無効は必要な痛みにも気付けない。無光源強化は闇の中では強力だが、よりによって火魔術を使う彼には、相性が悪すぎる。暗視は夜でも明るく見えてしまうので、眠るときにちょっと落ち着かないくらいのデメリットで済むのだが、既に『熱源感覚』を持つ彼にはありがたみが薄い。怪力はダイレクトに戦闘力を増してくれるが、程度を弁えないと日常生活に差し障りが出てくる。透視も鋭敏感覚も、それぞれに慣れが必要だ。
なお、竜人であるペルジャラナンなら、或いは『ビーティングロア』も使いこなせるかもしれない。少なくとも、試してみる値打ちならある。ただ、集団で活動するのにあれをやられるのは厳しい。敵も硬直するが、フィラックやタウルも巻き添えになる。
都合よく人間の敵が出てきてくれないものか。
戦争のときに、盾の扱いに熟達しているのがいただろうに、奪っておけば……
そこまで考えたとき、どうも思考が危ない方向に突き進んでいるような気がした。
俺は大勢の人間を手にかけたことを、本当に反省しているのだろうか?
「まぁ、それは後で相談しよう」
するとペルジャラナンはまた、俺のベッドの上に引き返していき、ノーラの向かいに座った。
なお、今の彼は念願の服を身に着けている。といっても、やはりリザードマンの体型にきっちり合うものなどはないので、サハリア風の貫頭衣をベースにしたものだ。上着は白地にところどころ赤い筋の入ったデザインのもので、下履きは紺色だ。なんだか前世日本の巫女さんとかをイメージさせられる色使いだ。どちらもブカブカに作ってある。特に上着は、尻尾を覆い隠せるくらいの丈になっている。そこに西部サハリア風の円筒形の帽子までつけてある。職人が苦労させられたのは靴らしい。ギザギザした爪のついた頑丈な足にピッタリ来るものは作れず、かなり歪なサンダルを拵えるのがせいぜいだった。
しかし、そうした苦労は無駄にはならなかった。少なくとも、この街でペルジャラナンを連れまわして歩いたとき、住民が恐怖の表情を見せることはなかった。服という記号を身に纏うことで、人間社会に取り込まれた存在であることを、誰もが直感的に理解したからだ。
もしこの効き目を前もって想定した上で「服をくれ」と言ったのなら、ペルジャラナンは相当に頭がいい。多分、そんなんじゃないと思うが。
なお、これとは別に、もう一式、ペルジャラナンには服が用意されている。
黒竜の皮と赤竜の鱗を組み合わせて作った、丈夫な鎧だ。こればっかりはカリでいくら探しても売っているものではないので、特注品を作ってもらえて本当に助かった。
あといくつか呪文を筆写しないと。そうしてまた、魔術書と紙片に向き合い、ペンを走らせる。
すぐ後ろからは、盤の上に駒を置く音がコツ、コツと静かに聞こえてくる。
「はい、王手」
「ギィイ」
「そっちは騎兵がいるわよ」
「シュシュウ……」
覚えたてのゲームで、そうそう勝てるはずもない。ノーラも手加減しながら遊んでいるようだが、基本的にはペルジャラナンが負けるようだ。
将棋か。懐かしい。最後に遊んだのはいつだろう?
前世の子供時代から思い起こして、より新しい記憶へと……あっ。
グルービーの邸宅の中庭で、裸将棋をしたのが最後だった。
やめやめ。思い出すの、やめよう。
それにしても、なんだか本当に夏休みみたいだ。
こんな風にベッドルームで夜中に将棋とか、何かの合宿みたいだし。
「これで詰み」
「ギィー」
思えば、やっとペルジャラナンにまともな人間の世界を見せてやることができた。ドゥミェコンを出て、いきなり戦争だったから。とんだとばっちりだったと思う。
なのに彼は文句の一つも言わない。人間にとっての普通を知らないからこそ、不満も出てこないのかもしれないが。
「よし、これで終わり」
今すぐには使う手段のない土魔術の使い方だが、目を通すだけでも意味はあった。どんな手口があるのかを前もって知るだけでも、相当にありがたみがある。
「終わったの?」
「明日、出発前にシックティルさんにこれを預ければ終わりかな」
魔術書をそのまま持ち歩いて紛失するのは、もう避けたい。未開の奥地を探検するのだから、そうなる可能性は十分にあるのだし。彼ならちゃんと管理してくれるだろう。
「じゃあ、今度はファルスが」
「そうするよ」
ノーラが横に座り直したので、俺は椅子から立ち上がって、ペルジャラナンの向かいに座った。
「じゃあ勝負」
「ギィ」
駒を初期位置に並べ直しながら、俺はノーラに尋ねた。
「今日は何か面白いところはあった?」
俺は魔術書の筆写にかかりきりだったので、こうして後から話を聞くくらいしかできない。
「大体のところはもう見終えちゃったから。今日はフィラックさんが腕試ししようって言って、ペルジャラナンと模擬試合してた」
「ふぅん」
フィラックもまぁまぁだが、生まれながらの戦士であるリザードマンと打ち合えるほどではあるまい。
「私もちょっと相手してもらったけど、棒術だけだと全然勝負にならなかった」
「それが普通だよ」
ノーラがしっかりしていてくれて助かる。
身の丈を越えて自分を強いと思い込んだら、とんだ落とし穴にはまってしまう。俺がいい例だ。
「だから私は先に失礼して、屋敷のメイドの人達とお喋りしてた」
「お喋り? フォレス語通じたの?」
「うん」
長官の屋敷だけに、必要もありそうだ。真珠の首飾りの北端に位置する港町には、いろんな来客がある。フォレス語とハンファン語は帝都の公用語だし、話せないと不便なのだろう。
「少し気になってたから訊いたんだけど、キトの総督にシックティルさんが就任して、どう思う? って話をしたんだけど」
「素直に本当のことを言うかな」
「私もそう思ってたんだけど、拍子抜けだったわ。誰でもいいし、逆らわないって」
なんとも無気力な。
自主独立、民族の誇り、みたいなお話はないものか。
「投げやりだね」
「慣れっこなんだって言ってた。私達はムワ・ポンギアナンだって」
「なにそれ?」
シュライ語にそんな単語、あったっけ。覚えている限り、辞書には載ってなかった。
「ものすごく古い言葉で、裏切り者とか、反逆者とか、そういう悪い意味の言葉みたい」
「それ、他のシュライ人がそう呼ぶんだ?」
「うん。だから、私とかファルスは気をつけたほうがいいって言ってくれた。特に西部の国々では、ムワだって思われると、一段下に見られるから」
なるほど、俺もノーラも、肌が白くて髪が黒いから、混同されかねない、と。
「キトの人達は、ずっと逆らわないで生きてきたって言ってた」
「そういえば、最後に独立してたのって、いつだったっけ」
世界統一前の南方大陸は、ポロルカ帝国の支配下にあった。当然、北部地方の黒髪の人々もそうだったはずだ。
英雄による世界統一が達成されてからも、南方大陸全域の支配権は、同じくポロルカ王国に残った。男系の血統はギシアン・チーレムのそれになったが。それが揺るがされたのが偽帝の大乱で、フォレスティアにおける会戦で大軍を失ったポロルカ王国は影響力を失い、各地の勢力が独立し始めた。
名目上、ポロルカ王国に臣従しながらも、半独立状態にあった西岸の諸都市だったが、そのうちにすぐ西方のサハリア人の征服を受けて、事実上、そちらに服属するようになる。それを覆したのが海賊王ルアンクーだが、つまりその時代にはキトもルアンクー王国の領土内に組み込まれていた。現ティンプー王国の後背地であるクース王国なども同様だった。
それが彼の死と同時に、この海洋帝国は一気に解体され、またサハリア人の征服とシュライ人の抵抗とが繰り返された。百年後にベッセヘム王国が成立し、三百年ほどは形ばかりでも支配を保ったが、これも今から百年ほど前に滅亡し、領土は三つに分割された。この時代も一貫して、キトは争わず、どこかの勢力の傘下に収まり続けた。
「六百年前から五十年くらいは一応、キトに王様がいたらしいけど……別に懐かしむ気持ちも何もないって」
そうしてみると、キトの人々は、一貫して弱者として振舞うことで、矢面に立たない生き方を選んできたのだろう。
キトの経済規模はカリよりは小さいが、無視できるほどのものでもない。やり方次第では、再度の独立だって不可能ではないのではないか。しかし、それでもなおティンプー王国の下に留まり続けた。推戴できるような王統がないのも理由の一つだろうが、そもそも彼らは「責任を取らない」という選択肢をとったのだ。何かヘマをしたとしてもすべて上が悪いんです、で済ませる。誰が何を言っても大人しく服従する。
どうせ海峡はサハリア人のものなのだ。意地を張るだけの値打ちなんかない。
「昨日、街中の女神神殿に行ってきたんだけど、驚いちゃって」
「なんで?」
「すぐ隣に、古伝派のセリパス教会があったのよ」
「はぁ」
「で、向かいには聖典派のセリパス教会」
思わず失笑を漏らした。
信仰心もありませんってか。外来の船乗りのための、とりあえずの宗教施設があるだけ、と。
「一番ボロボロだったのは古伝派のセリパス教会なんだけど、もともとは全部ここの敷地だったみたい。そこを切り売りして作ったんだって」
「そりゃひどい」
すると俺の想像通り、ここの人々の本来の宗教は、古伝派のセリパス教だった。彼らは古代ルイン人の生き残りの可能性が高い。
ただ、掘り下げても、もう何も古代の秘密なんか残っていないだろう。
「ギィ!」
「あっ」
会話に気を取られていたら、王手がかかっていた。
今になって慌ててあれこれ考える俺を見て、ペルジャラナンはちょっと得意げだった。
翌朝、俺達はシックティルに見送られながら、キトの港を後にした。
次はカリ、ティンプー王国の首都に向かう。休暇は終わりで、ここからが本当の旅の始まりだ。
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