第三十一章 泥土の国々
風光明媚の地
高台の上に、ふっと涼しい風が吹き寄せる。それも一瞬のことで、また湿気ったぬるい空気が周囲に満ちてくる。
視線を北側の農地に向けると、そこは緑一色だった。岩山の向こうには、ひたすら規則正しく茶畑が広がっている。茶の木は強すぎる日差しを嫌う。だから夏場の西日を避けられるよう、こうして岩山の裏側で栽培しているのだ。それでも日差しが強すぎる場合には、わざわざ丈の高い木を植えて、日除けにしたりする。
翻って南西方向を見下ろすと、そちらは斜面に沿って白い壁と瓦屋根の家々が建ち並んでいる。こちらは商業地区だ。黒々とした海面が波打って、時折陽光に煌めく。この商業地区と、背後の農地を結ぶ通路がいくつかある。岩山の狭間に石の階段が設えられているのだ。麻袋を背負った男達が、ポツポツと行き交うのが見える。
なお、南東方向に、ここよりもっと丈の高い山々が続いていて、そこから冷たい空気が吹き下ろすことがある。この街で一番の高所に陣取るこの場所でしか味わえない。
「いかがでございましょう」
俺の背後に立つ年老いたサハリア人は、くすんだ茶色と橙色の貫頭衣に身を包んでいる。その頭に乗っかっているのはもはやターバンではなく、総督の地位を示す冠なのだが、俺に対してはあくまで恭しかった。
「これがファルス様の街でございます」
「ティンプー王国の領土で、今はネッキャメル氏族の租借地でしょう」
その老人、シックティルはいつものように微笑を浮かべたまま、肩をすくめて言った。
「形ばかりのことでございます」
そうして彼は胸を広げて目の前にある館を指し示す。
「こちらが歴代長官の居館です。今は私どもに権利がございますので、堂々と立ち入りましょう」
建物だけを見ると、フォレス風の建築物に近い。青みがかったスレート葺きの屋根は角度が鋭い。サハリアと違って雨が少なくないので、陸屋根では雨漏りが避けられないためだ。正面から見るとコの字型になっていて、立派な入口がある。ただ、あちらの建物と違って近くには花壇の一つもない。高台、それも岩場の上にあるので、転落防止の金属の柵が突き立てられているだけだ。雑草の類もしっかり刈り取られている。建物に近い辺りはすべて石畳で覆われていて、排水機能に重きを置いているのがわかる。こうでもしないと、蚊が湧いて仕方がないのだろう。
玄関に立ち入ると、内装もフォレス風に近いとわかった。大広間の左右には階段があり、その下の正面方向はカーテンに覆われている。
「左右の翼には使用人の部屋などが割り当てられております。上がって二階には応接間が、まっすぐ進まれると中庭がありまして、それらを挟んだ反対側が、長官の私的な領域となります」
通常なら下僕にでも任せるような道案内を、彼は進んで引き受けている。これではキトの総督というより、まるでこの館の執事ではないか。
「お疲れのところ申し訳ございませんが、あと少しでございます」
「いえ」
中庭も緑でいっぱいとはいかなかった。あるのは人造の美ばかり。白い壁には、ギシアン・チーレムや女神達の事跡を描いた浮彫がある。その手前には木造の屋根がいくつかあり、その下にはやはり彫刻が飾られている。足下は真っ白な砂利で埋め尽くされていた。枯山水じゃあるまいに。
真ん中の通路の途中に噴水があり、そこを丸く迂回した向こうに東屋が一つ。そのまた向こうに進むと、やっとこの屋敷の本館となる。
「では、お寛ぎください。ただいま、召使がお飲み物を運んでまいりますので」
「あの」
俺はたまりかねて声をあげた。
「はい」
「僕だけそういう扱いを受けるのは、少し」
ここには、俺についてきた人間もいるのだ。ノーラ、ペルジャラナン、それにフィラックやタウルも。また、カリまで同行することが決まっているタジュニドとディノンもいる。
「承知しております。ノーラ様も大切なお連れ様ですから」
ほどなく何人かのメイドがやってきて、椅子を引いた。しかし、丸いテーブルの傍にあるのは三人分。じゃあ何か、座るのは俺とノーラとタジュニドだけ?
タジュニドには、これからカリに行ってティンプーの王にティズの親書を渡す仕事がある。ネッキャメルの頭領の一人であり、シックティルにしても敬意を払うべき相手だ。公的な立場でいえば一番身分が高い。
とりあえず、俺は彼が真ん中に腰かけるのを待ったが、彼はじっと立ったまま動かない。ああ、やっぱり。俺が座らないと、彼も座らない。
要するに、一番偉い人扱いだ。こういう時、当たり前のように振舞える人が羨ましい。どちらかというと、こういう時には、バタバタと立ち回ってお世話するほうが自分には向いていると思っているのだが。
メイド達がトレイに飲み物を載せて戻ってきた。涼しげな色合いの青い磁器。その中に見えるのは、なんと氷だ。暗い色のお茶にプカプカ浮かんでいる。
「間近にある山から冬場に集めておいた氷を氷室に収めてありますので、こうして冷たいお茶を供することができるのです」
「それは凄いですね。ただ、その」
「はい、何か」
俺は口をつけることができず、半ば懇願するようにして言った。
「他のみんなにも、同じものをお願いできますか」
「直ちに」
ここは下町より多少は涼しいとはいえ、やはりじんわりと汗ばむ陽気なのだ。俺だけ涼しい思いをするわけには、と思ってしまう。
この辺、タジュニドもいるので気が気でない。彼は何も言わないだろうが、この世界、身分があるのは当たり前のこと。下々の人間と同じ扱いをするという無礼に当たるかもしれないのだ。一方で、これから大森林に挑む俺達に、身分なんてものは無意味だ。生きるか死ぬかの世界では、そんなのは何の足しにもならない。
この点、自然と人の上に立てる風格があれば、困ったりはしない。タンディラールは俺について、王になる素質はない、向いていないと言ったが、まったくその通りだ。グラーブ王子ならどうするだろう? ピアシング・ハンドがなくても、ただの能力面でいえば、彼より俺が著しく劣るということはないだろうが、こういう場面では到底及ばない気がする。
「ここのお茶は、特においしいと有名なのですよ」
冷たさと一緒に、渋みがじわりと口の中に染みこんでくる。この居室の涼しさもあって、久しく味わったことのない快適さだ。
「キトの名産はお茶、それに今、お飲みいただくのに使っているその磁器です。真珠の首飾りの港町としては、やや地味な産物しかありませんが、それでも西方諸国には欠かせない品々なのです」
他の地域には、もっと売れる商品がある。例えばカリからはクース王国の貴金属、ウンク王国の希少な薬草が積み出される。他にも、真珠や珊瑚、エメラルドやサファイアといった宝石類が産出するところがあるらしい。
「それにしても、ここの人達ですが」
「はい」
「みんな黒髪で、肌は白いようですね」
シックティルもそこまで詳しく知っているわけではないそうだが、この地域には南方大陸の少数民族が暮らしているらしい。西部シュライ人というと、カチャンやタウルのような、いかにも黒人といった外見の人が多い印象だが、キトとその東側、海を挟んだ北部の一部地域には、こうした外見の人々が暮らしているらしい。ハンファン人とも微妙に違う。ムフタルはサオー出身とのことだが、先祖を辿ればここの出身なのではなかろうか。
キトの少数民族の由来は謎に包まれているらしいが、俺にはピンときた。贖罪の民に似ていると感じたのだ。思うに彼らは、古代ルイン人の生き残りなのではなかろうか。
「今、お寛ぎいただいているこちらの居間の真上が長官の居室で、つまりはファルス様のお部屋となっております」
「は、はい」
「ご覧になられますか」
俺が頷くと、彼は席を立ち、俺を手招きした。他の人が立ち上がりそうになるのを手で制すると、俺だけを伴って二階に向かう。
階段を登った先にあったのは、高い天井と、香りのいい焦げ茶色の木材をふんだんに使った心地よさそうな居室だった。入口の扉以外には、薄いカーテンだけが仕切りになっている。東西方向に大きな窓があり、開け放しにすることで風がよく通る。ベッドルームの脇には、個人用の居間に浴室まである。
「いかがでしょうか」
「立派な部屋ですね」
「気に入っていただければ幸いです」
あくまで恭謙な態度を崩さない彼に、俺は言った。
「ですが、僕はほとんどここに留まりません。シックティル様がここの総督なのですし、この部屋を使われては」
「とんでもございません」
彼は喉の奥で笑いを噛み殺すと、声色を落としてそっと言った。
「ティズ様からは、なんとしてもファルス様の不興を買うなと命じられておりますので」
「こんなことくらいで僕が文句を言うわけないですよ」
「そうはおっしゃられても、私としては……お耳をよろしいですかな」
そう言って、彼は俺の耳に口を寄せた。
「ハリジョンの沖に何が沈んでいるかを知ってしまっては、とてもではありませんが」
あれを見つけたのか。
「誰がそのことを」
「漁師ですよ。何にもないところに網を張ったつもりが、引っかかってしまったそうで……無論、口止めは済んでおりますので、ご安心を」
それでティズはすぐ察したのだ。俺がアルハールの艦隊をどうやって一人で全滅させたのかを。あれを見て震え上がらないとしたら馬鹿か気違いだ。
形としてはティズの家来でも、実質、俺の利益のために働くシックティルには、知らせておいたのだろう。ファルスを怒らせたらどんなことになるか……なるほど、こんな態度になるわけだ。
「キトは真珠の首飾りの港町の中では、最も過ごしやすいと言われております。南方大陸特有の蒸し暑さもほどほど、林立する岩山も雄々しく、茶の木の佇まいは清らかで、南方の密林のようなしつこさもございません。まさに風光明媚の地と申せましょう」
大きく開いた窓の向こうを見やりながら、彼は相変わらずのあの控え目な微笑を浮かべて、俺に言った。
「タジュニド様は、数日ほどこちらに滞在してからカリに向かわれるご予定でございますが、よろしければファルス様は先を急がれず、のんびりとお過ごしになられては。ここには、現世を楽しむのに必要なものがすべてございますゆえ……入用なものがございましたら、なんなりとお申しつけください」
夕方、俺は宛がわれた居室のテラスに肘をつきながら、沈んでいく太陽を見送っていた。
一人で静かにものを考えることのできるこの時間は、とても貴重だ。
これから南方大陸の魔境、大森林に挑む。一週間後には船でカリに向かうが、そこからは陸路でクース王国を経由しつつ、ウンク王国の関門城を目指すことになる。つまりその時までが、ノーラを送り返す最後のチャンスとなる。だが、どんな説得をしようが、彼女を諦めさせるのは無理な気がする。
となれば、今度こそいかに彼女を死なせないかが課題となる。いや、今となっては彼女一人だけの問題ではない。ペルジャラナン、それにフィラックやタウルの安全も、なるべく確保したい。関わる人が増えれば増えるほど、使徒に付け込まれやすくなる。といって、彼らを置いていくという選択肢もない。先の戦争で、俺は確かに殺されかけた。一人で戦うしかないというのは、やはり弱いのだ。
「くそっ……」
苛立ちが募ってくる。テラスの柵に突っ伏して、頭を抱える。にっちもさっちもいかない身の上を思い返す。
この辺りの問題を考え出すと、途端に頭の中がノイジーになる。俺はどこまでやればいいのだろう。リンガ村からの脱出に始まり、ごく最近の戦争に至るまで、既に多数の犠牲を出しながら、ここまで歩いてきてしまった。正直、自分自身のどこかが摩耗しているという自覚もある。それでも、中途半端に投げ出すなんて、許されない。
結局のところ、俺は天秤にかけなくてはいけないのだ。ノーラその他、俺についてきてくれる人達の安全と、自分の目的とを。もちろん、ノーラにこの件について話したなら「私が決めたから私の自己責任」というだろう。だが、俺にとってはそうではない。
使徒が悪意をもって俺を見張っているのに、みすみす危険の中に飛び込んでいくのか。奴はきっと、大森林の奥地にある秘密を知っている。そこまでいけば不死を得られるのか、そうでないのかまで。わかっていて、俺に正解を教えるでもなく、歩かせようとしている。
ここまで考えると、やっぱり俺には挑まないという選択肢がないことに気付かされる。ノーラが死ぬのが怖いから不死の探求をやめます、人間らしく静かに暮らします、なんて言い出したら……それこそ使徒は、今度こそ容赦なくノーラを殺すんじゃないか?
ミルークは目標に向かって進めというが、いまだに俺は追い立てられて走っている。しかも、追いかけているのは使徒だ。
実際には、それは使徒ではなく、その虚像なのかもしれない。つまり、使徒も今はそこまで考えていない可能性がある。こうして俺が、一人でああでもない、こうでもないと悩んでいるのを、遠くから嘲笑いつつ眺めているんじゃないのか。
頭を掻き毟ろうとして、やめて身を起こす。
もしノーラが見ていたら、きっと心配するだろう。表向きにはただ、夕暮れ時を静かに楽しんでいるような顔をしておくべきだ。
考えるのと、物思いに耽るのは別だ。悔もうが悩もうが人を救えるわけではない。
一つ、大きな反省点がある。俺が先の戦争で死にかけたのは、俺が対処を誤ったからだ。
あの黒い影の攻撃を避けきれなかったことではない。ああいう偶発的なことは、どうにもならない。未知の存在でもあったのだから、そこは仕方がない。
だが、ハビが持ち込んだ毒という脅威に対しては、対抗手段があった。ちゃんと人形の迷宮で窟竜から病毒耐性の能力を奪い取っておけば、あそこまで苦しまずに済んだはずなのだ。
ピアシング・ハンドという能力をせっかく有しているのに、俺は十全に活用しなかった。その結果があの危機を招いた。あの時、もしハーダーンが感情に呑まれて俺を殺すことにしていたら、絶対に助からなかった。
今後は、自分の力を最大限に活用する。秘密が漏れてはならないが、可能な範囲で力を尽くさなくてはいけない。
具体的には、まず、ピアシング・ハンドでノーラを極限まで強化する。ただ、彼女の能力枠にはもう余裕がない。
そうなると、次に強化できそうなのはペルジャラナンだ。彼なら、秘密を知ったところで漏らす手段が限られる。無論、真実は告げずに能力だけ付与するつもりだが、これも慎重にしなくてはならないだろう。
この辺について、なるべく早めにノーラと二人きりで話をしよう。
もう一つ。財産を惜しまず費やす。
今の俺には金がある。キトの税収云々を別にしても、既に金貨五万枚という軍資金がある。上級冒険者の資格を利用して、ギルドから自分の財産を引き出すことが可能だ。これで可能な限り、有用な装備を購入する。
俺の剣はこれでいいが、防具はろくなものを使っていない。まずそこから。
ノーラは既に黒竜の皮革でできたローブを着用しているのでいいが、フィラックやタウルには、もっといいものを持たせたい。もちろん、ペルジャラナンにもだ。武器も、みんな最低でもミスリル製かアダマンタイト製にする。
二人は遠慮するかもしれないが、道具なんか捨ててもいい、命を大事にしろと強く言っておく。
だが、他に危険はないのか。
考えろ。死ぬ気で考えろ。危険は何も、戦いだけにあるのではない。
差し当たって対処すべきは……
今、俺が仲間達のためにできる最善は……
翌朝。
一階の居間で俺の「頼み事」を耳にしたシックティルは、棒立ちになっていた。
「しょ、正気……いえ、いいえ! ご、ご命令ですから、なんでも致します!」
「あ、あの、そんな気負わずですね」
「いえっ! やります、やりますとも! 不満などございません! ご安心を!」
「いや、メイドさんが見つけたらで」
彼は顔を赤くしたり青くしたりしながら、こちらの言うことも聞かずに急いで身を翻して立ち去っていった。
その様子を脇から見ていたノーラは、さすがに心配になったらしく、俺に歩み寄ってそっと尋ねた。
「ねぇ、どうしたの?」
「ああ、なんでもないよ。ちょっとお願い事をしたんだ、けど」
「何を頼んだの?」
俺は言い澱んだが、黙っていても仕方がない。
「ゴキブリを集めて、って……」
俺は大真面目だ。
ゴキブリがしばしば習得している病原菌耐性のスキルを奪い取って、俺やノーラ、その他の仲間に付与するため。密林の奥地で病気になったら、救いようがない。
「仕方ないんだ、みんなを病気にならないようにするために、その」
「……それは、ゴキ……に、そういう能力があるのね?」
「そう、だけど、説明はできないから……」
俺の秘密を知らないシックティルは、これを「忠誠心のテスト」と受け止めたらしい。彼は必死になって屋敷の中のゴキブリを自ら追い回し、数に不足があると感じて、ついには下町に降りていって庶民の家から大量にゴキブリを買い上げた。
こうして彼は、キトに到着してたったの一日で、街中から「ゴキブリ好きの変人総督」と認識されるようになってしまったそうだ。
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