遺産

 ティズの公邸の奥の間。そこは異様な空間だった。

 所狭しと布切れが吊り下げられている。真新しいのもあれば、明らかに古びているのもある。虫に食われた穴が開いているのさえ見つかった。ただ、それらはいずれも異なったデザインの刺繍を施されていた。その刺繍の裏側、壁際には隙間なく本棚が並び、そこにはいかにも古そうな巻物がたくさん積まれていた。

 部屋の突き当たりには机と椅子、その背中にはカーテンのかけられた窓がある。そのまた向こうは、小さな個人用の中庭があるだけだ。


 机の上には、一通の封筒が置かれていた。その横には、四冊の本が無造作に積まれている。


「こちらの本が、頼まれていたものだ」

「ありがとうございます」


 しかし、ここまで呼びつけたくらいなのだから、他に話したいこともあるのではないか。そう思って、俺はじっと黙って彼を見上げた。

 ティズは窓際に寄り、外に誰もいないことを確かめるようにカーテンの隙間から外の様子を窺うと、振り返って俺に言った。


「扉を閉めてくれたまえ」


 俺が言われた通りにすると、彼は本音を漏らした。


「完璧な対応、ありがたかった」

「何のお話ですか」

「実は、君がバタンやジャンヌゥボンを欲しがったらどうしようかと思っていた。わしとしては断れなかったから……まぁ、まずないだろうとは思っていたが」


 どういうことだ?

 これまで何度も俺に支族の長相当の地位に就くよう、勧誘してきたのに。利益が減る……という心配ではあるまい。


「タフィロンを出発した日の夜、君はすべてを教えてくれた」

「あの時点では、確信はなかったのですが」

「だが、結果としてはその通りだった」


 部屋の中をゆっくり歩き回り、腕組みをして、ティズは深い息をついて立ち止まった。


「ハビがパッシャの回し者であったこと」

「はい」

「それとは別に、君を見張る……使徒という恐ろしい何者かがいるということ」

「はい」

「スーディアを襲った魔物の暴走というのも、本当は古代の魔王の復活だったこと」


 俺は、ジャンヌゥボンに到着する前に、ほぼすべての事情をティズに伝えた。語っていないのは、聖女の廟堂の地下に魔宮モーがあったことと、白銀の女神シーラのこと、それと俺の転生と能力の具体的な内容だけだ。


「わしとしては、強い味方がいるのは嬉しいのだが……そのせいで、使徒とか魔王とか、そんな連中に付き纏われるとなれば、それはそれで困ってしまうからね」

「そうですね。もし僕がどこか領地を貰って族長になったら、使徒はまた僕を動かそうとして、何か悪いことをしますよ。でも、この会話も聞かれているかもしれませんが」


 ティズは頷いた。


「一応、後継者は決めてあるが、できればこんなところで死にたくはない。せっかくサハリアを平和にできる機会を得たのだから」


 つまり、頭も下げるし大金も差し出すので、頼むからもうサハリアを引っ掻き回すような真似はやめてくれ、あの規格外の力で暴れまわるのはよしてくれと、そういうお話だ。


「済まんね。ネッキャメルの族長としては、まずこういう話をしないわけにはいかんのだ」

「いえ、理解できます。むしろ当然のことかと」


 そこで腕組みを解いた彼は、さっと向きを変え、机の上の封筒を取り上げた。


「じゃあ、ここからはティズ・ネッキャメル個人としてお話をしよう」


 そしてその封筒を差し出した。


「ファルス君、その封筒の中の紙に書かれた文字は、いったい何と読むのかね?」


 彼の顔には、悪戯めいた笑みが浮かんでいた。

 変なことを尋ねるものだと思いながら、そっと中の紙を引っ張り出した。それを見たとき、俺はあっと声をあげそうになった。


「サイキ、ヨウ、です」


 これは、あの時の紙だ。ミルークに連れられてオークションに出る前夜。お前の名前を教えてくれないか、と言われて書いた、あの紙。

 収容所での暮らしが心の中に甦ってくる。そうだ、確かにあそこにミルークがいたのだと。


 ティズは本当に愉快そうな笑みを浮かべた。


「もしこの戦争がなかったら、そして兄がどこか遠くにいたままだったら、その正解と引き換えに、兄の財産の半分を渡す約束だった。ついでに持ってきた銀の指輪を承認して、騎士の身分も与えると、そういうことになっていたのだよ」


 一瞬、驚いたが、それもあり得ることかとも思った。彼は、これも取引だ、と言った。世界の理の外にある秘密。それと引き換えに、彼は財産の半ばを俺に引き渡すことにしていたのだ。


「でも、今は」

「ああ、わしの独断で、全部ジルに渡してしまった。ブスタンのデーツ畑と、あとはまぁ、金貨だな」


 もっとも、それよりずっと金になるものを俺は受け取ってしまっている。騎士の身分も取得済み。すべては今更のお話だ。

 多分、ミルークは、自分の死後には、残りの半分の遺産はジルに相続させるつもりだったのではないか。


「ですが、なぜですか?」

「うん?」

「こんな名前一つで、どうしてミルークさんが僕に莫大な財産を渡すんですか。娘はジルだけでしょうに」


 彼は頷くと、左手を腰に当て、右手の人差し指を前に突き出した。


「君に平穏な暮らしを与えたいと望んでいたからだ」

「そんな、おかしいです。僕以外にもミルークさんが預かっていた少年少女は大勢いたでしょうに」

「特に注意を要すると考えたのだろう」


 溜息をつき、彼は遠い目をして、神妙な顔で言った。


「これは信じていいのかわからないが」

「はい」

「兄は……女神に会った、と言っていたのだよ」


 ピンときた。シーラだ。それ以外にはない。


「収容所を開いてしばらくのことだ。あのオディウスの治めるティンティナブリアでは、多くの人々が貧窮していると、風の噂で知った。もともとはトーキアに攻め込んだことの罪滅ぼしで始めた仕事だったが、子供達を救うためという意味では境目などない。それで兄は、ティック庄まで出かけていって、少年達を買い集めた」


 そうだ。おかしいと思っていた。

 俺が彼に買われたのはシュガ村。川べりに転がっていた俺を拾ったのは、ジョイスとサディスの兄妹だ。しかし、彼の収容所のあるエキセー地方からだと、間に東西の行き来を遮る山脈があるため、一度盆地に入って回り込まなければいけない。位置的に遠すぎる上に人口密度も高くないので、普通に考えたら立ち寄るはずがなかったのだ。


「明日、収容所に向けて出発しようと決めて、城下町の宿屋に泊まった。その夜、夢とは思われないほど生々しい夢を見たそうだ。清らかな乙女のようでもあり、慈しみに満ちた母のようでもあったと。そんな銀髪に白衣の女性が現れて、シュガ村の少年を救って欲しいと、そう訴えたのだ」

「でも、夢でしょう?」

「兄もそう思ったらしい。それで最初は予定通り、南東の出口から盆地を出て、収容所に引き返そうとした。ところが」


 ティズは信じられないというように、首を大きく横に振った。


「盆地を出た途端、馬が一歩も前に進まなくなったんだ。それで馬車から降りて叱りつけたり宥めたりしたんだが、どうにもならない。ふと、脇を見ると、森の木々の横に、昨夜見た美しい女性が」

「ええっ」

「兄もまさかと思ったらしい。同行していた……ジュサとかいう部下は何も見なかったそうだが。それで、兄は一人で木々の間を抜けて、彼女を追いかけた。ところが、すぐ見失ってしまってね」


 不可視の羽衣だ。こうなっては、ただの人間に過ぎないミルークには、彼女を見つける術はない。


「声だけが聞こえたそうだ。私は人目を忍ぶ身、何の返礼もできませんが、今はあなたのお慈悲に縋るほかありません、急がないとあの子は今度こそ命を落とすでしょう、と」


 その通りだ。ナイススは俺を放り出すつもりだったのだから。

 やっぱりシーラが介入していたのだ。


「それで兄は気が狂ったようになって、ジュサを怒鳴りつけて西を目指した。盆地に向きを変えると馬は元気よく走った。すると、言われた通りの村に、言われた通りの黒髪の少年がいた。あとは君の知っている通りだよ」


 だから彼は、最初から俺に特別な注意を払っていたのだ。話しかけたときの受け答え。あれで俺の知能を量っていたのも、そういう背景があればこそか。


「だが、君はあまりに異常だった。子供とは思えないほどに勉強するし、それに収容所を出た日の朝、そのジュサとかいう元冒険者を、一方的に打ち倒したんだろう?」

「え、ええ」

「そういうところを見て、兄は不安に思っていたのだ。いつかこの子は大きな揉め事に巻き込まれるのではないか、災いを招き寄せるのではないか……しかし、女神から預かった子がそんなことになったのでは申し訳が立たない。平穏な暮らしを、争いのない人生を与えたいと、そう望んでいたのだ」

「それで」


 納得した。

 この戦争の初め、俺が手駒になってやろうと申し出たとき、どうしてティズがあんなに後ろ向きだったのか。兄が女神から託された少年を、戦争の道具として利用することに躊躇をおぼえたのだ。


「だが確かに、兄の考えは正しかったと、今ではそう思う。君を戦争に駆り出すような真似は、もう金輪際ごめんだね」

「僕も……そう思います」


 目的を果たすまでは、俺はきっと剣を手放せない。それでも、こんな戦争なんかにはもう、関わってはいけない。いや、喧嘩も意地の張り合いも、そんな小さなことは避けて通るべきだ。

 いいじゃないか。弱虫でも、腰抜けでも。ただの殺戮マシーンよりずっといい。


「わしがキトを譲ったのにも、そういう思いがないわけではなくてね」

「はい」

「あそこは真珠の首飾りの中では、取り立てて儲かる場所ではないんだが、とにかく気候も良く、眺めもいい。穏やかな暮らしを営むにはうってつけだ。だが、また旅立つつもりなんだろう?」


 俺は頷いた。


「僕は、僕を封印する場所を探しているのかもしれません」

「差し支えなければ、旅の目的を尋ねてもいいかね」

「不老不死です。そして、誰の目にも触れない場所で、永久に眠り続けたい」


 俺の告白を聞いた彼は、しばらく真顔になって、目を見開いたまま、身動ぎもしなかった。


「なるほど」

「何がなるほど、ですか」

「君が金を欲しがらないわけだ。死人に金はいらないからな」


 その通りだ。

 今の俺は……半分死んでいるようなものだ。自分でそう思う。


「兄から、貧しいと言われなかったかね」

「言われました」

「そうだろう」


 彼は嘆息し、それから向き直って手を広げた。


「この部屋には、君が持たない本当の富がある」


 そう言われて、俺は周囲を見回した。

 目につくのは、部屋の左右に並べられた、色合いも大きさも様々な布切ればかり。刺繍は立派だが、売ってもさほどの金になるようには見えない。


「サハリアの人々には、その氏族ごとに、それぞれ決まった様式の刺繍があるのだよ」

「では、これは、あちこちの氏族のものを集めたんですね」

「そうとも。そういう技術や伝統は、母から娘へと受け継がれていく。例えば、これなどはどうかね」


 鮮やかな緑色の背景に、黄色のお盆がデザインされている。図柄の真ん中は、デフォルメされた二つのティーカップだ。


「なかなかのものだろう? これはジャニブの様式だ」

「今でもこれを仕立てる女性が?」

「もちろんだとも」


 客を歓待する真心を形にした、か。

 ピュリスに持ち帰ってカイの飲食店に飾ったら、見栄えがしそうだな、と思った。


「これはどうだね」

「黒い、門?」


 真ん中から下にかけてが白いが、あとはほぼ真っ黒だ。その上に、色とりどりの細かな線が描かれている。これは門の石壁に伝う蔦だろうか?


「ニザーンの様式だよ」


 そういえば、あそこは氏族の軍旗も白と黒のデザインだったっけ。


「この中で、どれか君の気に入るものはあるかね?」

「えっ」


 急に言われて、俺は周囲を見回した。赤い砂漠に緑の草花、青い空といった具合にやたらと主張の激しいものが一つ。砂塵を巻き上げ駆け抜ける馬の姿もある。羊の群れがみんなまっすぐこちらを向いているような、ちょっとユニークなデザインも目を引いた。

 そんな中、片隅にある小さな布切れに気付いた。それは他のものよりずっと地味だったが、なぜか心惹かれるものがあった。


 それはグラデーションだった。地平線に近いところはほんのりと白く、しかし次第に青から藍色、黒へと染まっていく。そこに小さくとも存在感を示しているのは、白い星々の輝き。この刺繍に描かれているのは満天の星空だ。


「いいものに目をつけたね」

「はい。こんな夜空があるんでしょうか」

「君がアーズン城に来たのは、時折雨も降るし、砂嵐も起きる時期だった。ちょうど今からの季節はそれも止んで、風が静かになる。特に内陸ではね。すると……ファルス君、この世界で最も美しい夜空はね、このサハリアの砂漠にあるんだ。海沿いの街の夜空は湿気で澱んでしまう。乾燥して澄み切った空気の上に輝く星々は、これはもう、格別だね」


 では、この景色を見て、心を動かされた誰かがこれを仕立てたのだ。


「これはどこの?」

「ククバンだ」


 では、これが……

 フマル氏族の都はタフィロンだった。その支族のククバンもまた、あの過酷な砂漠の中で暮らしてきたに違いない。その一族の中の女性の誰かが、ふと頭上に輝く星々を目にして、これを仕立てた。その美しさを知った周囲の女達は、次々にそれを真似た。いつしかそれは、ククバン氏族の様式として、受け継がれるに至った。


「今ではもう、これを仕立てる女性はおらん。そこにあるのが最後かもしれん」


 ティズは沈んだ声で言った。

 かつてこの砂漠を生きた人々。その最後の痕跡が、こんな形で残されてしまった。


「だが、豊かとは思わんかね? 君は生きながらにして死んでいる。それを仕立てた人々はもう死に絶えた。だが、いまだに生きているし、美しい」


 肉体の永遠の生存を求める俺の魂は、既に死んでいる。

 一方、肉体が滅んだ後も、彼らの魂は生きている。

 この違いはなんだろう。


「では、やはりティズ様は」

「戦などするものではないよ。功名など、取るに足らないものだ」


 事実、彼は何度も途中で戦争を止めようとしてきた。


「人々が営々と積み重ねてきた、まさしくこういう豊かさが、一瞬で無になってしまう」

「……ミルークさんは、ティズには族長としての器があると、そうおっしゃっていました」


 俺の言葉に弱々しく微笑むと、彼は思い出を語った。


「わしがラジュルナーズの弟子だったことは前にも言ったかと思う」

「はい」

「あれは、まだわしが年少で、戦の役に立てなかったことを埋め合わせたくて、身を投げ出したのがきっかけだったんだよ」


 想像するにあまりある。ミルークはそもそもラジュルナーズの娘婿だったのだ。それなのに南北の争いが始まってしまった。その外交関係の修復に、弟のティズが出向く。当時のミルークは、病弱な兄クリムに代わる族長候補の筆頭だ。戦が終わった今、次に命を懸けるべきは自分。そういう思いがティズにあったのだろう。


「そうして南方に出向いて、いろいろなところを見て回った。そこで、とある布が雑巾として使われているのを目にしたのだ」


 その視線の先にあったのは、洗っても落とせない汚れの染み着いた刺繍だった。そこには、コマを回して遊びに興じる子供達の姿が描かれていた。


「見てごらん。この生き生きとした表情。美しいと思った。と同時に、こんな扱われ方をするのかと。どこの氏族の図柄なのかと尋ねて回ったが、結局、わからずじまいだった」

「それがきっかけだったんですね」

「以来、立ち寄った先では、出来得る限り、さまざまな氏族の刺繍を買い取った。その来歴も聞いて記録に残した。ハリジョンに戻ったとき、こうして部屋に飾っておくことにしたのだ」


 つまり、これこそがティズにとっての魂なのだ。

 そういえば、ミルークも言っていた。奥の間を見せてもらえ、そこに私達の心がある、と。


「ミルークさんは、ここを見せてもらえとおっしゃっていました」

「わしが族長になると決まったのも、この部屋だった」


 俺の指摘にティズも頷いた。


「兄がね、わしのこの蒐集物を見て……任せると言ったのだよ。ちょうど、あのトーキアへの襲撃の後だった。ベレーザを失ったことで、ネッキャメルを率いる覚悟が持てずにいたのだろうとは思ったが」


 それだけではないだろう。この揉め事の絶えないサハリアにおけるリーダーとして、必要な資質を見出したからこそ、彼は後事を託して去ることができたのだ。


「正直、兄ほど美しくも強くもない。才能もなかった。そのことをずっと恥ずかしく思っていた。だから、本気でそんなことを思って言っているのではないと、反発する気持ちもあった」

「いえ、すべてが終わってから感じたことですが、やはりティズ様こそ族長であるべきだったと、今ではそう確信しています」


 ミルークは優れた人物だった。才能だけならティズを圧倒していたはずだ。

 しかし、結局のところ、彼は清濁併せ呑むことができなかった。無論、誰かのために命を投げ出すことはできた。だが、悪意を捨てきれない自らの一族を支えきる覚悟……愛を捨てて愛を拾う、そんなどこか矛盾した心構えを、当時は持てなかった。でなければ、ティズに後事を託して去ったりはしない。

 君主の素質として、これは不可欠のものだ。どんなに意地汚くても生き延びて、現実の問題に取り組み続ける。そこに中断は許されない。その意味で、これは適切な人選だったのだ。


「こんな大変な仕事になるんだったら、やっぱり断ればよかったよ」


 そう言って、彼は笑った。

 だが、その表情はすぐに引き締められた。


「君から聞いた話は、どれも俄かには信じがたい。だが、君の常識外れの力を目にした以上、目を背けるわけにはいくまい」


 パッシャ。龍神と贖罪の民。使徒。いずれも俗世の君主にとっては、想定を超えた存在だ。


「しかし、先の戦はまるで暗黒時代のそれだった。ただの弓や槍で戦うだけでは追いつかない。鉄の扉をも突き破る火の玉、陣地を吹き飛ばす暴風……あんな魔法が飛び交う戦なんて、少なくともここ三百年はなかっただろう。そして、東部サハリアと海峡が一つの勢力の下に収まるのもルアンクー以来、実に五百年ぶりだ。こんな時代は、かつてない」


 広大な国家の君主として振舞うだけでも大任といえるのに、ティズの双肩には、未知の時代への備えという大仕事まで降りかかってくる。


「英雄の世界統一より一千年……もしかすると、時代の大きな変化が迫っておるのやもしれん」


 その考えは、あながち的外れではない。

 これまで何百年という時間があったのだ。それがなぜか今になって、世界中で大きな異変が起きつつある。パッシャはエスタ=フォレスティア王国でも、ここ東部サハリアでも、一時はすべてを手にしかけた。しかも、それとは別個に使徒が何かを企んで暗躍している。

 今は節目の時代なのかもしれない。その地殻変動を乗り切って、平和を守る。彼に課せられた使命は、既にして困難が明らかだ。


「君もまた、この時代だからこそ、生まれついた人物なのかもな」


 むしろ俺のせいなんじゃないだろうか。そう考えずにはいられない。


「どうすればいいのでしょうか」


 けれども、肝心の俺自身、何をすべきなのかがわからない。今は自分で自分に課した目的だけで、あとは何も考えられないくらいなのだから。


「ミルークさんは、出口を探すな、入口を探せと言いました。でも、いまだに僕には、大事な何かが見えていません。恐ろしい力を持った存在が、途方もない目的のために世を乱すとき、ただの人間に何ができるでしょうか。自分の身を支える杖すらないのではないでしょうか」


 俺の中には、まさにその「恐ろしい力を持った存在」と「ただの人間」が同居している。

 本当に、何ができるのだろう。俺はただ力に振り回され、道を知らずに彷徨っているだけじゃないのか。


「そうだね」


 ティズは穏やかに微笑んだ。


「こうして話していても感じる。君は化け物なのに、心は普通の人間だ。大変な重荷を背負わされているような気がするよ」


 彼はゆっくりと窓辺に歩み寄った。


「怒りに我を忘れて大勢の人を傷つけて……君は、幽冥魔境を見た……いや、それをまさに自ら作り出してしまったのだと、そう自分を責めているのかもしれない。だがね」


 カーテンに手をかけ、こちらに振り向いた。


「見てごらん」


 彼は一気にカーテンを引き開けた。途端に視界が白一色に染まる。窓が開かれると、次第に目が慣れて、外の景色が目に映る。

 空には雲一つなく、突き抜けるような青一色だった。うっすら見える水平線から、空とは違った、うっすらと緑がかった青が迫ってくる。ハリジョンの海側の城郭の一部をなす黒ずんだ塔。沖合に停泊する船。その赤い旗がちっぽけに見える。手前にあるこの邸宅の屋根の向こう側には、狭い路地と瓦屋根が続いている。

 遠く海鳥の鳴き声が聞こえる。穏やかな風の流れが頬に触れた。沖合から吹きよせてきたのだろうか。


「君がいてもいなくても、きっとこの戦争は避けられなかった。いや、きっとこの地のすべてが魔王の手先の掌中に収まっていた。ならば君こそが、この景色を守ったともいえるのだよ」


 戸惑いながらも、俺はただ黙って頷くことしかできなかった。


「君は今日、この場にいるべきだったんだ。誰がなんと言おうと、わしはそう思う」


 明日にはまた、絶望が迫ってくるのかもしれない。

 けれども今、確かにここには素晴らしい眺めが広がっている。どうして俯かなくてはならないのだろう。立ち止まって何になる? 胸いっぱいに海風を吸い込んで、前を向いて歩けばいい。


 そうだ。

 ミルークは最後に、俺に何を言い残した?


 ティズは、晴れ晴れとした表情で俺に言った。


「この美しい世界を讃えようじゃないか。せっかく今を生きているのだから」

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